伊達政宗
1567.8.3 〜 1636.6.27

伊達政宗は、現在の山形県にあたる出羽国および宮城県・福島県にあたる陸奥国の武将・大名です。18歳で家督を継ぐと周辺の勢力を斬り従えて奥州を席巻しました。秀吉、家康の時代を生き、10年早く生まれていれば天下も狙えたといわれています。おしゃれな人を指す『伊達者』の語源になっています。享年70歳。
- 伊達政宗の武将タイプ
- 侵略
伊達政宗は何をした人?このページは、伊達政宗のハイライトになった出来事をなるべく正しく、独特の表現で紹介しています。きっと伊達政宗が好きになる「独眼竜は秀吉と家康の世をパフォーマンスで生き抜いた」ハナシをお楽しみください。
- 名 前:伊達政宗
- 幼 名:梵天丸
- あだ名:独眼竜
- 官 位:従五位下、左京大夫、侍従、越前守、従四位下、右近衛権少将、陸奥守、正四位下、参議、従三位、権中納言、贈従二位
- 藩 :仙台藩主
- 戦 績:22戦 12勝 4敗 6分
- 出身地:出羽国(秋田県、山形県)
- 領 地:陸奥国、出羽国
- 居 城:米沢城 → 黒川城 → 岩出山城 → 仙台城
- 正 室:愛姫(田村清顕の娘)
- 子ども:10男 4女
- 跡継ぎ:伊達忠宗
- 父と母:伊達輝宗 / 義姫
独眼竜は秀吉と家康の世をパフォーマンスで生き抜いた
豊臣秀吉の天下統一に真っ向から立ち向かい、徳川家康の江戸幕府に創成期から関わった伊達政宗は、ある意味で最も難しい時代を生きた人物です。
眼帯のビジュアルイメージもお馴染みで、伊達政宗は隻眼(片目)だったため『独眼竜』のニックネームで知られています。
伊達政宗が登場したのは戦国時代でもかなり遅く、もはや地方勢力たちが群雄割拠している状況ではありませんでした。
野心家の伊達政宗は天下取りレースに割り込もうとして何度もしくじりますが、そのたびに巧妙に生き残ります。持ち前のエンターテイメント性で数々のピンチをスレスレのところで回避しました。
伊達政宗が伊達家の当主になった1584年は、織田信長が本能寺の変で死亡した2年後でした。かつての織田領を掌握した羽柴(豊臣)秀吉が、すさまじい勢いで天下統一に向かうなか、伊達政宗もこれに対抗しようとしました。
弱冠19歳の若造は、奥州の名門・蘆名氏や強豪・佐竹氏に対してなりふり構わずけんかを吹っかけます。大惨敗を喫しながらも、すったもんだあって、1589年に結果オーライで奥州を制覇しました。この時わずか23歳でした。
その頃、日本の大半は豊臣秀吉のものになっていて、残るは小田原の北条氏と奥州の伊達政宗だけでした。
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政宗の演出 Lv1
死装束で謝罪
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1590年、天下統一の仕上げにかかる豊臣秀吉が、伊達政宗にも北条征伐に加わるよう命じました。すぐには従わず「秀吉なんざやってやるぜ」と強がっているうちに、北条氏が降伏するのは時間の問題という状況になってしまい、あわてて小田原に向かいますが大遅刻してしまいます。
まずいと思った伊達政宗は、イライラして待つ秀吉の前に白装束を着て現れると「遅れてサーセン」と居直ってみせました。

さらに「利休に茶を習いたい」と、精一杯の強がりをみせて秀吉の関心をひきます。豊臣秀吉も、コイツなかなか面白いやないかと「死装束を着たものを斬っては悪評が流れる」といって、伊達政宗を許しました。
このとき24歳。内心はドキドキでした。
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政宗の演出 Lv2
死装束と黄金の磔柱
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豊臣秀吉による東北地方の再編成『奥州仕置』が行われ、葛西・大崎の旧領にあたらしい領主として木村吉清がやってきます。ほどなくして民衆が一揆を起こしました。この一揆の鎮圧に伊達政宗が借り出されます。
ところが、この一揆を扇動しているのは伊達政宗であるという情報がリークされます。伊達軍の鉄砲に弾は入っておらず「やっているふりをしているだけ」だというのです。これを耳にした蒲生氏郷が秀吉に報告し、伊達政宗は京に呼び出されます。
切腹を命じられかねない状況です。
伊達政宗はふたたび白装束をまとい、今度は黄金の磔柱を担いで、わざわざ民衆のなかを通って行きました。

小田原に遅刻して現れたときにも見たコントのバージョンアップに豊臣秀吉も呆れましたが「このまま処刑しては秀吉は小さな器だと笑われる」といって、伊達政宗を許しました。世間体を気にする秀吉の性格を見越して、民衆がザワつくのを利用しました。
このとき25歳。前回の謝罪から1年しか経っていませんでした。
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政宗の演出 Lv3
金ピカとんがり帽子の軍装
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日本全国を制した豊臣秀吉は、朝鮮国を次のターゲットにします。諸将たちをに朝鮮出兵を命じますが、伊達政宗はこれに行きたくありません。そこで、秀吉に気に入られて手元に置いてもらえば最後まで朝鮮に行かなくて済むと考えます。
1592年、朝鮮出兵に向けた大規模な軍事パレードが行われました。ここに伊達勢は金ピカとんがり帽子のド派手な軍装で現れました。

見たこともない奇抜な格好で行進する伊達の兵をみた民衆は大歓声をあげて、まるで戦争に勝ったかのようでした。派手好きな豊臣秀吉も大喜び。立ち上がって夢中で手をふりました。
結局、朝鮮には渡りますが、伊達政宗のねらいどおり先発隊は免れました。
このときの伊達軍のカッコ良さから、粋でおしゃれな人を『伊達者』と呼ぶようになりました。オシャレを楽しむための「伊達メガネ」見せかけを指す「伊達じゃない」もここからきています。
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外国の艦隊で
ワンチャンねらう?
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伊達政宗は ”奥州王” を自称して、1613年に『慶長遣欧使節』として、支倉常長をメキシコ、スペイン、ローマに派遣しました。この動きはスペインの無敵艦隊を味方につけて徳川氏と豊臣氏の争いのなかにぶっこみ、ワンチャン天下を取ってやろうという壮大な謀叛を計画したとする説があります。
実際には(たぶん)謀叛の準備ではなく、仙台を外国との貿易港にしようとしたもので、交渉はうまく行きませんでした。いずれにしても戦国大名のスケールを超えた試みでした。
天下取りの野望は叶いませんでしたが、豊臣秀吉と徳川家康という2人の天下人が存在した時代に、伊達政宗は独自路線を貫いた強烈な存在として、ふてぶてしく生き抜きました。
生涯を簡単に振り返る
1567年、伊達政宗は出羽国・米沢城に奥州探題である伊達輝宗の長男として生まれます。幼いころ天然痘で右目を失明しました。父から将来を見込まれ、18歳で家督を譲られます。二本松義継が父を誘拐しようとする事件が起こり、父ごと義継を射殺しました。この報復として二本松城を攻めた人取橋の戦いで、反伊達連合の猛反発にあいます。
母方の実家である最上家まで敵にまわしてしまい、四面楚歌になりますが、摺上原の戦いに勝って奥州を制しました。その翌年、豊臣秀吉が天下を統一。これに従います。秀吉の死後は徳川家康の麾下に入り、江戸幕府が開府されると陸奥国・仙台藩の初代藩主になりました。
最後と死因
徳川3代に仕えて江戸幕府の創成期に貢献したのち、伊達政宗は武蔵国・江戸の仙台藩屋敷で亡くなりました。1636年6月27日、死因は食道がんに伴う腹膜炎の合併症。70歳でした。亡くなる前日「戦場を駆けていた自分が畳の上で死ぬとは」とつぶやきました。
3代将軍・徳川家光からの信頼は絶大で「伊達の親父殿」と慕われました。家光は伊達政宗が話す(かなり盛った)武勇伝が大好きだったそうで、秀吉や家康と天下を争ったことを、おもしろおかしく話して聞かせたといいます。
領地と居城の移り変わり



奥州(陸奥国南部と出羽国南部)150万石が伊達政宗の領地でした。が、豊臣秀吉の奥州仕置により58万石に減封されます。この地に工夫をこらして実質100万石に相当するほど、仙台藩を豊かに開発しました。
どうして独眼竜と呼ばれたの?
- 子どもの頃に天然痘で右目の視力を失った。
- 平穏だった東北地方に乱世の風を巻き起こした。
- 手段を選ばない苛烈な方法で奥州を制圧した。
伊達政宗は、5歳のときにウイルス感染症の天然痘を患い、奇跡的に一命をとりとめましたが、高熱がつづいたことで右目の視力を失っています。片目が不自由であったため、独つ眼の竜と比喩されました。
竜とは、長いからだをくねらせながら空にのぼって雷雲をおこす伝説の生き物。祖父・伊達稙宗が築いた血縁戦略によって、それまでの東北は比較的おだやかな統治が行われていましたが、伊達政宗の登場によって、竜が雷雲を起こすように戦乱の風が吹き荒れました。
敵対する勢力を徹底的に排除するやり方で、強引に、無謀ともいえる征服戦争を短期間のうちに何度も繰り返し、家督を継いでからわずか5年で奥州の覇者になりました。このような激しさから、伊達政宗は独眼竜と呼ばれています。
伊達政宗の性格と人物像
伊達政宗は「自己演出がうまいエンターテイナー」です。
派手な演出も、単なるエンタメではなく、戦略的な理由があったりします。根っからの野心家で、秀吉や家康の時代でも天下をねらい続けました。謀略を駆使しますが、そのたびに見破られてしまうあたりに愛嬌を感じます。
勢いまかせで意地っぱり。引っ込みがつかず痛い目にあってしまうことも。嘘でその場をやり過ごすことが得意で、アドリブに富んでおり、いつも最悪の結果を免れているのは天賦の才能です。
能、茶の湯、お香、漢詩、絵画、刀や美術品のコレクションなど、多趣味です。料理が好きで、家臣を招いては腕をふるっていました。好きな食べ物は、焼いた鮭の皮、イワシの塩焼き、豆の炊き込みご飯です。
喫煙者で愛用のキセルが現存しています。煙草は薬としていつも決まった時間に吸っていました。健康に気をつけていて、こたつは片側を開けて入るなど、独特の健康法がいくつもあります。お酒は好きだけどあまり飲めません。
政宗のトレードマークである眼帯はつけていませんでした。右目のことはコンプレックスで、肖像には両目いれるよう遺言を残しています。
遺骨から判明した頭部の形状は頭脳明晰型で、後頭部が張り出して前頭部がふくらんでいます。卓越した記憶力の持ち主でした。身長159cm、骨太で筋肉質、血液型はB型です。
片目の視力を失くし、メソメソしがちで内気な子どもでした。家来の片倉小十郎に小刀で右目をくり抜かれて以来ふっきれたといいますが、眼球を取られた痕跡がないのでこれは嘘です。
三日月を模したスタイリッシュな甲冑『黒漆五枚胴具足』は実際に着用した物が現存しており、スターウォーズのダースベイダーのモデルになっています。三日月が左右非対称なのは、右利きの政宗が刀を振り上げたときにぶつからないための工夫です。
能力を表すとこんな感じ

圧倒的な行動力が伊達政宗の最たる個性です。能力として際立っているのは政治力で、領内の生産量を引き上げる手腕は見事。若いうちから武田信玄も顔負けの老獪な謀略を駆使するなど、ズル賢さも抜群です。
信長の野望シリーズに登場する伊達政宗の能力値も参考にしています。
伊達政宗の面白い逸話やエピソード
こだわりグルメの料理男子だった
多趣味で知られる政宗がなかでも熱心に取り組んだのは料理。戦場の食事を美味しくしたいというのが料理をはじめた理由でしたが、次第に創作メニューに情熱を燃やすようになります。
仙台味噌、ずんだ餅、凍り豆腐、笹かまぼこ、伊達巻、これらは伊達政宗が考案したといわれるメニューで、仙台から全国にひろがったロングセラーフードです。

政宗の料理の腕前はかなりのものだったようで、家臣にもよく食事を振る舞っていました。政宗のおもてなしの心得「馳走とは旬の品をさり気なく出し、主人自ら調理して、もてなすことである」は、現代の料理人にも感銘を与えており、これを校訓にしている料理学校もあります。
味方の部隊を全滅させてしまう
1615年の大坂夏の陣でのこと。政宗は、300ほどの兵で奮戦していた味方である神保相茂の部隊を後ろからの一斉射撃で全滅させてしまいます。相茂はじめ293人が討ち死に。現場から避難できた数人が政宗を訴えました。
当然、政宗は徳川家から詰問を受けます。すると「逃げたきた連中を撃ったけどなにか?」と開き直ります。神保氏は7千石の小大名、対して政宗は60万石の大大名。あれこれやと言い訳をして政宗は不問となりました。
実際のところ、神保隊をよけて通るのが面倒だったので、目の前にいたこれを「撃ってしまえ」と政宗が命令をくだしたようです。
伊達政宗の有名な戦い
二本松城を攻めた伊達政宗と、伊達氏に対抗する南陸奥の勢力が、人取橋(福島県本宮市)で戦った合戦。父・伊達輝宗の弔い合戦とする政宗が、11歳の二本松国王丸に攻撃。これを救援するため、佐竹義重を中心とした連合軍が伊達軍を追い払おうとした。
人取橋の戦いで伊達政宗は引き分けています。
佐竹義重が率いる連合軍に終始防戦一方で、政宗も矢1筋と銃弾5発を受けました。内容的には惨敗でしたが、二本松城を得た戦果だけみれば勝利に等しく、利を得たのは政宗でした。
領土拡大に急ぐ伊達政宗が、隣国の大崎氏の内紛に乗じて大崎義隆を攻めた合戦。政宗の方針に従えずに離反した黒川晴氏、大崎氏の縁者である最上義光と伊達軍が大崎(宮城県大崎市)周辺で戦った。混戦になり、政宗の母・義姫が仲介し、和睦させた。
大崎合戦で伊達政宗は敗れています。
同盟または従えていた勢力の伊達離れがつづき、大崎領をちからづくで攻めた政宗には叔父である最上義光までも敵対しました。叔父に伊達領を攻められ、苦しい和睦となりました。
大崎合戦に敗れた伊達政宗を叩くべく、蘆名&相馬軍が伊達領の城を攻略。大内定綱の先鋒隊が次々と侵攻し、郡山城(福島県郡山市西ノ内)一帯を攻撃。伊達成実が防衛をしつつ、蘆名氏から大内氏を味方につける。局地戦が群発する混戦となり、蘆名義広と和睦した。
郡山合戦で伊達政宗は引き分けています。
蘆名氏、相馬氏、岩城氏、佐竹氏まで巻き込んだ乱戦で、大崎合戦から続いた四面楚歌の状況をなんとかしのぎました。
反伊達の中心である蘆名氏を討つべく、伊達政宗が出陣。神出鬼没の動きで相馬氏を封じながら進軍し、摺上原(福島県磐梯町、猪苗代町)で蘆名義広との決戦に臨んだ。はじめ優勢だった蘆名軍は、形勢を逆転されると崩壊し、黒川城を奪取した伊達軍が攻め滅ぼした。
摺上原の戦いで伊達政宗は勝っています。
伊達政宗のターニングポイントになった戦いです。
蘆名氏を滅亡させたことで反伊達連合が崩壊します。これをきっかけに周辺勢力が政宗の傘下に降りました。この勝利によって佐竹義重が築いた奥州一統をくつがえし、伊達政宗が奥州を統一しました。
大坂冬の陣から半年後、徳川家康による豊臣氏の殲滅戦。大坂城付近(大阪府藤井寺市、阿倍野区など)で激しい局地戦が行われた。毛利勝永が奮闘し、徳川本陣に真田幸村が決死の突撃をしたが、数で勝る徳川軍が押し切った。大坂城は落城。豊臣秀頼は出陣の機会なく自害した。
大坂夏の陣で伊達政宗は勝っています。
豊臣氏を滅ぼす合戦に徳川軍として参戦し、猛将・後藤又兵衛を戦死させる活躍をみせました。
伊達政宗の詳しい年表と出来事
伊達政宗は西暦1567年〜1636年(永禄10年〜寛永13年)まで生存しました。戦国時代後期に活躍した武将です。
1567 | 1 | 伊達輝宗の嫡男として出羽国に生まれる。幼名:梵天丸 |
1571 | 5 | 天然痘に罹患し、右目の視力を失う。 |
1577 | 11 | 元服 → 伊達(藤次郎)政宗 |
1579 | 13 | 田村清顕の娘(愛)と結婚。 |
1581 | 15 | 相馬義胤との戦に参加。 |
1584 | 18 | 父・伊達輝宗の隠居により家督を相続。 |
1585 | 19 | 蘆名氏の桧原城、次いで小手森城を攻め、撫で斬り(みなごろし)にする。 二本松義継の和議申し入れを受諾する。 二本松義継が父・伊達輝宗を拉致。これに銃弾を浴びせて父・輝宗もろとも義継を射殺する。 ”人取橋の戦い”二本松城を攻める。佐竹義重が率いる反伊達連合と争って大きな被害をうける。連合軍の撤退により命拾いする。 |
1586 | 20 | 二本松城を包囲。降伏開城させる。二本松家滅亡 |
1587 | 21 | 豊臣秀吉から関東と奥羽地方での領土紛争を禁止される。無視する。【惣無事令】 |
1588 | 22 | ”大崎合戦”大崎氏の内紛に乗じて侵攻する。黒川晴氏の離反もあり、敗れる。大崎氏に味方した叔父・最上義光に伊達領を攻め落とされる。 ”郡山合戦”蘆名氏&相馬氏の連合軍に苗代田城を落とされる。 母・義姫の介入によって、大崎ならびに郡山の合戦が停戦、和議となる。 |
1589 | 23 | ”摺上原の戦い”会津の蘆名領に侵攻。蘆名家臣・猪苗代盛国が伊達氏に寝返り、猪苗代城を得る。蘆名義広を撃破し、黒川城を制圧。蘆名家滅亡 二階堂行親が篭る須賀川城を攻略。二階堂家滅亡 小峰義親が降伏、配下になる。 石川昭光が降伏、配下になる。 岩城常隆が降伏、配下になる。 |
1590 | 24 | 弟・政道の謀略に遭い、やむをえず誅殺する。 豊臣秀吉に降伏し、配下に加わる。 ”小田原征伐”北条氏の討伐戦に参加。大幅に遅刻する。 豊臣秀吉が小田原城を開城降伏させる。北条家滅亡 豊臣秀吉の天下統一が成る。 小田原参陣に遅れた理由を前田利家から尋問される。 豊臣秀吉によって東北地方の領土再編が行われ、小田原の遅刻や惣無事令の違反により、伊達領は150万石 → 72万石に減封される。【第1次奥州仕置】 |
1591 | 25 | ”葛西大崎一揆”伊達旧領の領民を扇動して一揆を誘発する。これを蒲生氏郷と鎮圧するが、扇動した嫌疑をかけられ、一揆で荒廃した土地に転封を命じられる。72万石 → 58万石に減封。 岩出山城に居城を移す。 ”九戸政実の乱”九戸政実の鎮圧戦に参加。勝利に貢献する。【第2次奥州仕置】 侍従に就任。 |
1592 | 26 | 朝鮮出兵に備えて肥前国・名護屋城に入る。絢爛豪華な戦装束で登場し民衆を沸かせる。【文禄の役】 |
1593 | 27 | 宇喜多秀家を総大将とした日本軍の援軍として朝鮮国に渡る。 |
1595 | 29 | 関白・豊臣秀次に謀反の疑いがかかる。秀次と親交があった政宗にも嫌疑がかかる。誓書を書かされて難を逃れる。【秀次切腹事件】 |
1597 | 31 | 右近衞権少将に就任。 |
1598 | 32 | 主君・豊臣秀吉が死去。 |
1599 | 33 | 徳川家康の配下に加わる。 徳川家康の六男・松平忠輝に長女(五郎八)を嫁がせる。 |
1600 | 34 | 関ヶ原の戦いが勃発したため、徳川軍は上杉討伐から撤退。上杉領(伊達旧領)の奪還を認めるかわりに討伐を命じられる。【百万石のお墨付き】 ”白石城の戦い”上杉領・白石城を攻める。登坂勝乃を降して白石城を奪還する。 ”長谷堂城の戦い”*留守政景を援軍として最上義光のもとに派遣。 *鬼庭綱元に湯原城を攻め落とさせる。 ”松川の戦い”本庄繁長が篭る福島城を攻めるが苦戦、撤退。 ”岩崎一揆”和賀忠親をつかって、南部氏の領内で一揆を扇動するが鎮圧される。 徳川家康が関ヶ原の戦いに勝利する。 関ヶ原の戦いのあと、一揆の件は不問にされるが恩賞の追加は極小。58万石 → 60万石。 |
1601 | 35 | 仙台城が完成、居城を移す。 |
1603 | 37 | 陸奥国・仙台藩の藩主になる。【江戸幕府の創設】 |
1613 | 47 | スペインとの太平洋貿易を企図し、ガレオン船を建造。支倉常長をメキシコ、スペイン、ローマに派遣する。【慶長遣欧使節】 |
1614 | 48 | ”大坂冬の陣”豊臣氏の討伐戦に参加。和議成立後は大坂城の外堀埋め立て工事を監督する。 |
1615 | 49 | ”大坂夏の陣”豊臣氏の討伐戦に参加。後藤又兵衛を撃破、戦死させる。真田幸村の反撃を受けて後退する。豊臣家滅亡 敗死した豊臣家臣・真田幸村の次男と娘、長宗我部盛親の姉妹とその息子を引き取る。 参議に就任。 参議を辞任。 |
1616 | 50 | 主君・徳川家康が死去。次代・徳川秀忠に仕える。 |
1626 | 60 | 権中納言に就任。 |
1632 | 66 | 主君・徳川秀忠が死去。次代・徳川家光に仕える。 |
1636 | 70 | 武蔵国・江戸仙台藩屋敷で病死。 |

- 伊達政宗 – Wikipedia
- 【刀剣ワールド】伊達政宗の武将年表|戦国武将年表
- 伊達政宗を学ぼう!出身や妻・子供・子孫出身や死因、名言など
- 「人取橋の戦い(1586年)」政宗が最も苦戦したという、父輝宗の弔い合戦!|戦国ヒストリー
- 伊達政宗の好物は今も名産品!?元祖料理男子の素性に迫る!|食・料理|オリーブオイルをひとまわし
- 「葛西大崎一揆(1590~91年)」伊達政宗が裏で糸を引いていた!?東北最大規模の一揆と大名の明暗|戦国ヒストリー
- サン・ファン館|慶長遣欧使節と支倉常長
- 本郷和人監修『戦国武将の解剖図鑑』エクスナレッジ
- 矢部健太郎監修『超ビジュアル!戦国武将大事典』西東社
- 小和田哲男監修『ビジュアル 戦国1000人』世界文化社
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