真田昌幸
1547.? 〜 1611.7.13

真田昌幸(武藤喜兵衛)は、現在の長野県にあたる信濃国の武将・大名です。武田家臣でしたが、主家が滅ぶと信濃国衆をまとめて独立。強国に囲まれながらも、ズル賢く立ち回り、真田の家を守ります。上田合戦で2度も徳川軍を撃退しますが、関ヶ原の戦いで敗軍に属したため、九度山に流罪となりました。享年65歳。
- 戦国三英傑(信長・秀吉・家康)くらべてみよう、ホトトギス
- 伊達政宗の名言集「この世に客に来たと思えば何の苦もなし」
- 真田幸村の名言集「関東勢百万も候へ、男は一人もなく候」
- 石田三成の名言集「大一大万大吉、一人は万民のため、万民は一人のため」
- 真田昌幸の武将タイプ
- 策士
真田昌幸は何をした人?どんな人?このページでは、真田昌幸のハイライトとなった出来事や逸話を紹介しています。あなたもきっと真田昌幸のことを誰かに話したくなります。
- 名 前:武藤喜兵衛 → 真田昌幸
- 幼 名:源五郎
- あだ名:表裏比興の者、稀代の横着者
- 官 位:安房守
- 出身地:信濃国(長野県)
- 領 地:上野国、信濃国
- 居 城:上田城
- 正 室:菊亭晴季の娘(山手殿)
- 子ども:4男 7女
- 跡継ぎ:真田信之
- 父と母:真田幸隆 / 恭雲院
表裏比興にあっちこっち寝返って真田を生き残らせた
真田昌幸は他家を利用して立ち回る名人芸で、真田の家を守ります。主家だった武田氏の滅亡後は、上杉氏、北条氏、徳川氏、豊臣氏を渡り歩いて生き残りました。そんな真田昌幸を、豊臣秀吉は『表裏比興の者』と警戒し、何度も手玉にとられた徳川家康は忌み嫌いました。
真田昌幸のハイライトは、徳川の大軍を2回もフルボッコにした「上田城のキテレツな籠城戦」でした。
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上田合戦その1
スーパーコンボ炸裂
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1585年に勃発した1回目の上田合戦は、北条氏と徳川氏のあいだで交わされた講和条件が、真田の土地であることに反発して籠城します。
鳥居元忠が率いる徳川軍を、少数の囮隊でおびき寄せ、城内に深入りしたところを、千鳥掛け(交互に並んだ柵)で足止めし、物陰から鉄砲と弓で撃ちかけました。

上田城内の罠にあわてた徳川兵が逃げると、城下に火を放ち、混乱して敗走したところを、真田信幸が攻撃しました。われ先に川を渡って逃げる徳川兵に、堰き止めておいた神川の水を大放流して、濁流で飲み込むスーパーコンボで圧勝しました。
すべてをあらかじめ計算していた真田昌幸は、城下の住民を上田城に非難させ、物陰から鉄砲を撃つ民兵としていました。
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上田合戦その2
関ヶ原に行かせない
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1600年に勃発した2回目の上田合戦の目的は、関ヶ原の戦いに向かう徳川秀忠の軍勢を足止めさせることでした。徳川本隊3万8千を上田城に集め、またも大軍を翻弄します。
真田昌幸は降参すると言いつつ、上田城を開け渡さない嫌がらせをして、秀忠を怒らせます。
ムキになって攻める秀忠に、またしても神川大放流のコンボで勝利します。大敗を喫した徳川秀忠は、関ヶ原に間に合わず、徳川本隊が遅刻する失態を家康にプレゼントしました。
この上田城は、真田昌幸が徳川氏に擦り寄っていたころ、越後の上杉景勝に備える城として、家康にお金を出させてつくった要塞でした。皮肉にも、徳川家康は自分のお金で建てた城に苦しめられたのです。
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ズルい作戦で
真田家を残す
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1600年に起こった関ヶ原の戦いは、徳川家康の東軍 vs 石田三成の西軍が争った天下分け目の決戦でした。全国の大名、諸勢力は、いずれかに属して存亡を賭けました。が、ここで真田昌幸はそんなのアリ??なズルい方法を思いつきます。
徳川家から嫁をもらっていた長男・信之は東軍に属します。真田昌幸と次男・幸村は西軍に属して、関ヶ原に臨みました。つまり、東軍か西軍のどちらが勝っても真田は負けないトリックでした。
関ヶ原のあと、長男・真田信之(信幸)の頑張りによって、信州真田氏は存続しました。一方で、次男・真田幸村の息子は1615年の大坂夏の陣で伊達政宗に預けられ、ひっそりと血脈を残して、仙台真田氏として存続しました。
生涯をざっくり振り返る
1547年、真田昌幸は信濃国に真田幸隆の三男として生まれます。はじめ武田信玄の人質でしたが、能力を見込まれて小姓になります。信濃国の武藤家に養子に出されますが、父と兄が亡くなった真田家に復帰して家督を継ぎました。信玄に陣中で意見を求められるなど、若い頃から軍略に才能を発揮しました。
信玄が没し、武田勝頼を支えますが、武田家は滅亡。真田昌幸は信濃国衆をまとめて大名になり、強国に従いながら生き残ります。関ヶ原の戦いでは上田城で徳川軍を翻弄しますが、与した西軍が敗れたため、流罪になりました。鬱病と貧困に苦しみ、1611年に紀伊国・九度山で亡くなりました。死因は病気です。64歳でした。
ずる賢くプライドを持ち続け、二度も徳川家康に煮湯を飲ませた智将でしたが、九度山に幽閉(監禁・封印)されたあと、真田昌幸が再び世に出ることはありませんでした。長男・信之に会いたいとぼやいて過ごしました。

信濃国・上田と上野国・名胡桃が真田昌幸の領地でした。徳川氏、北条氏、上杉氏の領地に隣接するこの地域を利用して上手く立ち回りました。
真田昌幸の性格と人物像
真田昌幸は「飄々として掴みどころのない人」です。
ズルくて老獪な駆け引き上手ですが、行き当たりばったりで大きな博打をします。信玄の戦略や外交術を模範としており、調略を用いて戦わずに勝つのが得意です。
武田信玄から「わしの目のごときもの」と信頼されていた昌幸は、信玄の墓所を真田領につくろうとしたことがあります。表裏比興といわれる昌幸も、信玄にだけは深い忠義と憧れを抱いていました。
根っからの策略家で、幽閉された九度山でも、ふたたび徳川氏を倒す作戦を立てていました。もう一度、徳川氏と豊臣氏の決戦が起こることを予見して、次男・幸村に策を伝えました。
囲碁が趣味です。上田合戦のときも徳川軍が押し寄せるなか、囲碁をしていたといいます。
銅丸にハシゴを模した甲冑『皺革包昇梯子文仏二枚胴具足』を愛用しており、真田六文銭があしらわれたものなど、実際に身につけていた鎧が現存しています。筆まめで、長男・信之に宛てた手紙も多く残っています。
能力を表すとこんな感じ

寡兵&民兵でゲリラ戦を制する智略と統率力が真田昌幸の恐ろしいところです。領民には優しく寄り添った民政を行う良い領主でもありました。
真田昌幸の逸話やエピソード
死後も家康を震えあがらせた徳川キラー
ちいさな真田をやっつけようと思ったら、えげつない策略で負ける屈辱を2回も味わった徳川家康は、真田昌幸のことを『稀代の横着者』(超訳:ずるい奴)と嫌いました。そんな昌幸も、関ヶ原で西軍に与して徳川氏の邪魔をした罪で、九度山に封印されます。
それから14年経ち、豊臣氏との決戦を前にした家康陣営に、真田が九度山を抜け出して大坂城に入ったという情報が届きます。これを聞いた徳川家康は取り乱します。
家康「どっちの真田だ!?親か?子のほうか?」
家来「子(幸村)のほうです。親(昌幸)は4年前に死んだじゃないですか」
家康「ああ、そうか…よかった
大御所と呼ばれた徳川家康のトラウマだった真田昌幸は、このときすでに亡くなっており、大坂城に入ったのが昌幸ではないことを知ると、家康は胸をなでおろしたといいます。
しかし、大坂城に入った真田幸村によって、このあと家康は人生最大の恐怖を味わうことになります。
真田昌幸の有名な戦い
北条氏の本拠地を攻めて、甲斐に引き揚げる武田信玄を、三増峠(神奈川県愛甲郡愛川町)で北条軍が迎撃した合戦。北条綱成の鉄砲隊の攻撃で、浅利信種が討ち死にするなど、序盤は北条有利。しかし、山県昌景の奇襲が成功すると、武田軍が勢いづき、北条軍を押し退けた。
三増峠の戦いで真田昌幸は勝っています。
武田四天王のひとり馬場信春の補佐を務めて、一番槍の働きをしました。
徳川軍によって2回行われた真田征伐の合戦。真田昌幸が設計・築城した上田城(長野県上田市二の丸)で大打撃を与え、敗走させたところを真田信幸の別働隊が追撃。数で劣る真田軍が、鳥居元忠が率いた徳川軍に圧勝した。関ヶ原の戦いおりには、徳川秀忠を翻弄している。
上田合戦で真田昌幸は勝っています。
真田昌幸のターニングポイントになった戦いです。
見事な策略で徳川軍を二度も撃退し、特大のインパクトを放ちました。完全勝利をおさめた第1次につづいて、第2次上田合戦では、関ヶ原に向かう徳川本隊の足止めに成功しますが、皮肉にも勝利したことで流罪が言い渡されました。
小田原征伐の前哨戦のひとつ。北条氏の八王子城(東京都八王子市)を前田利家を総大将とした豊臣軍5万が攻撃した合戦。籠城していたのは主に領民、女、子どもであったが、豊臣秀吉から「見せしめにせよ」の命令により、真田昌幸の指揮下で容赦のない殲滅戦が行われた。
八王子城の戦いで真田昌幸は勝っています。
得意の策略を駆使して、わずか4時間ほどで八王子城を落としますが、将兵ではない者を多く手にかけた後味の悪い戦いになりました。
真田昌幸の詳しい年表
真田昌幸は西暦1547年〜1611年(天文16年〜慶長16年)まで生存しました。戦国時代中期から後期に活躍した武将です。
1547 | 1 | 真田幸隆の三男として信濃国に生まれる。幼名:源五郎 |
1553 | 7 | 武田氏の人質になる。 武田晴信(信玄)の奥近習になる。 |
1561 | 15 | ”第4次川中島の戦い”上杉政虎(謙信)との戦に参加。 |
1564 | 18 | 菊亭晴季の娘(山手殿)と結婚。 |
? | ? | 武田家の親戚衆・武藤信堯の養子になる。 |
1569 | 23 | 北条領・小田原城攻めに参加。 ”三増峠の戦い”北条氏照、藤田(北条)氏邦との戦に参加。一番槍の手柄をあげる。 |
1570 | 24 | 北条領・伊豆国攻めに参加。 |
1572 | 26 | 徳川領・遠江国攻めに参加。 |
1573 | 27 | ”三方ヶ原の戦い”徳川家康との戦に参加。徳川領・浜松城の総攻撃に反対する。 主君・武田信玄が死去。次代・武田勝頼に仕える。 |
1574 | 28 | 父・真田幸隆が死去。長兄・真田信綱が家督を相続。 |
1575 | 29 | ”長篠の戦い”織田氏&徳川氏の連合軍との戦に参加。長兄・信綱と次兄・信輝が討死。 兄の死に伴って武藤から復姓して家督を相続。武藤領を返還して真田領を継承する。 |
1579 | 33 | *叔父・矢沢頼綱に北条領・沼田城を攻めさせる。藤田氏邦との交戦を避けて撤退させる。 名胡桃城の鈴木重則、小川城の小川可遊斎を調略して両城を手に入れる。 |
1580 | 34 | 北条領・沼田城を攻める。金子泰清、藤田信吉が開城降伏。 猿ヶ京城を陥落させる。 |
1581 | 35 | 沼田城の奪還を狙う沼田景義を謀殺する。 |
1582 | 36 | 主君・武田勝頼が織田信長に敗れる。武田家滅亡 織田信長から旧・武田領を与えられた織田家臣・滝川一益に従う。次男・源二郎(真田幸村)を人質として預ける。 織田信長が死亡。【本能寺の変】 武田旧臣たちが織田氏に叛く。 旧・武田領が空白地になり、徳川氏、上杉氏、北条氏が奪い合う。【天正壬午の乱】 信濃国の武田旧臣たちをまとめる。 北条氏直に上野国を攻められて失脚する滝川一益を信濃国・諏訪まで護送する。 上野国・沼田城、岩櫃城に叔父・矢沢頼綱と長男・信幸を入れる。 上杉景勝に従属したのち北条氏直に従属するが、続いて徳川家康に従属して碓氷峠の占拠に協力する。 藤田氏邦に沼田城を攻められるが、退ける。 |
1583 | 37 | 徳川家康の命令で信濃国・上田城を築城。上杉景勝に備える。 根津昌綱の根津城を攻めるが、敗れる。 |
1584 | 38 | 信濃国衆・室賀正武を謀殺、屋代秀正と室賀満俊を調略して徳川氏に従わせる。 信濃国・小県、吾妻を掌握する。 |
1585 | 39 | 徳川家康に上野国・沼田の譲渡を要求されるが拒否する。 徳川氏から離反、上杉景勝に従属する。次男・幸村を人質として預ける。 信濃国衆・根津昌綱を従える。 ”第1次上田合戦”徳川家康の真田討伐軍が襲来する。鳥居元忠、大久保忠世らを撃退する。 *藤田氏邦が沼田城に攻めてくるが叔父・矢沢頼綱が撃退する。 羽柴(豊臣)秀吉の配下になる。次男・幸村を人質として預ける。 |
1586 | 40 | *北条氏直が沼田城に攻めてくるが叔父・矢沢頼綱が撃退する。 徳川家康が再び真田征伐軍を送るが、豊臣秀吉の仲裁で和睦する。 豊臣秀吉の命令で徳川家康の与力になる。 |
1587 | 41 | 豊臣秀吉が関東と奥羽地方の大名に領土紛争を禁止する。【惣無事令】 徳川家康の養女で本多忠勝の実娘を長男・信幸の嫁にもらう。 大坂城で豊臣秀吉に会う。 |
1589 | 43 | 惣無事令に違反した北条氏に名胡桃城を奪われる。城代・鈴木重則は自害。 |
1590 | 44 | ”小田原征伐”北条氏の討伐戦に参加。前田利家の指揮下で北条領を攻める。 ”碓氷峠の戦い”前田利家の指揮下で大道寺政繁との戦に参加。先陣を任される。大道寺政繁が松井田城から孫を避難させるのを見逃す。 前田利家の指揮下で北条領・武蔵国攻めに参加。 ”八王子城の戦い”前田利家の指揮下で八王子城攻めに参加。作戦を指揮して八王子城を陥落させる。 ”忍城の戦い”石田三成の指揮下で成田長親との戦に参加。 豊臣秀吉が小田原城を開城降伏させる。北条家滅亡 豊臣秀吉の天下統一が成る。 |
1592 | 46 | 朝鮮出兵に備えて長男・信幸、次男・幸村と肥前国・名護屋城で待機する。【文禄の役】 |
1598 | 52 | 主君・豊臣秀吉が死去。 |
1600 | 54 | 石田三成が徳川家康に対して挙兵する。真田昌幸・幸村父子は石田三成に加勢。真田信之は徳川家康に加勢。【犬伏の別れ】 ”第2次上田合戦”徳川本隊を率いる徳川秀忠を翻弄する。上田城に篭って関ヶ原に向かう徳川軍を足止めさせる。 関ヶ原の戦いで石田三成の西軍が敗れたため、次男・幸村とともに九度山に流罪となる。 |
1611 | 65 | 紀伊国・九度山で病死。 |

- 真田昌幸 – Wikipedia
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