兵農分離ってなに?どんな意味があって誰がやった政策なの?

兵農分離ってなに?どんな意味があって誰がやった政策なの?

戦国時代から江戸時代にかけて推進された『兵農分離』政策とは?普段は農作業を営んでいた農民が戦場に駆り出されていた時代、戦闘を行うのは兵士、農業をするのは農民という身分的分離が進められました。これを兵農分離と呼びます。誰が何の目的で行ったのか?兵農分離について、わかりやすくまとめてみましょう。

兵農分離が行われた背景と目的

兵士と農民を分ける政策のことを『兵農分離』といいます。

安土桃山時代に豊臣秀吉が兵農分離を行ったことをはじめに、江戸時代にかけて推進され、武士階級とその他を区別する身分制度のきっかけにもなりました。

兵農分離によって農業の効率化を図ったほか、民衆の武装を解除させる目的がありました。

武士の世の中であった中世の日本では、地頭(じとう)御家人(ごけにん)などの武士層のほか、土豪(どごう)や農民も武器を所持しているのが普通(ふつう)でした。

というのも、武士とは土地を持つ農場主に等しく、土豪(どごう)などの郎党(ろうとう)は武士の土地で農場主である武士と一緒(いっしょ)に農業を営んでいたのです。

鎌倉幕府の御家人(ごけにん)はこの農業武士にあたり、幕府から(あた)えられた領地=御恩(ごおん)(利益)とそれに報いる奉公(ほうこう)(主人のために戦う)が、主従関係の基本的概念(がいねん)でした。

有事の際に領主のもとに集結して戦うことは当然であり、これを『合戦(かっせん)』と呼びました。


武士だって
畑しごとをする

戦国時代も同様で、普段(ふだん)は田畑を耕していた者たちが領主の求めに応じて合戦に借り出されていました。

とはいえ、ほとんどの期間は農民として過ごしているため、このような農業兵士を『半農半士』といい、ほとんどの兵が半農半士でした。

そのため、田植えや収穫(しゅうかく)などを行う夏から秋の農繁期(のうはんき)には積極的に兵を動員しませんでした。農繁期(のうはんき)に合戦を行うと、農業を行う人手が不足するからです。

継続的(けいぞくてき)に合戦が行われた戦国時代では、次第に戦国大名たちの間で兵農分離の必要性が高まりました。

織田信長が専業兵士を分けたのがはじまり

じつは、豊臣秀吉が兵農分離を行う以前に、織田信長が軍事改革としての兵農分離を導入しています。

信長は、いつでも戦闘(せんとう)可能な軍隊を持つことで、武力による天下統一を目指しました。

武士たちを所領から城下に移住させ、農地から分離することで専業兵士としたのです。

【半農半士】と【兵農分離】のイメージ

これにより、半農半士から兵農分離が進み、訓練を積んだプロ兵士で構成された織田軍は、農繁期(のうはんき)に関係なく戦闘(せんとう)が行えるようになりました。

また、修練が必要な鉄砲隊(てっぽうたい)を組織するためにも、兵農分離は効果的なアイデアでした。

織田信長のイラスト
織田信長のハナシを読む

織田信長は、現在の愛知県西部にあたる尾張国の武将・大名です。桶狭間の戦いで今川義元の大軍をわずかな兵力で打ち破り、歴史の表舞台に鮮烈なデビューを飾ります。尾張一国から次第に勢力を拡大していき、天下統一まであと少しというところで家臣の明智光秀の謀反に遭い、燃えさかる本能寺で自刃しました。享年49。

豊臣秀吉は刀狩令とあわせて農民から武器を取り上げた

豊臣秀吉が行った兵農分離は、農民を農作業に専念させるのが目的でした。

織田信長の政策と同様に武士を村落から(はな)れた城下に住まわせるまでは同じですが、秀吉は農民の武装解除を徹底(てってい)する『刀狩令(かたながりれい)』を出します。

農民たちに一揆(いっき)や暴動を起こさせないようにするためでした。

【刀狩令】豊臣秀吉は農民から武器を取り上げた

豊臣秀吉が兵農分離と刀狩令(かたながりれい)を発した背景には、天下統一がありました。

1588年ごろは、秀吉が天下を取るのは間違(まちが)いない情勢となっていました。

秀吉がこれらの政策を打ち出したのは、天下を治めたのち、内乱によって豊臣政権が(おびや)かされないようにするための抑圧(よくあつ)でもあります。


もうずっと農民な!
身分統制令

天下統一を果たした翌年の1591年、秀吉は『身分統制令』を出します。

これは兵農分離の仕上げとも言える法令で、農民が武士になったり武士が農民になったりと身分を変えることを禁止するものでした。

農民を固定することで耕作人の労働力を確保する目的がありました。また、低い身分から成り上がった豊臣秀吉は、農民があなどれないことをよく知っていました。

豊臣秀吉のイラスト
豊臣秀吉のハナシを読む

豊臣秀吉(羽柴秀吉、木下藤吉郎)は、現在の愛知県西部にあたる尾張国の武将・大名です。貧しい身分の出ですが、織田信長のもとで頭角を現し、出世していきました。信長の死後、巧みな手腕で全国の大名を従えていき、天下統一を果たします。天皇に次いで身分が高い、関白・太政大臣まで上りつめました。享年62。

兵農分離と太閤検地がもたらした影響

豊臣秀吉が行った有名な政策に『太閤(たいこう)検地』があります。

秀吉は、統一された基準で全国の田畑を測量し、土地の価値を米の収穫量(しゅうかくりょう)で評価、ランク付けしました。

兵農分離と太閤(たいこう)検地は、農作物の生産性を向上させるうえで密接な関係にありました。

秀吉は、太閤(たいこう)検地で測量とあわせて田畑と農民を(ひも)づけます。所有者ではなく使用者を田畑と組み合わせることで生産量を管理しました。

これにより、農民は田畑から(はな)れられなくなります。

太閤(たいこう)検地によって管理された田畑は、生産者と収穫量(しゅうかくりょう)が見える化されたため、年貢(ねんぐ)をごまかせなくなりました。

農民を農地に固定して生産に(てっ)したことで効率が上がり、安定した年貢(ねんぐ)徴収(ちょうしゅう)が可能になりました。

兵農分離と士農工商の違い

江戸時代になると兵農分離はより強化され、これまでの兵士と農民を分ける思想に基づく身分的分離政策は、やがて武士を頂点とする社会に変わっていきます。

江戸幕府の治世では『士農工商』という身分制度が()かれます。

これは ”武士とその他” というもので、農工商(農民、職人、商人)これらに序列はなく、いずれも武士に税を納める義務を課せられた市民でした。

身分制度として教わっていた士農工商ですが、最新の解釈(かいしゃく)では、古代中国の儒学(じゅがく)からくる ”あらゆる人々” という意味の言葉とされています。そのため、教科書から士農工商は消えています。

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