中部地方の有名な武将をわかりやすく紹介!勢力図もあるよ

中部地方の有名な戦国武将をさくっと紹介します。大人気の織田信長や徳川家康といった戦国時代の主役、今なお地元で愛されている武田信玄と上杉謙信など、中部地方は戦国武将ビッグネームの宝庫!中部の戦国のおおまかな流れと勢力の変遷、有名な戦いなど、中部地方で活躍した有名な戦国武将とあわせて見てみましょう。
中部地方で活躍した有名な武将
日本のまんなかに広がる地域、中部地方は戦国武将の宝庫です。
戦国時代の主人公ともいえる織田信長、徳川家康をはじめ、武田信玄や上杉謙信といったレジェンド級の武将、今川義元、斎藤道三など、枚挙に暇がありません。
教科書に出てくる戦国時代の戦いの多くがこの地域で行われており、桶狭間の戦い、川中島の戦い、三方ヶ原の戦い、長篠の戦い、そして天下分け目の決戦といわれる関ヶ原の戦い。
決戦だらけの中部地方。天下に通じる野望、飽くなき侵略、天才の軍略、野心と欲望が渦巻くなか、互いのプライドが激突しました。
ここでは、中部地方を舞台に戦国時代を彩った有名な武将たちをわかりやすく紹介します。
織田信長=天下布武を掲げた戦国の革命児
1534年6月23日(天文3年5月12日)生まれ。
愛知県稲沢市の出身です。
尾張国・清洲城や美濃国・岐阜城、近江国・安土城を本拠に活躍しました。
織田信長は、岐阜県岐阜市の戦国武将として有名です。
若いころは奇抜な行動が多く『尾張の大うつけ』と呼ばれました。革新的な発想と行動力で天下統一を目指します。圧倒的なカリスマ性から、戦国武将のなかでも最も人気があります。
尾張時代の信長は小さな武家にすぎませんでした。1560年の桶狭間の戦いで、今川義元の大軍を相手にわずかな兵で攻めかかり、義元を討ち取ったことがきっかけで飛躍します。
武力で天下を治めるという意味の『天下布武』をスローガンに掲げ、敵対する大名を攻め滅ぼして領地を拡大しました。積極的に鉄砲を用いたり『楽市楽座』といった画期的な政策を推進するなど、信長が行なった変革は豊臣秀吉や徳川家康にも影響を与えました。
天下統一に迫った織田信長ですが、家臣の明智光秀に裏切られ、1582年の本能寺の変で波乱の生涯を閉じます。
織田信長を題材にした映画やゲームなどの歴史作品は数多くあり、信長は主人公やラスボスとして描かれています。JR岐阜駅には黄金の織田信長像があります。清州公園には、若かりし日の勇ましい信長と帰蝶が並ぶ像も。
徳川家康=天下統一へ進む信長のパートナー
1543年1月31日(天文11年12月26日)生まれ。
愛知県岡崎市の出身です。
三河国・岡崎城や遠江国・浜松城、武蔵国・江戸城を本拠に活躍しました。
徳川家康は、愛知県岡崎市や静岡県浜松市の戦国武将として有名です。
のちに江戸幕府をひらく徳川家康ですが、竹千代の名で知られる幼いころは織田氏と今川氏の間で人質として過ごします。不遇の少年期や、織田信長との不平等な同盟関係から忍耐の人というイメージが定着しました。
今川義元の武将として1560年の桶狭間の戦いに参加しますが、義元が討たれると岡崎城に入って独立。織田信長と同盟し、天下統一に挑む信長のパートナーになります。信長の後ろ盾を得て今川氏の領地を攻め取り、浜松城を基盤としました。
信長が死亡したのち、台頭した豊臣秀吉と一時的に対立しますが、和解した後は従い、1590年に秀吉の命令で関東移封となり、武蔵国・江戸へ移りました。
信長、秀吉の時代を経て、最後に天下を取った徳川家康は、幼少期から苦難の連続でした。JR静岡駅の広場には采配を手にした徳川家康公像と竹千代君像があります。
武田信玄=甲斐の虎と恐れられた戦国最強の武将
1521年12月1日(大永元年11月3日)生まれ。
山梨県甲府市の出身です。
甲斐国・躑躅ヶ崎館を本拠に活躍しました。
武田信玄は、山梨県甲府市の戦国武将として有名です。
宿敵・上杉謙信との名勝負、川中島の戦いで知られています。『甲斐の虎』と呼ばれ、戦国最強の呼び声も高く、織田信長さえも恐れさせました。
父・武田信虎を追放して家督を継ぐと、甲斐国を拠点に信濃国へ勢力を広げ、東海や関東まで侵略しました。『風林火山』の旗を掲げて、信玄の武田騎馬隊は敵を圧倒する迫力がありました。
晩年に、上洛を目指して東海道を西へ上る『西上作戦』を開始し、1572年の三方ヶ原の戦いでは、徳川家康をいとも簡単に蹴散らしましたが、志半ばで病没しました。
サラリーマン世代に刺さる名言を数多く残しており、個性豊かな家臣団をまとめあげたマネジメント手腕から、理想の上司にも名前が挙がります。
治水事業など、現在の山梨県にも信玄が築いた功績が残っています。甲府駅前には軍配を構える武田信玄像が建ち、信玄公祭りが開かれるなど、今なお地元で愛されている戦国武将です。
上杉謙信=越後の龍、軍神と呼ばれた天才
1530年2月18日(享禄3年1月21日)生まれ。
新潟県上越市の出身です。
越後国・春日山城を本拠に活躍しました。
上杉謙信は、新潟県上越市の戦国武将として有名です。
負けらしい負けはひとつもなく『軍神』と呼ばれた戦いの天才。『越後の龍』の異名で知られ、ライバルの武田信玄との川中島の戦いが語りつがれています。
信玄とは川中島で5回も戦いましたが、1561年の第4次川中島の戦いで単騎で武田本陣に斬りこみ、武田信玄を馬上から斬りつけた伝説は、いくつもの映像作品や小説で描かれています。
自分の領地を広げることに興味がなく、困っている人のために戦い続けた謙信は、正義の味方のような存在で、助けを求められると駆けつけて敵を追い散らしました。
女性を寄せつけずに生涯独身を貫く崇高さや、毘沙門天を信仰するストイックさからくるカリスマ性で、戦国武将のなかでもトップクラスの人気があります。女性だった説もあり、興味深い武将です。
馬上で刀を振るうかっこいい上杉謙信公像が春日山城址にあるほか、大小あわせると上越市内だけでなんと11もの謙信像があり、根強い人気があることがわかります。
今川義元=桶狭間に散った海道一の弓取り
1519年(永正16年)生まれ。
静岡県静岡市の出身です。
駿河国・今川館を本拠に活躍しました。
今川義元は、静岡県静岡市の戦国大名として有名です。
駿河国、遠江国、三河国を治めた太守で『海道一の弓取り』と呼ばれました。お歯黒や白粉で化粧したビジュアルがおなじみで、京風のファッションをしていました。
1560年の「桶狭間の戦いで織田信長に敗れる人」という覚えられかたをしているため、やられ役として見くびられがちですが、じつはかなり優秀な武将です。
義元は、分国法の最高傑作ともいわれる『今川仮名目録』を制定し、室町幕府から独立した領土経営を行っています。家臣団を縦割りにした『寄親・寄騎制度』を採用し、多くの兵をスピーディーに動員できるようにしました。
桶狭間古戦場公園に、織田信長像と並んで弓を携える今川義元像があります。公園内には義元の墓碑や義元首洗いの泉もあり、桶狭間の戦いを現在に伝えるスポットになっています。
斎藤道三=下剋上のダークヒーロー
1494年(明応3年)生まれ。
京都府西京区あたりの出身です。
美濃国・稲葉山城を本拠に活躍しました。
斎藤道三は、岐阜県岐阜市の戦国武将として有名です。
下剋上といえばこの人。謀略、裏切り、だまし討ち。まさに悪党ですが、もとは油売りだったところから美濃国を乗っ取るストーリーが人気のダークヒーローです。
『美濃のマムシ』と呼ばれた道三は、目上の人に近づいては排除し、上司と成り代わるように出世して、最終的には美濃守護・土岐頼芸を追放して美濃国主になりました。他者を蹴落とす手段はズル賢く、暴力的なものでした。
悪事を尽くして美濃を盗った道三でしたが、1556年の長良川の戦いで息子の斎藤義龍に討たれて悲惨な最後を遂げます。
信長の正室・帰蝶は斎藤道三の娘です。道三は、織田信長と対面したときに娘婿の非凡な才覚をすぐに見抜いたという逸話があります。信長の理解者だった一面があり、悪党だけど憎めない人気者です。
中部地方の戦国時代の流れ
中部地方は、甲信越・東海・北陸の3つのエリアに分けられ、それぞれで大きな戦乱がありました。
- 鎌倉府の弱体化を受けて甲斐国で武田氏が力を持つ。
- 信濃守護・小笠原氏が国人と争って敗れる。
- 長尾為景が下剋上、越後守護・上杉房能を滅ぼす。
- 武田信玄が信濃国へ進出、長尾景虎と川中島で争う。
- 織田信長が武田勝頼を攻め滅ぼす。
- 武田氏遺領をめぐって徳川氏と北条氏と上杉氏が争う。
中部地方の甲信越エリアでは、守護と国人の争いから戦乱がはじまりました。関東地方で鎌倉府が弱体化した影響で、甲斐国では武田氏の支配が強まりました。一方、越後国では守護代・長尾氏が守護・上杉氏に下剋上し実権を得ます。
以降も、甲信越の戦乱は武田氏と長尾氏(上杉氏)の対立が中心となり、北信濃をめぐって武田信玄と上杉謙信が川中島の戦いをくり返します。
1582年に武田氏が織田氏に滅ぼされ、信長の死によって信濃国は混乱しますが、1590年に豊臣秀吉が天下統一を果たしたことで、甲信越は落ち着きます。1600年に関ヶ原の戦いが起こると信濃国で上田合戦が勃発。これを最後に、甲信越の戦国時代は終結します。
/
川中島の戦いは
5回も行われた
\
武田信玄と上杉謙信による川中島の戦いは5回もあり、両雄の一騎討ちなど名勝負として語られているのは、1561年の第4次・川中島の戦いで「八幡原の戦い」と呼ばれています。
- 駿河守護・今川氏が分国法を制定し戦国大名になる。
- 美濃守護・土岐氏の内紛に乗じて斎藤道三が国主になる。
- 織田氏と今川氏が三河国をめぐって争う。
- 今川義元が桶狭間で織田信長に討たれる。
- 織田信長が美濃国を制する、足利義昭を奉じて上洛する。
- 武田勝頼が長篠で織田氏&徳川氏に敗れる。
- 東軍・西軍が関ヶ原で決戦、東軍が完勝する。
中部地方の東海エリアでは、駿河国・遠江国の守護大名である今川氏が1526年に『今川仮名目録』を制定し、室町幕府からの独立を宣言して戦国大名になります。勢力を拡大する今川氏は、三河国をめぐって尾張国の織田氏と対立しました。
1560年の桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれると、今川氏が弱体化。徳川家康が今川氏から独立して戦国大名になりました。美濃国では守護・土岐氏を追放した斎藤氏が実権を握りますが、信長の台頭により斎藤氏も滅亡します。
今川氏の弱体化をきっかけに武田氏が東海に進出しますが、1575年の長篠の戦いに敗れて滅亡の一途をたどります。その後は織田氏・徳川氏による支配が続き、1600年の関ヶ原の戦いを最後に、東海の戦国時代は終結します。
/
桶狭間の戦い
なにが重要なの?
\
桶狭間の戦いは織田信長が今川義元を倒した戦いですが、この出来事が日本史の大きな転換点となります。織田信長や徳川家康といった新興勢力が台頭するきっかけをつくりました。
織田信長は徳川家康と同盟し、今川氏の没落によって背後の警戒がなくなります。こうして信長が京へ攻めのぼることが可能になり、天下統一へと動き出したのです。
- 朝倉氏景が下剋上、越前守護・斯波氏を支配する。
- 加賀国で一向一揆が起こる、加賀守護・富樫氏が討たれる。
- 織田信長に朝倉氏が攻め滅ぼされる。
- 上杉氏と織田氏と加賀国、越中国で争う。
- 豊臣秀吉が北ノ庄城を攻めて柴田勝家を滅ぼす。
- 浅井畷の戦いで前田氏と丹羽氏が争う。
中部地方の北陸エリアでは、越前守護・斯波氏を守護代・朝倉氏が下剋上で破って戦国大名になります。加賀国は、1488年の加賀一向一揆から100年のあいだ一向一揆に支配され「百姓の持ちたる国」と呼ばれるなど、北陸の秩序は乱れました。
朝倉氏の城下は北陸の小京都といわれるほど繁栄しますが、織田氏に攻め滅ぼされます。信長の死後は、織田氏の有力な家臣による大規模な内紛の舞台となりました。
1600年の関ヶ原の戦いのおり、その前哨戦となる浅井畷の戦いを最後に、北陸の戦国時代は終結します。
/
有名だけど
加賀百万石ってなに?
\
関ヶ原の戦いのあと、前田利長が加賀国・能登国・越中国を領有し、合わせて120万石になりました。これが加賀藩の繁栄につながったことから「加賀百万石」と称されました。
大名たちの勢力図と移り変わり

1546年の中部地方の勢力は、武田信玄が信濃国に侵攻し、越後国の長尾氏(のちの上杉氏)との緊張が高まります。東海では、今川義元の支配が強まります。

1575年の中部地方の勢力は、織田氏と徳川氏が躍進。信玄が亡くなった武田氏は長篠の戦いで大敗、急速に衰退します。

1582年の中部地方の勢力は、織田信長の死亡によって織田氏が分裂。徳川氏が旧武田領を押さえます。武田遺臣の真田氏と、織田家臣の柴田氏が大名になります。

1590年の中部地方の勢力は、織田氏を内包した豊臣秀吉が広域を支配します。秀吉は、前田氏、真田氏、上杉氏を従わせ、徳川氏を関東地方へ移します。
中部地方で起こった有名な戦い
北信濃を国人衆のもとに取り戻そうとする上杉謙信と、これを支配しようとする武田信玄の合戦。千曲川(長野県長野市小島田町)を挟んで5回対戦したが、決着はつかず。激戦となった第4次・八幡原の戦いでは、謙信が武田本陣に突撃し、信玄を斬りつけたエピソードがある。
尾張に侵攻してきた今川義元を桶狭間(愛知県名古屋市緑区桶狭間)で織田信長が討ち取った合戦。10倍近い圧倒的な兵力差があり、局面的に織田勢が不利だったが、今川の本陣を強襲し、義元の首級をあげる快挙となった。戦国史上もっとも有名なジャイアントキリング。
西上作戦で遠江に侵攻した武田信玄と織田徳川の連合軍が三方ヶ原(静岡県浜松市北区三方原町)で激突した合戦。徳川の本拠地・浜松城をスルーして進軍した信玄の策略にかかった徳川家康が、城から出て野戦をしかけた。山県昌景の猛攻を受けて徳川軍は壊滅、敗走した。
長篠城(愛知県新城市)をめぐって、織田徳川連合軍と武田勝頼が争った。この合戦で織田信長は、武田騎馬隊を馬防柵によって封じ、滝川一益が率いた3,000挺からなる鉄砲隊で、絶えず銃弾を浴びせる近代戦術を使った。山県昌景が戦死した武田軍の被害は1万人とも。
信玄亡きあと衰退する武田氏を連合軍が多方面から同時に攻めた合戦。滝川一益に追い詰められた武田勝頼は、40名ほどを伴って天目山(山梨県甲州市大和町)に逃れる途中で討死。武田家は滅亡した。浅間山の噴火で動揺した家臣団の崩壊など、武田方には不運もあった。
信長の死後、羽柴秀吉に不満を持つ信長の次男・織田信雄と信長の盟友・徳川家康が小牧山城(愛知県小牧市、長久手市)で一進一退の局地戦を展開した。秀吉が別部隊で三河の徳川領を突こうとするが、家康に裏をかかれて大敗。秀吉と信雄が和議を結び、痛み分けとなった。
徳川軍によって2回行われた真田征伐の合戦。真田昌幸が設計・築城した上田城(長野県上田市二の丸)で大打撃を与え、敗走させたところを真田信幸の別働隊が追撃。数で劣る真田軍が、鳥居元忠が率いた徳川軍に圧勝した。関ヶ原の戦いおりには、徳川秀忠を翻弄している。
秀吉の死後、徳川家康が権力を増すなか、石田三成が反徳川の挙兵。家康が率いる東軍と三成が率いた西軍が、関ヶ原(岐阜県不破郡関ケ原町)で雌雄を決した。井伊直政が撃ちかけた鉄砲によって開戦。西軍・小早川秀秋が東軍に寝返り、わずか6時間で東軍が勝利した。
戦国時代の中部地方は、存亡を賭けた決戦が数多く行われています。なかでも、織田信長が登場した桶狭間の戦いと、徳川家康が天下をつかんだ関ケ原の戦いは、日本の歴史を動かしたターニングポイントになっています。
- 織田信長 – Wikipedia
- 徳川家康 – Wikipedia
- 武田信玄 – Wikipedia
- 上杉謙信 – Wikipedia
- 今川義元 – Wikipedia
- 斎藤道三 – Wikipedia
- 矢部健太郎監修『超ビジュアル!戦国武将大事典』西東社
- 小和田哲男監修『地域別 x 武将だからおもしろい 戦国史』朝日新聞出版
- 歴史人『戦国大名の勢力変遷マップ』ABCアーク
- 小和田哲男監修・高橋伸幸『戦国の合戦と武将の絵事典』成美堂出版



