だて まさむね

伊達政宗

1567.8.3 〜 1636.6.27

 
伊達政宗の面白いイラスト
  

伊達政宗は、現在の山形県にあたる出羽国の武将・大名です。18歳で家督を継ぐと周辺の勢力を斬り従えて奥州を席巻し、独眼竜の異名を取りました。先人である秀吉、家康の時代を生き、あと10年早く生まれていれば天下も狙えたといわれています。おしゃれな人を指す『伊達者』の語源になっています。享年70。

伊達政宗は何をした人?このページは、伊達政宗のハイライトになった出来事をなるべく正しく、独特の表現で紹介しています。きっと伊達政宗が好きになる「独眼竜は秀吉と家康の世をパフォーマンスで生き抜いた」ハナシをお楽しみください。

  • 名 前:伊達政宗
  • 幼 名:梵天丸
  • あだ名:独眼竜
  • 官 位:従五位下、左京大夫、侍従、越前守、従四位下、右近衛権少将、陸奥守、正四位下、参議、従三位、権中納言、贈従二位
  •  藩 :仙台藩主
  • 戦 績:22戦 12勝 4敗 6分
  • 出身地:出羽国(秋田県、山形県)
  • 領 地:陸奥国、出羽国
  • 居 城:米沢城 → 黒川城 → 岩出山城 → 仙台城
  • 正 室:愛姫(田村清顕の娘)
  • 子ども:10男 4女
  • 跡継ぎ:伊達忠宗
  • 父と母:伊達輝宗 / 義姫
  • 大 名:伊達氏17代当主

独眼竜は秀吉と家康の世をパフォーマンスで生き抜いた

織田信長や武田信玄にも匹敵(ひってき)する知名度で、特に歴女人気を集める伊達政宗。物語やゲームでも、どこか危険な雰囲気(ふんいき)(ただよ)うキャラクターで独特の存在感があります。

伊達政宗は隻眼(せきがん)(片目)だったため『独眼竜(どくがんりゅう)』のニックネームで知られ、眼帯のビジュアルイメージもおなじみです。

彼は日本史に影響(えいきょう)するような功績はありませんが、面白さはピカイチでした。

豊臣秀吉の天下統一に対抗(たいこう)し、徳川家康の江戸幕府に創成期から関わった伊達政宗は、ある意味で最も難しい時代を生きた人物です。

伊達政宗が登場したのは戦国時代でもかなり(おそ)く、もはや地方勢力たちが群雄割拠(ぐんゆうかっきょ)している状況(じょうきょう)ではありませんでした。

野心家の彼は、天下取りレースに割りこもうとして何度もしくじりますが、そのたびに巧妙(こうみょう)に生き残ります。持ち前のエンターテイメント性で、数々のピンチをスレスレのところで回避(かいひ)しました。

伊達政宗が伊達家の当主になった1584年は、織田信長が本能寺の変で死亡した2年後でした。

かつての織田領を掌握(しょうあく)した羽柴(豊臣)秀吉が、すさまじい勢いで天下統一に向かうなか、伊達政宗もこれに負けじと奥州(おうしゅう)で暴れまくりました。

弱冠(じゃっかん)19歳の伊達政宗は、奥州(おうしゅう)の名門・蘆名氏や強豪(きょうごう)・佐竹氏に対し、なりふり構わずけんかをふっかけます。

大惨敗(だいざんぱい)(きっ)しながらも、すったもんだあって、1589年に結果オーライで奥州(おうしゅう)制覇(せいは)しました。わずか23歳のときでした。

そのころ、日本の大半は豊臣秀吉のものになっていて、残るは小田原の北条氏と奥州(おうしゅう)の伊達政宗だけでした。


政宗の演出 Lv1
死装束で謝罪

1590年、天下統一に王手をかけた豊臣秀吉が、小田原城の北条氏を()めます。伊達政宗もこの小田原征伐(せいばつ)に加わるよう、秀吉から命じられました。

呼び出しにすぐ従わず「秀吉なんざやってやるぜ」と強がっているうちに、北条氏が降参するのは時間の問題という状況(じょうきょう)になってしまい、あわてて小田原に向かいますが大遅刻(だいちこく)してしまいます。

まずいと思った伊達政宗は、イライラして待つ秀吉の前に白装束(しろしょうぞく)を着て現れると「(おく)れてサーセン」と居直ってみせました。

伊達政宗は白装束を着て豊臣秀吉に降伏した

(きも)がすわっているところをアピールしようとして「利休に茶を習いたい」と、精一杯(せいいっぱい)の強がりを見せます。

豊臣秀吉は()ってやろうかとも思っていましたが、このパフォーマンスを見て「死装束(しにしょうぞく)を着たものを()っては悪評が流れる」といって、伊達政宗を許しました。

このとき、伊達政宗24歳。
内心はドキドキでしたが、秀吉を性格をうまく利用しました。


政宗の演出 Lv2
死装束と黄金の磔柱

豊臣秀吉による東北地方の再編成『奥州仕置(おうしゅうしおき)』が行われ、葛西・大崎の旧領にあたらしい領主として木村吉清がやってきます。

ほどなくして民衆が一揆(いっき)を起こしました。この一揆(いっき)鎮圧(ちんあつ)に伊達政宗が借り出されます。

ところが、この一揆(いっき)扇動(せんどう)しているのは伊達政宗であるという情報がリークされます。伊達軍の鉄砲(てっぽう)(たま)は入っておらず「やっているふりをしているだけ」だというのです。

これを耳にした蒲生氏郷が秀吉に報告し、伊達政宗は京に呼び出されます。

事実なら切腹を命じられかねない状況(じょうきょう)に、伊達政宗はふたたび白装束(しろしょうぞく)をまとい、今度は黄金の磔柱(はりつけばしら)を担いで民衆のなかを通って秀吉のもとに向かいました。

白装束を着て黄金の磔柱を担ぐ伊達政宗

伊達政宗は「自身は潔白であり、一揆(いっき)と関係ない。死の覚悟(かくご)をみせて証明しに来た」と秀吉に告げます。

小田原に遅刻(ちこく)してきたときにも見たコントのバージョンアップに豊臣秀吉も(あき)れましたが「このまま処刑(しょけい)しては秀吉は小さな器だと笑われる」といって、伊達政宗を許しました。

世間の評判を気にする秀吉の性格を見越(みこ)して、民衆がザワつくのを利用するためにわざわざ目立つかっこうで街中を通って来たのです。

このとき、伊達政宗25歳。
本当は一揆(いっき)(あお)って、()めごとを起こさせていました。


政宗の演出 Lv3
金ピカとんがり帽子の軍装

日本全国を制した豊臣秀吉は、朝鮮国(ちょうせんこく)()め入ります。

諸将たちに朝鮮(ちょうせん)出兵を命じますが、伊達政宗はこれに行きたくありません。そこで「秀吉に気に入られて手元に置いてもらえば、最後まで朝鮮(ちょうせん)に行かなくて済む」と考えました。

1592年、朝鮮(ちょうせん)出兵に向けた大規模な軍事パレードが行われました。伊達勢は、金ピカとんがり帽子(ぼうし)のド派手な軍装で現れます。

【伊達者】派手な軍装で行進した伊達政宗軍が語源となっている

見たこともない奇抜(きばつ)なかっこうで行進する伊達の兵をみた民衆は、まるで戦争に勝ったかのように大歓声(だいかんせい)をあげました。派手好きの秀吉も立ち上がり、夢中で手をふりました。

結局、朝鮮(ちょうせん)へ渡ることにはなるのですが、伊達政宗のねらいどおり先発隊は(まぬが)れました。

このときの伊達軍のカッコ良さから、(いき)でおしゃれな人を『伊達者(だてもの)』と呼ぶようになりました。オシャレを楽しむための「伊達(だて)メガネ」見せかけを指す「伊達(だて)じゃない」もここからきています。


外国の艦隊で
ワンチャンねらう?

伊達政宗は「奥州王(おうしゅうおう)」を自称(じしょう)し、1613年に支倉常長を『慶長遣欧使節(けいちょうけんおうしせつ)』として、メキシコ、スペイン、ローマに派遣(はけん)しました。

このねらいは、スペインの無敵艦隊(かんたい)を味方につけて、ワンチャン天下を取ってやろうという壮大(そうだい)謀叛(むほん)を計画したとする説があります。

実際には(たぶん)謀叛(むほん)の準備ではなく、仙台を外国との貿易港にしようとしたものでした。外国との交渉(こうしょう)はうまくいきませんでしたが、戦国大名のスケールを()えた試みでした。

天下取りの野望は(かな)いませんでしたが、豊臣秀吉と徳川家康という2人の天下人が存在した時代に、伊達政宗は独自路線を(つらぬ)いた強烈(きょうれつ)な存在として、ふてぶてしく生き()きました。

生涯を簡単に振り返る

生まれと出自

1567年、伊達政宗は出羽国(でわのくに)・米沢城に奥州(おうしゅう)探題である伊達輝宗の長男として生まれます。幼いころに天然痘(てんねんとう)で右目を失明しました。父から将来を期待され、18歳で家督(かとく)(ゆず)られます。二本松義継が父を誘拐(ゆうかい)しようとする事件が起こり、父ごと義継を射殺しました。この報復として二本松城を()めた人取橋の戦いで、反伊達連合の猛反発(もうはんぱつ)にあいました。

秀吉、家康の天下に伏す

母方の実家である最上家まで敵にまわしてしまい、四面楚歌(しめんそか)になりますが、摺上原(すりあげはら)の戦いに勝って奥州(おうしゅう)を制しました。その翌年、豊臣秀吉が天下を統一。これに従います。秀吉の死後は徳川家康の麾下(きか)に入り、江戸幕府が開府されると陸奥国(むつのくに)仙台藩(せんだいはん)の初代藩主(はんしゅ)になりました。

最後と死因

徳川3代に仕えて江戸幕府の創成期に貢献(こうけん)したのち、伊達政宗は武蔵国(むさしのくに)・江戸の仙台藩屋敷(はんやしき)で亡くなりました。1636年6月27日、死因は食道がんに(ともな)腹膜炎(ふくまくえん)合併症(がっぺいしょう)。70歳でした。亡くなる前日「戦場を()けていた自分が(たたみ)の上で死ぬとは……」とつぶやきました。

3代将軍・徳川家光からの信頼(しんらい)は絶大で「伊達の親父殿(どの)」と呼ばれて(した)われました。家光は伊達政宗が話す(かなり盛った)武勇伝が大好きだったそうで、秀吉や家康との天下争いを、おもしろおかしく話して聞かせたといいます。

領地と居城の移り変わり

伊達政宗の領地・勢力図(1585年)
伊達政宗の領地・勢力図(1589年)
伊達政宗の領地・勢力図(1603年)

奥州(おうしゅう)陸奥国(むつのくに)南部と出羽国(でわのくに)南部)150万石が伊達政宗の領地でした。が、豊臣秀吉の奥州仕置(おうしゅうしおき)により58万石に減封(げんぽう)されます。この地に工夫をこらして実質100万石に相当するほど、仙台(はん)を豊かに開発しました。

どうして独眼竜と呼ばれたの?

伊達政宗が独眼竜と呼ばれた理由
  • 子どもの頃に天然痘で右目の視力を失った。
  • 平穏だった東北地方に乱世の風を巻き起こした。
  • 手段を選ばない苛烈な方法で奥州を制圧した。

伊達政宗は、5歳のときにウイルス感染症の天然痘(てんねんとう)(わずら)奇跡的(きせきてき)に一命をとりとめましたが、高熱がつづいたことで、右目の視力を失っています。

片目が不自由であったため、(ひと)つ眼の(りゅう)比喩(ひゆ)されました。

(りゅう)とは、長いからだをくねらせながら、空にのぼって雷雲(らいうん)をおこす伝説の生き物です。政宗の祖父・伊達稙宗が築いた血縁(けつえん)戦略によって、東北は比較的(ひかくてき)おだやかな統治が行われていましたが、政宗の登場によって、(りゅう)雷雲(らいうん)を起こすように東北に戦乱の風が()()れました。

政宗は敵対する勢力を排除(はいじょ)するやり方で、強引に、無謀(むぼう)ともいえる征服(せいふく)戦争を短期間のうちに何度も繰り返し、家督(かとく)()いでからわずか5年で奥州(おうしゅう)覇者(はしゃ)になりました。

このような激しさから、伊達政宗は独眼竜(どくがんりゅう)と呼ばれています。

伊達政宗の性格と人物像

伊達政宗は「自己演出がうまいエンターテイナー」です。

派手な演出も、単なるエンタメではなく、戦略的な理由があったりします。

根っからの野心家で、秀吉や家康の時代でも天下をねらい続けました。謀略(ぼうりゃく)駆使(くし)しますが、そのたびに見破られてしまうあたりに愛嬌(あいきょう)を感じます。

勢いまかせで意地っぱり。引っこみがつかず、痛い目にあってしまうことも。(うそ)でその場をやり過ごすことが得意で、アドリブに富んでおり、いつも最悪の結果を(まぬが)れているのは天賦(てんぶ)の才能です。

能、茶の湯、お(こう)、漢詩、絵画、刀や美術品のコレクションなど、多趣味(たしゅみ)です。料理が好きで、家臣を招いては(うで)をふるっていました。

好きな食べ物は、焼いた(しゃけ)の皮、イワシの塩焼き、豆の()きこみご飯です。お酒は好きだけど、あまり飲めません。

喫煙者(きつえんしゃ)で、愛用のキセルが現存しています。煙草(たばこ)は薬としていつも決まった時間に吸っていました。健康に気をつけていて、こたつは片側を開けて入るなど、独特の健康法がいくつもあります。

政宗のトレードマークである眼帯はつけていませんでした。右目のことはコンプレックスで、肖像(しょうぞう)には両目をいれるよう遺言を残しています。

遺骨から判明した頭部の形状は頭脳明晰(めいせき)型で、後頭部が張り出して前頭部がふくらんでいます。卓越(たくえつ)した記憶力(きおくりょく)の持ち主でした。身長159cm、骨太で筋肉質、血液型はB型です。

片目の視力を失くし、メソメソしがちで内気な子どもでした。家来の片倉小十郎に小刀で右目をくり()かれて以来ふっきれたと話していますが、眼球を取られた痕跡(こんせき)がないので、これは(うそ)です。

三日月を模した前立てがスタイリッシュな甲冑(かっちゅう)黒漆五枚胴具足(くろうるしごまいどうぐそく)』は、実際に着用した物が現存しています。三日月が左右非対称(ひたいしょう)なのは、右利きの政宗が刀を()り上げたときにぶつからないようにするための工夫です。

政宗の甲冑(かっちゅう)は、スターウォーズのダースベイダーのモデルになっています。

能力を表すとこんな感じ

伊達政宗の能力チャート

圧倒的(あっとうてき)な行動力が伊達政宗の最たる個性です。能力として際立っているのは政治力で、領内の生産量を引き上げる手腕(しゅわん)は見事。若いうちから武田信玄も顔負けの老獪(ろうかい)謀略(ぼうりゃく)を用いるなど、ズル(がしこ)さも抜群(ばつぐん)です。

能力チャートは『信長の野望』シリーズに登場する伊達政宗の能力値を参考にしています。東大教授が戦国武将の能力を数値化した『戦国武将の解剖図鑑』もおすすめです。

伊達政宗の面白い逸話やエピソード

こだわりグルメの料理男子だった

多趣味(たしゅみ)な政宗が、なかでも熱心に取り組んだのは料理でした。

戦場での食事を美味しくしたいというのが料理をはじめた理由でしたが、次第に創作メニューに情熱を燃やすようになります。

仙台味噌(みそ)、ずんだ(もち)(こお)豆腐(とうふ)(ささ)かまぼこ、伊達巻、これらは伊達政宗が考案したといわれるメニューで、仙台から全国にひろがったロングセラーフードです。

グルメだった伊達政宗は今も食べられているヒット食品を作った

政宗の料理の腕前(うでまえ)はかなりのものだったようで、家臣にもよく食事を()()っていました。

政宗のおもてなしの心得「馳走(ちそう)とは(しゅん)の品をさり気なく出し、主人自ら調理して、もてなすことである」は、現代の料理人にも感銘(かんめい)(あた)えており、これを校訓にしている料理学校もあります。

母に毒殺されそうになったのは嘘

伊達政宗の母・義(ひめ)は、勇将で知られる最上義光の妹。彼女(かのじょ)も勇ましく、兄・義光と息子・政宗が争った際には、戦場に輿(こし)で乗りつけてふたりを仲裁した武勇伝があります。

この母は『政宗毒殺未遂(みすい)事件』を起こしたことでも有名です。

母は、政宗の弟を可愛がり、実家と争う粗暴(そぼう)な政宗を()(きら)ったといいます。

小田原征伐(せいばつ)の直前、母と弟は政宗を食事に招いて毒殺を(くわだ)てます。これに気づいた政宗は弟を()り捨て、母は実家の最上家に()げていきました。

……というのが、江戸期に記録された『伊達治家記録(だてじけきろく)』にあり、物語などで定着した政宗毒殺未遂(みすい)ですが、これはフィクションであると考えられています。

というのも、政宗が朝鮮(ちょうせん)出兵で敵地へ出征(しゅっせい)した際、母はおこづかい3両と次のような和歌を送っています。

秋風の たつ唐舟(からぶね)に ()をあげて 君かえりこん 日のもとの空
(超訳:無事で日本に帰ってきてね)

政宗はこの返事として母への土産を探し回り、朝鮮(ちょうせん)木綿をプレゼントしました。

この後、母は伊達家から最上家に(もど)り、最上家のお家騒動を経て仙台城に帰ってきます。母が最上家に(もど)った動機は諸説あり、本当の理由は不明ですが、この間も政宗と手紙をやりとりしており、不仲ではありません。

母が亡くなった際、政宗は自ら母の位牌(いはい)を作っています。最晩年を(むか)えた政宗は、母の菩提寺(ぼだいじ)である保春院を参拝したのち、奥州(おうしゅう)の山々を歩いたといいます。

味方の部隊を全滅させてしまう

1615年の大坂夏の(じん)でのこと。300ほどの兵で奮戦していた神保相茂の部隊(味方)を、政宗は後ろから一斉射撃(いっせいしゃげき)全滅(ぜんめつ)させてしまいます。

相茂はじめ293人が討ち死にし、現場から避難(ひなん)できた数人が政宗を(うった)えました。

政宗は徳川家から ”なぜ味方を()ったのか?” と詰問(きつもん)されます。すると「あれは味方でしたか。知らなかった」と開き直ります。

神保氏は7千石の小大名、対して政宗は60万石の大大名。あれこれと言い訳をする政宗に、徳川家も(ばつ)(あた)えるわけにいかず、この件は不問となり、神保氏の家来たちは泣き寝入(ねい)りしました。

実際のところ、神保隊をよけて通るのが面倒(めんどう)だったので、政宗が「()ってしまえ」と命じたのでした。

伊達政宗の有名な戦い

人取橋の戦い ひととりばしのたたかい 1586.1.6 △ 伊達軍7千 vs 反伊達連合軍3万 △

二本松城を攻めた伊達政宗と、伊達氏に対抗する南陸奥の勢力が、人取橋(福島県本宮市)で戦った合戦。父・伊達輝宗の弔い合戦とする政宗が、11歳の二本松国王丸に攻撃。これを救援するため、佐竹義重を中心とした連合軍が伊達軍を追い払おうとした。

人取橋の戦いで伊達政宗は引き分けています。

佐竹義重が率いる連合軍に終始防戦一方で、政宗も矢1筋と銃弾(じゅうだん)5発を受けました。内容的には惨敗(ざんぱい)でしたが、二本松城を得た戦果だけみれば勝利に等しく、利を得たのは政宗でした。

郡山合戦 こおりやまがっせん 1588.3.9 〜 9.6 △ 蘆名&相馬軍? vs 伊達軍? △

大崎合戦に敗れた伊達政宗を叩くべく、蘆名&相馬軍が伊達領の城を攻略。大内定綱の先鋒隊が次々と侵攻し、郡山城(福島県郡山市西ノ内)一帯を攻撃。伊達成実が防衛をしつつ、蘆名氏から大内氏を味方につける。局地戦が群発する混戦となり、蘆名義広と和睦した。

郡山合戦で伊達政宗は引き分けています。

蘆名氏、相馬氏、岩城氏、佐竹氏まで巻きこんだ乱戦で、大崎合戦から続いた四面楚歌(しめんそか)の状況をなんとか(しの)ぎました。

摺上原の戦い すりあげはらのたたかい 1589.7.17 ○ 伊達軍2万3千 vs 蘆名軍1万6千 ●

反伊達の中心である蘆名氏を討つべく、伊達政宗が出陣。神出鬼没の動きで相馬氏を封じながら進軍し、摺上原(福島県磐梯町、猪苗代町)で蘆名義広との決戦に臨んだ。はじめ優勢だった蘆名軍は、形勢を逆転されると崩壊し、黒川城を奪取した伊達軍が攻め滅ぼした。

摺上原(すりあげはら)の戦いで伊達政宗は勝っています。

伊達政宗のターニングポイントになった戦いです。
蘆名氏を(ほろ)ぼしたことで反伊達連合が崩壊(ほうかい)します。これをきっかけに、周辺勢力が政宗に降参しました。この勝利によって、佐竹義重が築いた奥州一統(おうしゅういっとう)をくつがえし、伊達政宗が奥州(おうしゅう)を統一しました。

白石城の戦い しろいしじょうのたたかい 1600.9.1 〜 9.2 ○ 伊達軍? vs 上杉軍? ●

関ヶ原の戦いの前哨戦。上杉討伐に向かう伊達政宗が白石城(宮城県白石市)を攻めた合戦。上杉方は登坂勝乃が守備に入るが、かつてこの城を所有していた伊達勢に地の利を活かされて苦戦する。片倉小十郎が白石に続く道を封鎖し、孤立した白石城は降伏した。

白石城の戦いで伊達政宗は勝っています。

徳川家康から命じられていた上杉討伐(とうばつ)で、政宗は取った領地を自分のものとするお(すみ)付きをもらっていました。奪還(だっかん)した白石城は、仙台藩(せんだいはん)の南方の拠点(きょてん)として機能しました。

大坂夏の陣 おおさかなつのじん 1615.5.23 〜 6.4 ○ 徳川幕府軍16万5千 vs 豊臣軍5万5千 ●

大坂冬の陣から半年後、徳川家康による豊臣氏の殲滅戦。大坂城付近(大阪府藤井寺市、阿倍野区など)で激しい局地戦が行われた。毛利勝永が奮闘し、徳川本陣に真田幸村が決死の突撃をしたが、数で勝る徳川軍が押し切った。大坂城は落城。豊臣秀頼は出陣の機会なく自害した。

大坂夏の(じん)で伊達政宗は勝っています。

豊臣氏を(ほろ)ぼす合戦に徳川軍として参戦し、大坂方の猛将(もうしょう)・後藤又兵衛を戦死させる活躍(かつやく)をしました。

伊達政宗の詳しい年表と出来事

伊達政宗は西暦(せいれき)1567年〜1636年(永禄(えいろく)10年〜寛永(かんえい)13年)まで生存しました。戦国時代後期に活躍(かつやく)した武将です。

15671伊達輝宗の嫡男として出羽国に生まれる。幼名:梵天丸
1571天然痘に罹患し、右目の視力を失う。
157711元服 → 伊達(藤次郎)政宗
157913田村清顕の娘(愛)と結婚。
158115”小斎の戦い”初陣。相馬義胤との戦に参加。
158418父・伊達輝宗の隠居により家督を相続。
158519蘆名氏の桧原城、次いで小手森城を攻め、撫で斬り(みなごろし)にする。
二本松義継の和議申し入れを受諾する。
二本松義継が父・伊達輝宗を拉致。これに銃弾を浴びせて父・輝宗もろとも義継を射殺する。
”人取橋の戦い”二本松城を攻める。佐竹義重が率いる反伊達連合と争って大きな被害をうける。連合軍の撤退により命拾いする。
158620二本松城を包囲。降伏開城させる。二本松家滅亡
陸奥国・二本松城に従弟・成実を入れる。
158721豊臣秀吉から関東と奥羽地方での領土紛争を禁止される。無視する。【惣無事令】
158822”大崎合戦”*大崎氏の内紛に乗じて留守政景を派兵する。黒川晴氏に裏切られ、支援した氏家吉継が敗れる。叔父・最上義光に伊達領を攻められて母・義姫の仲介で和睦する。
”郡山合戦”蘆名氏&相馬氏の連合軍に苗代田城を落とされる。
158923”摺上原の戦い”会津の蘆名領に侵攻。蘆名家臣・猪苗代盛国が伊達氏に寝返り、猪苗代城を得る。蘆名義広を撃破し、黒川城を制圧。攻め落とした高玉城で撫で斬り(みなごろし)を命じる。蘆名家滅亡
陸奥国・黒川城を居城にする。
”須賀川城の戦い”二階堂氏に嫁いだ叔母・阿南姫に開城を求めるが拒否され攻め落とす。二階堂家滅亡
小峰義親が降伏、配下になる。
石川昭光が降伏、配下になる。
岩城常隆が降伏、配下になる。
159024弟・政道の謀略に遭い、やむをえず誅殺する。
豊臣秀吉に降伏し、配下に加わる。
”小田原征伐”北条氏の討伐戦に参加。大幅に遅刻する。
豊臣秀吉が小田原城を開城降伏させる。北条家滅亡
豊臣秀吉の天下統一が成る。
小田原参陣に遅れた理由を前田利家から尋問される。
豊臣秀吉によって東北地方の領土再編が行われ、小田原の遅刻や惣無事令の違反により減封される。150万石 → 72万石【第1次奥州仕置】
陸奥国・佐沼城に片倉小十郎を入れる。
159125”葛西大崎一揆”伊達旧領の領民を扇動して一揆を誘発する。これを蒲生氏郷と鎮圧するが、扇動した嫌疑をかけられ、一揆で荒廃した土地に転封を命じられる。72万石 → 58万石
陸奥国・岩出山城を居城にする。
”九戸政実の乱”九戸政実の鎮圧戦に参加。勝利に貢献する。【第2次奥州仕置】
侍従に就任。
159226朝鮮出兵に備えて肥前国・名護屋城に入る。絢爛豪華な戦装束で登場し民衆を沸かせる。【文禄の役】
159327宇喜多秀家を総大将とした日本軍の援軍として朝鮮国に渡る。
加藤清正が捕縛した朝鮮国の王子(臨海君、順和君)を返す決定が下り、預かる。
”第2次晋州城攻防戦”宇喜多秀家の指揮下で朝鮮軍が篭る晋州城を攻める。
朝鮮国から帰国。
159529関白・豊臣秀次に謀反の疑いがかかる。秀次と親交があった政宗にも嫌疑がかかる。誓書を書かされて難を逃れる。【秀次切腹事件】
159731右近衞権少将に就任。
159832主君・豊臣秀吉が死去。
159933徳川家康の配下に加わる。
徳川家康の六男・松平忠輝に長女(五郎八)を嫁がせる。
160034関ヶ原の戦いが勃発したため、徳川軍は上杉討伐から撤退。上杉領(伊達旧領)の奪還を認めるかわりに討伐を命じられる。【百万石のお墨付き】
”白石城の戦い”上杉領・白石城を攻める。登坂勝乃を降して白石城を奪還する。
”長谷堂城の戦い”*留守政景を援軍として最上義光のもとに派遣。
*鬼庭綱元に湯原城を攻め落とさせる。
”松川の戦い”本庄繁長が篭る福島城を攻めるが苦戦、撤退。
”岩崎一揆”*和賀忠親をつかって、南部氏の領内で一揆を扇動するが鎮圧される。
徳川家康が関ヶ原の戦いに勝利する。
関ヶ原の戦いのあと、一揆の件は不問にされるが恩賞の追加は極小。58万石 → 60万石
160135陸奥国・仙台城が完成、居城にする。
160337陸奥国・仙台藩の藩主になる。【江戸幕府の成立】
160640徳川家康の六男・松平忠輝に娘(五郎八姫)を嫁がせる。
161347スペインとの太平洋貿易を企図し、ガレオン船を建造。支倉常長をメキシコ、スペイン、ローマに派遣する。【慶長遣欧使節】
161448”大坂冬の陣”豊臣氏の討伐戦に参加。和議成立後は大坂城の外堀埋め立て工事を監督する。
161549”大坂夏の陣”豊臣氏の討伐戦に参加。後藤又兵衛を撃破、戦死させる。真田幸村の反撃を受けて後退する。豊臣家滅亡
敗死した豊臣家臣・真田幸村の次男と娘、長宗我部盛親の姉妹とその息子を引き取る。
参議に就任。
参議を辞任。
161650主君・徳川家康が死去。次代・徳川秀忠に仕える。
162660権中納言に就任。
163266主君・徳川秀忠が死去。次代・徳川家光に仕える。
163670武蔵国・江戸仙台藩屋敷で病死。
戦国時代で伊達政宗が生きた期間の表
伊達政宗の顔イラスト
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