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お待ちくだされ

さいとう よしたつ

斎藤義龍

1527.7.8 〜 1561.6.23

 
斎藤義龍のイラスト
  

斎藤義龍(一色義龍、范可、高政、利尚)は、現在の岐阜県にあたる美濃国の武将・大名です。蝮と呼ばれた斎藤道三を父に持ち、自身の出生に悩んだすえ、長良川の戦いで父・道三を討って国主の地位を固めます。父親ゆずりの謀略で織田信長に対抗し、勢力の拡大に乗り出しますが、奇病により急死しました。享年35歳。

斎藤義龍は何をした人?このページは、斎藤義龍のハイライトになった出来事をなるべく正しく、独特の表現で紹介しています。きっと斎藤義龍が好きになる「毒をもって毒を制す、マムシの息子は父・道三を殺した」ハナシをお楽しみください。

  • 名 前:斎藤利尚 → 斎藤高政 → 斎藤范可 → 斎藤(一色)義龍
  • 幼 名:豊太丸
  • 官 位:治部大輔、左京大夫、美濃守
  • 幕 府:美濃守護代、相伴衆
  • 出身地:美濃国(岐阜県)
  • 領 地:美濃国
  • 居 城:稲葉山城
  • 正 室:近江の方(浅井久政の養女)、一条氏、某
  • 子ども:2男
  • 跡継ぎ:斎藤龍興
  • 父と母:斎藤道三 / 深芳野

毒をもって毒を制す、マムシの息子は父・道三を殺した

美濃国(みののくに)守護職である土岐(とき)氏を追い出して国主の座を盗んだ斎藤道三を父に持つ斎藤義龍は、自身の呪われた宿命に苦しみました。というのも、父・道三はミスター下克上(げこくじょう)として知られる残忍でズルい人。そして、母・深芳野(みよしの)は道三に美濃国(みののくに)を盗まれた土岐頼芸(ときよりのり)の側室でした。

斎藤義龍は、母が道三のもとにやってきた1年後に生まれています。タイミング的に考えて、”土岐頼芸(ときよりのり)の子じゃね?” という疑いが持たれ、父・道三から(うと)まれた斎藤義龍は、愛されることなく育ちます。

彼もまた、自分が道三の子ではないと思うようになりました。

マムシの子はマムシ。斎藤義龍は『美濃(みの)(まむし)』と呼ばれた父にも勝る謀略を駆使して、己の生きる道を切り拓きました。


親兄弟も
食い殺す

1554年、父である斎藤道三を隠居させて、斎藤義龍は斎藤家の当主になります。しかし、隠居したとはいえ、権力を持つ父の存在は何かと邪魔でした。美濃(みの)国主の座を完全に自分のものにするために、斎藤義龍は父を(ほうむ)ることにします。

斎藤義龍には、孫四郎と喜平次という2人の弟がいました。父は弟たちを溺愛(できあい)していたので、愛情を知らない斎藤義龍は、かねてからこれが面白くありません。病気のふりをして、見舞いにきた弟たちをだまし討ちにしました。

こうして父である道三を挑発して、決戦におびき出します。

道三のワンマンぶりにウンザリしていた家臣たちも多くいましたので、家中の大多数を味方につけることに成功し、道三派をはるかに凌ぐ大軍を率いて斎藤義龍も挙兵。1556年の長良川の戦いで父・斎藤道三を討ちました。


織田家の
兄弟争いを煽る

斎藤道三の娘・帰蝶(きちょう)を正室に迎えていた織田信長は、斎藤義龍からみて妹婿でした。しかし、信長は道三と仲良しで、道三も「自分が死んだら美濃国(みののくに)を信長に譲る」といった遺書っぽいものを残していました。くそ親父め、こんな勝手な約束をしていたとは。信長との協力的な関係は望めそうにありません。

この頃の織田家では、家督をついだばかりの信長を不服に思う者も多かったので、斎藤義龍は反信長派を(あお)って、内乱を起こさせるように仕向けました。

斎藤義龍の計略によって、信長とその弟・信行による家督争いが勃発します。この結果、織田信行は信長に殺害され、織田家臣団に深い亀裂を入れることに成功しました。


あかるい
統治改革

敵対勢力を牽制(けんせい)しつつも、斎藤義龍は道三のワンマン体制から変革を行い、6人の側近を立てて合議制による決議体制に移行します。

家臣に与える領地も、土地に根付いた『荘園(しょうえん)』を廃止。石高をベースとした土地からの収穫量で年貢を換算する『貫高(かんだか)』を導入しました。この貫高(かんだか)制は、戦国時代の給与制度として常識になりますが、この時点ではかなり先行した試みでした。

由緒ある一色(いっしき)姓を名乗る許可を幕府からとりつけ、南近江(おうみ)の守護職で各式高い六角氏と同盟を結ぶなど、斎藤家の地位を上げることにも意欲的に取り組みました。

1560年の時点では織田信長を大きく凌いでおり、頻繁に攻めてくる信長を100%撃退し、大いに苦しめました。35歳という若さで斎藤義龍が早死にしなければ、信長が美濃をとるのは難しかったかもしれません。

生涯を簡単に振り返る

1527年、斎藤義龍は美濃国(みののくに)・稲葉山城に守護代である斎藤道三の長男として生まれます。道三の第一子ですが、母が側室だったため庶子(しょし)でした。父と正室の間には2人の男子がいたので、折り合いがよくありませんでした。道三が隠居したあとも父子の軋轢(あつれき)は変わらず、ついに長良川の戦いで父を討ちます。

その後は領内の統治に意欲的に取り組み、将軍・足利義輝とも親交を深めるなど、国主としての地位を固めます。その間にも繰り返し攻めてくる織田信長を退けて、父・道三と同格か、それを上回る才覚で美濃国(みののくに)を治めました。

最後と死因

父を討った5年後、斎藤義龍は美濃国(みののくに)・稲葉山城で亡くなりました。1561年6月23日、死因は病気。35歳でした。奇病を(わずら)っていたといい、遺伝子性疾患であるマルファン症候群が(うたが)われています。妻と子もいっしょに亡くなっています。

領地と居城

斎藤義龍の領地・勢力図(1560年)

美濃国(みののくに)54万石が斎藤義龍の領地でした。尾張国(おわりのくに)牽制(けんせい)しながらも、飛騨国(ひだのくに)近江国(おうみのくに)に進出して、道三の頃よりも斎藤家の所領を拡げています。

斎藤義龍の性格と人物像

斎藤義龍は「シビアな判断ができる人」です。

家臣団を統制するために、肉親をも排除する冷ややかで現実的な判断をします。マムシを父にもったからこそ、生き抜く厳しさを知っていました。

道三の実子ではないという(うわさ)を逆手にとって、もっと良い家柄である土岐(とき)氏や一色(いっしき)氏の血縁であるという(うわさ)を流して、父ではなく反逆者を成敗したのだと父殺しの汚名を回避します。結果として、2万人近い美濃(みの)の国人の賛同を得て合戦に勝利しました。

流言(りゅうげん)をつかった計略で織田兄弟を争わせ、信長に弟を始末させています。失敗しましたが、信長の暗殺を(くわだ)ててスナイパーを使った ”日本初の狙撃” を試みるなど、悪知恵が働きます。

身長6尺5寸(197cmくらい)の大男で、馬に乗っても地面に足がつきました。子どもの頃から体格が良く、10歳で元服しています。母・深芳野(みよしの)も187cmあったといいます。

能力を表すとこんな感じ

斎藤義龍の能力チャート

父譲りの悪知恵が斎藤義龍のストロングポイントです。いくさに向けた準備の周到さや采配も巧みで、道三とそっくりのパーソナリティをしています。

信長の野望シリーズに登場する斎藤義龍の能力値も参考にしています。

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斎藤義龍の面白い逸話やエピソード

父親殺しと言われるが、悪いのは父・道三のほう

斎藤道三は隠居して義龍に家督を譲ったのではなく、道三の方針に従えない家臣たちによって強引に稲葉山城から追い出されています。家臣たちは、斎藤氏の次期当主に義龍を立てました。

であれば、家督を取り戻そうと挙兵したのは斎藤道三のほうであり、これは当主に対する謀反(むほん)道三の謀反(むほん)を義龍が迎え討ったというのが真実になります。

家督を継いだころから斎藤義龍は『范可(はんか)』を名乗ります。これは、やむをえない事情で父親を殺した中国・(とう)の人物にあやかった名前とのこと。父を討たなければならない自分の境遇と重ねていたと考えられています。

道三の子ではなかったかもしれない

義龍の母・深芳野(みよしの)は、もとは美濃(みの)守護・土岐頼芸(ときよりのり)(めかけ)でした。これを義龍の父・斎藤道三が強奪しました。義龍はその直後に生まれていますので、頼芸(よりのり)の子という憶測がありました。

土岐頼芸(ときよりのり)を追放した悪党・斎藤道三を、土岐(とき)家の血をひく斎藤義龍が成敗するために立ち上がったとする説があります。義龍がこのような発想に至った背景には、道三が弟ばかり可愛がっていた寂しさもありました。

つねづね、道三は義龍を「暗愚(あんぐ)(おろか者)」と(ののし)っていましたが、討たれるときになってはじめて「さすが我が息子」と認めたといいます。

斎藤義龍の有名な戦い

長良川の戦い ながらがわのたたかい 1556.4.20 ○ 斎藤義龍軍1万7千 vs 斎藤道三軍3千 ●

斎藤家前当主・斎藤道三を討ち果たすべく挙兵した息子・斎藤義龍による父子の合戦。長良川(岐阜県)を挟んで対峙した両者は、午前8時頃に激突した。槍の名手だった道三も奮闘したが討ち死に。義理の息子にあたる織田信長は道三の援軍に向かったが間に合わなかった。

長良川の戦いで斎藤義龍は勝っています。
斎藤義龍のターニングポイントになった戦いです。
親殺しという残忍な行為をしてしまいましたが、このときの義龍の采配は見事なものでした。道三派であった明智光秀なども敗走させ、これよりずっと後に光秀が織田家臣になるきっかけとなっています。

斎藤義龍の詳しい年表と出来事

斎藤義龍は西暦1527年〜1561年(大永7年〜永禄4年)まで生存しました。戦国時代中期に活躍した武将です。

15271斎藤道三の庶子として美濃国に生まれる。幼名:豊太丸
153610元服 → 斎藤(新九郎)利尚
改名 → 斎藤高政
155428父・斎藤道三の隠居により家督を相続。
155529長弟・孫四郎と次弟・喜平次を殺害。父・道三に宣戦布告する。
改名 → 斎藤范可
155630”長良川の戦い”斎藤道三を討伐する挙兵。討ち取って勝利する。道三に味方した明智などの家臣も討ち果たす。
尾張国・織田家の家督争いに乗じて織田信行を調略。織田信長と争わせる。
15583113代将軍・足利義輝から一色姓を許される。
改名 → 斎藤義龍 または 一色義龍
155933京に行き、13代将軍・足利義輝に謁見する。
六角義治と同盟を結ぶ。
浅井領・近江国に侵攻、浅井久政を攻める。
156034織田信長が美濃国に侵攻してくるが、撃退する。
再び織田信長が美濃国に侵攻してくるが、撃退する。
156135美濃国・稲葉山城で病死。
戦国時代で斎藤義龍が生きた期間の表

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斎藤義龍の顔イラスト