徳川家康
1543.1.31 〜 1616.6.1

徳川家康(松平元康)は、現在の愛知県東部にあたる三河国の武将・大名です。今川氏の人質から独立すると織田信長とともに天下統一を目指し、信長の死後は豊臣秀吉のもとで国家運営に携わります。秀吉の死後、征夷大将軍に就任して江戸幕府を開き、泰平の世が260年つづく江戸時代の開祖となりました。享年74。
- 徳川家康の武将タイプ
- 英雄
徳川家康は何をした人?このページは、徳川家康のハイライトになった出来事をなるべく正しく、独特の表現で紹介しています。きっと徳川家康が好きになる「征夷大将軍になって260年つづく江戸幕府をひらいた」ハナシをお楽しみください。
- 名 前:松平元信 → 松平元康 → 松平家康 → 徳川家康
- 幼 名:竹千代
- あだ名:狸親父
- 官 位:蔵人佐、従五位下、三河守、左京大夫、従五位上、従四位下、右近衛権少将、従四位上、正四位下、左近衛権中将、従三位、参議、権中納言、正三位、従二位、権大納言、左近衛大将、左馬寮御監、正二位、内大臣、従一位、右大臣、征夷大将軍、太政大臣、源氏長者、贈正一位
- 幕 府:江戸幕府・初代征夷大将軍
- 戦 績:74戦 52勝 10敗 12分
- 出身地:三河国(愛知県)
- 領 地:日本全国
- 居 城:岡崎城 → 浜松城 → 駿府城 → 江戸城 → 駿府城
- 正 室:築山殿(関口親永の娘)、朝日姫(豊臣秀吉の妹)
- 子ども:11男 5女 25養 1猶
- 跡継ぎ:徳川秀忠
- 父と母:松平広忠 / 於大の方
- 大 名:今川義元 → 徳川氏初代当主=独立
征夷大将軍になって260年つづく江戸幕府をひらいた
織田信長や豊臣秀吉といった戦国時代の英雄と比べると、地味な感じがする徳川家康。しかし、江戸幕府をひらいて戦乱の時代に終止符を打ったのは、信長でも秀吉でもなく、徳川家康です。
信長や秀吉とも密接な関係にあった徳川家康は、まさしく戦国時代を生き抜いた最後の勝者と言えます。
このような狂歌があります。
”織田がつき 羽柴(豊臣)がこねし天下餅 座りしままに食うは徳川”

もちろん座っていただけで天下餅をご馳走になったわけではありません。
織田信長との不平等な同盟では、酷使されたうえに妻と嫡男の死を命じられ、豊臣秀吉の政権下では沼地(江戸)への引っ越しを強要されるなど、つらい境遇を耐え抜いたのです。
信長と秀吉。先人たちの政権は、いずれも長続きしませんでした。
信長には人望がともなわず、秀吉には政権が続くプランがありませんでした。どちらのケースも個人のカリスマ性によるところが大きかったのです。
これらの失敗を近くで見ていた徳川家康は、長く続く政権のかたちをつくります。
信長が1582年の本能寺の変に倒れ、その後に天下を取った秀吉が1598年に没すると、ついに天下餅が徳川家康のもとに転がってきました。
2人の英雄が退場したとき、アラカン(還暦手前)徳川家康は、天下取りに乗り出します。
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家康しか勝たん!
関ヶ原決戦
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豊臣秀吉が亡くなった2年後、1600年に関ヶ原の戦いが勃発します。
この関ケ原の戦いとは、秀吉亡き後の豊臣家で起こった内紛であり、まさに徳川家康が仕掛けた天下への第一歩でした。
このときの徳川家康は ”まだ” 豊臣家の家臣です。ところが、秀吉が生前に決めたルールを無視して、伊達政宗などの有力な大名と子ども同士を結婚させ、”家康さんを囲む会” を結成します。
ちゃっかり家康派閥を増やすうごきは、秀吉のルールを守る石田三成や上杉景勝から叱られますが、徳川家康はしらばっくれます。
徳川家康は武断派を味方につけて、石田三成のことを嫌う加藤清正ら武断派を三成と対立させ、豊臣家で仲間割れを誘いました。
文句を言ってきた上杉景勝に言いがかりをつけて、上杉氏の会津征伐に向かいました。

すると、徳川家康の背後を突くように、京で石田三成が徳川打倒の挙兵をしました。
じつは、これが徳川家康のねらいだったのです。
三成の挙兵を待つように会津までゆっくり進んでいた徳川軍は、方向を変えて西に向かいました。

一連の動きによって、三成を豊臣家で内乱を起こす反逆者に仕立て上げ、秀吉恩顧の家臣たちの賛同を得て、反徳川派を関ヶ原でまとめてやっつけました。
徳川家康に味方した勢力を「東軍」、石田三成に味方した勢力を「西軍」として争った関ヶ原の戦いは、結果的に豊臣家を衰退させていきます。
勝利した徳川家康は、西軍派の所領を減らします。どさくさにまぎれて豊臣家の領地も小さくしました。徳川家を優位に立たせるためでした。
関ヶ原の戦いとは、石田三成に挙兵させて豊臣家を弱体化させるために、徳川家康が仕組んだ自作自演のマッチポンプだったのです。
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しれっと就任
しれっと世襲
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一大名に成り下がった豊臣家の当主・秀頼をそっちのけにし、1603年に徳川家康は征夷大将軍に就任します。
そして、江戸幕府をひらきました。
征夷大将軍になってからわずか2年で徳川家康は退任し、1605年に三男・徳川秀忠を将軍にします。これは「これからもずっと徳川家がリーダーですよ」というアピールでした。

この世襲劇に、大坂城の豊臣秀頼とその母・淀殿は怒りました。もう豊臣秀頼が天下人になる可能性がなくなったからです。
ここから徳川家康は、豊臣母子への挑発をくり返します。
豊臣家ゆかりの寺の釣鐘に彫られた『国家安康』の文字を「家康の名が割られている!呪っている!」とクレームをつけます。
因縁をつけられて怒った豊臣母子が、フリーターを大勢あつめて戦いを挑んできたので、大坂城を攻めて豊臣氏を滅ぼしました。
こうして、1615年に徳川家康の天下統一が成りました。
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幕府しか勝たん!
幕藩体制
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徳川家康がひらいた江戸幕府の要としたのが『幕藩体制』です。
幕府の直轄領と、各地の大名が治める藩による統治システムを確立しました。
幕府を主導するのは徳川将軍家。将軍の直接の家臣である旗本と御家人がこれに加わります。
藩を治める大名は『親藩』『譜代』『外様』の3つにランク分けしました。

重要な拠点と直轄領は、徳川宗家(将軍家)の身内である親藩と譜代で固めました。関ヶ原のあとに家来になった外様大名には、江戸から遠い地域が与えられました。
江戸幕府の幕藩体制では、関ケ原の戦いに基づいて所領の大きさと配置が決められました。
関ヶ原で徳川家康に味方した大名は加増されています。ただし、加増した大名は領地替えで江戸から離しました。離れていれば、すぐに江戸に攻めてくることができないためです。
これは以前、豊臣秀吉に領地替えされた嫌がらせからヒントを得ています。
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おいでよ
江戸の参勤
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外様大名を江戸で勤務させる『参勤交代』のシステムによって、外様大名がちからをつけることを抑えました。
これは、織田信長が安土城に大名屋敷を与えたこと、豊臣秀吉が大坂城、聚楽第、伏見城の屋敷に大名の妻子を住まわせたことがヒントになっています。
参勤にかかる費用はすべて大名持ちでした。そのため、遠方の大名ほど多くの費用と時間がかかりました。参勤は大名にとって、領内の政治にも影響を及ぼしました。

江戸幕府の代表的な政策である参勤も、はじめは江戸城下に屋敷をもらった大名たちが自発的に行ったものでした。
1635年に3代将軍・徳川家光が参勤交代を『武家諸法度』に加え、1年おきに江戸勤務が義務化されました。
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みんなでつくろう
お江戸のお城
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徳川家康の一大プロジェクト『天下普請』は、全国の大名たちといっしょに江戸城を築くイベントでした。
「江戸幕府はみんなのため!シンボルになる江戸城づくりは公共事業だよねっ!」というわけで、大名たちに費用と職人を用意させる錬金術を使って、ものすごい江戸城をつくりました。
天下人の城普請イベントは、織田信長の安土城や豊臣秀吉の大坂城でも行われたことですので、大名たちも「そういうもの」として取り組みました。
現在も日本橋川沿いにある石垣などに、よく見ると普請した大名の刻印が残っています。
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お金と経済を
がっちり管理
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徳川家康は、江戸に金座や銀座といった貨幣鋳造機関を設けました。それに加えて、京や堺などの経済拠点を幕府直轄としました。
これにより、経済・財政を幕府が牛耳る仕組みをつくります。流通に使われる貨幣を金貨、銀貨、銭貨とし『三貨制度』を確立しました。

幕府が発行した朱印状がある場合だけ許可する『朱印船貿易』によって、海外との貿易を独占しました。
大名たちには、幕府の許可なく海外との貿易で利益を得ることを固く禁じました。
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戦争は終わった
城は政治のため
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1615年に徳川家康が考案し、2代将軍・徳川秀忠を通じて発布した13か条からなる『武家諸法度』によって、諸大名の統制を強固なものにします。
武家諸法度とは「幕府の許可なしに○○するのを禁止します」といったルールブックです。とくに軍事に関して、厳しく抑えつける意図がありました。
「もう戦争しないんだから、戦う城はいらないよね?」という理由から、居城以外の城を撤去する『一国一城令』を命じました。
これに伴い、天守閣の建築も禁止して、政治のための城だけ残しました。伊達政宗が築いた仙台城に天守がないのはそのためです。
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260年つづく
開祖となった
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日本に再び戦乱が起こらないようにするため、徳川をリーダーにしたイエヤス・メイクス・バクフは、さまざまな仕組みとルールによって、大名たちを厳しく統制しました。
徳川家康が制定し、徳川秀忠が発布した武家諸法度は、徳川家光によって改訂されたのをはじめ、歴代将軍によってブラッシュアップされていきます。
戦国時代で最後に勝者となった徳川家康ですが、それまでの道のりはつねに険しくピンチの連続でした。腹を切ると覚悟したことも何度もあります。
幕府を開いた江戸は、はじめは沼地でしたが埋め立てて、上水道を引き、運河で囲った都市をつくりました。京から遷都して現在の東京都の母体を築き上げました。
* * * * *
覇道で切り拓いた織田信長が倒れてから21年後、巧みな戦略で天下統一をした豊臣秀吉が亡くなった5年後、徳川家康は江戸幕府をひらきました。
その後、江戸幕府は徳川秀忠が権勢を振るい、朝廷をも統制下に加えて絶対的な徳川の治世を行っていきました。
教科書に載っているような【徳川家康がしたこと】ついて、下記のページでまとめています。あわせてご覧ください。
生涯を簡単に振り返る
生まれと出自
1543年、徳川家康は三河国・岡崎城に松平広忠の長男として生まれます。2歳で母と生き別れ、5歳のころから人質生活、7歳のときに父を亡くす気の毒な境遇でした。今川義元が織田信長に討たれたことを機に、今川氏の支配から独立します。その後は天下を目指す信長と同盟し、共闘しますが、信長が本能寺で横死します。
豊臣氏から天下権力をうばう
信長の死後、台頭した豊臣秀吉と争ったのちに和睦し、家臣となって秀吉の天下統一に協力しました。秀吉が没すると、関ヶ原の戦いで石田三成などの反徳川派を一掃します。征夷大将軍になって江戸幕府をひらき、豊臣氏に代わって天下を治めました。晩年になって、不安材料であった豊臣氏を大坂の陣で滅ぼします。
最後と死因
大坂の陣の翌年、鷹狩りに行った先で倒れ、3か月後に徳川家康は駿河国・駿府城で亡くなりました。1616年6月1日、死因は食中毒、胃がん、膵がんなど。74歳でした。駿河国・久能山に葬られたあと、南光坊天海によって下野国・日光東照宮に改葬され、後水尾天皇から東照大権現の勅諡号が贈られました。
徳川家康は鯛の天ぷらを食べて食中毒で死んだといわれますが違います。最晩年はみるみる痩せて、お腹に大きなしこりがあったと記録されており、がんが有力視されています。死の直前、家臣が殉死をしないよう諫めた辞世の句を残しています。
領地と居城の移り変わり



幕藩体制によって日本全国を統治しました。全国の石高2200万石のうち、直轄領240万石ほどが徳川家康の領地でした。改易や領地替えなどの調整がくり返され、1700年以降になると幕府直轄領(天領)は400万石を超えました。
ざっくりした略年表と家臣団
徳川家康の主な出来事をまとめた略年表です。

1560年「独立」1590年「関東移封」1600年「関ヶ原の戦い」1603年「江戸幕府の成立」1615年「豊臣氏の滅亡」が、特に重要な出来事です。
徳川家康を支えた家臣団の移り変わりをまとめたものがこちらです。

時代背景と徳川家康の方針によって重要な家臣が変わる点に注目です。
独立したころから版図拡大期では武功派の活躍が目立ちますが、関東移封後や江戸幕府開府では政治に長けた謀臣や法律家が活躍しました。
どんな苦労を乗り越えたの?
- 桶狭間の戦いで主家筋の当主が討たれる。
- 三河一向一揆の混乱に乗じた家臣が離反する。
- 三方ヶ原の戦いで死に目をみる。
- 長男の謀反疑惑で妻子を粛清する。
- 本能寺の変で信長を討った明智軍に追われる。
- 関ヶ原の戦いでアンチに結託される。
徳川家康が人生のなかで直面した困難、苦労を経験した場面をピックアップします。
桶狭間の戦いで主君に等しい今川義元を失い、戦場からなんとか脱出した徳川家康は、独立して大名になりましたが、三河一向一揆では信仰している宗教が発端となり、家臣団が分裂。何人もの家臣が出奔してしまう騒動となりました。この難局を乗り越え、三河武士たちは結束しました。
武田信玄との抗争では、三方ヶ原の戦いに完敗。からだを張って犠牲になった忠臣たちに守られて、命からがら浜松城に逃げ帰り、持病が悪化した信玄の急死という幸運に救われました。
一難去って、織田信長から武田氏への内通を疑われた長男・信康と正室・築山殿を泣く泣く処断しています。
本能寺の変では現場ちかくに居たため、信長を討った明智軍に命を狙われ、伊賀越えをしてなんとか逃亡。このときも側近たちに守られて命びろいしました。
豊臣秀吉の死後は豊臣家中で反徳川派の気運が高まり、石田三成を中心に結託したアンチ家康の大名たちが挙兵しますが、関ヶ原の戦いでこれを倒し、すべての困難に打ち勝ちました。
徳川家康の性格と人物像
徳川家康は「じっと待つことも運命を切り拓くこともできる人」です。
”鳴くまで待とうホトトギス” は、徳川家康のがまん強さを謳ったものですが、実際はちょっかいを出しながら鳴くのを待つスタイルです。
相手に手を出させて自分のターンにもっていくのが得意で、ボロを出させるいやらしさから、狸おやじと呼ばれました。
家康が残した数々の名言から、忍耐づよい人柄が伝わっています。
しかしながら、愛用の軍配には、戦況にイライラしてガジガジした歯形がいっぱい。拳から血が出るまで鞍壺を殴りつづけるなど、キレやすい一面もあったようです。
びびりエピソードが多いので臆病な印象ですが、そんなことありません。
いくさ好きで、年老いても亡くなる前年まで戦場に立ち続けています。
柳生宗矩など4人の師範から剣術を習っており、剣の腕前もなかなかのものでした。鉄砲も上手く、100m先の鶴を仕留めたことがあります。
脱糞という代償を払いましたが、武田信玄との敗戦から多くを学びます。城を出て戦う信玄流の野戦が得意で、いくさ上手な豊臣秀吉も家康との野戦を避けています。
贅沢のかぎりを尽くした秀吉とは正反対に、健康志向で質素倹約がモットーです。おしっこのシミが目立たないという理由で、浅黄色の下着を身につけて節約していました。
健康に気づかうあまり、自分で薬を調合するほど薬学の知識がありました。能楽、囲碁、将棋、絵画など多趣味です。
食事は麦飯と豆味噌が中心の粗食。冷たいものはダメ、肉もほどほどに食べます。味噌はぜったい八丁味噌。好物は鯛の天ぷらです。伊賀越えのときに食べたのがきっかけで、鰹の塩辛にもハマりました。
身長159cm、恰幅が良く、筋肉質で力持ち。丸顔に大きな耳がチャームポイントです。手持ち無沙汰になると指の爪を噛む癖がありました。
子どものころから利発で頭がよく、8〜13歳までに今川家の宰相である太原雪斎から学問、仏教、政治的思考、兵法や軍学を叩き込まれています。小鳥あそびが好きでした。
源頼朝がアイドルで、愛読書は鎌倉幕府を綴った『吾妻鏡』。
徳川家康に由来する貴重な国宝、文化財は数多く残っています。
駆け出しの家康が身につけた金ピカの甲冑も、晩年になって関ヶ原でも身につけたという『大黒頭巾形兜』も現存しています。舶来ものの目器(眼鏡)を使っていました。日時計や砂時計などのコレクションも残っています。
能力を表すとこんな感じ

困難の連続でも信頼しあえる家臣団に恵まれた人徳こそ、徳川家康のストロングポイントです。理不尽を乗りこえて身につけた政治力もケチのつけようがありません。外様大名たちを完璧にコントロールする幕府のガチガチ政策に活かしました。
能力チャートは『信長の野望』シリーズに登場する徳川家康の能力値を参考にしています。東大教授が戦国武将の能力を数値化した『戦国武将の解剖図鑑』もおすすめです。
徳川家康の面白い逸話やエピソード
恐怖のあまり脱糞(うんちもらし)してしまう
なんとも歯切れの悪い顔で座る、家康公の姿を描いた『しかみ像』と呼ばれる肖像画があります。
これは、武田信玄に完敗したときの気持ちを絵にとどめるよう、絵師に描かせたものと伝わっています。

じつはこのとき、家康公は脱糞をしていた疑惑があります。
最強と称されていた武田軍と三方ヶ原の戦いで激突した徳川軍は、騎馬隊のすさまじい破壊力で粉砕されてしまいます。
徳川軍は散り散りになって逃げますが、家康には赤備えの猛将・山県昌景がしつこく追いかけてきました。
どうにか浜松城まで逃げ帰った家康は、城門をくぐると転げ落ちるように馬からおります。すると、お尻から何かがボトッと落ちました。
家来「殿ー!ご無事で!あれ?(くさいっ)」
家康「ちがう!これは味噌!うんちじゃない!」
うんち 味噌を片付けさせた家康は絵師を呼んで、みじめな姿を絵に描かせたといいます。
このとき描かれた『徳川家康三方ヶ原戦役画像』は、現在も大切に保管されています。
意地でも長生きすると決めた健康オタク、医者のいうことを聞かず
徳川家康が健康オタクであったことは有名です。中国の医学書を読み、薬学に凝っていて、薬草や薬木の栽培もしていました。
自分で飲む薬を自分で調合する、セルフすぎるメディケーションをしていました。
頭が良く知識もハンパない家康は、しばしば医者のいうことを信じません。
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家光の大病を
自家製の薬で治す
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孫・家光が幼いころ大病にかかり、医者から手の施しようがないと告げられます。
そんな馬鹿な!と怒った家康じいじは、自家製の生薬を飲ませて、家光の病気を治してしまいました。
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自己診断の過信
痛恨の誤診
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晩年、からだの不調を感じた家康は、腸に虫がいると自己診断し、虫くだしの薬を調合します。
すると、医者は虫ではなく、お腹に塊ができる病気(がん)と診断し、いま飲んでいる薬(虫くだし)は、この病気には効かないと告げました。
そんな馬鹿な!このヤブ医者め!と信濃国へ飛ばしてしまいました。
ところが、いくら虫くだしを飲んでも家康の体調は良くなりません。心配する2代将軍・徳川秀忠が、医者の薬を飲むように忠告しても聞く耳を持ちません。
結局、家康の病状が回復することはなく「腸に虫がいる」という誤診が命取りになってしまいました。
先見性がゼロで何かあるとすぐ切腹がチラついてしまう
当時としては長寿の74歳まで生きた家康公。堪えて忍んで計算高く天下をとったように思えますが、じつは先見性ゼロの行き当たりばったりです。トラブルに巻き込まれることも数知れず。
そのたびにパニックを起こして切腹騒動を起こしています。

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切腹騒動 その1
桶狭間の戦い
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桶狭間の戦いで当時の主君・今川義元が討たれてしまい、まったく予想していなかった事態に混乱して「もうだめだ!未来がない!」と、松平家の菩提寺である大樹寺に行きます。
そこで切腹する!切腹する!と騒いでいると住職が出てきて諭され、思いとどまりました。
”生きて泰平の世をつくりなさい” という住職の言葉でその気になり、今川氏から独立します。
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切腹騒動 その2
本能寺の変
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武田氏を滅ぼした祝勝会に招かれて織田信長から接待を受けたあと、堺の街を観光していると本能寺の変が起こります。
信長が討たれたと聞いて混乱し「もうだめだ!あとを追って死ぬ!」と、人目も気にせず切腹しようとしますが、同行した家臣たちにたしなめられて思いとどまりました。
このあと、決死の逃走劇『伊賀越え』を経て、無事に帰国します。
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切腹騒動 その3
大坂夏の陣
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勝利を確信して臨んだ大坂夏の陣で、真田幸村の特攻を受けて徳川本陣が崩壊。まさかの事態にあわてて逃げ出しますが、11kmも追いかけまわされます。
「もうだめだ!怖すぎる!」あまりの恐怖から、逃走中に二度も切腹さわぎを起こしますが、幸村が討ち死にして命拾いしました。
徳川家康の有名な戦い
尾張に侵攻してきた今川義元を桶狭間(愛知県名古屋市緑区桶狭間)で織田信長が討ち取った合戦。10倍近い圧倒的な兵力差があり、局面的に織田勢が不利だったが、今川の本陣を強襲し、義元の首級をあげる快挙となった。戦国史上もっとも有名なジャイアントキリング。
桶狭間の戦いで徳川家康は敗れています。
今川氏の先鋒隊として織田領の丸根砦を攻略しました。しかし、義元が討ち死にしたため、大樹寺に退きます。前途を悲観して自害しようとしますが、城代が逃げた今川氏の岡崎城を奪って独立します。
上宮寺や勝鬘寺(ともに愛知県岡崎市)などの寺社を拠点とした本願寺門徒と松平元康の争い。今川氏から独立して三河の支配を強める松平氏が、上宮寺から無理に兵糧を奪ったことを発端とする一向一揆。本多正信らが一揆に加担し、松平家中で家康に反する内紛が起きた。
三河一向一揆で徳川家康は勝っています。
三河国を領土化するため、一向宗が家康が行った政策に反発したのを発端に、宗教的な事情も重なって、家臣団を二分する騒動になってしまいました。独立後はじめての困難で、一揆の収束後に松平から徳川に改姓しました。
浅井&朝倉軍と、織田信長の援軍で参陣した徳川家康が姉川(滋賀県長浜市野村町)で激突した合戦。本多忠勝が一騎討ちで真柄直隆と渡り合うなど、徳川軍の活躍が目覚ましく、榊原康政の突撃で朝倉軍は敗走。激戦で姉川は血に染まり、血原や血川橋という地名を残した。
姉川の戦いで徳川家康は勝っています。
織田信長と朝倉氏&浅井氏のいざこざに借り出された合戦でしたが、戦局を動かしたのは徳川軍でした。本多忠勝や榊原康政の活躍で、三河武士の強さを知らしめました。
西上作戦で遠江に侵攻した武田信玄と織田徳川の連合軍が三方ヶ原(静岡県浜松市北区三方原町)で激突した合戦。徳川の本拠地・浜松城をスルーして進軍した信玄の策略にかかった徳川家康が、城から出て野戦をしかけた。山県昌景の猛攻を受けて徳川軍は壊滅、敗走した。
三方ヶ原の戦いで徳川家康は敗れています。
まさに蹴散らされるような惨敗を喫した合戦ですが、野戦における駆け引きのしかたなど、武田信玄の強さを肌で感じて学び、ここから家康は負けません。
長篠城(愛知県新城市)をめぐって、織田徳川連合軍と武田勝頼が争った。この合戦で織田信長は、武田騎馬隊を馬防柵によって封じ、滝川一益が率いた3,000挺からなる鉄砲隊で、絶えず銃弾を浴びせる近代戦術を使った。山県昌景が戦死した武田軍の被害は1万人とも。
長篠の戦いで徳川家康は勝っています。
合戦の主役は織田軍の鉄砲隊でした。武田騎馬隊に完璧なリベンジを果たすとともに、合戦のスタイルを変える歴史的な一戦になりました。徳川勢は最もリスクが高い前線を担いました。
信長の死後、羽柴秀吉に不満を持つ信長の次男・織田信雄と信長の盟友・徳川家康が小牧山城(愛知県小牧市、長久手市)で一進一退の局地戦を展開した。秀吉が別部隊で三河の徳川領を突こうとするが、家康に裏をかかれて大敗。秀吉と信雄が和議を結び、痛み分けとなった。
小牧・長久手の戦いで徳川家康は引き分けています。
織田信雄のサポートとして参戦しますが、家康が合戦を主導しました。信雄が勝手に秀吉と和睦したため、家康には戦う理由がなくなりました。秀吉と直接対決をした最初で最後の戦いです。
秀吉の死後、徳川家康が権力を増すなか、石田三成が反徳川の挙兵。家康が率いる東軍と三成が率いた西軍が、関ヶ原(岐阜県不破郡関ケ原町)で雌雄を決した。井伊直政が撃ちかけた鉄砲によって開戦。西軍・小早川秀秋が東軍に寝返り、わずか6時間で東軍が勝利した。
関ヶ原の戦いで徳川家康は勝っています。
徳川家康のターニングポイントになった戦いです。
反徳川派との決戦に勝利し、徳川氏を中心とした世のなかへと流れを変えていきます。幕藩体制の制定でも、関ヶ原という分岐点をかなり重要視しており、日本史に与えた影響も大きな出来事です。
方広寺鐘銘事件を発端に、徳川氏と豊臣氏がついに衝突。徳川家康は20万の大軍で大坂城(大阪府大阪市中央区)に迫った。豊臣秀頼は牢人を集めて籠城。真田幸村が考案した真田丸で徳川勢を撃退した。しかし、徳川軍の大砲の威力を前に、豊臣氏は和睦を申しでた。
大坂冬の陣で徳川家康は引き分けています。
真田丸に予想外の苦戦をしました。和睦交渉を有利にすすめるため、イギリスから購入したカルバリン砲を淀殿がいる大坂城本丸に向けて撃ち込みました。和睦条件として、真田丸の破却と大坂城の堀を埋めさせました。
大坂冬の陣から半年後、徳川家康による豊臣氏の殲滅戦。大坂城付近(大阪府藤井寺市、阿倍野区など)で激しい局地戦が行われた。毛利勝永が奮闘し、徳川本陣に真田幸村が決死の突撃をしたが、数で勝る徳川軍が押し切った。大坂城は落城。豊臣秀頼は出陣の機会なく自害した。
大坂夏の陣で徳川家康は勝っています。
真田隊の突撃などピンチもありましたが、ついに豊臣氏を討伐します。この勝利によって完全に徳川氏の世の中になりました。戦国史最後の合戦です。
徳川家康の詳しい年表と出来事
徳川家康は西暦1543年〜1616年(天文11年〜元和2年)まで生存しました。戦国時代中期から後期に活躍した武将です。
1543 | 1 | 松平広忠の嫡男として三河国に生まれる。幼名:竹千代 |
1544 | 2 | 母(於大)の兄・水野信元が織田氏に寝返る。今川氏の庇護を受ける父は母と離婚する。 |
1547 | 5 | 人質として今川氏に送られる途中、義母の父・戸田康光に裏切られて織田氏に連れていかれる。 |
1549 | 7 | 父・松平広忠が死亡。 織田信広との人質交換で織田氏から今川氏に引き渡される。 |
1555 | 13 | 元服 → 松平(次郎三郎)元信 のちに 松平元康 今川氏一門の関口親永の娘(瀬名姫=築山殿)と結婚。 |
1558 | 16 | ”寺部城の戦い”初陣。今川氏に叛いた鈴木重辰を攻めて討ち取る。 ”石ヶ瀬川の戦い”尾張国・知多を攻める。叔父・水野信元と争う。 |
1560 | 18 | ”桶狭間の戦い”織田信長との戦に参加。先陣で尾張国に侵攻して丸根砦を落とす。主君・今川義元が織田信長に討たれる。大樹寺に逃れたのち今川領・岡崎城を占拠。 今川氏から独立。 |
1561 | 19 | 今川領・牛久保城を攻撃。 ”善明堤の戦い”吉良義昭の東条城を攻めるが落とせず。反撃され松平好景、板倉好重らが討死。 ”藤波畷の戦い”*本多広孝らに砦を築かせて吉良領・東条城を攻める。 |
1562 | 20 | 叔父・水野信元を介して織田信長と同盟を結ぶ。【清洲同盟】 今川氏に従っていた遠江国人衆の離反が広がる。【遠州忩劇】 今川領・上ノ郷城を攻める。夜襲に成功し鵜殿長照を討ち取って勝利する。 |
1563 | 21 | ”三河一向一揆”守護不入の特権を排除する。反発した土豪、農民、一向宗門徒が一揆を起こす。本多正信、渡辺守綱、蜂屋定次ら多数の家臣が一揆勢に加わり内紛に発展してしまう。 改名 → 松平家康 |
1564 | 22 | ”馬頭原合戦”一向宗門徒を鎮圧。和議を結び、昨年からの三河一向一揆を収束させる。 今川領・吉田城を攻めて無血開城させる。 牛久保城主・牧野成定が降伏。 三河国を平定。 |
1566 | 24 | 改名 → 徳川家康 |
1567 | 25 | 織田信長の娘(徳姫)を嫡男・竹千代(松平信康)の嫁にもらう。 |
1568 | 26 | *足利義昭を奉じて京に向かう織田信長に援軍として松平信一を派遣。 武田信玄と今川領を分割する密約を結ぶ。駿河国を武田領、遠江国を徳川領にすることで合意。 今川領・遠江国に侵攻する。井伊谷城、白須賀城、曳馬城を攻略、掛川城を包囲する。 |
1569 | 27 | 秋山信友が密約に違反して遠江国を攻めたため武田氏に抗議する。 武田信玄が兵を引いた隙に駿河国・駿府を占拠する。 今川氏真が開城降伏。北条氏政の仲介で掛川城を降す。北条氏と同盟を結ぶ。今川家滅亡 遠江国を平定。 武田信玄に駿府を奪い返される。 |
1570 | 28 | 浜松城が完成、居城を移す。 今川氏真を浜松城に迎えて庇護する。 ”金ヶ崎の戦い”織田信長の要請で朝倉氏との戦に参加。 ”姉川の戦い”織田信長の要請で浅井氏&朝倉氏との戦に参加。朝倉軍を撃破する。 長篠城主・奥平信昌が徳川氏から武田氏に寝返る。 |
1571 | 29 | 侍従に就任。 武田信玄が遠江国、三河国に侵攻してくる。 |
1572 | 30 | ”一言坂の戦い”威力偵察に向かったところを武田軍と遭遇、山県昌景に敗れる。 ”二俣城の戦い”*中根正照が守る二俣城を武田氏に奪われる。 |
1573 | 31 | ”三方ヶ原の戦い”浜松城を通過する武田信玄を攻撃。織田氏の援軍を得て戦うが、大敗する。 北条氏から同盟を破棄される。 ”野田城の戦い”*菅沼定盈が守る野田城を武田氏に奪われる。 武田信玄が陣中で病死。武田軍が撤退する。 長篠城主・奥平信昌を調略し武田氏から寝返らせる。 *長男・信康が武田領・武節城、真弓山城を攻略。 |
1574 | 32 | 将軍・足利義昭から「武田勝頼と協力して信長を討て」の御内書が届く。 武田領・犬居城を攻める。 ”第1次高天神城の戦い”*武田勝頼に高天神城を奪われる。小笠原長忠、松下之綱らが武田勝頼に降る。 |
1575 | 33 | 長男・信康の奉公人・大賀弥四郎が武田勝頼に通じて謀反を企てる。大賀弥四郎を鋸引きの刑に処す。【大賀弥四郎事件】 ”長篠の戦い”武田勝頼に三河国・長篠城を包囲される。織田氏&徳川氏で武田勝頼との決戦に大勝する。山県昌景、馬場信春、内藤昌豊ほか討ち取る。 田峰城、武節城、作手城、光明城、犬居城、二俣城を武田氏から奪還。 ”諏訪原城の戦い”武田領・諏訪原城を包囲。開城降伏させる。高天神城への補給路を断つ。 遠江国・諏訪原城を牧野城に改名。 武田領・遠江国に侵攻する。小山城を包囲するが退く。 織田信長に従属する。 浜松城下で中国商船と貿易を行う。 |
1576 | 34 | 織田信長の命令で叔父・水野信元を誅殺する。 武田領・犬居城を攻め落とす。天野藤秀を遠江国から追いやる。 *武田勝頼が遠江国に侵攻してくる。長男・信康と大須賀康高が横須賀で応戦。 |
1577 | 35 | *武田勝頼を馬伏塚城で退ける。 |
1578 | 36 | 横須賀城を築城。 武田領・小山城を包囲する。 右近衞権少将に就任。 |
1579 | 37 | 北条氏政と同盟を結ぶ。 北条氏政が武田領・駿河国に侵攻する。これに呼応して持船城を攻め落とし武田水軍の拠点を攻略。 長男・信康と正室・築山殿に武田氏との内通疑惑がかかり織田信長に詰問される。 松平信康は切腹、築山殿を殺害する。 |
1580 | 38 | 武田勝頼に持船城を奪い返される。 |
1581 | 39 | 織田家臣と揉め事を起こした服部半蔵を逃す。他人の首を半蔵と偽って事件を解決させる。 ”第2次高天神城の戦い”高天神城を武田氏から奪還する。岡部元信をはじめ守将を討ち取って壊滅させる。 |
1582 | 40 | ”甲州征伐”織田氏、北条氏と呼応して武田領に侵攻。穴山梅雪を調略して駿河国を制圧。織田氏が甲斐国と信濃国を制圧する。武田家滅亡 駿河国を平定。 甲州討伐の恩賞として織田氏の居城・安土城で接待を受ける。摂津国・堺の見物を楽しむ。 盟友・織田信長が死亡。【本能寺の変】 明智光秀の軍勢に襲われる。九死に一生を得て畿内を脱出。【伊賀越え】 甲斐国に菅沼城を築城。 信濃国および甲斐国を統治していた織田家臣の河尻秀隆が一揆により死亡、滝川一益が北条氏に攻められ敗走。 旧・武田領が空白地になる。 北条氏から同盟を破棄される。 羽柴(豊臣)秀吉に連絡し、上野国、甲斐国、信濃国に侵攻する許可を得る。 ”若御子対陣”信濃国、甲斐国に侵攻する。【天正壬午の乱】 ”黒駒合戦”*鳥居元忠が北条氏忠と交戦、勝利。保科正直、木曽義昌ら武田旧臣を味方につける。 大豆生田砦、獅子吼城を攻略。 真田昌幸を北条方から徳川方の味方につける。 真田昌幸、依田信蕃の協力で碓氷峠を占拠。北条軍の補給路を断つ。 北条氏直から和睦の申し出があり北条氏と講和する。 |
1583 | 41 | 関東地方ならびに東海地方が大雨に見舞われる。徳川領にも大きな被害がでる。 左近衞権中将に就任。 |
1584 | 42 | 参議に就任。 織田信雄と同盟する。 ”小牧・長久手の戦い”織田信雄を支援して羽柴秀吉と尾張国北部を中心に周辺地域で争う。 羽柴秀吉が織田信雄と和睦。 羽柴秀吉に次男・於義丸(秀康)を養子に出して和睦する。 |
1585 | 43 | 北条氏直との盟約により上野国・沼田を割譲する。 ”第1次上田合戦”*沼田の割譲に反発した真田昌幸が挙兵。鳥居元忠を真田討伐に向かわせるが大敗する。 羽柴秀吉の仲裁により真田昌幸と和睦。 石川数正が羽柴秀吉のもとに出奔。軍事機密の漏えい対策のため、井伊直政に命じて軍制を武田式に転換する。 |
1586 | 44 | 豊臣秀吉の実妹(朝日姫)と強制的に結婚させられる。 豊臣秀吉の実母(大政所)が岡崎城に送られてくる。 権中納言に就任。 豊臣秀吉に従属する。 井伊直政に護衛をさせて大政所を豊臣秀吉のもとに返す。 駿河国・駿府城を居城にする。 真田氏の討伐に向かうが豊臣秀吉に止められる。 |
1587 | 45 | 豊臣秀吉から関東と奥羽地方での領土紛争を禁止される。【惣無事令】 北条氏政・氏直父子に豊臣氏に従属するよう促すが実現せず。 権大納言に就任。 |
1588 | 46 | 左近衞大将に就任。 |
1589 | 47 | 左近衞大将を辞任。 三河国、遠江国、駿河国、甲斐国、信濃国の大規模検地を実施。【五カ国総検地】 |
1590 | 48 | 豊臣秀吉のもとに三男・秀忠を人質として上洛させる。 北条氏と断交する。 徳川領を北条討伐の前線拠点として提供する。 ”小田原征伐”北条氏の討伐戦に参加。先陣を任じられる。山中城、鷹ノ巣城、足柄城などを攻略し箱根路を制圧する。秀吉本隊に加わり小田原城を包囲する。 豊臣秀吉が小田原城を開城降伏させる。北条家滅亡 豊臣秀吉の天下統一が成る。 豊臣秀吉に北条氏政の助命を嘆願するが聞き入れられず。 豊臣秀吉から関東への移封を命じられる。先祖伝来の三河国も失い、駿河国から旧北条領に移る。130万石 → 250万石 武蔵国・江戸城を居城にする。 江戸の埋め立てなど土地開発を始める。 豊臣秀吉の養女・織田信雄の娘(小姫)を三男・秀忠の嫁にもらう。 |
1591 | 49 | ”九戸政実の乱”九戸政実の鎮圧戦に参加。白河口方面から制圧する。【第2次奥州仕置】 織田信雄が改易される。三男・秀忠と小姫を離縁させる。 |
1592 | 50 | 朝鮮出兵に備えて肥前国・名護屋城に入る。朝鮮には渡らず。【文禄の役】 豊臣秀吉の執奏により清華家の家格を勅許。 |
1595 | 53 | 豊臣秀吉が関白・豊臣秀次を切腹させる。【秀次切腹事件】 徳川家康、前田利家、宇喜多秀家、毛利輝元、小早川隆景が五大老に任じられる。 豊臣秀吉の養女・浅井長政の娘(江)を三男・秀忠の嫁にもらう。 |
1596 | 54 | 内大臣に就任。 |
1598 | 56 | 次代・豊臣秀頼を支える五大老・筆頭に任じられる。幼君・秀頼が成人するまでの政治を託される。 主君・豊臣秀吉が死去。次代・豊臣秀頼に仕える。 豊臣秀吉の遺命により五大老・五奉行による合議制が敷かれる。 加藤清正に養女・水野忠重の娘(清浄院)を嫁がせる。 |
1599 | 57 | 婚姻政策に石田三成が反発し、騒動になる。前田利家の仲裁で誓書を交わす。 五大老上首・前田利家が亡くなる。 加藤清正、福島正則、黒田長政、細川忠興、浅野幸長、池田輝政、加藤嘉明の7将が石田三成の屋敷を襲撃。徳川家康、毛利輝元、上杉景勝で協議し石田三成を蟄居させる。【石田三成襲撃事件】 徳川家康を兄、毛利輝元を弟とする義兄弟の起請文を交わす。 毛利氏の所領問題に介入する。 前田利長、浅野長政、大野治長、土方雄久に暗殺を企てられる。浅野、大野、土方の3名は管轄領に流罪。前田からは生母(まつ)を人質にとることで加賀征伐を取り止める。【家康暗殺未遂事件】 島津氏の重臣・伊集院忠真が反乱を起こす。これを仲裁する。【庄内の乱】 |
1600 | 58 | 戸川達安、花房正成らが不平を理由に宇喜多秀家に騒動を起こす。仲裁し戸川達安を家臣にする。【宇喜多騒動】 堀秀治と藤田信吉から上杉景勝を訴えられる。上杉景勝に上洛を求めるが直江兼続から慇懃無礼な書簡が送られてくる。【直江状】 ”会津征伐”上杉氏の討伐に向かう。後陽成天皇および豊臣秀頼から賛同を得て大坂城を出立。 石田三成、大谷吉継が反徳川の挙兵。 会津討伐を断念。伊達政宗に上杉領(伊達旧領)の奪還を認めるかわりに討伐を命じる。【百万石のお墨付き】 ”伏見城の戦い”*鳥居元忠が守る伏見城を石田三成に攻め落とされる。 会津征伐を中止。石田三成の反逆軍を鎮圧に向かう。【小山評定】 ”木曽川・合渡川の戦い”*福島正則と池田輝政が織田秀信の篭る岐阜城を攻め落とす。 ”杭瀬川の戦い”*中村一栄が島左近と明石全登に敗れる。 ”関ヶ原の戦い”徳川家康に与する勢力を東軍。石田三成に加担する勢力を西軍として決戦に臨む。美濃国・関ヶ原で激突し勝利する。 石田三成、小西行長、安国寺恵瓊を六条河原で処刑する。 東軍に属した大名の加増および西軍に属した大名の移封、減封、没収などのペナルティを含む領地整備を行う。 徳川領を250万石 → 400万石に加増。豊臣領を摂津国、河内国、和泉国の65万石に減封。 西軍に島津義弘が属した島津義久に上洛を命じるが実現せず。ひとまず保留。 島津討伐をしようとする黒田官兵衛を制止。関ヶ原のおりに結成されていた九州軍を解散させる。 |
1601 | 59 | 豊臣秀頼の代理として政務を主導する。 九条兼孝を奏上して関白にする。豊臣氏の関白職世襲を止める。 |
1602 | 60 | スペインと国際貿易を開始する。 島津氏の所領を安堵する。 |
1603 | 61 | 征夷大将軍に就任。江戸幕府を開く。【江戸幕府の成立】 豊臣秀頼に三男・秀忠の娘(千)を嫁がせる。 |
1604 | 62 | 福島正則に養女・牧野康成の娘(昌泉院)を嫁がせる。 |
1605 | 63 | 江戸城の築城を開始する。【天下普請】 征夷大将軍を辞任。 三男・徳川秀忠に家督を譲る。徳川秀忠が征夷大将軍になる。大御所として後見する。 豊臣秀頼との会見を打診するが淀殿に拒否される。 |
1606 | 64 | 伊達政宗の娘(五郎八姫)と六男・松平忠輝を結婚させる。 |
1607 | 65 | 武蔵国・江戸城の天守が完成。 駿河国・駿府城を居城にする。 豊臣秀吉の朝鮮出兵から断絶していた朝鮮との国交を回復させる。 |
1609 | 67 | 猪熊教利ら公家と朝廷の高官による乱行が発覚し後陽成天皇が激怒する。公家衆を処断する。【猪熊事件】 西国大名に対して500石積み以上の船の所有を禁止する。【大船建造の禁】 |
1611 | 69 | 豊臣秀頼と二条城で会見する。【二条城会見】 |
1612 | 70 | 尾張国・名古屋城を築城。 江戸幕府の天領においてキリスト教の布教および信仰を禁止する。【禁教令】 |
1613 | 71 | キリスト教を神道、儒教、仏教の敵とみなす。【伴天連追放之文】 |
1614 | 72 | 方広寺の釣鐘に彫られた「国家安康」の文字が不敬であるとして豊臣秀頼を責める。【方広寺鐘銘事件】 豊臣秀頼が大坂城に牢人を雇い入れる。これを叛意ありとして宣戦布告する。 ”大坂冬の陣”豊臣氏の討伐に向かう。20万の兵で大坂城を包囲。木津川口など大坂城外の砦を攻める。大坂城本丸に大砲を撃ち込んで脅し、大坂城の堀を埋めることを条件に和睦する。 |
1615 | 73 | 大坂城の牢人たちが乱暴、狼藉をはたらき、塀や堀の復旧作業をする。豊臣秀頼に牢人の解雇および領地の移封を要求するが拒否される。 ”大坂夏の陣”再び豊臣氏の討伐に向かう。15万の兵で大坂城を攻める。道明寺、八尾、天王寺などで大規模な局地戦が行われる。真田幸村、毛利勝永らに大苦戦を強いられるが、野戦を制して大坂城を落城させる。豊臣家滅亡 豊臣秀吉が築いた大坂城を廃城。規模を縮小して再建する。 江戸幕府が天皇および公家に対する関係を確立する法令を制定。【禁中並公家諸法度】 諸大名統制のための法令を制定。【武家諸法度・一国一城令】 |
1616 | 74 | 太政大臣に就任。 駿河国・駿府城で病死。 |

- 徳川家康 – Wikipedia
- 徳川家康 人物年表
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- 本郷和人監修『戦国武将の解剖図鑑』エクスナレッジ
- 矢部健太郎監修『超ビジュアル!戦国武将大事典』西東社
- 歴史人『戦国武将最強ランキング』KKベストセラーズ
- 歴史人『徳川家康 天下人への決断』ABCアーク
- 小和田哲男監修『ビジュアル 戦国1000人』世界文化社
- 学習まんが少年少女 日本の歴史『天下の統一』小学館
- 学習まんが少年少女 日本の歴史『江戸幕府ひらく』小学館