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楽市・楽座とは?どんな目的があって織田信長は発布したの?

 
楽市・楽座とは?どんな目的があって織田信長は発布したの?
  

織田信長が行った政策として有名な『楽市・楽座』は、どんなものだったの?政策の仕組み、得られるメリット、どんな意味や目的があって楽市・楽座は発布されたの?じつは織田信長が最初じゃなかった?本当の目的は経済活性化ではなかった?知ってみると面白い楽市・楽座について、わかりやすくまとめてみましょう。

楽市・楽座の仕組みと目的

楽市(らくいち)楽座(らくざ)』とは、1577年に織田信長が領内で行った経済政策です。商業の自由化によって、城下の経済を活性化させるねらいがありました。信長は軍事力の増強には経済の発展が不可欠と考えており、そのために多くの商人が領内で商売できるようにしました。

信長は、楽市・楽座を近江国(おうみのくに)・安土と金森、美濃国(みののくに)・加納のほか、配下の大名たちの諸城で実施させました。

【楽市・楽座】織田信長が行った商業政策のイメージ(1577年)

楽市・楽座の「」とは「自由」を意味します。

楽市・楽座には、”商売が(もう)かる” から ”商人がやってくる” という利点がありました。これらは自由な商売を奨励した政策による効果で『楽市(らくいち)』と『楽座(らくざ)』ふたつの法令によって実現されていました。

楽市=城下のどこで商売をしても良いという意味

いち” とは、商売が可能なエリアのこと。コミケや商業イベントのブースのような感じです。城下で商売をする場合、商売を行っても良いエリアが決まっており、その場所で定期市がひらかれていました。四日市や八日市などの地名は、毎月4日や8日に市がひらかれていた場所の名残なごりです。

楽市』とは、市を自由にするという意味です。楽市では、城下のどこで商売してもOK。行商人が腰を下ろした場所で店をひらくことも可能になりました。

【楽市】自由な商売を奨励した政策

これにより、織田領内にはさまざまな商人と珍しい商品が集まってくるようになり、城下は活気にあふれました。

楽座=組合に加盟していなくても良いという意味

()” とは、商売エリアを利用するために加盟が義務づけられている組合のこと。座の許可を得て城下で商売をするのが当たり前で、座に所属しなければ商売はできません。商人たちは商売の許可をもらう見返りとして、座にロイヤリティを支払いました。

【楽座】座の特権を廃止した政策

楽座』とは、座への加盟義務をなくすという意味です。楽座では、座に加盟する必要なし。誰でも自由に商売することが認められました。

これまで座に支払う高額な上納金に悩まされていた商人たちも、純粋な利益を得ることができるようになり、おまけに組合に加盟するわずらわしさもなくなりました。

関所を撤廃して交通も自由にした

織田信長は、楽市・楽座に先だって1567年に『関所(せきしょ)』の撤廃を実施しました。関所とは、国境に設けられた検問所のことで、敵のスパイが紛れ込まないか出入りする人々をチェックしました。信長は、領内の関所を撤廃し、誰でも自由に移動できるようにしました。そうすることで、楽市・楽座の利点を最大限に活かしたのです。

安土城につづく道には街路樹を植えて、夏場でも旅人が休めるようにするなど、人の流れが安土へ向くような工夫も施されました。

楽市・楽座の本当のねらい

楽市・楽座には経済の活性化に加えて、政治的&戦略的なねらいがありました。

織田信長は戦国大名ですから、領内の富国に加えて強兵を行うことが重要でした。当然、強兵には多大な軍事費が必要になります。楽市・楽座は、これにかかる費用を捻出するための政策でもありました。

商人が城下に移住してくると、商人が扱う商品に関わる農民、漁師、職人などの需要も高まり、仕事を求めてさまざまな民が移ってきました。人口の増加は税収アップにもつながり、さらに兵力の増員にもなるうえ、お隣りの国の民を引き抜く効果まで期待できました。

宗教勢力の弱体化を意図していた

商売を行うにあたり加盟が必須とされていた座は、じつは比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)などの寺社や公家、貴族らが後ろ盾となっていました。これらの者たちは、座が商人から受け取った上納金を集金し、たいへんな富を得ていました。

戦国時代の寺社ならびに宗教勢力は、並の戦国大名をはるかにしのぐ財力を持っており、高価な鉄砲も大量に保有していました。信長は石山本願寺や比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)といった宗教勢力の在り方を良しとせず、座の解体によって弱体化させようと考えました。

寺社や貴族が得ていた座の特権を撤廃することが楽座の目的でした。

楽市・楽座は信長だけじゃなかった

じつは楽市・楽座は織田信長が最初ではありません。信長が発布するよりずっと前、近江国(おうみのくに)の大名である六角定頼が楽市・楽座を発令しています。六角定頼は1549年に観音寺城下の石寺に楽市令を出しており、これが元祖と考えられています。

信長に今川義元を討たれて混乱する今川氏では、1566年に今川氏真が駿河国(するがのくに)・富士大宮の六斎市に楽市令を出しています。信長の(しゅうと)である斎藤道三も六角氏に継いで美濃国(みののくに)で楽市令を発布していました。

織田信長の楽市・楽座も基本的に先駆者たちの政策と大きく変わりません。しかしながら、織田信長が楽市・楽座を実施した地域は全国区に及び、日本全土に与えた影響は比較にならないほど大きなものでした。

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