なべしま なおしげ

鍋島直茂

1538.4.12 〜 1618.7.24

 
鍋島直茂の面白いイラスト
  

鍋島直茂(信生、信昌)は、現在の佐賀県にあたる肥前国の武将です。父が龍造寺隆信の母と再婚したことで龍造寺一門の有力者となり、隆信が討死したあとは実質的な当主の役割を担います。先見の明で豊臣期と徳川期を乗り越え、家中で争いを起こさぬまま鍋島家が龍造寺家に代わる主家交代を果たしました。享年81。

鍋島直茂は何をした人?このページは、鍋島直茂のハイライトになった出来事をなるべく正しく、独特の表現で紹介しています。きっと鍋島直茂が好きになる「卓越した頭脳と手腕で当主に代わって龍造寺氏を導いた」ハナシをお楽しみください。

  • 名 前:鍋島信安 → 鍋島信真 → 鍋島信昌 → 鍋島信生 → 鍋島直茂
  • 幼 名:彦法師丸
  • あだ名:龍造寺の仁王門、老虎
  • 官 位:従五位下、飛騨守、加賀守
  • 出身地:肥前国(佐賀県)
  • 領 地:肥前国
  • 居 城:柳川城 → 蓮池城
  • 正 室:慶円(高木胤秀の娘)、陽泰院(石井常延の娘)
  • 子ども:2男 3女 4養
  • 跡継ぎ:鍋島勝茂
  • 父と母:鍋島清房 / 桃源院、慶誾尼
  • 養 父:千葉胤連
  • 大 名:龍造寺隆信豊臣秀吉徳川家康

卓越した頭脳と手腕で当主に代わって龍造寺氏を導いた

鍋島直茂とは、龍造寺隆信と並び立ち『龍造寺の仁王門』と呼ばれた武将で、九州で勢力を急拡大し、没落(ぼつらく)した龍造寺氏の成長期と衰退期(すいたいき)を支えた大黒柱です。

主君・龍造寺隆信とはもともと従兄弟同士でしたが、鍋島直茂の父が龍造寺隆信の母と再婚(さいこん)したことでふたりは義兄弟となり、強固な(きずな)で結ばれた主従になりました。

龍造寺隆信が亡くなったあとは、鍋島直茂が実質的に当主の役割を代行し、龍造寺家を切り盛りするのでした。


龍造寺隆信が討死
みんなのリーダーに

1584年、島津氏との沖田(なわて)の戦いで龍造寺隆信は討死してしまいます。

さて、困ったのは龍造寺家の人々。主君を失って鍋島直茂は自害を考えますが「残された(おれ)たちはどうなる?」と止められ、思いとどまりました。

鍋島直茂は、隆信に勝利した島津氏と戦後の交渉(こうしょう)にあたり、島津氏から返却(へんきゃく)された龍造寺隆信の首を受け取らない(おどろ)きのパフォーマンスをします。

これは争いをやめて講和をするための策でした。首の受け取り拒否(きょひ)は、島津サイドには強い敵対心と写り、鍋島直茂が只者(ただもの)ではない印象を(あた)えました。その結果、島津方に戦いを続ければ泥沼化(どろぬまか)すると思わせ、講和に導いたのです。

島津氏に()(ほろ)ぼされる危機を(のが)れた龍造寺家ですが、隆信の跡継(あとつ)ぎである龍造寺政家は(たよ)りなく、リーダーとして(たよ)られたのは鍋島直茂でした。


感謝されながらの
スマート下剋上

1587年に豊臣秀吉が島津義久を降して九州地方を平定。こうなることを予想していた鍋島直茂は、一旦(いったん)は島津方についたように見せかけて豊臣軍に寝返(ねがえ)り、秀吉に味方しました。

豊臣秀吉は(かしこ)い鍋島直茂を気に入り、龍造寺政家に代わって肥前国の国政を行うよう命じます。天下人・秀吉公認となりました。

鍋島直茂はまるで当主のように支持された

龍造寺隆信が討死したときはどうなるかと思われた龍造寺家の面々でしたが、鍋島直茂の知恵(ちえ)によって生き延びました。感謝するっきゃない流れです。

やがて、秀吉が亡くなると徳川家康が天下をねらいます。

1600年、徳川家康が石田三成と関ヶ原の戦いで激突(げきとつ)。どの武家にとっても、どちらに味方するかで存亡が決まる大イベントでした。

鍋島直茂の嫡男(ちゃくなん)・勝茂は石田三成の陣営(じんえい)に加わりますが、関ヶ原の戦いがはじまると勝茂を戦場から離脱(りだつ)させ、自身は九州で石田派の大名を()めました。

中立的な立場をとりつつも、一転して徳川派の勝利に貢献(こうけん)した鍋島直茂の活躍(かつやく)によって龍造寺氏の所領は安堵(あんど)されました。またしても感謝!

徳川家康がひらいた江戸幕府からも鍋島直茂が肥前国のトップと認められ、龍造寺家の肥前国35万石を引き()ぐことになります。

こうして、鍋島直茂は肥前佐賀藩(ひぜんさがはん)藩祖(はんそ)嫡男(ちゃくなん)・勝茂が初代藩主(はんしゅ)となりました。

家臣が主君にとってかわる下剋上(げこくじょう)は、たいてい血を見る争いを(ともな)うものです。鍋島直茂も結果だけ見れば下剋上(げこくじょう)ですが、みんなが賛同していたので争いは起こりませんでした。こんなに(おだ)やかな下剋上(げこくじょう)は、戦国史でも(めずら)しい成功例です。

生涯を簡単に振り返る

生まれと出自

1538年、鍋島直茂は肥前国・本庄館(ほんじょうやかた)に鍋島清房の次男として生まれます。4歳で千葉胤連の養子になりますが、主家である龍造寺氏の当主が殺される事件が起こり、実家に(もど)ります。母に先立たれた父が龍造寺隆信の母と再婚(さいこん)し、有力な一門になりました。

龍造寺氏と主従が逆転

今山の戦いの夜襲(やしゅう)で大友親貞を討ち取り、家中の信頼(しんらい)が集まりましたが、主君で義兄の隆信からは(きら)われ、遠ざけられます。隆信が沖田畷(おきたなわて)の戦いで討死し、龍造寺政家を後見して主家を率います。豊臣秀吉の九州征伐(せいばつ)に協力したことで評価され、秀吉から実質的な大名として(あつか)われました。

最後と死因

豊臣氏から徳川氏へと政権が()わり、江戸幕府がひらかれると、龍造寺家に代わって長男・鍋島勝茂が佐賀藩主(はんしゅ)になります。完成した佐賀城の三の丸に入ったのち、隠居(いんきょ)鍋島直茂は隠居先(いんきょさき)肥前国(ひぜんのくに)多布施(たふせ)で亡くなりました。1618年7月24日、死因は病気。81歳でした。

領地と居城

龍造寺隆信の領地・勢力図(1587年)

豊臣秀吉から拝領した肥前国3万石が鍋島直茂の領地でした。長男に(あた)えられた領地と合わせると4万5千石を有しました。

鍋島直茂の性格と人物像

鍋島直茂は「クレバーな世渡(よわた)り上手」です。

主家と立場が逆転した結果だけ見ると下剋上(げこくじょう)です。これっぽっちの野心も感じさせず、感謝や支援(しえん)する声を受けながら、しれっと主家を乗っ取ってしまいます。

豊臣秀吉から「天下を取るだけの知恵(ちえ)も勇気もあるが覇気(はき)が足りない」と評され、優秀(ゆうしゅう)だが野心がないとバッサリ。しかし、野心がないわけではありません。

策士な一面があり、味方が討死する様子を傍観(ぼうかん)したり、無謀(むぼう)攻勢(こうせい)をけしかけて討死させるなど、わざとやっているとしか思えません。

正義感が強く、主君であっても間違(まちが)ったことは正そうとします。酒と女に(おぼ)れる龍造寺隆信を口うるさく何度も注意して遠ざけられてしまいました。

恋愛結婚(れんあいけっこん)した陽泰院(ようたいいん)とは夫婦仲が良く「かか、かかあ」と呼び、なんでも相談しています。結婚前(けっこんまえ)は毎晩のように陽泰院(ようたいいん)のもとへ通い、不審者(ふしんしゃ)間違(まちが)われたことも。

いくつかの肖像画(しょうぞうが)が残っており、いずれも堂々とした大御所(おおごしょ)感があります。

能力を表すとこんな感じ

鍋島直茂の能力チャート

状況(じょうきょう)を見極める頭脳が鍋島直茂の美点です。能力が高く、上司から警戒(けいかい)されますが、権力者からは好まれました。

能力チャートは『信長の野望』シリーズに登場する鍋島直茂の能力値を参考にしています。東大教授が戦国武将の能力を数値化した『戦国武将の解剖図鑑』もおすすめです。

鍋島直茂の面白い逸話やエピソード

恋愛結婚した嫁も機転がスゴイ

政略結婚(けっこん)が当たり前の戦国時代で、鍋島直茂は一目()(こん)をしています。お相手の陽泰院(ようたいいん)も賢い女性であった様子が『葉隠(はがくれ)』に記されています。


イワシを焼く女神
庭先に降臨

有馬氏との戦に勝って気をよくした龍造寺隆信が「飯盛城でメシ食っていこう」と言い出します。

とつぜん大勢の兵が立ち寄るというので、佐嘉(さが)飯盛城の台所はてんやわんや。イワシを焼いて出すことにしますが、一()ずつ焼いていては間に合いません。

そこに陽泰院(ようたいいん)が現れ、かまどの火をかき出して庭先に広げるよう侍女(じじょ)たちに指示。庭先にイワシをズラッと並べて一気に大量を焼き上げました。

これを見ていた直茂はベタ()れ。妻に(むか)えたいと熱望して結婚(けっこん)したのでした。


天下人・秀吉を
萎えさせる

鍋島直茂が文禄(ぶんろく)(えき)朝鮮(ちょうせん)(わた)っていたころ、朝鮮(ちょうせん)出兵で日本の拠点(きょてん)になっていた肥前国・名護屋城には、天下人・豊臣秀吉滞在(たいざい)していました。

秀吉は、出兵で夫が留守にしている奥方(おくがた)たちを名護屋城に招きます。女好きの変態で有名な秀吉のこと、下心があることは明らか。陽泰院(ようたいいん)も呼ばれてしまいます。

権力者の要求を拒否(きょひ)したら夫に災難があるかもしれない⋯⋯。とはいえ無理。

考えた陽泰院(ようたいいん)は、おでこに()りこみを入れ、ひどい化粧(けしょう)をして秀吉に謁見(えっけん)しました。

この様子は ”異型の面相” と書き記されており、気分が()えてしまった秀吉は二度と彼女(かのじょ)を呼びませんでした。

おうらみ状で主君を皮肉ってしまう

龍造寺隆信の孫・龍造寺高房は鍋島直茂の養女を妻とし、直茂の娘婿(むすめむこ)でもありました。これは隆信の長男で高房の父である龍造寺政家が望んだことで、直茂を牽制(けんせい)するためでした。

この高房が1607年に妻=直茂の養女を殺害し、自らも命を絶とうとします。鍋島直茂に龍造寺家を乗っ取られたことが理由でした。

高房は一命をとりとめましたが、憤慨(ふんがい)した直茂は高房の父・政家に父子を批判する手紙『おうらみ状』をしたためます。

隆信様の死後、私(直茂)は龍造寺家のために必死でやってきた。これは(だれ)に対するあてつけか?” くどくど⋯⋯ねちっこい圧のある手紙でした。

結局、高房は自殺。失意の政家も翌月に亡くなってしまいました。

この騒動(そうどう)で龍造寺氏は断絶し、権力が完全に鍋島氏へと移行するのですが、晩年の直茂は耳にできた腫瘍(しゅよう)に苦しみ、激痛のなか悶絶(もんぜつ)して死亡したため、高房の怨念(おんねん)(うわさ)されました。

鍋島直茂の有名な戦い

今山の戦い いまやまのたたかい 1570.9.19 ● 大友軍6万 vs 龍造寺軍5千 ○

肥前で勢いを増す龍造寺隆信を大友氏が攻めた合戦。大友軍は村中城(佐賀県佐賀市)を包囲するが攻めあぐねて4か月が経過。大友宗麟は弟・親貞に総攻撃を命じる。決戦前に酒宴をしていた大友陣営に鍋島信生が夜襲をかけて大友親貞を討ち取り、龍造寺軍が勝利した。

今山の戦いで鍋島直茂は勝っています。

鍋島直茂のターニングポイントになった戦いです。
大友軍との兵力差に絶望していた龍造寺勢のなかで、直茂だけが夜襲(やしゅう)を主張し、成功させました。窮地(きゅうち)から救ったこの勝利によって、直茂は別格の存在となっていきます。

立花山城の戦い たちばなやまじょうのたたかい 1586.10.? ● 島津軍3万 vs 大友軍3千 ○

弱体化した大友氏を打倒するため、島津忠長が立花山城(福岡県福岡市東区)を攻めた合戦。籠城する立花統虎は豊臣氏の九州征伐軍の到着を待ち、内田鎮家を通じて開城降伏するという偽計で時間を稼ぐ。立花勢から本陣への奇襲を受けて島津軍は撤退した。立花城の戦いとも。

立花山城の戦いで鍋島直茂は勝っています。

島津方で参戦しますが、あらかじめ内通していた豊臣軍の動きに呼応して寝返(ねがえ)り、立花勢に味方しました。このあと、島津軍に()らわれていた立花宗茂の母と妹を救出しています。

肥後国人一揆 ひごこくじんいっき 1587.8.13〜 1588.1.24 ○ 豊臣軍6万 vs 国人一揆軍3万5千 ●

九州征伐後、秀吉から肥後国の統治を命じられた佐々成政が性急に領国化を進めた。これに反発した隈部親永ら国人が挙兵。成政は鎮圧に向かうが苦戦し、隈本城(熊本県熊本市中央区)を攻められる。苦境を救うため、立花統虎らが援軍に加わると佐々勢が一揆を鎮圧した。

肥後(ひご)国人一揆(いっき)で鍋島直茂は勝っています。

戦いは豊臣軍が勝ちましたが、鍋島隊は肥後(ひご)南関で伏兵(ふくへい)()撃退(げきたい)されています。

咸興の戦い かんこうのたたかい 1592.12.13 ○ 日本軍1万2千 vs 朝鮮軍1万5千 ●

咸鏡道を北上する加藤清正から分離し、咸興の守備にあたった部隊と朝鮮軍による局地戦。日本軍の本陣を襲撃するため、独山のふもとに尹卓然の朝鮮兵がひそかに集結。これを察知した鍋島直茂が先手をとった奇襲で撃退。再び集結しようとする敗残兵も追い散らした。

咸興(かんこう)の戦いで鍋島直茂は勝っています。

龍造寺兵を率いる直茂は、加藤清正から咸興(かんこう)の守備を任されます。朝鮮軍(ちょうせんぐん)(くわだ)てを見抜(みぬ)き、奇襲(きしゅう)で1千を討ち取りました。

鍋島直茂の詳しい年表と出来事

鍋島直茂は西暦(せいれき)1538年〜1618年(天文(てんぶん)7年〜元和(げんな)4年)まで生存しました。戦国時代中期から後期に活躍(かつやく)した武将です。

15381鍋島清房の次男として肥前国に生まれる。幼名:彦法師丸
15414千葉胤連の養子になる。
15458龍造寺氏に混乱が起こる。養子を解消し実家に戻る。
155619父・清房が龍造寺隆信の母・慶誾尼と結婚。慶誾尼の子・隆信が義兄になる。
155922少弐領・勢福寺城攻めに参加。少弐家滅亡
156225平井領・須古城を攻める。
156427平井領・須古城攻めに参加。
少弐再興派の中野城攻めに参加。
156932石井常延の娘(陽泰院)と結婚。
龍造寺領に大友宗麟が侵攻、龍造寺隆信に籠城を勧める。毛利氏に大友領攻めを要請する。
157033”今山の戦い”大友宗麟との戦に参加。夜襲を献策し敵本陣を攻める。大友親貞を討ち取る。
157841有馬領・松岡城攻めに参加。
158043主君・龍造寺隆信が隠居。次代・龍造寺政家を後見する。
158144龍造寺隆信と共謀し島津義久と通じた蒲池鎮漣を猿楽の宴席に誘い出して謀殺、一族みな殺しにする。
筑後国・柳川城に入り、統治を任される。
158447主君・龍造寺隆信が沖田畷の戦いで討死。
当主・龍造寺政家に呼び戻されて柳川城から帰還。龍造寺氏の実権を握る。
島津氏から龍造寺隆信の首を返却されるが受け取りを拒否する。
島津義久と和睦、従属する。
158649豊臣秀吉の九州征伐に加わる密約を交わす。
”立花山城の戦い”大友宗麟との戦に参加。立花統虎(宗茂)が篭もる立花山城を包囲。豊臣秀吉の九州征伐軍の到着を待つ。島津氏から離反し、立花統虎と共闘して島津軍を退ける。
島津氏の捕虜になっていた立花統虎の母と妹を救出する。
158750豊臣秀吉から肥前国の一部を拝領する。
”肥後国人一揆”佐々成政の援軍として一揆の鎮圧戦に参加。
一揆の鎮圧に動かなかった龍造寺政家に代わって統治を行うよう豊臣秀吉から命じられる。
159154主君・龍造寺政家が隠居。次代・龍造寺高房を後見する。
159255宇喜多秀家を総大将とした日本軍の2番隊として朝鮮国に侵攻。【文禄の役】
”慶州城の戦い”加藤清正の指揮下で慶州城攻めに参加。
”咸興の戦い”朝鮮軍の攻撃を察知し集結地帯を襲撃。1000の首級をあげる。
159356石田三成ら奉行衆から咸鏡道の撤退を命じられる。やむなく漢城に退く。
”第2次晋州城攻防戦”宇喜多秀家の指揮下で晋州城攻めに参加。
159760小早川秀秋を総大将とした日本軍の右軍4番隊に再編され朝鮮国に侵攻。【慶長の役】
”黄石山城の戦い”加藤清正の指揮下で黄石山城攻めに参加。西面から攻め入る。
”第1次蔚山城の戦い”明&朝鮮の連合軍との戦に参加。
朝鮮国から帰国。
160063石田三成、大谷吉継が反徳川の挙兵。
長男・勝茂が石田三成に加勢して伏見城攻めに参加するが戦線から帰国させる。
関ヶ原の戦いが勃発。九州勢力をまとめる黒田官兵衛に加勢する。
筑後国・久留米城を攻める。
徳川家康が関ヶ原の戦いに勝利する。
”江上・八院の戦い”立花親成が篭もる柳川城を攻める。加藤清正に頼まれた黒田官兵衛が仲介し開城降伏させる。
徳川家康の命令で黒田官兵衛の軍が解散。
徳川家康から龍造寺領・佐賀が安堵される。
160770龍造寺高房が自殺。書状で非難する。【おうらみ状】
龍造寺政家が死去。龍造寺家滅亡
肥前国・村中城を改め佐賀城の改修を開始する。
長男・鍋島勝茂に家督を譲る。
161174肥前国・佐賀城が完成。
161881肥前国・多布施で死去。
戦国時代で鍋島直茂が生きた期間の表
鍋島直茂の顔イラスト
お仕事のご依頼はこちら