佐竹義重
1547.3.7 〜 1612.5.19

佐竹義重は、現在の茨城県にあたる常陸国の武将・大名です。16歳で佐竹氏の当主になると常陸国衆を斬り従えて、北条氏や伊達氏と争いました。剛力無双の武勇に加えて、外交術にも秀でており、有力者不在で混沌としていた地域を束ねて、奥州一統を果たし、最盛期は関東から東北南部に勢力を拡げました。享年66。
- 佐竹義重の武将タイプ
- 侵略
佐竹義重は何をした人?このページは、佐竹義重のハイライトになった出来事をなるべく正しく、独特の表現で紹介しています。きっと佐竹義重が好きになる「鬼と呼ばれた坂東太郎がカオスを束ねて奥州一統した」ハナシをお楽しみください。
- 名 前:佐竹義重
- 幼 名:徳寿丸
- あだ名:鬼義重、坂東太郎
- 官 位:常陸介
- 戦 績:28戦 15勝 8敗 7分
- 出身地:常陸国(茨城県)
- 領 地:陸奥国、常陸国、下野国
- 居 城:太田城 → 六郷城
- 正 室:宝寿院(伊達晴宗の娘)
- 子ども:5男 1女 1養
- 跡継ぎ:佐竹義宣
- 父と母:佐竹義昭 / 岩城氏
- 大 名:佐竹氏18代当主
鬼と呼ばれた坂東太郎がカオスを束ねて奥州一統した
佐竹義重は、独眼竜のニックネームで知られる伊達政宗と奥州と呼ばれる地域をめぐって争った戦国大名です。そして「奥州をはじめて制した人物」でした。
安土桃山時代、現在の栃木県と福島県にあたる下野国と陸奥国南部には、絶対的な統治者がおらず、諸勢力が乱立する混沌とした土地でした。
かつては名門だった宇都宮氏も、白河結城氏も、この地域を治めるちからはなく、内紛による分裂をくり返して衰えていました。
このころ、常陸国の大名である佐竹義重は北条氏と抗争をしていましたが、上杉謙信の後ろ盾を失い限界を感じていました。
そこで、佐竹義重は支配者が居ないカオスな地域に参入し、隙あらば支配を拡げていく方針にシフトします。
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ファミリーカードで
奥州一統
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1572年ごろから陸奥国南部にちょっかいを出していた佐竹義重は、母方の祖父である岩城重隆を言いくるめて実質的な当主になります。
1575年までに白河結城氏に攻勢を強め、次男・義広を養子にぶっこんで結城氏を支配しました。
急速に支配を強めて陸奥国南部に緊張感を走らせた佐竹義重は、姉の嫁ぎ先である宇都宮広綱を通じて宇都宮氏を実効支配し、那須資房と講和して下野国の大半を勢力下に置くことに成功します。
1581年には会津の蘆名盛隆らと連合軍を結成して、御代田合戦で田村清顕に勝利。会津・仙道・海道の勢力を束ねて奥州一統を果たしました。

この地域がひとつの勢力圏としてまとめられたのは、およそ100年ぶりでした。
祖父、姉、次男のファミリーカードで他家を巧みに支配していった佐竹義重に、またとないチャンスが巡ってきます。
会津の蘆名氏に世継ぎがいない問題が発生。流行病の天然痘により、嫡男の亀王丸が3歳で早逝したため、蘆名氏の男子が断絶してしまったのです。
蘆名家には伊達家の次男が養子にいく約束だったようですが、構うことはありません。
白河結城氏に養子に出していた佐竹義重の次男・義広を呼び戻して蘆名盛隆の養女を結婚させ、強引に蘆名家を継がせてしまいます。
こうして蘆名氏まで手に入れた佐竹義重は、奥州の支配者として君臨しました。
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伊達政宗との
シーソーゲーム
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1585年ごろから伊達政宗が目立ちはじめます。蘆名氏の家督問題ですでに揉めていましたが、明確に対立するライバルになっていきます。
なまいきな政宗は、あたり構わずむちゃくちゃな戦争をふっかけて、二本松氏、大崎氏、相馬氏などが迷惑を被っていました。
政宗に危害を加えられた者たちを集めて、佐竹義重は ”伊達政宗被害者の会”(反伊達連合軍)を発足。そのリーダーをつとめます。
はじめは政宗をボコボコにしていた連合軍でしたが、1589年の摺上原の戦いで佐竹義重の次男・蘆名義広が大敗。
すると、白河結城氏をはじめとした陸奥南部の勢力が伊達氏に降り、政宗に奥州を奪われてしまいました。
しかし、その翌年の1590年に豊臣秀吉が北条氏を降して天下統一を果たすと状況は一変します。
秀吉と15年来の付き合いがある佐竹義重は、所領安堵+常陸国の領有権を与えられます。
一方、好き勝手に暴れ回った伊達政宗は、秀吉の惣無事令(私戦禁止)を無視した罰などで領地を半分に減らされる大減封ペナルティを受けました。
織田信長が生存していたころから豊臣秀吉の出世を予見し、早くから仲良くなっていた佐竹義重の先見性が、伊達政宗との明暗を分ける結果となりました。
生涯を簡単に振り返る
生まれと出自
1547年、佐竹義重は常陸国・太田城に佐竹義昭の長男として生まれます。父から家督を譲り受け、上杉謙信の協力を得ながら小田氏治と争うかたわら、北条氏直と関東を奪いあいます。謙信が病死したので北条氏と競うのを止め、奥州路線に変更すると、縁者を利用して未統治の地域で支配を強めました。
台頭した伊達政宗と競う
伊達政宗が台頭すると、反伊達連合を率いて争いますが、勝ちきれずに敗れます。その後、豊臣政権では秀吉に従い優遇され、減封された政宗と関係が逆転。所領を安堵されたことを受けて隠居し、長男・義宣と父子で統治しました。関ヶ原の戦いで義宣がどっちつかずだったため、徳川政権では出羽国に減転封されてしまいます。
最後と死因
出羽国に移ってからも反佐竹勢力の一揆に対応するなど旺盛でしたが、鷹狩りの帰りに落馬し、佐竹義重は出羽国・六郷城で亡くなりました。1612年5月19日、死因は脳挫傷。66歳でした。
領地と居城

常陸国、下野国東部と陸奥国南部を合わせた54万石ほどが佐竹義重の領地でした。佐竹氏が領有した最大版図を築きました。
佐竹義重の性格と人物像
佐竹義重は「先見性と計画性がある人」です。
過大にも過小にも相手を見誤ることがなく、客観的な力量差を判断して対策できます。
豊臣秀吉の将来性をいち早く見抜いたり、関東で北条氏と抗争を続けず奥州進出にシフトするなど、かなりのやり手です。
戦場に出れば勇猛そのもの。7人の敵を一瞬で斬り伏せたり、馬に乗ったまま敵を頭から一刀両断にする近寄るのも恐ろしい豪傑です。
かなり用心深い性格で、頭上からの襲撃に備えて毎日寝る位置をずらしていました。
寝室での斬り合いに備えて敷布団は使わず、身動きがとりやすいように薄い布を敷いていました。寒い出羽国に領地替えになったおり、息子からふかふかの布団を贈られますが「落ち着かない」といって、やっぱり薄手の布で寝ました。
武具、刀に特別な思い入れがあり、入念に手入れをしています。コレクションのなかには上杉謙信からもらった太刀もありました。
大好きな趣味は鷹狩りです。
毛虫を模したモジャモジャで個性的な『毛虫前立鳥毛脇立兜』や、愛用した『八文字長義』の太刀は、実際に使用したものが残っています。
能力を表すとこんな感じ

個の強さが際立つ佐竹義重ですが、金山の開発にちからを入れて得た資金で関東最強の鉄砲隊を組織するなど、先を見る目に優れています。
能力チャートは『信長の野望』シリーズに登場する佐竹義重の能力値を参考にしています。東大教授が戦国武将の能力を数値化した『戦国武将の解剖図鑑』もおすすめです。
佐竹義重の面白い逸話やエピソード
愛刀・八文字長義の名前の由来がエグい
『鬼義重』『坂東太郎』と呼ばれた佐竹義重は、刃長78.3cmの太刀を愛用しました。北条氏政との合戦で、騎馬武者を頭上から一刀両断にしたことがあります。
斬られた騎馬武者は兜ごと八の字に割れて馬から落ちたといい、以来この刀を『八文字長義』と名付けました。
上杉謙信から送られた名刀『備前三郎国宗』を長男・佐竹義宣に譲っています。息子に刀の魂とか、武士の心意気とかを伝えたかったのですが、義宣は「この刀、なげえ」といって短く削り、脇差にしてしまったそうです。
秋田に美人が多いのはこれが理由かも
関ヶ原の戦いで、家康にどっちつかずな印象を与えてしまった義重の長男・佐竹義宣のせいで、佐竹領は先祖代々受け継いできた常陸国(茨城県)から、出羽国(秋田県)に移されてしまいます。
佐竹領には美人が多いときいていた家康は、常陸国を手に入れるのが楽しみでした。
美女たちを徳川家康に残していくのが面白くなかった義重は、とびっきりの美人たちを連れて引っ越したといわれており、彼女たちの子孫が現在の秋田美人になっているという説があります。
佐竹義重の有名な戦い
陸奥の御代田城(福島県郡山市田村町)をめぐって、佐竹氏と呼応した蘆名盛隆らが加わった連合軍と、田村清顕が争った合戦。数で勝っていた連合軍は、二階堂盛義の負傷離脱などで足並みが揃わずに苦戦するが、佐竹義重の出陣によって連合軍が優勢となった。
御代田合戦で佐竹義重は勝っています。
佐竹義重のターニングポイントになった戦いです。
関東での抗争に見切りをつけて、奥州への領土拡大プランに変更し、この合戦を勝利で飾りました。連合軍を率いた義重は陸奥国南部の勢力をことごとく支配し、奥州一統を果たしました。
二本松城を攻めた伊達政宗と、伊達氏に対抗する南陸奥の勢力が、人取橋(福島県本宮市)で戦った合戦。父・伊達輝宗の弔い合戦とする政宗が、11歳の二本松国王丸に攻撃。これを救援するため、佐竹義重を中心とした連合軍が伊達軍を追い払おうとした。
人取橋の戦いで佐竹義重は引き分けています。
義重が率いた反伊達連合は序盤から伊達勢を圧倒しました。しかし、北条氏と里見氏が佐竹領を脅かしたため、やむをえず撤退します。その後、二本松城を伊達政宗に奪われ、負けに等しい結果となってしまいました。
大崎合戦に敗れた伊達政宗を叩くべく、蘆名&相馬軍が伊達領の城を攻略。大内定綱の先鋒隊が次々と侵攻し、郡山城(福島県郡山市西ノ内)一帯を攻撃。伊達成実が防衛をしつつ、蘆名氏から大内氏を味方につける。局地戦が群発する混戦となり、蘆名義広と和睦した。
郡山合戦で佐竹義重は引き分けています。
連戦で弱っている伊達政宗を反伊達連合で攻める作戦行動に加わりますが、混戦&長期化となり、撤退しました。
佐竹義重の詳しい年表と出来事
佐竹義重は西暦1547年〜1612年(天文16年〜慶長17年)まで生存しました。戦国時代中期から後期に活躍した武将です。
1547 | 1 | 佐竹義昭の嫡男として常陸国に生まれる。幼名:徳寿丸 |
1558 | 12 | 元服 → 佐竹(次郎)義重 |
1562 | 16 | 父・佐竹義昭の隠居により家督を相続。 |
1564 | 18 | ”小田城の戦い”上杉輝虎(謙信)の援軍を得て、小田氏治を敗走させる。 |
1565 | 19 | ”第1次関宿合戦”上杉輝虎の要請で北条氏に攻められる下総国・関宿城の救援に向かう。 |
1566 | 20 | 小田氏治を攻めて小田領の大半を奪う。 下野国に侵攻し、那須郡を攻める。 武茂守綱が降伏、配下になる。 |
1569 | 23 | ”手這坂の戦い”太田資正、真壁久幹と協力して小田氏治に大勝、小田城を奪取する。 |
1571 | 25 | 佐竹配下の多賀谷政経を攻めた北条氏を撃退する。 |
1572 | 26 | 岩城氏の実権を握り、事実上支配する。 |
1573 | 27 | 小田氏治と争い、小田領をさらに奪う。 |
1574 | 28 | ”第3次関宿合戦”上杉謙信の要請で関宿城の救援に向かう。古河公方・足利氏と北条氏を仲介し関宿城を開城降伏させる。 |
1575 | 29 | 白河結城氏(小峰)義親を攻撃。白河城を奪取する。 佐竹氏の急速な領土拡大を牽制する北条氏、蘆名氏と関係が悪化。 白河結城氏、宇都宮氏と婚姻同盟を結ぶ。 羽柴(豊臣)秀吉と友好的な関係を築く。 |
1576 | 30 | 北条氏政に下野国を追われた小山秀綱が頼ってくる。 |
1577 | 31 | 北条領・小山城を攻める。結城城を攻める北条氏政の注意を引きつけて撤退する。 |
1578 | 32 | ”小川台合戦”反北条連合を率いて北条領・壬生城を攻めたのち、絹川を挟んで北条氏政と対陣する。 盟友・上杉謙信が死去。関東の支配を断念し、南陸奥に領土を拡大する方針に変更する。 |
1579 | 33 | 次男・義広を白河結城氏の養子にする。 白河結城氏を支配下に置く。 |
1581 | 35 | ”御代田合戦”蘆名盛隆ら連合勢力と呼応して、御代田城の田村清顕を攻撃。 宇都宮国綱が配下になる。 会津、仙道、海道の諸勢力を支配下に置き、奥州一統を為す。 |
1584 | 38 | ”沼尻の合戦”下野国に侵攻してきた北条氏直を宇都宮氏とともに迎え撃つが、長沼城を奪われる。やむなく和睦する。 |
1585 | 39 | ”人取橋の戦い”二本松城を攻める伊達政宗に反伊達連合を率いて対抗する。有利に戦ったが、江戸重通が不穏な動きをしたため撤退する。 |
1587 | 41 | 次男・義広を蘆名盛隆の養女・蘆名盛興の娘(小杉山御台)と結婚させて蘆名氏の家督を継がせる。 蘆名氏を支配下に置く。 豊臣秀吉から関東と奥羽地方での領土紛争を禁止される。【惣無事令】 |
1588 | 42 | ”郡山合戦”蘆名氏&相馬氏の連合軍と呼応して伊達領を攻める。 |
1589 | 43 | 次男・蘆名義広が摺上原の戦いで伊達政宗に大敗する。蘆名家滅亡 佐竹氏の配下にあった小峰義親、石川昭光、岩城常隆が伊達氏に寝返り、南陸奥の支配を失う。 長男・佐竹義宣に家督を譲る。引き続き政治・軍事を主導する。 |
1590 | 44 | ”忍城の戦い”石田三成の指揮下で成田長親との戦に参加。 豊臣秀吉が小田原城を開城降伏させる。北条家滅亡 豊臣秀吉の天下統一が成る。 豊臣秀吉から常陸国54万石を安堵される。【第1次奥州仕置】 江戸重通を攻撃。水戸城から追い出す。 大掾清幹が篭る府中城を攻略する。大掾氏族の鹿島清秀を謀殺する。大掾家滅亡 小野崎昭通が篭る額田城を攻撃。退城勧告をして追放する。 常陸国を平定。 |
1591 | 45 | ”九戸政実の乱”九戸政実の鎮圧戦に参加。相馬口方面から制圧、勝利に貢献する。【第2次奥州仕置】 |
1602 | 56 | 徳川家康の命令で佐竹領は出羽国20万石に減転封される。 出羽国・六郷城を居城にする。 |
1612 | 66 | 出羽国・六郷城で死去。 |

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