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とくがわ いえやす

徳川家康

1543.1.31 〜 1616.6.1

 
徳川家康のイラスト
  

徳川家康(松平元康)は、現在の愛知県東部にあたる三河の武将・大名です。今川氏の人質から独立すると織田信長とともに天下統一を目指し、信長の死後は豊臣秀吉のもとで国家運営に携わります。秀吉の死後、征夷大将軍に就任し、江戸で幕府を開き、泰平の世が265年つづいた江戸時代の開祖となりました。享年75歳。

徳川家康の人物タイプ
英雄

このページでは、徳川家康が何をしたどんな人なのか、ハイライトやエピソードを紹介しています。戦国武将・徳川家康のことがきっと好きになります。

  • 出身地:三河(愛知県)
  • 特 徴:忍耐強くて健康
  • あだ名:狸おやじ
  • 戦 績:74戦 52勝 10敗 12分
  • 領 地:日本全国
  • 居 城:岡崎城 → 駿府城 → 江戸城

戦国時代を終わらせて天下泰平が265年つづく江戸幕府を開いた

1467年の応仁の乱から続いた戦国時代は、織田信長によって終息に向かい、豊臣秀吉によって全国統一が果たされました。しかし、前者はいずれも政権を長く維持することはできませんでした。信長には強烈な推進力がありましたが人望が伴わず、秀吉には全国を制したあとのプランがなかったためです。先駆者たちの過ちをすぐそばで見ていた徳川家康は、長く続く政権のかたちを考えました。

このような狂歌があります。
”織田がつき 羽柴がこねし天下餅 座りしままに食うは徳川”

徳川家康の天下は「我慢のすえにつかんだ勝利」です。もちろん、ただ座っていただけでごっつぁんゴールを決めたわけではありません。織田政権下では、理不尽な要求にも応え続けて我慢。豊臣政権下では慣れ親しんだ領地を召しあげられ、沼地に引っ越しを強要されても我慢しました。そして、さすが徳川家康です。ぐっとこらえながら、さきの政権から、自分がつくる幕府のイメージをもらっていました。

徳川政権を長く存続する仕組みとして、貨幣鋳造機関である金座、銀座、経済拠点となる京、堺などを幕府直轄としました。これにより、経済・財政を幕府がガッチリ握る仕組みをつくります。

江戸幕府の経済抱え込み政策

徳川の身内、関ヶ原以前から家康に仕えている譜代の大名でこれらの重要拠点を固め、それ以外の外様大名は、江戸から離れた場所に領地替えを行っています。幕府の直轄領と外様大名の諸藩による「幕藩体制」です。遠く離れていれば、いざ攻めてこられてもすぐには江戸城に到達しません。加えて「参勤交代」によって外様大名を江戸で勤務させることで、各大名が幕府よりも力をつけることを抑制しました。

外様大名と参勤交代

つまり、徹底した中央政権を構築して、幕府の力を衰えさせない仕組みにしたのです。いわば幕府の一人勝ちともいえる政策で、ペリーの黒船が訪れるまで、265年という安寧の時代を築きました。

徳川家康は、豊臣政権下での転封から得た教訓と、織田政権下で強いられた理不尽から得た教訓を見事にミックスして、イエヤス・メイクス・バクフを成し遂げます。

[生涯] わかりやすい解説

① 今川氏から独立

松平広忠の長男として生まれます。
織田氏と今川氏の人質として少年時代を過ごします。
8歳のころ、父・松平広忠がとつぜん亡くなり、松平氏の当主になりました。
14歳で元服し、松平元康と名乗ります。

桶狭間の戦いでは、今川軍として織田領の砦を攻めますが、織田信長に今川義元が討ちとられるハプニングがあって、今川氏から独立します。

② 織田〜豊臣政権

徳川家康に名前を変えて、今川義元に勝った織田信長と同盟を結びますが、信長の天下統一の手伝いをさせられてばかりでした。
強敵・武田信玄が徳川領に攻めてきて、さんざんに負けてしまいます。ところが、信玄が急に亡くなってしまったので、織田信長といっしょに武田勝頼を倒しました。

信長が本能寺の変で亡くなると、ライバルになった豊臣秀吉と争います。
秀吉とは決着がつかず、お願いされて豊臣氏の一員になります。
天下統一をした秀吉が亡くなると、豊臣氏の家来で一番えらい五大老筆頭になりました。

③ 江戸幕府

秀吉の子ども豊臣秀頼をささえる立場でしたが、豊臣氏の天下を乗っ取ることにします。
大名同士をどんどん結婚させて、家康が中心となるグループをつくりました。
家康の行動に気づいた石田三成を関ヶ原の戦いでやっつけて、豊臣氏に勝ちました。

征夷大将軍になった家康は江戸幕府を開きます。
大坂の陣で豊臣秀頼を自害させて、完全に徳川氏の天下にしました。
戦国時代はおわった翌年に、家康は駿府城で亡くなりました。

徳川家康の簡単な年表
徳川家康の領地・勢力図(1615年)

[能力] 理不尽を我慢とズルさで乗り越えたポンポコ狸

なにかと比較されることが多い信長、秀吉、家康ですが、政治力や人望において家康は最も優れています。徳川氏は家臣団の結束は固く、安定した領土経営をしています。
豊臣氏から政権を奪う際の煽りかた、相手に先に手を出させる策略など、ズルさこそ ”狸おやじ”、”古狸” と呼ばれる家康の持ち味です。

信頼できる家臣との硬い絆は、江戸幕府にも受け継がれます。東京都の方角的によろしくない場所に設置した門に「半蔵門」と名付けるなど、家康が家臣を信頼していた様子がうかがえます。

徳川家康の逸話・面白いエピソード

あまりの恐怖でうんちをもらしてしまい肖像画を描かせる

徳川氏と武田氏は領地が隣あわせていたため、一触即発の状態がつづいていました。ついに武田信玄が西上作戦を開始して、徳川領に侵攻。はじめて信玄と対峙した家康は、三方ヶ原でこれを迎え討ちます。ところが、疾風怒濤の武田軍の前になす術なくKOされて敗走。山県昌景の猛烈な追撃に遭い、背後に迫る恐怖を感じながら浜松城に逃げ帰りました。

馬からおりた家康公から、なにかがボトッと落ちます。
家来「殿ー??(くさっ)」
家康「これは、うんちじゃなくて味噌じゃ」

【徳川家康三方ヶ原戦役画像(しかみ像)】恐怖で脱糞してしまった家康公を描かせた絵

あまりの恐怖で脱糞(うんちもらし)してしまった家康公は、絵師に今の自分の姿を描かせるように命じます。なんとも複雑な表情で正面を向く家康の肖像画は『しかみ像』と呼ばれ、今も大切に保管されています。この悔しさを忘れないように描かせたとのことです。さすがです。

意地でも長生きすると決めた健康オタク

薬草や薬木を栽培し、戦場には自分で調合した生薬を持っていきました。医薬に対する情熱がすさまじく、知識もハンパないドクター家康。孫・家光が幼いころ、医者も手の施しようがないと投げ出してしまう大病にかかりますが、なんと自分が調合した薬で家光の病気を治してしまいます。

平均寿命が50歳だった時代に家康は75歳まで健康に過ごしています。薬学に加えて、麦飯と豆味噌中心の粗食をこころがけ、冷たいものは口にしない、肉もほどほどに食べるなど、とにかく健康に気をつかった賜物です。
年上の二人(信長、秀吉)よりも長生きしたことでチャンスを得たのは偶然ではありません。

徳川家康の戦い・有名な合戦

桶狭間の戦い おけはざまのたたかい 1560.6.12 今川軍2万5千 vs 織田軍3千

尾張の織田領に侵攻してきた今川義元を田楽間(愛知県名古屋市緑区)で織田信長が討ち取った合戦。10倍近い圧倒的な兵力差があり、局面的に織田勢が不利だったが、今川の本陣を強襲し、義元の首級をあげる快挙となった。戦国史上もっとも有名なジャイアントキリング。

桶狭間の戦いで徳川家康は敗れています。今川氏の先鋒隊として、家康は織田領の丸根砦を攻略しました。今川義元の討ち死にを契機として、今川氏から独立を果たします。

三方ヶ原の戦い みかたがはらのたたかい 1573.1.21 武田軍3万 vs 織田&徳川軍1万5千

西上作戦で遠江に侵攻した武田信玄と織田徳川の連合軍が三方ヶ原(静岡県浜松市北区三方原町)で激突した合戦。徳川の本拠地・浜松城をスルーして進軍した信玄の策略にかかった徳川家康が、城から出て野戦をしかけた。山県昌景の猛攻を受けて徳川軍は壊滅、敗走した。

三方ヶ原の戦いで徳川家康は敗れています。まさに蹴散らされるような惨敗を喫した合戦ですが、三方ヶ原の敗戦と武田信玄が、後年の徳川家康を用心深くて狡猾な駆け引き上手にしました。

長篠の戦い ながしののたたかい 1575.6.29 武田軍1万5千 vs 織田&徳川軍3万8千

長篠城(愛知県新城市)をめぐって、織田徳川連合軍と武田勝頼が争った。この合戦で織田信長は、武田騎馬隊を馬防柵によって封じ、3,000挺からなる鉄砲隊で絶え間なく銃弾を浴びせる近代戦術を使った。山県昌景が戦死した武田騎馬隊は壊滅、被害は1万人とも。

長篠の戦いで徳川家康は勝っています。織田信長のサポートを受けて臨んだ対武田の合戦で主役になったのは織田軍の鉄砲でした。戦国時代の合戦スタイルを変えた一戦です。

小牧・長久手の戦い こまき・ながくてのたたかい 1584.3.13 〜 11.12 羽柴軍10万 vs 徳川&織田軍3万

信長の死後、羽柴秀吉に不満を持つ信長の次男・織田信雄と徳川家康が小牧山城(愛知県小牧市、長久手市)で一進一退の局地戦を展開した。秀吉が別部隊で三河の徳川領を突こうとするが、家康に裏をかかれて大敗。秀吉と信雄が和議を結び、痛み分けとなった。

小牧・長久手の戦いで徳川家康は引き分けています。織田家を完全に飲み込んだ羽柴秀吉と衝突した合戦です。家康は、信長の次男・織田信雄の援軍として参加して、優位な戦果をあげましたが、信雄が秀吉と和睦をしてしまったため、戦う理由がなくなりました。これが響いてしまい、秀吉の配下として、家康は豊臣政権に加わります。

関ヶ原の戦い せきがはらのたたかい 1600.10.21 西軍(豊臣)8万 vs 東軍(徳川)10万

秀吉の死後、徳川家康が権力を増すなか、石田三成が反徳川の挙兵。家康が率いる東軍と三成が率いた西軍が、関ヶ原(岐阜県不破郡関ケ原町)で雌雄を決した。井伊直政が撃ちかけた鉄砲によって開戦。西軍・小早川秀秋が東軍に寝返り、わずか6時間で東軍が勝利した。

関ヶ原の戦いで徳川家康は勝っています。豊臣氏から政権を奪う決戦となった関ヶ原の戦いは、徳川家康にとって最大のターニングポイントです。あらゆる手段を講じて、豊臣氏の指揮官・石田三成に勝利し、徳川氏を中心とした世の中にシフトチェンジを成功させます。
のちに制定する幕藩体制からもわかるように、家康は関ヶ原という分岐点をかなり重要視していて、日本史に与えた影響も大きな出来事です。

大坂夏の陣 おおさかなつのじん 1615.4.26 〜 5.7 徳川軍16万5千 vs 豊臣軍5万5千

大坂冬の陣から6ヶ月後、ふたたび徳川家康が豊臣氏を攻めた戦国最後の合戦。大坂城付近(大阪府藤井寺市、阿倍野区など)で激突し、真田幸村が徳川本陣に突撃、家康も切腹を覚悟する事態となった。数で勝る徳川が優勢となり、奮闘も虚しく、大坂城は落城した。

大坂夏の陣で徳川家康は勝っています。徳川幕府として、豊臣氏を討伐する戦いとなった大坂の陣は、戦国時代で最後の戦です。局面でみると予想外の激戦となりましたが、この戦いで天下人・豊臣氏を滅亡させました。
織田信長が天下統一の基盤を築いて、豊臣秀吉が全国の大名を征服した戦国時代は、徳川家康の勝利で終わりました。

徳川家康の年表を詳しく

徳川家康は西暦1542年〜1616年(天文11年〜元和2年)まで生存しました。戦国時代中期から後期に活躍した武将です。
石田三成の17歳上、豊臣秀吉の6歳下、武田信玄の22歳下です。
織田信長より9年あとに生まれています。

15421松平広忠の嫡男として三河に生まれる。幼名:竹千代
15476松平氏から今川氏に人質として送られる最中、織田氏に奪われ、そのまま尾張に連れていかれる。
15498父・松平広忠が死去。
今川氏と織田氏の人質交換で織田から今川に引き渡される。
155514元服 → 松平(次郎三郎)元信 のちに 松平元康
今川義元の姪(瀬名姫=築山殿)と結婚。
156019”桶狭間の戦い”先鋒隊として、織田氏の丸根砦を攻略。今川義元が織田信長に討たれると、今川領・岡崎城に入城する。
156120今川領・牛久保城を攻撃、今川氏から独立。
織田信長と同盟を結ぶ。【清洲同盟】
156322改名 → 松平家康
156423”三河一向一揆”これを鎮圧する。
156625三河の今川勢力を排除。三河を平定し国主となる。
改名 → 徳川家康
156827武田信玄と同盟を結ぶが1ヶ月ほどで解消されてしまう。
今川領への侵攻を開始する。曳馬城を攻略、掛川城を包囲して今川氏真を降伏させる。三河に加えて遠江を徳川氏の領土にする。今川氏と和睦。
武田氏が領内に侵攻してくるが、北条氏康の協力を得て防衛に成功。
157029浜松城が完成、居城を移す。
今川氏真を浜松城に擁護する。今川家滅亡
織田信長の要請を受けて朝倉氏との戦に参戦。
”姉川の戦い”織田信長の要請を受けて参戦、浅井氏&朝倉氏を撃破する。
157231武田信玄が遠江に侵攻を開始。各地で防衛戦を展開する。
”一言坂の戦い””二俣城の戦い”武田軍に完敗し、二俣城を奪われる。
”三方ヶ原の戦い”三河に侵攻してきた武田信玄を織田氏とともに迎え撃つが大敗する。
157332”野田城の戦い”武田氏に野田城を奪われる。
武田信玄が急死したため武田軍が徳川領から撤退した。
奥平貞能・貞昌親子を調略。長篠城を攻略、武田氏から奪還した。
157534”長篠の戦い”三河に侵攻してきた武田勝頼を織田氏&徳川氏の連合軍で迎え撃ち、圧勝する。
光明城、犬居城、二俣城を武田氏から奪還。武田氏の補給路を封じる。
織田信長に服属する。
157938北条氏政と同盟を結ぶ。
正室・築山殿と嫡男・信康に武田氏との内通疑惑ありと織田信長から追求される。築山殿を殺害し、信康を切腹させる。
158140高天神城を武田氏から奪還する。
158241織田氏の甲州討伐に呼応して駿河・武田領に侵攻。木曾義昌、穴山信君を調略、武田領・駿河を手中に納める。武田家滅亡
甲州討伐の恩賞として織田氏の居城・安土城で接待を受ける。
本能寺の変で織田信長を討った明智光秀の軍勢に襲われ三河に逃げ帰る。【伊賀越え】
信長の死亡により、旧・武田領が空白地となったため、甲斐に侵攻する。
158443”小牧・長久手の戦い”織田信雄を支援し、尾張北部を中心に周辺地域で羽柴秀吉(豊臣秀吉)と争う。次男。於義丸を羽柴秀吉の養子に出すことで和議を結ぶ。
158544”第1次上田合戦”信濃・上田城を攻撃するが真田昌幸に敗れる。
158645豊臣秀吉の実妹(朝日姫)と結婚。
豊臣秀吉の配下になる。
駿府城に居城を移す。
159049豊臣秀吉の命令でこれまでの所領(中部地方)から関東地方に移封され、江戸城を居城にする。
159150奥州再仕置軍に従軍し、一揆勢を鎮圧する。
159857豊臣秀頼を支える五大老・筆頭に任ぜられる。
豊臣秀吉が死去。
身内と有力大名との婚姻を進める。
160059”関ヶ原の戦い”東軍・西軍にわかれた大大名同士の決戦。東軍総大将として指揮をとり、西軍・石田三成に完勝する。
160261スペインと国際貿易を開始する。
160362征夷大将軍に任官。徳川幕府を開く。【江戸幕府の創設】
160564征夷大将軍を辞職し、三男・秀忠に継がせる。
160766江戸城から駿府城に移る。
豊臣秀吉の朝鮮出兵から断絶していた朝鮮との国交を回復させる。
161473豊臣氏に方広寺の再建をすすめる。寺の鐘に彫られた「国家安康」をめぐって豊臣氏を追求する。【方広寺鐘銘事件】
”大坂冬の陣”20万の大軍で豊臣氏の大坂城を包囲。大坂城の堀を埋めさせることで和睦する。
161574”大坂夏の陣”15万の大軍を動員して大坂城を攻撃、落城させる。豊臣家滅亡
諸大名統制のための法令を制定。【武家諸法度・一国一城令】
161675死去。
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