織田信長がしたことを簡単に知りたい!わかりやすくしたまとめ

戦国時代から安土桃山時代にかけて『織田信長がしたこと』がよくわからない!桶狭間の戦いとか長篠の戦いは何が重要なの?楽市・楽座って何?どんな出来事でどんな意味があったのか簡単に知りたい。出来事と大事なポイントがよくわかる。教科書に載っている ”織田信長がしたこと” をわかりやすくまとめてみましょう。
教科書に載っている織田信長がした有名なこと
織田信長は日本の安土桃山時代に活躍した武将で「風雲児」や「魔王」と呼ばれました。大胆な戦略と政治改革で知られ、戦国の日本史に鮮烈な印象を残しました。
では、織田信長はいったいどんなことをしたのでしょう?
まずはじめに、主な出来事をまとめた「織田信長の簡単な年表」を見てみましょう。

桶狭間の戦い(1560年)
上洛(1568年)
比叡山焼き討ち(1571年)
室町幕府の滅亡(1573年)
長篠の戦い(1575年)
本能寺の変(1582年)
以上が、織田信長の重要な出来事です。
このほか、楽市・楽座(1577年)の政策も教科書に載っています。
それでは、織田信長がしたことを順番に大事なポイントと合わせて紹介していきます。
1560年:桶狭間の戦い
- 織田信長が今川義元を討った。
- 徳川家康が今川氏から独立して戦国大名になった。
- 織田信長と徳川家康が同盟した。(清洲同盟)
- 清洲同盟で尾張国が安全になったので美濃国を攻め取った。

1560年6月12日に起こった桶狭間の戦いは、織田信長が今川義元を討ち取った戦いです。
駿河国・遠江国・三河国(静岡県中部と愛知県東部)を支配した今川義元は『海道一の弓取り』と呼ばれ、天下にもっとも近い大名でした。
尾張国(愛知県西部)に攻めこんだ今川義元を織田信長が返り討ちにしたのが桶狭間の戦いです。
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桶狭間の戦いを
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今川義元の軍勢は2万5千で、対する信長の軍勢は2千ほどしかいませんでした。ふつうなら信長に勝ち目がない戦いだったので、桶狭間での勝利は誰もが驚きました。
今川義元が討たれたことで、徳川家康の独立や武田信玄が駿河国を攻めるなどの出来事が起こりました。
1568年:上洛
- 織田信長が足利義昭を将軍に就かせた。
- 室町幕府を思い通りにした。
- 堺などの商業自治区を従えた。

上洛とは京都に入ること。1568年、織田信長は足利義昭を室町幕府の将軍にするために上洛します。
この時の室町幕府は永禄の変で将軍が暗殺され、後継者を決める争いが起こっていました。
美濃国(岐阜県)を手に入れた信長は、京都まで攻めのぼり、足利義昭を15代将軍の座に就かせました。
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上洛した理由を
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将軍は朝廷から任命されるため、足利義昭は京都に行かなくてはなりません。でも、他国の領地を通って行くので、信長の軍隊の助けが必要でした。
信長はこれを利用して、室町幕府で権力を得たのです。
1571年:比叡山焼き討ち
- お寺も武力で制した。
- この行動が全国の大名を敵に回した。
- 重要な文化財も焼失した。

1571年9月12日に起こった比叡山焼き討ちは、織田信長と対立していた浅井氏と朝倉氏が、比叡山延暦寺に逃げこんだのがきっかけとなった事件です。
信長は延暦寺に浅井氏と朝倉氏の味方をしないように忠告しましたが、これを無視されたため、比叡山の寺を山ごと燃やしてしまいました。
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比叡山焼き討ちを
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火は3日間も燃え続け、比叡山は騒然となりました。信長は建物から逃げようとする僧侶や庶民もすべて斬り捨てました。
1573年:室町幕府の滅亡
- 織田信長が足利義昭を京都から追放した。
- 1338年から続いた室町幕府が滅びた。
- 織田政権が樹立された。

織田信長が将軍に就かせた足利義昭でしたが、意見が合わずに対立します。
義昭は全国の大名を使って、信長を倒すために『信長包囲網』を形成しました。
1573年に織田信長は、足利義昭を攻めて京都から追放し、230年以上も続いた室町幕府を滅ぼしました。
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この後どうなった?
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足利義昭が計画した信長包囲網には武田信玄も加わり、信長はピンチになります。
しかし、織田領に攻めてくる途中で信玄が急死したので、信長は助かりました。
1575年:長篠の戦い
- 織田軍の鉄砲隊が武田軍の騎馬隊をやぶった。
- 鉄砲の効果的な使い方が示された。
- この戦いをきっかけに弓と槍ではなく鉄砲がスタンダードになった。

1575年6月29日に行われた長篠の戦いは、大量の鉄砲を使った織田軍が、戦国最強といわれた武田騎馬隊をやぶった戦いです。
鉄砲は弾こめや着火など手間がかかるため、撃つまでに時間を要するのが難点でした。
信長は鉄砲隊を3つに分けて交代で撃つ戦法を編み出し、動きが素早い騎馬隊を封じました。
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長篠の戦いを
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武田騎馬隊の突進力はすさまじかったので、信長は馬防柵を用意して馬の突撃を食い止めました。柵の内側から3千挺もの鉄砲で撃ちかけました。
1577年:楽市・楽座
- 商業組合の特権をなくして自由に商売ができるようにした。
- これとあわせて関所もなくした。
- 全国から商人が集まって経済が活性化した。

1577年に織田信長が行った楽市・楽座は、城下町の商業を発展させるための政策です。
座(商業組合)の特権を廃止して、誰でも商売ができるように ”楽座” としました。城下町での課税を免除する ”楽市” によって、商売人の利益を増やしました。
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楽市・楽座を
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公家や寺院は、商業組合である ”座” からの徴収で利益を得ていました。
信長の楽座には、公家や寺院を弱体化させるねらいもあったといわれています。
1582年:本能寺の変
- 家臣の明智光秀に襲われて織田信長が自害した。
- 織田家が分裂して信長の家来だった豊臣秀吉が大名になった。
- 本能寺の変は織田信長がしたことではなく、されたこと。

1582年6月21日に起こった本能寺の変は、織田信長がいちばん頼りにしていた家臣の明智光秀に襲撃された事件です。
京都の本能寺に宿泊していた信長は、明智光秀の軍勢に襲われて自害しました。
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本能寺の変を
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信長から中国地方へ出兵を命じられた明智光秀は、1万3千の兵を連れていました。光秀はとつぜん本能寺に方向を変えて、信長を襲いました。
まさか光秀に裏切られると思っていなかった信長には、2百ほどの警備しかいませんでした。
織田信長がしたその他のこと
天下統一の拠点・安土城を築いた
1576年から築城を開始して1579年に完成した安土城は、織田信長が天下統一をするための拠点として建てた城です。
琵琶湖の東岸の安土山に、五層七重の天守閣を構えた豪華な城でした。
織田信長が築いた安土城は戦うための城ではなく、権力の象徴として建てられた ”魅せる城” だったのです。
じつは、それまでの日本の城は館の形をしていて、熊本城や姫路城のような立派な天守閣はありませんでした。
安土城は、当時はまだ珍しい立派な天守閣を構えた城でした。
キリスト教を保護して南蛮貿易を行った
織田信長は、スペインやポルトガルとの貿易を盛んに行いました。これは、貿易によって得られる利益が大きかったほか、信長が当時の世界の様子を知るためでした。
日本の南方からやってくるヨーロッパ人を ”南蛮人” といい、南蛮人との貿易を『南蛮貿易』といいました。
比叡山や石山本願寺などの仏教勢力とも戦った織田信長は、南蛮人が信仰するキリスト教の布教を許しました。キリスト教を利用して仏教勢力を抑えようとしました。
織田信長が天下統一のためにしたこと
じつは、戦国大名たちは皆が天下統一を目指していたわけではありません。
戦国大名たちの目的は自国を豊かにすることで、ゲームのように天下統一を競っていたわけではないのです。
そこへ、織田信長が登場し『天下統一』という発想が生まれました。
信長は、100年以上つづいていた戦乱を終わらせるシンプルな方法として、武力による日本全国の支配を目指します。
圧倒的な武力で他国を攻め取った
桶狭間の戦いのあと、信長は美濃国の斎藤氏を滅ぼし、岐阜城を足掛かりに天下統一へ動き出します。このときから信長は、武力で天下統一するという意味の『天下布武』という印を使うようになりました。
信長は、六角氏、浅井氏、朝倉氏、三好氏、武田氏などの大名や室町幕府を攻め滅ぼし、延暦寺や本願寺といった仏教勢力まで武力でねじ伏せます。
圧倒的な武力を手にするために、信長は大量の鉄砲を有しました。
破壊力は抜群だけど鉄砲は高価でした。そこで、鉄砲をたくさん持つために楽市・楽座などの商業政策と南蛮貿易で得た利益を活用しました。
織田信長は何勝何敗?通算戦績
織田信長の生涯戦績は、82戦59勝15敗4分です。勝率は75.6%でした。
桶狭間の戦いや長篠の戦いのほかにも、織田信長はたくさん戦いました。信長が戦った相手と結果をざっと並べます。
・駿河国の今川義元 → 撃破
・美濃国の斎藤義龍と龍興 → 撃破
・近江国の六角義賢と義治 → 撃破
・近江国の浅井久政と長政 → 撃破
・越前国の朝倉義景 → 撃破
・阿波国の三好氏 → 撃破
・甲斐国の武田信玄と勝頼 → 撃破
・越後国の上杉謙信 → 交戦
・安芸国の毛利輝元 → 交戦
・室町幕府将軍の足利義昭 → 撃破
・石山本願寺 → 和睦 → 解体
・長島一向一揆 → 消滅
・比叡山延暦寺 → 消滅
織田信長は、斎藤氏、朝倉氏、浅井氏、六角氏、三好氏、武田氏などの大名家を攻め滅ぼしています。
織田信長が何度も戦った相手は、浅井長政と朝倉義景、武田勝頼、石山本願寺、長島一向一揆などです。
武田信玄、上杉謙信、毛利輝元と織田軍は戦いましたが、信長は戦闘に参加していません。
信長の登場で合戦が変わった
長篠の戦いで大成する鉄砲戦術により、武士が名乗り出て戦う時代は終わります。
じつは、武士の合戦は ”集団による果たし合いのようなもの” で、死者が大勢出ることはなかったといいます。
戦国時代の武士とは、日ごろは農業をするのが当たり前で、合戦のたびに死者を出しては暮らしがままならなかったのです。
ところが、信長が鉄砲を主戦力にしたことによって、合戦がガチの殺し合いになってしまいました。
織田信長が登場する前と後では、合戦がまるで別のものになったといわれています。
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以上が織田信長がしたことのまとめです。天下統一こそ果たせませんでしたが、織田信長が残したこれらの出来事は、日本の歴史に大きな影響をあたえました。
1467年に起こった応仁の乱にはじまった戦乱の世を終わらせるために急加速させた英雄、それが織田信長です。
織田信長がしたことのまとめは以上です。
つづいて【織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の関係】についてまとめたページがおすすめです。
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