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お待ちくだされ

うえすぎ けんしん

上杉謙信

1530.2.18 〜 1578.4.19

 
上杉謙信のイラスト
  

上杉謙信(輝虎、政虎、長尾景虎)は、現在の新潟県にあたる越後国の武将・大名です。領土拡大を目的とせず、義のために戦い、武田信玄や北条氏康を相手に出陣を繰り返しました。天才的な戦術、自ら先陣をきって敵陣に突入するなど、軍神と称されるカリスマ性もあり、ひくてあまたの最強助っ人でした。享年49歳。

上杉謙信は何をした人?このページは、上杉謙信のハイライトになった出来事をなるべく正しく、独特の表現で紹介しています。きっと上杉謙信が好きになる「最強・無敗の毘沙門天の化身は正義のためにのみ戦った」ハナシをお楽しみください。

  • 名 前:長尾景虎 → 上杉政虎 → 上杉輝虎 → 上杉謙信
  • 幼 名:虎千代
  • あだ名:越後の龍、毘沙門天、軍神
  • 官 位:従五位下、弾正少弼、贈従二位
  • 幕 府:越後守護代、関東管領
  • 戦 績:71戦 61勝 2敗 8分
  • 出身地:越後国(新潟県)
  • 領 地:上野国、越後国、越中国、能登国
  • 居 城:春日山城
  • 子ども:5養 1猶
  • 跡継ぎ:上杉景勝
  • 父と母:長尾為景 / 虎御前
  • 養 父:長尾晴景、上杉憲政

最強・無敗の毘沙門天の化身は正義のためにのみ戦った

依怙えこによって弓矢は取らぬ。ただ筋目をもって何方いずかたへも合力ごうりき
(超訳:私利私欲では戦わない。だけど誰であれ道理が正しい者には力を貸すよ)

これは、義の将として知られる上杉謙信の信念です。他の戦国大名たちと違って、上杉謙信は自身の領土拡大のために戦うことをしませんでした。他人に奪われた土地を、もとの所有者に取り返すために出陣を繰り返しました。

上杉謙信は越後(えちご)守護代・長尾氏に生まれ、はじめ長尾景虎と名乗ります。早熟の天才だったので、15歳の初陣(ういじん)から越後(えちご)の豪族衆を圧倒して連戦連勝。キラ星のごとくデビューしました。

その頃、兄・長尾晴景は病弱なうえに遊び好きで、実質的な越後(えちご)の統治者としての求心力はなく、家来たちの気持ちがすっかり離れていました。そこで、めちゃ強い弟・長尾景虎を当主に!というムーブメントが起こり、1548年に兄と交代して長尾氏当主になりました。


次から次へと
頼られる

誰もが野心を抱いていた越後(えちご)の豪族たちも、長尾景虎には子猫のように従いました。そのカリスマ性がさらなる誘因(ゆういん)となって、越後国(えちごのくに)の外からも難民が駆け込んできます。

1552年に関東管領(かんれい)・上杉憲政が、急速に領土拡大を進める北条氏康に追われて越後(えちご)に逃げてきます。関東で一番えらい管領(かんれい)から土地を奪うとは許せん。すぐに出陣して北条氏康から領地を取り返しました。

この活躍で名声は爆上がりし、北条氏に敗れた関東一帯の豪族たちからも「助けにきて」のボードが掲げられ、まるでアイドルのようにチヤホヤされます。

上杉謙信を頼る人たちの図

1557年に上杉憲政の養子になった長尾景虎は、1561年に関東管領(かんれい)に就任し、上杉政虎に名を変え、輝虎、謙信と改名していきます。名実ともに関東のボスになったのです。

上杉憲政が逃げ込んできたのと同じ頃、武田晴信(信玄)に領地を奪われた信濃(しなの)の豪族・村上義清が越後に逃げてきます。この出来事が、かの有名な川中島の戦いへと発展していくのでした。


伝説の一戦
川中島の戦い

武田信玄との川中島の戦いは、1553年から1564年までのあいだに5回も行われました。一般的に川中島の戦いとして知られるのは、1561年の第4次八幡原(はちまんばら)の戦いです。

この戦いで上杉謙信は天才的なセンスを発揮します。

上杉本陣を別働隊に襲わせて追い出し、八幡原(はちまんばら)で上杉謙信を待ち構えようとする武田信玄の作戦の裏をかいて、あべこべに奇襲をかけたのです。

川中島の戦い(第4次・八幡原の戦い)の図

このとき上杉謙信は、前日の夕方に海津城(かいづじょう)から上がる煙が多いことに気づき、武田軍が動くと予想しました。すなわち、兵を2つに分けて片方に上杉本陣を襲わせると見抜いたわけです。あえて本陣のかがり火をつけたまま、上杉謙信は闇夜(やみよ)にまぎれて八幡原(はちまんばら)に向かいました。

現在の長野県北部、信濃川(しなのがわ)上流の川中島あたりは早朝に濃い(きり)が発生します。(きり)のなかから突然あらわれた上杉軍は『車懸(くるまが)かりの陣』と呼ばれる珍妙(ちんみょう)なフォーメーションでぐるぐる回りながら武田軍に襲い掛かりました。

上杉軍からひとり飛び出した上杉謙信は信玄めがけて一騎駆(いっきが)けし、武田本陣に突入して信玄を複数回斬りつけました。信玄はこれを軍配で受けたとする『三太刀七太刀(みたちななたち)』が、川中島の戦いのハイライトとして伝わっています。

【三太刀七太刀】川中島の戦いで一騎討ちをする上杉謙信と武田信玄

早朝からはじまった激戦は、午後4時まで戦って決着がつきませんでしたが、戦国史上最高の引き分けとなりました。


生涯70戦
勝率96.8%

川中島の戦いも含め、70戦以上も戦った上杉謙信には決定的な負けがひとつもなかったといいます。96.8%という勝率に驚きますが、全盛期の武田信玄や北条氏康といった超強豪を同時に相手していたことを考えると異常な強さです。

上杉謙信の存在が長年にわたって武田信玄の領土拡大を(はば)んでいたことは言うまでもなく、北条氏に至っては本拠地である小田原城まで攻めていき、たびたび北条氏康の関東支配をリセットしました。

北条討伐を目的とした関東出兵は、1553年から1569年までの17年間、毎年のように繰り返され、越後国(えちごのくに)から相模国(さがみのくに)(新潟県〜神奈川県)まで縦断することもありました。上杉謙信の関東出兵には、呼びかけに応じた10万もの兵が集まりました。

圧倒的な強さで勝利しつづけた上杉謙信は、争いに敗れて領地を失った者たちの駆け込み寺のような存在でした。勝利しても、戦利として他人の領土を得ることはありませんでした。

生涯を簡単に振り返る

1530年、上杉謙信は越後国(えちごのくに)・春日山城に守護代である長尾為景の四男として生まれます。初陣で異常な強さを見せたことで、越後(えちご)国内の豪族から注目されます。病弱の兄・晴景に代わって守護代になり、豪族衆を斬り従えました。越後国(えちごのくに)の外にも評判が及んで、関東管領(かんれい)の上杉憲政や、信濃国(しなののくに)の村上義清などが頼ってきました。

武田信玄の信濃(しなの)侵攻を(はば)む川中島の戦いをはじめ、北条氏康の支配から関東の諸城を奪還する戦いに生涯の大半を費やします。晩年は越中国(えっちゅうのくに)能登国(のとのくに)に出陣し、一向一揆に支配されていた土地の解放につとめたのち、室町幕府を滅ぼした織田信長の討伐に立ち上がりました。

最後と死因

手取川(てどりがわ)の戦いで織田軍を蹴散らし、冬を前に引き揚げました。雪解けを待って再始動するはずでしたが、ある寒い日に(かわや)で倒れて昏睡(こんすい)し、3日後に上杉謙信は越後国(えちごのくに)・春日山城で亡くなりました。1578年4月19日、死因は脳溢血(のういっけつ)。49歳でした。突然のことで遺言も残さず、後継者を決めないまま旅立ってしまいました。

領地と居城の移り変わり

上杉謙信の領地・勢力図(1555年)
上杉謙信の領地・勢力図(1577年)

越後国(えちごのくに)から北陸道沿いと、関東の一部を合わせた170万石ほどが上杉謙信の領地でした。領土拡大の野心を持たなかった上杉謙信は「○○から取り返す」という感覚で、上野国(こうづけのくに)越中国(えっちゅうのくに)を攻め取りました。一時的に武蔵国(むさしのくに)まで制圧しました。

なぜ毘沙門天の化身なのか?

上杉謙信が毘沙門天の化身とされた理由
  • 自分を毘沙門天の生まれ変わりと信じていた。
  • 信仰のためにストイックな戒律を守り続けた。
  • 軍旗に毘沙門天の「毘」をあしらっていた。

仏教の世界で毘沙門天(びしゃもんてん)とは、七難を避け七福を与えるとされる北の守り神です。幼い頃に仏門に入って学んだ上杉謙信は、日本の北に位置する越後(えちご)に生まれた自分を北方を守護する者、すなわち毘沙門天(びしゃもんてん)であると考えるようになりました。

上杉謙信は仏教の戒律(かいりつ)である「不殺生(ふせっしょう)」「不偸盗(ふちゅうとう)」「不邪淫(ふじゃいん)」「不妄語(ふもうご)」「不飲酒(ふおんじゅ)」を理由に、領土侵攻を好まず、調略など(だま)す行為も嫌っていました。男女の交わりを禁ずる不邪淫(ふじゃいん)の教えにより、妻を(めと)りませんでした。

毘沙門天(びしゃもんてん)が闘いの神様であることから、白地の布に「()」の一文字を刻んで軍旗とし、勝利と加護を祈願しました。戦っては負けなしの上杉謙信を毘沙門天(びしゃもんてん)=軍神と呼ぶようになったのです。

上杉謙信の性格と人物像

上杉謙信は「頼まれると断れない人」です。

他人のための合戦に明け暮れた結果、戦えども給料は増やせず、家臣の離反に苦労しています。自分も家来も得しないけど、頼まれたら行くっきゃないのが謙信です。

領土経営にはほとんど興味を示しません。相手が降伏する → 許す → 裏切られるを繰り返しており、やっつけたあとを固めるのが苦手でした。クセが強い家臣団の統制に嫌気がさして、家出をしてしまうナイーブなところも。信玄の訃報(ふほう)を聞いて食事中の(はし)を落としてしまい、ボロボロ泣いたといいます。

自分に自信があるあまり決断を他者に委ねることはしません。独断専行(どくだんせんこう)で謙信が決めます。時折、人を人とも思わぬ振る舞いをしてしまうので、近寄り難い雰囲気があります。女性をまったく寄せ付けず、側室はおろか正室すらいません。

ふくよかな体型で、身長156cmくらい。切れ長の目は威圧感がありました。派手な色を好み、毎日ちがう服装をするお洒落さん。愛読書は『源氏物語』で、恋の歌が好き。恋歌を()むのも得意です。琵琶(びわ)も上手に弾きます。お酒が大好きで、梅干しで晩酌するのがルーチン。禁酒の戒律(かいりつ)は守っていません。

毘沙門天(びしゃもんてん)を熱烈に崇拝(すうはい)しており、春日山城の敷地内に毘沙門堂(びしゃもんどう)をつくりました。毎日そこでお祈りし、長いと16時間も瞑想(めいそう)してしまいます。

子どもの頃は乱暴な性格で年上の子も泣かせるほど。頭が良く大人びていて、城のジオラマをつかった戦略ごっこが大好きでした。

上杉謙信のものとして伝わる甲冑や武具が多数残っています。奇抜な装飾の変わり兜を好みました。怒った顔が3つも付いたアバンギャルドな兜『三宝荒神形張懸兜(さんぽうこうじんなりはりかけかぶと)』や、スタイリッシュな銀色の南蛮具足(なんばんぐそく)烏帽子(えぼし)の形をした金ピカの兜など、いずれもハイセンスです。

能力を表すとこんな感じ

上杉謙信の能力チャート

自分には矢も鉄砲も当たらないと思っており、上杉謙信は戦場でも単騎で先頭を駆けていました。圧倒的な個の強さに加えて、天才的な感覚で奇想天外(きそうてんがい)勝負手(しょうぶて)を打ちます。あまりの豪胆(ごうたん)さに、敵もウットリさせてしまいます。

信長の野望シリーズに登場する上杉謙信の能力値も参考にしています。

信長の野望・新生

定番シミュレーション最新作で天下をねらえ!ひかえめに言って傑作

上杉謙信の面白い逸話やエピソード

じつは女性だったかもしれない「謙信女性説」

謙信には子どもがいなかったので、姉の子・上杉景勝が上杉氏をつぎました。スペインの船乗りが記した報告書に ”カゲカツ・ウエスギは叔母(おば)が開発した金山のカネをしこたま持ってる” という記述があり、上杉景勝の叔母(おば)=謙信? ← え?女性だったの?という『謙信女性説』が浮上しました。

いわれてみると、謙信所用として伝わる物の数々があやしく見えてきます。

たとえば、鮮やかな赤に羽模様の着物、お気に入りの馬上杯は水色のお花柄、オレンジ色のパッチワークが施されたガーリーな馬の(くら)

上杉謙信は女性だったという説がある

諸将に宛てたレターは繊細で美しい文字。毎日ちがうファッションを楽しみ、恋愛を描いた源氏物語屏風(びょうぶ)織田信長からプレゼントされて喜ぶかわいい人柄。

どれも(ひげ)モジャのおじさんではない気がします。

そもそも、(ひげ)モジャ謙信の肖像画は、江戸時代になってから描かれたもので、実像を模写したものではありません。上杉家の菩提寺(ぼだいじ)である林泉寺(りんせんじ)には、(ひげ)がなく女性っぽい姿をした謙信の肖像画が伝わっています。

松平忠明が記した『当代記』で、謙信の死因は大虫(おおむし)と書かれており、大虫(おおむし)とは婦人病のことだったりします。無敵の謙信も、毎月10日前後ひどい腹痛に悩まされていたとか、民衆が謙信の強さを称えて ♪男もおよばぬ大力無双♪ と歌っていた話も残っており、もはや女性としか思えません。

上洛(じょうらく)したおりに招かれた歌会で、謙信が()んだ恋の歌が参加者から絶賛されました。

”つらかりし 人こそあらめ祈るとて 神にもつくすわかこころかな”
(超訳:あの人を想うと切ない!でも私は神さまのものなの)

敵に塩を送るツンデレで大嫌いな信玄を助けてしまう

謙信は、呪いをかけてしまうほど武田信玄のことが嫌いでした。しかし、そんな信玄が今川氏真と関係が悪化し、経済制裁をうけて塩の流通を止められてしまいます。山国の甲斐(かい)では塩がとれず、信玄が困っていると謙信は塩を送ってあげました。

これが「敵に塩を送る」です。”たとえ敵でも困っていたら助ける” という意味のことわざとして言い伝わりました。

合戦でカタをつければいいものを、塩なんぞで弱らせようとする今川のやりかたが気に入りませんでした。感激した信玄は立派な刀をお礼として謙信に贈り『塩留(しおど)めの太刀(たち)』と呼ばれて現在も保管されています。

上杉謙信の有名な戦い

栃尾城の戦い とちおじょうのたたかい 1544.? ● 越後豪族衆? vs 長尾軍? ○

15歳の城主・長尾景虎の実力を甘く見ていた越後の豪族が、栃尾城(新潟県長岡市栃尾町)に対して力攻めを強行した。景虎は兵を二手に分け、一方で守勢を演じ、もう一方で敵の背後を突いた。豪族衆が混乱したところで城内から突撃し、快勝で初陣を飾った。

栃尾城の戦いで上杉謙信は勝っています。
誰かのために戦う謙信のスタイルは、デビュー戦の栃尾城の戦いからはじまっています。兄のために戦った15歳の見事な采配は、豪族たちを魅了して越後(えちご)のリーダーとして期待が高まりました。

唐沢山城の戦い からさわやまじょうのたたかい 1560.? ● 北条軍3万5千 vs 長尾軍? ○

下野の唐沢山城(栃木県佐野市富士町)を北条氏政が3万の大軍で包囲。城主・佐野昌綱は絶対絶命の窮地に立たされた。槍だけを持ち、鎧もつけずに現れた長尾景虎は、40騎ほどの手勢で北条軍の中央を突破し、唐沢山城の救援に駆けつけ、北条軍を撤退させてしまった。

唐沢山城の戦いで上杉謙信は勝っています。
駆けつけた謙信は北条軍の真んなかを鎧も着けずに走り抜け、ヒラリと馬から降りて3万の兵の目の前で悠々と馬に水を飲ませました。謙信の豪胆さを伝えるエピソードです。

小田原城の戦い おだわらじょうのたたかい 1561.3.3 〜 4.? ● 上杉&長尾軍10万 vs 北条軍?万 ○

北条氏を討伐するため北条氏政が篭る小田原城(神奈川県小田原市城内)を長尾景虎が包囲した合戦。関東の諸将を募って10万を越える兵で迫った。関東勢の太田資正が蓮池門に突入したが、隠居した北条氏康らの粘り強い守りもあって、1か月攻めても落城する気配はなかった。

小田原城の戦いで上杉謙信は引き分けています。
小田原城を包囲した謙信は、大勢の北条兵の前に現れると、お弁当をひろげて食べはじめました。ピクニック気分の謙信に向かって数人の城兵が発砲しますが、鉄砲玉は1発も当たらず。謙信は何もなかったように食事を済ませて自陣に戻ったといいます。

川中島の戦い かわなかじまのたたかい 1561.10.18 △ 上杉軍1万3千 vs 武田軍2万 △

北信濃を国人衆のもとに取り戻そうとする上杉謙信と、これを支配しようとする武田信玄の合戦。千曲川(長野県長野市小島田町)を挟んで5回対戦したが、決着はつかず。激戦となった第4次・八幡原の戦いでは、謙信が武田本陣に突撃し、信玄を斬りつけたエピソードがある。

川中島の戦いで上杉謙信は引き分けています。
上杉謙信のターニングポイントになった戦いです。
武田信玄との因縁(いんねん)対決は、壮絶な痛み分けとなりました。川中島の戦いは戦国時代に興味がない人でも聞いたことがある有名な戦いで、合戦史のベストゲームのひとつです。民衆の娯楽として語り継がれました。

七尾城の戦い ななおじょうのたたかい 1577.7.? 〜 9.15 ○ 上杉軍2万 vs 畠山軍1万5千 ●

能登の征圧を目指す上杉謙信が畠山氏の七尾城(石川県七尾市古屋敷町)を2回にわたって攻めた合戦。城内で疫病(腸チフス)が蔓延し、城兵が次々と死亡。畠山氏を操っていた長続連を遊佐続光が殺害し、開城・降伏した。日本最大級の山城に篭る鉄砲隊に謙信も苦戦した。

七尾城の戦いで上杉謙信は勝っています。
信長討伐のために、上洛(じょうらく)ルートの確保が急務だった謙信は、能登(のと)を制圧する必要がありました。堅城に苦戦しましたが、珍しく調略を駆使して粘り強く戦いました。夏場の籠城戦で城内が不衛生になったことが、決め手となりました。

手取川の戦い てどりがわのたたかい 1577.11.3 ● 織田軍4万 vs 上杉軍2万 ○

加賀に侵攻した織田軍の柴田勝家は、七尾城が上杉軍に落とされたことを知り、撤退を開始。これを上杉謙信が急襲し、手取川(石川県白山市湊町)で粉砕した合戦。パニックの様子を伝える「上杉に逢うては織田も手取川、はねる謙信逃げるとぶ長」という狂歌が残っている。

手取川の戦いで上杉謙信は勝っています。
信長は参戦していませんでしたが、猛将で知られる柴田勝家が率いた織田軍を瞬殺しています。この戦いが上杉謙信の最後の合戦となりました。

上杉謙信の詳しい年表と出来事

上杉謙信は西暦1530年〜1578年(享禄3年〜天正6年)まで生存しました。戦国時代中期から後期に活躍した武将です。

15301長尾為景の四男として越後国に生まれる。幼名:虎千代
15367春日山城下の林泉寺に入る。
父・長尾為景が死去。兄・長尾晴景が家督を相続。
154314元服 → 長尾(平三)景虎
三条城 ならびに 栃尾城の城主になる。
154415”栃尾城の戦い”初陣。豪族衆に栃尾城が攻められる。これを撃退する。
154516”黒滝城の戦い”黒田秀忠が長尾氏に叛く。これを降伏させる。
154819兄・長尾晴景の養子になり家督を相続。
155122”坂戸城の戦い”長尾政景が長尾氏に叛く。これを降伏させる。
越後国を平定。
155223北条氏康に上野国を追われた関東管領・上杉憲政が頼ってくる。
山内上杉領を奪還し北条氏を追い払う。
155324武田晴信(信玄)に信濃国を追われた村上義清が頼ってくる。
”第1次川中島の戦い”武田領・信濃国に進撃する。荒砥城、青柳城で交戦するが塩田城に篭る武田晴信が決戦を避けたので引き揚げる。
上洛して後奈良天皇、将軍・足利義輝に謁見する。後奈良天皇より私敵治罰の綸旨を得る。
155425武田晴信の調略で北条高広が長尾氏に叛く。
155526”北条城の戦い”北条高広の謀反を鎮圧。帰参を許す。
武田領・旭山城の向かいに裾花川を挟んで葛山城を築く。
”第2次川中島の戦い”武田領・信濃国に進撃する。200日あまり対陣する。今川義元の仲介で和睦、撤退する。
155627突然、出奔する。長尾政景ら家臣の説得により春日山城に帰る。
”駒帰の戦い”武田晴信の調略で大熊朝秀が長尾氏に叛く。これを鎮圧する。大熊朝秀は武田氏に亡命する。
155728更科八幡宮に武田晴信の討伐を祈願する。
”第3次川中島の戦い”武田領・信濃国に進撃する。山田城、福島城を攻略。長沼城、善光寺城を奪還。破却されていた武田氏の旭山城を接収、修築する。埴科郡、小県郡まで侵入。武田氏の援軍・北条綱成と交戦。足利義輝の仲介で和睦。
高梨政頼ら北信濃国衆を家臣として取り込む。
上杉憲政の養子になる。
155829下野国に進撃する。
小山領・祇園城、壬生領・壬生城を攻略。宇都宮領・多功城、上三川城を攻める。
越中国の内紛に介入して椎名康胤を支援する。武田晴信が対抗して神保長職を支援する。
従弟・長尾景直を椎名康胤の養子にする。
155930上洛して正親町天皇、将軍・足利義輝に謁見する。関東管領就任の許可を得る。
156031椎名康胤が神保長職に攻められる。越中国に向かい神保長職を追い払う。
北条領・上野国に進撃する。長野業正の支援を受けて、小川城、名胡桃城、明間城、沼田城、岩下城、白井城、那波城、厩橋城など上杉憲政の旧領を奪還。
”唐沢山城の戦い”下野国・唐沢山城の佐野昌綱が北条氏に攻められ、これを助ける。
関東の諸勢力に北条討伐の檄を飛ばす。10万の兵が集まる。
156132北条氏の討伐に向かう。武蔵国に進撃、深谷城、忍城、羽生城を掌握。相模国に進撃、鎌倉を攻め落とす。
古河御所を制圧。北条派の足利義氏を追放して足利藤氏を古河御所に迎える。
”小田原城の戦い”北条氏の居城を1か月ほど攻め続けて蓮池門を破壊。戦いが長引き関東諸勢力が勝手に撤兵する。武田信玄が信濃国に侵攻した知らせを受けてやむなく撤退。
相模国・鶴岡八幡宮で関東管領職の就任式を行う。上杉憲政から山内上杉氏の家督と関東管領職を譲り受ける。
改名 → 上杉政虎
”松山城の戦い”上田朝直が長尾氏に叛く。これを鎮圧する。扇谷上杉当主・上杉憲勝を松山城に入れる。
武田家臣・今井信良に謀反を起こさせる。
”第4次川中島の戦い”武田氏の討伐に向かう。妻女山に布陣し決戦に備える。武田軍の作戦を見破って奇襲に成功する。本陣に斬り込み武田信玄を負傷させる。両軍が激突し壮絶な痛み分け。
改名 → 上杉輝虎
156233越中国に進撃する。神保長職を降伏させる。
156334武蔵国に進撃する。忍城・成田長康を降伏させる。
下野国に進撃する。唐沢山城・佐野昌綱を降伏させる。
下総国に進撃する。結城晴朝を降伏させる。
156435”山王堂の戦い”北条氏に寝返った小田氏治を制圧、小田城を攻略。
反旗を翻した唐沢山城の佐野昌綱を降伏させる。
飛騨国の内紛に介入して江馬輝盛を支援する。武田信玄が対抗して江馬時盛を支援する。
武田氏の介入で江馬輝盛が劣勢になる。
”第5次川中島の戦い”飛騨国の情勢を受けて武田領・信濃国に進撃する。60日ほど対陣する。武田方から組討ちを提案され勝利する。信濃国・川中島の領有権を得る。
長尾政景と姉の次男・長尾顕景(上杉景勝)を養子にする。
156536”第1次関宿合戦”北条氏に攻められる古河公方・足利氏の救援に向かう。
上野国・箕輪城が武田信玄によって攻略されたため関宿城から撤退する。
156637”臼井城の戦い”下総国・臼井城を攻める。松田康郷に阻まれ撤退する。
156738今川氏から交易を止められた武田信玄に塩を流通する。
156839”放生津の戦い”武田信玄の調略で椎名康胤が上杉氏から離反する。越中征伐に向かい一向一揆と戦う。
武田信玄の調略で本庄繁長が上杉氏に叛く。越中征伐を断念しこれの鎮圧に向かう。【本庄繁長の乱】
本庄繁長に加担する出羽国・大宝寺義増を攻めて降伏させる。
今川氏真から武田領・信濃国への侵攻を要請されるが、断る。
”第2次関宿合戦”下総国・関宿城を包囲していた北条氏照を撤退させる。
156940蘆名盛氏の仲介で本庄繁長が降伏、帰参を許す。
北条氏康に関東管領職を認めさせて和睦。同盟を結ぶ。【越相同盟】
上野国の北条派の豪族たちが降伏する。
将軍・足利義昭から武田信玄との和睦を呼びかけられ応じる。【甲越和与】
157041北条氏の要請を受け、武田氏と交戦。
北条氏康の七男・北条三郎(上杉景虎)を養子にする。
改名 → 上杉(不識庵)謙信
157142北条氏康が死去。北条氏政が武田信玄と同盟を結ぶ。
北条氏との同盟が破談。
157243”尻垂坂の戦い”武田信玄の調略によって扇動された一揆衆を鎮圧する。
157445”第3次関宿合戦”北条氏に攻められる古河公方・足利氏の救援に向かう。北条領・武蔵国を焼き討ちする。佐竹義重の仲介により関宿城が開城降伏したため撤退する。
157546将軍・足利義昭の呼びかけで武田勝頼と和睦する。北条氏政との和睦は拒否。【甲相越三和】
157647一向一揆に支配されていた越中の諸城を次々と攻略。蓮沼城を陥落させ、椎名康胤を討ち取る。
越中国を平定。
石山本願寺と和睦する。
毛利氏、上杉氏、石山本願寺による三者同盟を結ぶ。
”第1次七尾城の戦い”能登国に進撃する。七尾城を包囲するが撤退。
将軍・足利義昭の織田信長討伐に加勢する。【第3次信長包囲網】
157748”第2次七尾城の戦い”疫病の蔓延や遊佐続光の内通によって七尾城が開城・降伏。
末森城を攻略。
能登国を平定。
”手取川の戦い”柴田勝家を総大将とする織田軍を撃破。
157849越後国・春日山城で病死。
戦国時代で上杉謙信が生きた期間の表

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