さいとう どうさん

斎藤道三

1494.?〜 1556.5.28

 
斎藤道三の面白いイラスト
  

斎藤道三(利政、長井規秀)は、現在の岐阜県にあたる美濃国または京都府南部にあたる山城国の武将・大名です。油売りから武士に転身し、土岐氏に仕えると下克上を果たします。美濃国の国主になりますが、長男・斎藤義龍との合戦で、奮闘のすえに討ち死にしました。織田信長の舅でも知られています。享年63。

斎藤道三は何をした人?このページは、斎藤道三のハイライトになった出来事をなるべく正しく、独特の表現で紹介しています。きっと斎藤道三が好きになる「油売りから出世した美濃のマムシが下克上で国を盗んだ」ハナシをお楽しみください。

  • 名 前:長井規秀 → 斎藤利政 → 斎藤道三
  • あだ名:美濃のマムシ
  • 官 位:山城守
  • 幕 府:美濃守護代
  • 戦 績:16戦 11勝 3敗 2分
  • 出身地:山城国(京都府)
  • 領 地:美濃国
  • 居 城:稲葉山城
  • 正 室:小見の方(明智光秀の叔母)
  • 子ども:8男 10女 1養
  • 跡継ぎ:斎藤義龍
  • 父と母:松波庄五郎または松波基宗 / 不明
  • 大 名:土岐頼芸 → 斎藤氏初代当主=独立

油売りから出世した美濃のマムシが下克上で国を盗んだ

織田信長の(しゅうと)で知られ、美濃国(みののくに)を支配した戦国大名・斎藤道三は、美濃(みの)マムシの異名を持つ梟雄(きょうゆう)です。梟雄(きょうゆう)」とは、残忍(ざんにん)で強くてずる(がしこ)い人のことを指します。

戦国時代の悪役として(あつか)われている松永久秀、宇喜多直家と並び、斎藤道三は『戦国三大梟雄(きょうゆう)』と呼ばれているひとりです。

油売りから身を起こした斎藤道三は、悪知恵(わるぢえ)と暴力で成り上がり、露骨(ろこつ)下剋上(げこくじょう)国盗(くにと)りを実現させてしまいます。

いくら戦国時代でも、斎藤道三劇場は義理も人情もあったもんじゃないひどすぎる下剋上(げこくじょう)でした。


道三流
ステップアップ

油売りをしていたころの斎藤道三は、松波庄五郎を名乗りました。

このころの美濃国(みののくに)は、1519年に(ぼっ)した守護・土岐政房の後継者(こうけいしゃ)問題で()れていました。争っていたのは、政房の長男・頼武と次男・頼芸。これに斎藤氏や長井氏といった土岐家臣たちが加えた内乱が起こります。

土岐氏の内乱のどさくさに(まぎ)れて、松波庄五郎は長井長弘の家来にしてもらいました。

長井家臣の家名をもらった松波庄五郎こと斎藤道三は、西村正利に改名し、武士の肩書(かたが)きを得ました。長井のお気に入りになった西村正利は、土岐氏の後継者(こうけいしゃ)候補である次男・頼芸に接近していきます。

ところが、頼芸が兄・頼武に敗れて、土岐氏の家督(かとく)と守護職の相続に失敗します。

せっかく頼芸に近づいたのに、これでは計画が台無し。西村正利はすかさず革手城を(おそ)って、1527年に頼武を越前国(えちぜんのくに)に追い出しました。

西村正利こと斎藤道三の暴力的な活躍(かつやく)によって、1530年に土岐頼芸は美濃国(みののくに)守護となります。

その一方で、武士に転職するのを助けてくれた長井長弘に根も葉もない(うそ)嫌疑(けんぎ)をかけてぶっ殺しました。土岐頼芸の信頼を独り()めするためでした。

側近のひとりだった長井長弘を失った頼芸は心細くなり、西村正利をより近くに置くようになりました。

西村正利こと斎藤道三は、長井姓を頂いて長井規秀に改名します。

もはや松波庄五郎の原型もなく、出世するために地位と名前を得た男は、1538年に美濃国(みののくに)のナンバー2である守護代・斎藤利良が亡くなると、今度は斎藤姓を頂いて長井規秀から斎藤利政に名を変えました。

ここまで来ると下克上(げこくじょう)も大詰め。

斎藤利政こと斎藤道三は、1541年に土岐頼芸の弟・頼満を呼び出して毒殺。最後に残った土岐頼芸を(おど)してサクッと尾張国(おわりのくに)に追放しました。

美濃のマムシと呼ばれた斎藤道三の下克上ステップ

油の実演販売(はんばい)をしていた男は、アルバイト同然の地位から武士としてのキャリアをスタートさせ、つぎつぎと邪魔者(じゃまもの)を取り除き、1542年に美濃(みの)国主の座を(うば)い取り、戦国大名となったのです。

この後、斎藤利政は入道し剃髪(ていはつ)して、晩年の2年間だけ斎藤道三を名乗りました。


じつは道三は
2人いた

ここまでが斎藤道三の国盗(くにと)り物語ですが、ひとりの人物による下剋上(げこくじょう)ではなく、最近の研究では親子2代にわたるファザー・アンド・サンの物語だったことがわかっています。

油売りから武士に転身した松波庄五郎・西村正利は初代(父)で、長井規秀・斎藤利政を名乗ったのが2代目(息子)と考えられています。信長の(しゅうと)になったのは2代目のほう。

油売りと信長の(しゅうと)
どちらも斎藤道三のイメージですが、じつはそれぞれ(ちが)う人物だったわけです。


街道整備に
楽市楽座も

裏切りと謀略(ぼうりゃく)によって国主となった斎藤道三ですが、頭の良さを領土経営にも活かしています。

居城としていた稲葉山城(いなばやまじょう)下の交通を整備し『楽市・楽座』((だれ)でも商売ができる制度)を導入するなどの政策で美濃(みの)を豊かにしました。

斎藤道三が発布した楽市の政策は、婿(むこ)である織田信長も実施(じっし)した政策として有名です。

生涯を簡単に振り返る

※通説の一代記に基づく

生まれと出自

1494年、斎藤道三は山城国(やましろのくに)乙訓郡(おとくにぐん)牢人(ろうにん)の子として生まれます。油問屋の娘婿(むすめむこ)になって商売を()ぎ、美濃国(みののくに)で評判になりました。土岐家に仕官して、油売りから武士になると、謀略(ぼうりゃく)をくり返して上司を排除(はいじょ)します。土岐頼芸の守護就任に協力しますが、その後、頼芸を追放して美濃国(みののくに)を乗っ取りました。

娘を信長に嫁がせ織田氏と和解

土岐氏が尾張国(おわりのくに)の織田信秀に泣きつき、これと抗争(こうそう)が続きましたが、信秀の嫡男(ちゃくなん)・信長に(むすめ)嫁入(よめい)りさせて和睦(わぼく)します。美濃国(みののくに)を平定したのち、娘婿(むすめむこ)・織田信長と尾張国(おわりのくに)・正徳寺で会見し、信長のことを大いに気に入りました。その後、長男・義龍に家督(かとく)(ゆず)って隠居(いんきょ)。名を斎藤道三に変えました。

最後と死因

隠居(いんきょ)した翌々年、義龍との不和から争いが勃発(ぼっぱつ)します。美濃国(みののくに)・長良川で息子との戦いに臨みますが、大勢に囲まれた斎藤道三は(やり)串刺(くしざ)しにされました。1556年5月28日、死因は討死。63歳でした。討たれたとき、鼻が()がれ、顔面は激しく損傷していました。鼻を()いだのは長井長弘の子・道勝だったといいます。

領地と居城

斎藤道三の領地・勢力図(1552年)

美濃国(みののくに)54万石が斎藤道三の領地でした。平安時代から続く土岐氏の所領と国主の権限をごっそり(うば)い取って、戦国大名として台頭した斎藤家のものとしました。

斎藤道三の性格と人物像

斎藤道三は「目的のためには手段を選ばない人」です。

階段を上るように謀殺(ぼうさつ)をくりかえす下克上(げこくじょう)象徴(しょうちょう)のようなキャラクターです。親しげに接近して、それなりに友好的な時間を共有したであろう相手でも、迷いもなく抹殺(まっさつ)してしまいます。

良くも悪くも知恵(ちえ)が回ります。いま必要なことを()ぎ分ける嗅覚(きゅうかく)(するど)く、武士に転身するために(やり)鉄砲(てっぽう)(うで)(みが)いて、自身のセールスポイントにしました。

頭が良いからか周囲を信用せず、すべて自分が決めてしまいます。そのため、家臣からの信頼(しんらい)が得られず、強制的に隠居(いんきょ)させられています。

洞察力(どうさつりょく)があり、正徳寺で一目会っただけで織田信長の非凡(ひぼん)さを見抜(みぬ)いています。「わしの息子は信長の門前に馬をつなぐことになる」と、近い将来に斎藤家は織田家の家来になると(なげ)きました。

しかしながら、息子である斎藤義龍の才覚に気づくことはできず、無能と(さげす)んでいました。義龍に討たれる直前にまで、暗愚(あんぐ)(おろか者)と馬鹿(ばか)にしつづけました。

小さな罪を犯した者の手足を牛にくくりつけて引き()かせる(けい)に処したり、罪人を大釜(おおがま)に入れ、その妻や親兄弟に火を()かせて処刑(しょけい)するなど、残忍(ざんにん)極まりない一面があります。

能力を表すとこんな感じ

斎藤道三の能力チャート

自らを国主に()し上げた謀略(ぼうりゃく)こそ斎藤道三の真骨頂(しんこっちょう)です。下克上(けこくじょう)を絵に()いたような人物で、(うたぐ)り深く、本心を見せないので人望がまったく得られません。

能力チャートは『信長の野望』シリーズに登場する斎藤道三の能力値を参考にしています。東大教授が戦国武将の能力を数値化した『戦国武将の解剖図鑑』もおすすめです。

斎藤道三の面白い逸話やエピソード

トップセールスの油売りだった

松波庄五郎の名前で油を売っていたころの道三は『山崎屋』という屋号で商売をしていました。

漏斗(ろうと)(油をそそぐ皿のような道具)を使わずに一文銭の穴に通して油を注いでみせる、失敗したら代金はいらない、という啖呵売(たんかばい)でお客さんを集めます。

油売りパフォーマンスは連日盛況(せいきょう)で、美濃国(みののくに)で評判となりました。

どうすればウケるのか、他人より売り上げるにはどうしたらいいのか、商売人としても成り上がっていたようです。

この油売りの経歴も、京都の油問屋の(むすめ)結婚(けっこん)して得たもので、他人が築いた基盤(きばん)を頂いて自分のものにするスタイルは当初から確立されていました。

斎藤道三の有名な戦い

加納口の戦い かのうぐちのたたかい 1547.11.4 ● 織田軍5千〜2万? vs 斎藤軍? ○

美濃に侵攻した織田信秀が斎藤領内の田畑に放火、加納口(岐阜県岐阜市)の周辺で積極的な攻勢をしかけた合戦。はじめ消極的な姿勢をみせていた斎藤道三だったが、日没になったので兵を引こうとした織田氏を急襲し、大打撃を与えて勝利した。井ノ口の戦いとも。

加納口の戦いに斎藤道三は勝っています。

織田信秀を返り討ちにした合戦で、美濃(みの)のマムシの手強さを印象づけました。この戦いをさかいに織田氏とは協力関係になり、織田信長に(むすめ)(とつ)がせて同盟を結びました。

長良川の戦い ながらがわのたたかい 1556.5.28 ○ 斎藤義龍軍1万7千 vs 斎藤道三軍3千 ●

斎藤家前当主・斎藤道三を討ち果たすべく挙兵した息子・斎藤義龍による父子の合戦。長良川(岐阜県)を挟んで対峙した両者は、午前8時頃に激突した。槍の名手だった道三も奮闘したが討ち死に。義理の息子にあたる織田信長は道三の援軍に向かったが間に合わなかった。

長良川の戦いで斎藤道三は敗れています。

斎藤道三のターニングポイントになった戦いです。
暗愚(あんぐ)(あなど)っていた長男・義龍に討たれてしまいます。とはいえ、合戦に至るまでの義龍は用意周到(よういしゅうとう)で、道三には勝ち目がありませんでした。最後になって「さすがマムシの子」と、その能力に気づかされました。

斎藤道三の詳しい年表と出来事

斎藤道三は西暦(せいれき)1494年〜1556年(明応(めいおう)3年〜弘治(こうじ)2年)まで生存しました。戦国時代初期から中期に活躍(かつやく)した武将です。※年表は通説の一代記に基づいています。

14941山城国に生まれる。幼名:峰丸
150411山城国・妙覚寺に入門。
152128油問屋の娘と結婚。油売りになる。
美濃国・土岐氏の長井長弘に仕える。
長井家臣・西村姓を継ぐ。
改名 → 西村正利
152734土岐氏の内紛が激化。長男・土岐頼武に家督相続で敗れた次男・土岐頼芸に味方する。頼武を襲い越前国に追い出す。
153037土岐頼芸が美濃国守護になる。
長井長弘を不行跡の疑いで殺害。長井姓を継ぐ。
改名 → 長井(新九郎)規秀
※ここから2代目・斎藤道三になったかもしれない。
153845美濃国守護代・斎藤利良が病死。斎藤姓を継ぐ。
改名 → 斎藤(新九郎)利政
153946美濃国・稲葉山城を改築、居城にする。
154148土岐頼芸の弟・土岐頼満を殺害。土岐頼芸と対立する。
154249土岐頼芸の大桑城を攻める。土岐頼芸と子・頼次を尾張国に追い出す。
美濃国主となる。
154754”加納口の戦い”織田信秀が美濃国に侵攻してくる。稲葉山城に篭って応戦、奇襲をかけて織田軍に壊滅的な被害を与える。
154956織田信秀の嫡男・織田信長に娘(帰蝶)を嫁がせて織田氏と和睦する。
155259相羽城・長屋景興を攻め滅ぼす。
揖斐城・揖斐光親を攻め滅ぼす。
揖斐北方城で保護されていた土岐頼芸を再び尾張国に追放する。
美濃国を平定。
155360尾張国・正徳寺で娘婿・織田信長と会見する。
155461”村木砦の戦い”*安藤守就を援軍として織田信長のもとに派遣。
長男・斎藤義龍に家督を譲り隠居。
鷺山城を居城にする。
出家 → 斎藤道三
155562長男・義龍が次男・孫四郎と三男・喜平次を殺害。
155663”長良川の戦い”道三を排除しようとする斎藤義龍が挙兵。応戦したのち討死。
戦国時代で斎藤道三が生きた期間の表
斎藤道三の顔イラスト
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