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たけだ かつより

武田勝頼

1546.?〜 1582.4.3

 
武田勝頼のイラスト
  

武田勝頼(諏訪勝頼)は、現在の山梨県にあたる甲斐国の武将・大名です。武田信玄の四男で父の没後、家督を継ぎます。徳川氏や北条氏と争いながら所領を守りますが、長篠の戦いで織田信長の鉄砲隊に惨敗。次第に求心力を失い、家臣団の統制がきかなくなり、甲斐武田家を滅亡させてしまいました。享年37歳。

武田勝頼は何をした人?このページは、武田勝頼のハイライトになった出来事をなるべく正しく、独特の表現で紹介しています。きっと武田勝頼が好きになる「信玄の跡を継いだけど信長に大敗して武田家を滅ぼした」ハナシをお楽しみください。

  • 名 前:諏訪勝頼 → 武田勝頼
  • 官 位:大膳大夫
  • 幕 府:信濃守護
  • 出身地:甲斐国(山梨県)
  • 領 地:上野国、甲斐国、信濃国、駿河国、遠江国
  • 居 城:高遠城 → 躑躅ヶ崎館 → 新府城
  • 正 室:龍勝院(織田信長の養女)、北条夫人(北条氏政の妹)
  • 子ども:4男 1女
  • 父と母:武田信玄 / 諏訪御料人

信玄の跡を継いだけど信長に大敗して武田家を滅ぼした

1573年に陣中で急死した武田信玄に代わって当主になったのは、信玄の四男・武田勝頼でした。信玄は「3年は死を隠すこと」「嫡孫(ちゃくそん)・信勝が成人したら当主にすること」「それまで風林火山の旗は使用禁止」という遺言を残しました。

とりあえず、中継ぎとして武田勝頼は当主になったのです。

というのも、彼の母は信玄が滅ぼした諏訪(すわ)家の姫君でした。美しい諏訪(すわ)の姫を気に入った信玄が、周囲の反対を押し切って側室にし、ほどなくして生まれた子でした。途絶えてしまった諏訪(すわ)氏を継がせる子だったので、(いみな)には武田家の「信」ではなく諏訪(すわ)家の「頼」が用いられました。

武田勝頼と周辺の系譜の図

ところが武田家では、信玄の嫡男(ちゃくなん)・義信が謀反(むほん)さわぎを起こして自害、次男は盲目(もうもく)のため出家、三男は11歳で夭逝(ようせい)。正室が産んだ男子が不在になってしまいます。そこで、四男が諏訪(すわ)氏から呼び戻されますが、家中の反応は微妙でした。

信玄は家中の冷ややかな反応を見越して、武田勝頼はあくまでも期間限定、嫡孫(ちゃくそん)・信勝が成人するまでを任期とし、反発を抑えようとしたのです。


信長との決戦
長篠の戦いで大敗

(こころよ)く思われていないことを知っていた武田勝頼は、父にも劣らない器量であることを示そうと躍起(やっき)になります。少々強引ではありましたが、織田氏と徳川氏を相手に連勝を重ねました。

武田勝頼の快進撃は ”強い若殿” を印象づけ、脅威(きょうい)と呼ぶに十分でした。結果的に織田信長に警戒心を抱かせることになります。

1575年に武田勝頼が徳川領の長篠城(ながしのじょう)を包囲すると、これに対応すべく設楽原(したらがはら)に織田&徳川の連合軍が現れます。武田騎馬隊を封じる秘策を用意していた信長は、決戦を挑んできました。

そうとは知らず、武田勝頼も決戦に臨んでしまいます。

織田軍が馬よけの柵を設置しているのに気づいた武田歴戦の猛者(もさ)たちは、騎馬隊の突撃は危険だと忠告します。しかし、武田勝頼はこれを聞かずに突撃を命じました。

長篠の戦いで武田騎馬隊が敗れる様子

馬防柵(ばぼうさく)に阻まれて、武田の騎馬隊は織田徳川の陣営に突っ込めません。柵のすぐ後ろには3千もの鉄砲隊が待ち構えて、一斉射撃を浴びせてきました。そんな鉄砲の数は聞いたことがありません。こんな戦い方は見たことがありませんでした。

午前6時にはじまった長篠(ながしの)の戦いは、午後2時になる頃には武田軍の(しかばね)の山が積み上げられ、武田勝頼は大惨敗を喫しました。


武田家、滅びの
カウントダウン

長篠(ながしの)の戦いに敗れ、大幅に戦力ダウンしてしまった武田家では「大丈夫か?」という空気が(ただよ)いはじめます。そんなおり、1578年の上杉家の家督争い(御館(おたて)の乱)をきっかけに北条氏との関係が悪化。徳川氏と北条氏が同盟を結んだことで、敵国に挟まれるかっこうになりました。

1581年、徳川家康に高天神城(たかてんじんじょう)を攻められます。北条氏がいつ攻めてくるともわからず、高天神城(たかてんじんじょう)に救援を送れずに全滅させてしまいます。この出来事が「大丈夫か??」という疑念(ぎねん)を加速させました。

さらに、信長のはたらきかけで武田勝頼は正親町(おおぎまち)天皇から朝敵(ちょうてき)(逆賊)認定されてしまいます。悪いことは続くもので、1582年のはじめには48年ぶりに浅間山(あさまやま)が噴火。どーんと吹き上がる噴煙におおわれた空をみて、武田家の面々は「天が怒った…もう終わりだ」と絶望しました。

信玄の没後、武田家に起こった出来事

こうなると、武田家臣たちは沈む船から逃げるネズミのように離反します。もはや兵を揃えることも叶わなくなった武田勝頼は、(あらが)うこともできずに信長の甲州征伐で攻め滅ぼされました。信玄の死から9年後のことでした。

織田軍から逃れる途中で最期を悟った武田勝頼は、武田家に代々伝わる楯無鎧(たてなしよろい)を信勝に着せて元服の儀式を行いました。成人したら当主にする、信玄との約束を守ろうとしたのかもしれません。

武田勝頼の首と対面した織田信長は「日本にかくれなき弓取なれ共、運がつきさせ給いて、かくならせ給う物かなと御仰けり」(超訳:強かったけど運がなかった)とつぶやいたといいます。

生涯を簡単に振り返る

1546年、武田勝頼は守護大名である武田信玄の四男として生まれます。生誕地や幼名は不明。父が攻め滅ぼした母方の諏訪(すわ)氏を継ぎますが、長兄・武田義信が父とのトラブルから命を絶ったため、武田家の嫡男(ちゃくなん)になります。父・信玄は上洛(じょうらく)を目指して徳川領へ侵攻中に急死。代わって当主になりました。

父の遺志をついで西へ侵攻し、徳川家康と抗争を繰り返します。徳川氏の援軍として現れた織田信長に大敗し、その後は北条氏とも抗争状態になる苦境が続きます。家臣の離反に悩まされるうち、織田氏を旗手(きしゅ)とした甲州征伐で連合軍に本拠地・甲斐国(かいのくに)を攻められてしまいました。

最後と死因

織田軍から逃れて岩殿城(いわどの)に避難する途中、城主・小山田信茂の裏切りに気づきます。武田氏の菩提寺(ぼだいじ)がある天目山(てんもくさん)に向かいますが、甲斐国(かいのくに)・田野で織田軍に襲われ、喉と脇の下を3本の(やり)で突かれて武田勝頼は絶命しました。1582年4月3日、死因は討死または自害。37歳でした。首は京で獄門にかけられ、一条通(いちじょうどおり)(さら)されました。

領地と居城

武田勝頼の領地・勢力図(1575年)

甲斐国(かいのくに)信濃国(しなののくに)駿河国(するがのくに)上野国(こうずけのくに)遠江国(とおとうみのくに)の一部を加えた100万石ほどが武田勝頼の領地でした。相続直後は信玄から継いだ領地を拡大しました。武田氏滅亡後は、徳川氏と北条氏がこの地を奪い合いました。

武田勝頼の性格と人物像

武田勝頼は「すぐにカーッとなってしまう人」です。

父・信玄も認めた武勇に優れた武将であり、上杉謙信からも ”信長が片手間であしらえる相手ではない” と評されていました。しかしながら、典型的な猪突猛進(ちょとつもうしん)タイプで熱くなりやすく、我を忘れると部下に無茶をさせてしまいます。

勝頼の無茶を年配の家臣が度々(たびたび)たしなめますが、注意されることを嫌って老臣たちを遠ざけています。好んで側に置いたのは、嘘つきでお世辞ばかりの家来たち。人心が離れてしまうのも当然ですが、そもそも重臣たちが勝頼の出自を良く思っていなかったので無理もありません。

信玄・勝頼の武田記『甲陽軍鑑(こうようぐんかん)』は、重臣のひとりである高坂昌信が、若く血気盛んな勝頼を(いさ)めるために書き(つづ)ったといわれています。昌信は勝頼のことを ”強すぎたる大将” と称えた反面、行き過ぎた勝利を目指してしまう性格を憂慮(ゆうりょ)していました。

大将ながら一騎討ちの伝承があり、北条氏照の家老・諸岡山城守や松田憲秀の家臣・酒井忠徳と(やり)合わせしています。初陣では取っ組み合いで初首をあげました。

長篠(ながしの)の戦いで着用した甲冑が現存しており、山梨県の食事処に飾られています。この他、徳川秀忠がジェームズ1世に贈った勝頼所用の銅丸がロンドンで展示されています。自害する直前に嫡男・信勝に着せた先祖伝来の宝物である楯無鎧(たてなしよろい)小桜韋威鎧(こざくらがわおどしよろい)』は、国宝として保管されています。

能力を表すとこんな感じ

武田勝頼の能力チャート

信玄も認めていた強さが武田勝頼のストロングポイントです。やられたらやり返す行動力も見事。一方で、家臣を束ねる人望と政治力が難点でした。

信長の野望シリーズに登場する武田勝頼の能力値も参考にしています。

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武田勝頼の面白い逸話やエピソード

土佐で大崎玄蕃を名乗った生存説

高知県には、織田軍に敗れた武田勝頼が香宗我部親泰を頼って土佐に落ち延びたと伝わる『武田勝頼土佐落人(おちびと)伝説』があります。

天目山(てんもくさん)のふもとで亡くなったのは影武者で、難を逃れた勝頼は名を大崎玄蕃(げんば)と改め、1609年まで土佐で生きて、64歳の天寿をまっとうしたというものです。

鎌倉時代より、土佐国(とさのくに)では武田氏と同じ甲斐(かい)源氏の子孫が地頭(じとう)をつとめ、この頃から香宗我部(こうそかべ)を名乗りました。武田勝頼はこの縁を頼って四国に渡ったとされ、甲斐(かい)源氏を系譜とする中原秋家の土地であった高知県香美市に落ち着きます。ここで勝頼は子を授かったといい、香美市土佐山田町には末裔(まつえい)の方が存在します。

勝頼は、長宗我部元親の家臣・片岡光政に庇護(ひご)され、1587年の島津家久との戸次川(へつぎがわ)の戦いに参加。その後、大崎八幡宮(はちまんぐう)建立(こんりゅう)しました。この大崎八幡宮(はちまんぐう)には、勝頼の肖像画に描かれているのと同じ花菱(はなびし)の家紋(武田(びし)とは違う)が入った手鏡が奉納されています。

大崎玄蕃(げんば)こと武田勝頼は、高知県仁淀川(によどがわ)町の鳴玉(なるたま)神社に葬られたといい、現在も墓所が残っています。仁淀川(によどがわ)町の大崎八幡宮(はちまんぐう)では「勝頼祭」が行われるなど都市伝説の域を超えており、勝頼を模したゆるキャラも存在します。

武田勝頼の有名な戦い

三増峠の戦い みませとうげのたたかい 1569.10.8 ○ 武田軍2万 vs 北条軍2万 ●

北条氏の本拠地を攻めて、甲斐に引き揚げる武田信玄を、三増峠(神奈川県愛甲郡愛川町)で北条軍が迎撃した合戦。北条綱成の鉄砲隊の攻撃で、浅利信種が討ち死にするなど、序盤は北条有利。しかし、山県昌景の奇襲が成功すると、武田軍が勢いづき、北条軍を押し退けた。

三増峠の戦いで武田勝頼は勝っています。
北条領からの撤退戦で武田勝頼は殿(しんがり)をつとめています。馬に乗ったまま松田憲秀の家老・酒井忠徳と一騎討ちをし、数十合も打ち合いました。

三方ヶ原の戦い みかたがはらのたたかい 1573.1.21 ○ 武田軍3万 vs 織田&徳川軍1万5千 ●

西上作戦で遠江に侵攻した武田信玄と織田徳川の連合軍が三方ヶ原(静岡県浜松市北区三方原町)で激突した合戦。徳川の本拠地・浜松城をスルーして進軍した信玄の策略にかかった徳川家康が、城から出て野戦をしかけた。山県昌景の猛攻を受けて徳川軍は壊滅、敗走した。

三方ヶ原の戦いで武田勝頼は勝っています。
徳川方の本多忠勝の攻撃を受けて苦戦する山県昌景に加勢し、これを助けています。

長篠の戦い ながしののたたかい 1575.6.29 ● 武田軍1万5千 vs 織田&徳川軍3万8千 ○

長篠城(愛知県新城市)をめぐって、織田徳川連合軍と武田勝頼が争った。この合戦で織田信長は、武田騎馬隊を馬防柵によって封じ、滝川一益が率いた3,000挺からなる鉄砲隊で、絶えず銃弾を浴びせる近代戦術を使った。山県昌景が戦死した武田軍の被害は1万人とも。

長篠の戦いで武田勝頼は敗れています。
武田勝頼のターニングポイントになった戦いです。
織田信長が大量の鉄砲隊を動員し、近代的な戦法を用いた歴史的な出来事として伝えられています。勝頼はその引き立て役になってしまったばかりか、無謀な戦いを挑んだ(おろ)か者というレッテルを貼られます。

高天神城の戦い たかてんじんじょうのたたかい 1581.4.25 ○ 徳川軍5千 vs 武田軍6百 ●

高天神城(静岡県掛川市)をめぐって、武田氏と徳川氏が2回争った。武田勝頼の大軍によって、少数で守る徳川軍はあっけなく落城。その後、徳川家康が奪還に乗り出し、包囲戦で飢えさせた。岡部元信の突撃も虚しく、本多忠勝らによって武田軍は掃討された。

高天神城の戦いで武田勝頼は敗れています。
信玄も落とせなかった高天神城(たかてんじんじょう)を手に入れましたが、徳川軍に攻められた第2次合戦では、援軍を送らず城兵を全滅させてしまいます。これが武田氏の威信を大きく損ない、家臣団の内部崩壊がはじまります。

甲州征伐 こうしゅうせいばつ 1582.2.3 〜 3.11 ○ 織田&徳川&北条軍3万 vs 武田軍3千 ●

信玄亡きあと衰退する武田氏を連合軍が多方面から同時に攻めた合戦。滝川一益に追い詰められた武田勝頼は、40名ほどを伴って天目山(山梨県甲州市大和町)に逃れる途中で討死。武田家は滅亡した。浅間山の噴火で動揺した家臣団の崩壊など、武田方には不運もあった。

甲州征伐で武田勝頼は敗れています。
なす術なく逃亡を図りましたが、穴山梅雪や小山田信茂ら重臣に(あざむ)かれて詰みました。戦国最強と称された甲斐武田氏のあっけない幕切れでした。

武田勝頼の詳しい年表と出来事

武田勝頼は西暦1546年〜1582年(天文15年〜天正10年)まで生存しました。戦国時代中期から後期に活躍した武将です。

15461武田信玄の四男として生まれる。
156217武田信玄が攻め滅ぼした諏訪家を継ぐ。
信濃国・高遠城に入る。
156318初陣。上野国攻めに参加。長野家臣・藤井友忠を討ち取る。
156520武田信玄の暗殺を武田義信、飯富虎昌、長坂昌国、曽根虎盛が共謀する。長兄・義信が幽閉される。【義信事件】
織田信長の養女・遠山直廉の娘(龍勝院)と結婚。
156621上野国攻めに参加。
156722武田氏、北条氏、今川氏の甲相駿三国同盟が破綻。
長兄・義信が廃嫡される。
長兄・義信が自害。
156823今川領・駿河国攻めに参加。【第1次駿河侵攻】
156924北条領・駿河国攻めに参加。【第2次駿河侵攻】
”三増峠の戦い”北条氏との戦に参加。最後尾を担って信玄本隊を退却させる。
北条領・駿河国攻めに参加。【第3次駿河侵攻】
157025花沢城を攻める。大原資良を降伏させる。
157126正室・龍勝院が死去。
北条氏との関係が修復される。【甲相同盟の再締結】
157227織田氏との同盟が破談。
織田信長との対陣を想定した西上作戦に参加。【第2次信長包囲網】
”二俣城の戦い”徳川家康との戦に参加。力攻めを繰り返して苦戦する。
157328”三方ヶ原の戦い”徳川氏&織田氏との戦に参加。
父・武田信玄の死去により家督を相続。父・信玄の遺言により死を隠す。
長篠城主・奥平信昌が徳川氏に寝返る。
157429”明知城の戦い”織田領・美濃国に侵攻。明知城を攻め落とす。
”飯羽間城の戦い”馬場信春らの進言を無視して攻撃を継続。飯羽間城を攻め落とす。
飯羽間城を破却する。
織田領・美濃国を攻めて18城を攻略。
*徳川家康に犬居城を攻められる。天野藤秀が守り切る。
”第1次高天神城の戦い”徳川領・高天神城を攻める。小笠原長忠を降伏させる。
浜松城下に押し寄せて放火する。
157530”長篠の戦い”奥平信昌の長篠城を包囲。織田氏&徳川氏との決戦に大敗する。山県昌景、馬場信春、内藤昌豊ほか討死。騎馬隊の大半を失う。
田峰城、武節城、作手城、光明城、犬居城、二俣城を徳川氏に奪われる。
”諏訪原城の戦い”*徳川家康に諏訪原城を奪われる。高天神城への補給路が断たれる。
穴山信君(梅雪)を江尻城に配備する。
徳川家康が遠江国に侵攻してくる。小山城を包囲されるが退ける。
将軍・足利義昭の呼びかけで上杉謙信と和睦する。【甲相越三和】
”岩村城の戦い”*織田信長に岩村城を奪われる。秋山信友が処刑される。
157631将軍・足利義昭の仲介で毛利輝元と同盟。【甲芸同盟】
*徳川家康に犬居城を奪われる。
徳川領・横須賀城を攻める。大須賀康高の抗戦に遭い退く。
157732北条氏政の妹(北条夫人)と結婚。
徳川領・馬伏塚城を攻めるが退く。
157833上杉謙信が死去。上杉景勝と上杉景虎による家督争いが勃発。【御館の乱】
北条氏政から上杉景虎への援軍を要請され武田信豊を越後国に派遣。景勝と景虎を調停する。
上杉景勝と協定を結び支援する。
徳川家康に小山城を包囲される。越後国から兵を戻す。
157934上杉氏の家督争いで上杉景勝が勝利。
上杉景勝に妹(菊姫)を嫁がせる。【甲越同盟】
北条氏との同盟が破談。
佐竹義重と同盟を結ぶ。
”広木大仏合戦”北条領・武蔵国に侵攻するが、北条氏邦に敗れる。
上杉家臣・北条高広が配下になる。
北条氏政と黄瀬川で対陣。北条氏に呼応した徳川家康に持船城を奪われ武田水軍の拠点を失う。
158035”重須の戦い”*重須沖で北条氏直の水軍を迎撃する。
北条領・上野国に侵攻する。
持船城を徳川氏から奪還する。
158136新府城を築城、居城にする。
里見義頼と同盟を結ぶ。
”第2次高天神城の戦い”*徳川家康に高天神城を落とされる。救援を送らず城兵が全滅。
*伊豆国・久竜津で北条水軍を撃破。
北条領・戸倉城を攻める。北条家臣・笠原政尭を調略する。
伊豆国・三島で北条氏政と対陣する。
織田氏と和睦交渉を試みるが信長の朝廷工作で朝敵にされる。
158237木曾義昌が武田氏に叛く。
穴山梅雪が武田氏に叛く。
”甲州征伐”織田氏&徳川氏&北条氏が多方面から侵攻してくる。浅間山が噴火。小山田信茂が武田氏に叛く。天目山に逃れる途中、甲斐国・田野で討死。
戦国時代で武田勝頼が生きた期間の表

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