とくがわ ひでただ

徳川秀忠

1579.5.2 〜 1632.3.14

 
徳川秀忠の面白いイラスト
  

徳川秀忠は、現在の静岡県にあたる遠江国の武将・大名です。徳川家康の三男として生まれ、不遇に見舞われた兄たちに代わって徳川2代将軍を継ぎます。父を大御所とした二頭政治を行い、武家諸法度を公布。後水尾天皇に娘を輿入れさせるなど朝廷にも権勢を振るい、徳川を治世の頂点に立たせました。享年54。

徳川秀忠は何をした人?このページは、徳川秀忠のハイライトになった出来事をなるべく正しく、独特の表現で紹介しています。きっと徳川秀忠が好きになる「偉大な父を継ぐ2代将軍が徳川を治世の頂点に立たせた」ハナシをお楽しみください。

  • 名 前:徳川秀忠
  • 幼 名:竹千代
  • 官 位:従五位下、侍従、蔵人頭、正五位下、武蔵守、従四位上、正四位下、右近衛少将、参議、右近衛中将、従三位、権中納言、権大納言、従二位、右近衞大将、正二位、内大臣、征夷大将軍、従一位、右大臣、太政大臣、贈正一位
  • 幕 府:江戸幕府・第2代征夷大将軍
  • 出身地:遠江国(静岡県)
  • 領 地:日本全国
  • 居 城:江戸城
  • 正 室:小姫(豊臣秀吉の養女)、江(豊臣秀吉の養女)
  • 子ども:4男 5女 13養
  • 跡継ぎ:徳川家光
  • 父と母:徳川家康 / 西郷局
  • 養 母:阿茶局
  • 大 名:徳川氏2代当主

偉大な父を継ぐ2代将軍が徳川を治世の頂点に立たせた

徳川秀忠は徳川家康の三男で、父のあとを()いだ江戸幕府2代将軍です。

260年以上も続き、15代将軍まで江戸幕府を存続させた徳川氏。その開祖は徳川家康ですが、これほど長く徳川氏の治世を可能にする(いしずえ)を築いたのは、2代目・徳川秀忠でした。

家康イズムを引き()ぎつつ、より強固な支配体制を構築し、江戸幕府=徳川家を絶対的な頂点とする日本をつくりました。

1603年に征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に就任した父・徳川家康は、わずか2年後の1605年に徳川秀忠に将軍をゆずります。

これには「これからも徳川が将軍家ですよ」という世襲(せしゅう)をアピールする意味がありました。

徳川家康から秀忠に将軍が代わる

ここからおよそ10年間、大御所(おおごしょ)となった父との二頭体制で江戸幕府を切り盛りしていきますが、大半が父の意向に従うものでした。

1616年に父・家康が亡くなると、大御所(おおごしょ)のスピーカー将軍だった徳川秀忠は豹変(ひょうへん)します。

ここから徳川秀忠の無慈悲(むじひ)な江戸幕府がはじまるのでした。


武家諸法度を
フルターボで活用

豊臣氏を(ほろ)ぼし、徳川一強になった1615年に『武家諸法度(ぶけしょはっと)』が発布されます。

これは江戸幕府が諸大名を統制するために制定したルールでした。簡単にいえば、徳川以外のちからを(おさ)えつけるための法律です。

武家諸法度(ぶけしょはっと)(おおむ)ね徳川家康が決めたものでしたが、すでに将軍を()いでいた2代将軍・徳川秀忠の名前で13か条の条文が全国の大名を対象として公布されました。

【武家諸法度】1615年に江戸幕府が公布した条文

この武家諸法度(ぶけしょはっと)により、大名たちはさまざまな制限を課されます。

例えば「居城以外の城を持ってはいけない。新築はNG。修築も江戸幕府の許可がないとダメ」といったもの。大名同士の結婚(けっこん)には幕府の許可が必要です。身分以上に着飾(きかざ)ることもアウト。

武家諸法度(ぶけしょはっと)というワイルドカードを使って、関ヶ原の戦い以降に家来になった外様(とざま)大名や、家中でも父の支持層であった家康派などを次々と改易(領地や立場を取り上げる)します。

ちょっとした違反(いはん)はもちろん、気に入らないといったレベルのものまで容赦(ようしゃ)なく(ばっ)しました。

例えば、自分の意図にそぐわない弟の松平忠輝を改易。広島城の雨漏(あまも)りを直した福島正則を改易。お家騒動(そうどう)を解決できなかった最上義俊を改易)最上の改易)に意見した本多正純を改易)

改易、改易、改易……!

徳川秀忠は在任中に外様(とざま)大名23家、親藩(しんぱん)譜代(ふだい)16家を処罰(しょばつ)し、反乱の芽をぶちぶち引っこ()きました。

同時に、すでに仕組みとして機能していた『参勤交代』と領地()えを駆使(くし)して、諸大名が国力を増強できないようにしました。

このようにして「将軍様や幕府が決めたルールは絶対」という強い姿勢を見せることで全員をヒリつかせ、すべての武家を抑圧(よくあつ)したのです。


禁中並公家諸法度と
和子のロイヤル婚

1615年に武家諸法度(ぶけしょはっと)とあわせて『禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)』を発布します。

こちらも徳川秀忠の名前で公布された17か条からなる条文で、禁中(天皇および朝廷(ちょうてい))と公家に向けたルールブックです。

これより以前、1609年に多くの女官が流刑(るけい)になった『猪熊(いのくま)事件』が起こります。朝廷内(ちょうていない)痴情(ちじょう)がもつれまくった大スキャンダルで、事態の収拾に江戸幕府も介入(かいにゅう)しました。

この事件をきっかけに、幕府が朝廷(ちょうてい)を律する必要性を感じたため禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)が制定されました。

【禁中並公家諸法度】1615年に江戸幕府が公布した条文

これまで治世の序列は天皇が頂点とされ、征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)とは朝廷(ちょうてい)から任命された役職にすぎませんでした。幕府が朝廷(ちょうてい)を律するということは、将軍が天皇を(しの)ぐ立場であると宣言したのと同じことなのです。

この禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)は、幕府と朝廷(ちょうてい)の関係を悪くしましたが、朝廷(ちょうてい)の行動を制限するには好都合でした。

これに加えて、徳川秀忠は五女・和子(まさこ)後水尾(ごみずのお)天皇に(とつ)がせて皇室の身内に仲間入りを画策します。

将軍家の魂胆(こんたん)を快く思わない後水尾(ごみずのお)天皇が女官に生ませた子を宮中で内密に育てていましたが、徳川秀忠は暴力的な圧力をかけて和子(まさこ)入内(じゅだい)させます。

後水尾(ごみずのお)天皇を恫喝(どうかつ)&女官を宮中から追放して和子(まさこ)をねじこんだ『およつ御寮人(ごりょうにん)事件』によって、徳川秀忠の朝廷(ちょうてい)での影響力(えいきょうりょく)はフルボリュームになりました。

こうして、将軍家は朝廷(ちょうてい)を支配するに至ります。


二港制限令と禁教令
そして鎖国へ

1639年からおよそ200年間つづく徳川幕府の鎖国(さこく)は、徳川秀忠がその発端(ほったん)となっています。

1616年に『二港制限令』によって、江戸幕府は(みん)国と朝鮮(ちょうせん)国を除くすべての船の入港を長崎と平戸に限定します。これには、ポルトガルやスペインなどヨーロッパの船を制限するねらいがありました。

というのも、江戸幕府はキリスト教の布教を目的とした外国人の往来を止めたかったのです。江戸幕府は、異教を信仰(しんこう)するキリシタンの統制に(なや)まされていました。

1619年、徳川秀忠は改めて『キリシタン禁制』を号令。幕府は、キリシタンを大勢処刑(しょけい)する強硬(きょうこう)な姿勢を示します。

しかし、この幕府の動きはかえってキリシタンや宣教師を刺激(しげき)してしまい、より強固な入国制限が必要になったため、鎖国(さこく)政策に()み切ったのでした。

* * * * *

このあと、徳川秀忠の次男・徳川家光が3代将軍となり、江戸幕府による支配はさらに強固なものになります。徳川家による治世は、1867年に15代将軍・徳川慶喜が大政奉還(たいせいほうかん)(政権を朝廷(ちょうてい)に返上)するまで続きました。

生涯を簡単に振り返る

生まれと出自

1579年、徳川秀忠は遠江国(とおとうみのくに)・浜松城に徳川家康の三男として生まれます。関ヶ原の戦いに勝利して江戸幕府をひらいた父・家康を()いで2代将軍になります。本多正信らの補佐を受けて幕府を統治し、後見をする父が大御所(おおごしょ)となって外様(とざま)大名との交渉(こうしょう)()け負い、2人を最高権力者とした二頭政治を行いました。

絶対的な将軍として

豊臣家を(ほろ)ぼした後、武家諸法度(ぶけしょはっと)を公布して諸大名の統制を徹底(てってい)します。父の死後はより厳しいルールのもとで外様(とざま)大名の統制に努めました。紆余曲折(うよきょくせつ)を経て(むすめ)和子(まさこ)後水尾天皇(ごみずのおてんのう)輿入(こしい)れさせて朝廷(ちょうてい)との関わりを深め、次第に支配を強めて管理下に置きます。その後は3代将軍・家光を後見する大御所(おおごしょ)として君臨しました。

最後と死因

紫衣事件(しえじけん)など、公家や寺社から強い反発もありましたが、孫・興子が天皇に即位(そくい)したことで朝廷(ちょうてい)との(いさか)いは落ち着きます。晩年は体調を(くず)すようになり、徳川秀忠は武蔵国(むさしのくに)・江戸城で亡くなりました。1632年3月14日、死因は胃がん、消化器系のがん。54歳でした。

領地と居城

徳川秀忠の領地・勢力図(1616年)

父・家康から()いで日本全国を統治しました。全国石高は2200万石ほどのうち、天領240万石が徳川秀忠の領地でした。外様(とざま)大名を改易(かいえき)して天領を徐々(じょじょ)に増やしました。

徳川秀忠の性格と人物像

徳川秀忠は「かくれ強メンタルな人」です。

温厚な人物と知られています。素直で大人しい性格かと思いきや、そうでもなく、ポーカーフェイスでとんでもないカードをきってくるので厄介(やっかい)です。

現実主義の慎重派(しんちょうは)であるがゆえ、他者を(ふう)じることに余念がなく、周囲からの苦言にも考えを改めない頑固(がんこ)なタイプです。

とはいえ、血の気が多い兄弟たちと比べて分別があり、言いつけを守る真面目さと冷静さを持ち合わせていました。父・家康も、争いが終わったあたらしい世のリーダーとして秀忠がふさわしいと考えていたようです。

物静かですが(きも)()わっており、弟と能を楽しんでいたところに強い地震(じしん)が起こった際も、あわてる周囲に「()れは強いが(かべ)や屋根が(こわ)れるほどではないから動かない方が安全」と声をかけて落ち着かせたといいます。儒学(じゅがく)の授業中に牛が乱入してきたときも秀忠だけは平然としていました。

ちょっとしたルール違反(いはん)見逃(みのが)さず、厳罰(げんばつ)に処します。

三島神社の池で(うなぎ)()ってはいけないという神仏の教えに背いた者を「神罰(しんばつ)(おそ)れぬ者は国法も軽んじる」として(はりつけ)にしています。

身長158cm、筋肉質で毛むくじゃら。よく鍛錬(たんれん)されたマッチョマンです。血液型はO型。ケチで知られる父をも上回る倹約家(けんやくか)です。側室はいませんが、丹羽長重など男の恋人(こいびと)がいました。

初陣(ういじん)の上田合戦で秀忠が着用したとされる『浅葱色威葵紋総金具鎧(あさぎいろおどしあおいもんそうかなぐよろい)』が現存しています。日光東照宮の廻転灯籠(かいてんとうろう)に採用されているものと同じ逆さ葵紋(あおいもん)が前立てになっています。

空襲(くうしゅう)で焼けた墓所を修復する際に秀忠の遺体が()り返されています。座った姿で埋葬(まいそう)されており、上からの重みで縦につぶれて(たた)んだ提灯(ちょうちん)のようになっていたといいます。

能力を表すとこんな感じ

徳川秀忠の能力チャート

向こう200年以上も江戸幕府を磐石(ばんじゃく)にする基盤(きばん)を築いた徳川秀忠の政治力は見事です。(いくさ)はからっきしですが、反乱の起こしようがない世をつくりました。

能力チャートは『信長の野望』シリーズに登場する徳川秀忠の能力値を参考にしています。東大教授が戦国武将の能力を数値化した『戦国武将の解剖図鑑』もおすすめです。

徳川秀忠の面白い逸話やエピソード

関ヶ原の戦いに大遅刻してしまう

1600年の関ヶ原の戦いのおり、秀忠は徳川本隊3万8千を率いて信濃(しなの)・上田城を()め落としに向かいました。

上田城には3千ほどの兵しかおらず、城主・真田昌幸は秀忠に降伏(こうふく)するといいます。昌幸が「城を掃除(そうじ)して明け(わた)すので明日まで待って」というので、秀忠は待ちました。

翌日、真田昌幸は「戦う支度ができた。かかって来い」と態度を変えます。(おこ)った秀忠は上田城を()めるものの、いくさ上手の昌幸に翻弄(ほんろう)され、3日()めても上田城は落ちません。

予想外に手こずり、痛恨(つうこん)のタイムロス。

そろそろ関ヶ原に向かわねばならず、上田城()めをあきらめて移動します。ところが、秀忠が到着(とうちゃく)する前に関ヶ原の戦いが終わってしまいました。

父・徳川家康に合流したのは、関ヶ原の戦いが終わった5日後。

上田城も落とせず、大事な決戦に大遅刻(だいちこく)した秀忠は父に会ってももらえず、榊原康政の取りなしで許してもらいました。

1614年の大坂冬の(じん)では、このときの失態を挽回(ばんかい)しようと高速で()けに()けて、大坂に着いたものの兵がヘトヘトで戦えず、またしても家康から大目玉をくってしまうポンコツぶりでした。

妻である江に頭があがらない

2代将軍・徳川秀忠の正室は5歳上の姉さん女房(にょうぼう)(ごう)浅井長政(むすめ)で浅井三姉妹の末っ子。プライドが高く、(おこ)ると(こわ)(おく)さんでした。

将軍ちかくで働く女中さんが秀忠の子を出産したことがあり、秀忠は(ごう)からこっぴどく(しか)られました。

将軍様なのだから側室の1人や2人いるんじゃないの?とも思いますが、将軍様といえども奥様(おくさま)の許可なく側室を持つのはルール違反(いはん)でした。律儀(りちぎ)な秀忠はこれを守って、(ごう)の許しなく側室を持とうとせず、この女中も側室にはしませんでした。

これより数年後、今度は(しずか)という女中さんが秀忠の子を産みます。もはや(こわ)くて(ごう)の顔を見ることもできません。秀忠はこの子を養子に出し、女中ともども関わりを断ちました。

保科家に養子に出した秀忠の子は、やがて保科正之と名乗ります。この正之が、4代将軍・徳川家綱の大政参与(さんよ)として活躍(かつやく)し、会津(あいづ)松平氏の開祖となるのでした。

家臣に優しいとこもある

ある日、鷹狩(たかが)りに出かけた秀忠が片側が(がけ)に面した山間の(せま)い道を通ります。先導していた家来が慎重(しんちょう)になるあまり、秀忠を(がけ)とは反対側の上り斜面(しゃめん)に寄せすぎてしまい、秀忠は落馬してしまいます。

「上様、落馬!」

周囲がざわつくなか、将軍様を馬から落とす無礼をはたらいてしまった家来は顔面蒼白(そうはく)になります。

家来が打首を覚悟(かくご)した次の瞬間(しゅんかん)、秀忠は「おまえは私を気づかって案内してくれていた。痛いとこもないし、大丈夫(だいじょうぶ)」と笑いながら起き上がりました。

着物についた土をはらってくれと命じ、今後も自分に仕えるよう(たの)んだといいます。

徳川秀忠の有名な戦い

大坂冬の陣 おおさかふゆのじん 1614.12.19 〜 1615.1.19 △ 徳川幕府軍20万 vs 豊臣軍9万 △

方広寺鐘銘事件を発端に、徳川氏と豊臣氏がついに衝突。徳川家康は20万の大軍で大坂城(大阪府大阪市中央区)に迫った。豊臣秀頼は牢人を集めて籠城。真田幸村が考案した真田丸で徳川勢を撃退した。しかし、徳川軍の大砲の威力を前に、豊臣氏は和睦を申しでた。

大坂冬の(じん)で徳川秀忠は引き分けています。

江戸城を出立して行軍を急ぎ、父から「スピードが早すぎる。落とせ」と注意を受けますが、かまわず進んでしまい、疲労(ひろう)で戦えませんでした。また、和睦(わぼく)を考える父に総攻撃(そうこうげき)を提案して「敵を(あなど)るな」とたしなめられています。

大坂夏の陣 おおさかなつのじん 1615.5.23 〜 6.4 ○ 徳川幕府軍16万5千 vs 豊臣軍5万5千 ●

大坂冬の陣から半年後、徳川家康による豊臣氏の殲滅戦。大坂城付近(大阪府藤井寺市、阿倍野区など)で激しい局地戦が行われた。毛利勝永が奮闘し、徳川本陣に真田幸村が決死の突撃をしたが、数で勝る徳川軍が押し切った。大坂城は落城。豊臣秀頼は出陣の機会なく自害した。

大坂夏の(じん)で徳川秀忠は勝っています。

徳川秀忠のターニングポイントになった戦いです。
陥落(かんらく)する大坂城から長女・千姫(せんひめ)が救出されます。千姫(せんひめ)の夫・豊臣秀頼とその母・淀殿よどどのの助命に際し、父から判断を任されますが、これを容認せず切腹を命じました。厳しい判断を下して、豊臣氏を(ほろ)ぼしました。

徳川秀忠の詳しい年表と出来事

徳川秀忠は西暦(せいれき)1579年〜1632年(天正(てんしょう)7年〜寛永(かんえい)9年)まで生存しました。戦国時代後期に活躍(かつやく)した武将です。

15791徳川家康の三男として遠江国に生まれる。幼名:長松 → 竹千代
長兄・松平信康が謀反の疑いで切腹。
15846次兄・於義丸が羽柴(豊臣)秀吉の養子になる。
15879侍従に就任。
159012人質として豊臣秀吉のもとに上洛。
元服 → 徳川秀忠
豊臣秀吉の養女・織田信雄の娘(小姫)と結婚。
豊臣秀吉の許可を得て帰国。
159113義父・織田信雄が改易される。小姫と離縁する。※小姫が早逝した説あり
右近衞権少将に就任。
右近衞権中将に就任。
159214朝鮮出兵に備えて肥前国・名護屋城に入った父・家康に代わって領国統治を行う。
権中納言に就任。
159416権中納言を辞任。
159517豊臣秀吉の養女・浅井長政の娘(江)と結婚。
160022”第2次上田合戦”初陣。真田昌幸・幸村父子が篭る上田城を攻める。苦戦し足止めされて関ヶ原に遅刻する。
160123権大納言に就任。
160325父・徳川家康が征夷大将軍になる。【江戸幕府の成立】
右近衛大将に就任。
豊臣秀頼に長女(千)を嫁がせる。
160527江戸城の築城を開始する。【天下普請】
内大臣に就任。
父・徳川家康の隠居により家督を相続。征夷大将軍に就任。父・家康が後見する。
直轄領の軍事力拡大を推進する。
160729江戸城の天守が完成。
父・家康が駿河国・駿府城に移る。
160931猪熊教利ら公家と朝廷の高官による乱行が発覚し後陽成天皇が激怒する。公家衆を処断する。【猪熊事件】
西国大名に対して500石積み以上の船の所有を禁止する。【大船建造の禁】
161133三河国田原で大規模な巻狩を行う。
161234江戸幕府の天領においてキリスト教の布教および信仰を禁止する。【禁教令】
161335キリスト教を神道、儒教、仏教の敵とみなす。【伴天連追放之文】
161436”大坂冬の陣”豊臣氏の討伐に向かう。和睦後、大坂城の堀を埋める現場監督を務める。
161537”大坂夏の陣”再び豊臣氏の討伐に向かう。岡山口に本陣を置く。大坂城陥落のおり、豊臣秀頼ならびに淀殿の助命を許さず切腹を命じる。豊臣家滅亡
江戸幕府が天皇および公家に対する関係を確立する法令を制定。【禁中並公家諸法度】
諸大名統制のための法令を制定。【武家諸法度・一国一城令】
161638父・徳川家康が死去。
本多正純、南光坊天海、林羅山ら父・家康の直臣を江戸幕府に編入する。
三弟・松平忠輝を改易。伊勢国・朝熊に流罪とする。
軍役改定を布告。
ヨーロッパ船の入港を長崎と平戸に制限する。【二港制限令】
161739諸大名と寺社に対し所領安堵を通達する。
上洛し朝廷、寺社、西国大名との外交を自身が行うことを示す。
161840肥後国・熊本藩で起こったお家騒動を裁く。【牛方馬方騒動】
161941五女・和子が入内を予定していた後水尾天皇と女官の間に男子が生まれる。これを問題とし追求、公家6人を処罰する。藤堂高虎が後水尾天皇を恫喝。女官を追放する。【およつ御寮人事件】
福島正則を改易。
改めて禁教令を出す。京でキリシタン52名を処刑。【京都の大殉教】
162042後水尾天皇に五女・和子を嫁がせる。
幕府の朱印船に紛れた宣教師が密入国を企てる。イギリス船、オランダ船によって企てを未然に防ぐ。キリシタンに不信感が強まる。【平山常陳事件】
162244諸大名の妻子を江戸に住まわせることを命じる。
出羽国・山形藩でお家騒動が起こる。最上義俊を改易。【最上騒動】
本多正純を改易。
長崎でキリシタン55名を処刑。【元和の大殉教】
162345松平忠直に隠居を命じる。
征夷大将軍を辞任。
次男・徳川家光に家督を譲る。徳川家光が征夷大将軍になる。大御所として後見する。
江戸城西の丸に移る。
162749朝廷から高僧に与える紫衣の授与を幕府が規制する。これを無視した後水尾天皇の禁中並公家諸法度違反を弾劾する。朝廷と寺社から反発を受ける。【紫衣事件】
163052後水尾天皇が幕府に相談なく興子内親王(明正天皇)に譲位する。孫・興子の天皇即位により外戚になる。
163153松平忠長に蟄居を命じる。
体調を崩す。
163254紫衣事件で流罪となった者に大赦免を出して許す。
武蔵国・江戸城で病死。
戦国時代で徳川秀忠が生きた期間の表
徳川秀忠の顔イラスト
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