上杉謙信
1530.2.18 〜 1578.4.19

上杉謙信(輝虎、政虎、長尾景虎)は、現在の新潟県にあたる越後国の武将・大名です。領土拡大を目的とせず、義のために戦い、武田信玄や北条氏康を相手に出陣を繰り返しました。天才的な戦術、自ら先陣をきって敵陣に突入するなど、軍神と称されるカリスマ性もあり、ひくてあまたの最強助っ人でした。享年49歳。
- 戦国三英傑(信長・秀吉・家康)くらべてみよう、ホトトギス
- 伊達政宗の名言集「この世に客に来たと思えば何の苦もなし」
- 真田幸村の名言集「関東勢百万も候へ、男は一人もなく候」
- 石田三成の名言集「大一大万大吉、一人は万民のため、万民は一人のため」
- 上杉謙信の武将タイプ
- 信仰
上杉謙信は何をした人?どんな人?このページでは、上杉謙信のハイライトとなった出来事や逸話を紹介しています。あなたもきっと上杉謙信のことを誰かに話したくなります。
- 名 前:長尾景虎 → 上杉政虎 → 上杉輝虎 → 上杉謙信
- 幼 名:虎千代
- あだ名:越後の龍、毘沙門天、軍神
- 官 位:弾正少弼
- 戦 績:71戦 61勝 2敗 8分
- 出身地:越後国(新潟県)
- 領 地:上野国、越後国、越中国、能登国
- 居 城:春日山城
- 子ども:5養 1猶
- 跡継ぎ:上杉景勝
- 父と母:長尾為景 / 虎御前
最強・無敗の毘沙門天の化身は正義のためにのみ戦った
「依怙によって弓矢は取らぬ。ただ筋目をもって何方へも合力す」これは、私利私欲で戦をすることはしない。ただ誰であれ道理が正しい者に力を貸す。という意味の上杉謙信の信念です。
白地に『毘』と書かれた毘沙門天の旗を掲げて、生涯で通算70回ほど出陣した上杉謙信は、武田信玄をはじめ、北条氏康、織田信長といった強敵とばかり戦ったにもかかわらず、決定的な負けはひとつもなかったといいます。
上杉謙信の勝率は、なんと96.8%!脅威の戦績でした。
圧倒的な強さから「軍神」と崇められました。北方の守護神である毘沙門天を崇拝した上杉謙信は、北国越後に生まれた自らを毘沙門天の生まれ変わりと信じていました。事実、神がかり的な武勇伝をいくつも残しています。
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川中島の武勇伝
霧のカウンターアタック
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因縁の相手、武田信玄とは1553年にはじめて対決して以来、1564年までのあいだに5回も川中島で戦っています。一般的に知られる川中島の戦いとは、1561年に行われた第4次決戦のことです。
八幡原の戦いとも呼ばれる第4次川中島の戦いで、上杉謙信の卓越した戦術眼が冴えわたります。
もう4回目の対決ということもあって、両者には ”ここで決着をつける” という強い意志がありました。武田信玄は兵を2つに分ける『啄木鳥戦法』を採用します。一方が上杉謙信の本陣をつついて追い出し、待ち伏せる信玄がこれを叩くという予定でした。
しかし上杉謙信は、武田信玄の啄木鳥戦法を完全に見破ります。
信玄が上杉本陣をつつく数時間前、上杉謙信は海津城の武田陣営から普段よりも多く煙が上がるのを見逃しませんでした。「タケダが動く」と直感した上杉謙信は、妻女山の本陣のかがり火を灯したまま下山し、闇夜に紛れて千曲川から八幡原に向かいました。

前日の天気から、早朝が濃霧になることも計算していました。霧のカーテンに包まれた上杉軍は、気づかれることなく武田信玄の本隊に接近し、怒号とともに一気に襲いかかりました。
浮き足立つ武田陣営に、上杉謙信は『車懸かりの陣』という珍妙なフォーメーションで、ぐるぐる回りながら猛攻撃を加えます。竜巻のようにフレッシュな部隊が次々と入れ替わり、波状攻撃を仕掛けました。
会心のカウンターアタックを決めた上杉勢は、信玄の弟・武田信繁や軍師・山本勘助といった武田の重臣たちを討ち取りました。
早朝からはじまった激戦は、妻女山から合流した武田別働隊も加わり、さらに激しいものとなりました。午後4時まで戦い、決着がつかないまま痛み分けとなりました。
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川中島の武勇伝
武田信玄と一騎討ち
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川中島の戦いでは、ひとりで駆けて行った上杉謙信が武田本陣に突入して、武田信玄を斬りつけた場面が有名です。なんども信玄に斬りかかり、軍配で防いでいた信玄の肩にヒットしたといいます。

この一騎討ちは『三太刀七太刀』と呼ばれ、川中島の戦いのハイライトシーンとして語り継がれています。たったひとりで信玄のところまで行ってしまいました。
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長尾景虎から
上杉謙信へ
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”弱きを助け強きをくじく” を地でいく上杉謙信は、助けを求められれば必ず応えました。もっぱら、上杉謙信にくじかれる強き者とは北条氏康のことで、1552年から1569年までに幾度となく関東に出兵しました。
関東管領・上杉憲政は、北条氏康との争いに敗れて上野国を追われました。憲政は越後の長尾景虎をにヘルプを頼みます。この長尾景虎こそ、のちの上杉謙信でした。越後から南下して北条征伐に向かうと、次々と北条氏の城を落として、鎌倉、小田原まで攻めて行きました。
北条氏から土地を取り戻したことに感謝した上杉憲政から、1561年に山内上杉氏の家督と関東管領職を譲り受けて、長男景虎は上杉謙信になったのでした。
生涯をざっくり振り返る
1530年、上杉謙信は越後国・春日山城に守護代・長尾為景の四男として生まれます。初陣で異常な強さを見せたことで、越後国内の豪族衆から注目されます。病弱の兄・長尾晴景に代わって守護代になり、豪族衆を斬り従えました。越後国の外にも評判が及んで、関東管領の上杉憲政や、信濃国の豪族・村上義清などが頼ってきました。
生涯の大半を北条氏康や武田信玄に奪われた土地を取り返す戦いに明け暮れます。織田信長が室町幕府と敵対すると討伐に立ち上がりますが、信長打倒は果たせず、1578年に越後国・春日山城で亡くなりました。死因は脳溢血です。49歳でした。
私利私欲が一切なく、戦いはすべて正義のため。生涯不犯、卑怯や調略を嫌い、正々堂々と真正面から戦いました。立場や役職を重んじ、古くからの慣習を大切にしています。戦国時代なら当たり前だった、他人の領地を奪うことが許せませんでした。

越後国から北陸道沿いと、関東の一部を合わせた170万石ほどが上杉謙信の領地でした。領土拡大の野心を持たなかった上杉謙信は「○○から取り返す」という感覚で、上野国や越中国を攻め取りました。一時的に武蔵国まで制圧しました。
上杉謙信の性格と人物像
上杉謙信は「頼まれると断れない人」です。
他人のための合戦に明け暮れた結果、戦えども給料は増やせず、家臣の離反や統制に苦労しました。自分も家来も得はしないけど、頼まれたら行くっきゃないのが謙信です。
毘沙門天を熱烈に崇拝しており、春日山城の敷地内に毘沙門堂をつくりました。毎日そこでお祈りし、長いと16時間も瞑想してしまいます。
領土経営にはほとんど興味を示しません。相手が降伏する → 許す → 裏切られるを繰り返しており、やっつけたあとを固めるのが苦手でした。クセが強い家臣団の統制に嫌気がさして、家出をしてしまうナイーブなところも。
自分に自信があるあまり、決断を他者に委ねることはせず、独断専行で謙信が決めます。時折、人を人とも思わぬ振る舞いをしてしまうので、近寄り難い雰囲気があります。女性をまったく寄せ付けなかったことも有名で、側室はおろか正室すらいません。
ふくよかな体型で、身長156cmくらい。切れ長の目は威圧感があったそうです。派手な色を好み、いつも違う服装をするお洒落さん。愛読書は『源氏物語』で、恋の歌が好き。恋歌を詠むのも得意です。琵琶も上手に弾きます。お酒が大好きで、梅干しで晩酌するのがルーチンでした。
子どもの頃は乱暴な性格で、年上の子も泣かせるほど。頭が良く、大人びていて、城のジオラマをつかった戦略ごっこが大好きでした。
上杉謙信のものとして伝わる甲冑や武具が多数残っています。奇抜な装飾の変わり兜を好みました。怒った顔が3つも付いたアバンギャルドな兜『三宝荒神形張懸兜』や、スタイリッシュな銀色の南蛮具足、烏帽子の形をした金ピカの兜など、いずれもハイセンスです。
心を奮い立たせるような名言を多く残しています。
能力を表すとこんな感じ

自分には矢も鉄砲も当たらないと思っており、戦場でも上杉謙信は単騎で先頭を駆けていました。圧倒的な個の強さに加えて、天才的な感覚で奇想天外な勝負手を打ちます。あまりの豪胆さに、敵もうっとりさせてしまいます。
上杉謙信の逸話やエピソード
じつは女性だったかもしれない「謙信女性説」
謙信には実の子どもがいなかったので、姉の子・上杉景勝が上杉氏をつぎました。スペインの船乗りが記した報告書に ”カゲカツ・ウエスギは叔母が開発した金山のカネをしこたま持ってる” という記述があり、上杉景勝の叔母=謙信? ← え?女性だったの?という『謙信女性説』が浮上しました。
いわれてみると、謙信所用として伝わる物の数々があやしく見えてきます。
たとえば、鮮やかな赤に羽模様の着物、お気に入りの馬上杯は水色のお花柄、オレンジ色のパッチワークが施されたガーリーな馬の鞍。

諸将に宛てたレターは繊細で美しい文字、毎日ちがうファッションを楽しみ、源氏物語屏風(恋愛もの)を織田信長からプレゼントされて喜ぶかわいい人柄。
どれも髭モジャのおじさんではない気がします。
そもそも、髭モジャ謙信の肖像画は、江戸時代になってから描かれたもので、実像を模写したものではありません。上杉家の菩提寺である林泉寺には、髭がなく女性っぽい姿をした謙信の肖像画が伝わっています。
松平忠明が記した『当代記』で、謙信の死因は大虫と書かれており、大虫とは婦人病のことだったりします。無敵の謙信も、毎月10日前後ひどい腹痛に悩まされていたとか、民衆が謙信の強さを称えて ♪男もおよばぬ大力無双♪ と歌っていた話も残っており、もはや女性としか思えません。
上洛したおりに招かれた歌会で、謙信が詠んだ恋の歌が参加者から絶賛されました。
”つらかりし 人こそあらめ祈るとて 神にもつくすわかこころかな”
(超訳:あの人を想うと切ない!でも私は神さまのものなの)
敵に塩を送るツンデレで大嫌いな信玄を助けてしまう
謙信は、呪いをかけてしまうほど武田信玄のことが嫌いでした。しかし、そんな信玄が今川氏真と関係が悪化し、経済制裁をうけて物資の流通を止められてしまいます。山国の甲斐では塩がとれず、信玄が困っていると、謙信は塩を送ってあげました。
合戦でカタをつければいいものを、塩なんぞで弱らせようとする今川氏真のやりかたが、謙信は気に入らなかったとか。感激した信玄は、立派な刀をお礼として謙信に贈り『塩留めの太刀』と呼ばれて現在も保管されています。
「べっ別にそんなんじゃないんだからっ」謙信が送った塩の話は、”たとえ敵でも困っていたら助ける” という意味のことわざとして、言い伝わりました。
上杉謙信の有名な戦い
15歳の城主・長尾景虎の実力を甘く見ていた越後の豪族が、栃尾城(新潟県長岡市栃尾町)に対して力攻めを強行した。景虎は兵を二手に分け、一方で守勢を演じ、もう一方で敵の背後を突いた。豪族衆が混乱したところで城内から突撃し、快勝で初陣を飾った。
栃尾城の戦いで上杉謙信は勝っています。
誰かのために戦う謙信のスタイルは、デビュー戦の栃尾城の戦いからはじまっています。兄のために戦った15歳の見事な采配は、豪族たちを魅了して越後のリーダーとして期待が高まりました。
下野の唐沢山城(栃木県佐野市富士町)を北条氏政が3万の大軍で包囲。城主・佐野昌綱は絶対絶命の窮地に立たされた。槍だけを持ち、鎧もつけずに現れた長尾景虎は、40騎ほどの手勢で北条軍の中央を突破し、唐沢山城の救援に駆けつけ、北条軍を撤退させてしまった。
唐沢山城の戦いで上杉謙信は勝っています。
駆けつけた謙信は、北条軍の真んなかを鎧も着けずに走り抜けると、ヒラリと馬から降りました。3万の兵の目の前で悠々と馬に水を飲ませたという、謙信の豪胆さを伝えるエピソードが残っています。
北条氏を討伐するため北条氏政が篭る小田原城(神奈川県小田原市城内)を長尾景虎が包囲した合戦。関東の諸将を募って10万を越える兵で迫った。関東勢の太田資正が蓮池門に突入したが、隠居した北条氏康らの粘り強い守りもあって、1か月攻めても落城する気配はなかった。
小田原城の戦いで上杉謙信は敗れています。
小田原城を包囲した謙信は、大勢の北条兵の前に現れると、お弁当をひろげて食べはじめました。ピクニック気分の謙信に向かって数人の城兵が発砲しますが、鉄砲玉は1発も当たらず、謙信は涼しげに食事を済ませて自陣に戻ったといいます。
北信濃を国人衆のもとに取り戻そうとする上杉謙信と、これを支配しようとする武田信玄の合戦。千曲川(長野県長野市小島田町)を挟んで5回対戦したが、決着はつかず。激戦となった第4次・八幡原の戦いでは、謙信が武田本陣に突撃し、信玄を斬りつけたエピソードがある。
川中島の戦いで上杉謙信は引き分けています。
上杉謙信のターニングポイントになった戦いです。
武田信玄との因縁対決は、壮絶な痛み分けとなりました。川中島の戦いは、戦国時代に興味がない人でも聞いたことがある有名な戦いで、合戦史のベストゲームのひとつです。民衆の娯楽として語り継がれました。
能登の征圧を目指す上杉謙信が畠山氏の七尾城(石川県七尾市古屋敷町)を2回にわたって攻めた合戦。城内で疫病(腸チフス)が蔓延し、城兵が次々と死亡。畠山氏を操っていた長続連を遊佐続光が殺害し、開城・降伏した。日本最大級の山城に篭る鉄砲隊に謙信も苦戦した。
七尾城の戦いで上杉謙信は勝っています。
信長討伐のために、上洛ルートの確保が急務だった謙信は、能登を制圧する必要がありました。堅城に苦戦しましたが、謙信としては珍しく調略を駆使して、粘り強く戦いました。夏場の籠城戦で城内が不衛生になったことが、決め手となりました。
加賀に侵攻した織田軍の柴田勝家は、七尾城が上杉軍に落とされたことを知り、撤退を開始。これを上杉謙信が急襲し、手取川(石川県白山市湊町)で粉砕した合戦。パニックの様子を伝える「上杉に逢うては織田も手取川、はねる謙信逃げるとぶ長」という狂歌が残っている。
手取川の戦いで上杉謙信は勝っています。
信長は参戦していませんでしたが、猛将で知られる柴田勝家が率いた織田軍を瞬殺しています。この戦いが上杉謙信の最後の合戦となりました。
上杉謙信の詳しい年表と出来事
上杉謙信は西暦1530年〜1578年(享禄3年〜天正6年)まで生存しました。戦国時代中期から後期に活躍した武将です。
1530 | 1 | 長尾為景の四男として越後国に生まれる。幼名:虎千代 |
1536 | 7 | 春日山城下の林泉寺に入る。 父・長尾為景が死去。兄・長尾晴景が家督を相続。 |
1543 | 14 | 元服 → 長尾(平三)景虎 三条城 ならびに 栃尾城の城主になる。 |
1544 | 15 | ”栃尾城の戦い”兄・晴景に対して謀反を起こした豪族を撃退する。 |
1545 | 16 | ”黒滝城の戦い”兄・晴景に対して謀反を起こした黒田秀忠を降伏させる。 |
1548 | 19 | 兄・長尾晴景の養子になり家督を相続。 |
1551 | 22 | ”坂戸城の戦い”謀反を起こした長尾政景を降伏させる。 越後国を平定。 |
1552 | 23 | 関東管領・上杉憲政が北条氏康に領地を追われて頼ってくる。山内上杉領を奪還し、北条氏を追い払う。 |
1553 | 24 | ”第1次川中島の戦い”信濃国の小笠原長時、村上義清が武田晴信(信玄)に領地を追われて頼ってくる。武田晴信の討伐を決意する。 |
1554 | 25 | ”北条城の戦い”北条高広の謀反を鎮圧、帰参を許す。 |
1555 | 26 | ”第2次川中島の戦い”武田晴信と200日あまり対陣するが決着はつかず。 |
1556 | 27 | 突然、出奔する。家臣の説得により帰る。 ”駒帰の戦い”離反した大熊朝秀を打ち破る。 |
1557 | 28 | ”第3次川中島の戦い”信濃国に侵攻。武田晴信の援軍として参戦した北条綱成と交戦、撤退する。 上杉憲政の養子になる。 |
1560 | 31 | 越中国の椎名康胤が神保長職に攻められ、頼ってくる。神保氏を追い払う。 上野国の北条領に侵攻し、上杉憲政の旧領を取り戻す。 ”唐沢山城の戦い”下野国・唐沢山城の佐野昌綱が北条氏に攻められ、これを助ける。 関東の諸勢力に北条討伐の檄を飛ばす。 |
1561 | 32 | 北条討伐のため、武蔵国、相模国に進撃する。 松山城、鎌倉を攻め落とす。 ”小田原城の戦い”1か月ほど攻め続けるが、武田信玄が不穏な動きをしたため撤退する。 ”松山城の戦い”反旗を翻した上田朝直を撃破、落城させる。 上杉憲政から関東管領職と山内上杉氏の家督を相続。 改名 → 上杉政虎 ”第4次川中島の戦い”武田信玄と八幡原で激突。壮絶な痛み分け。 改名 → 上杉輝虎 |
1562 | 33 | 越中国に出陣。神保長職を降伏させる。 |
1563 | 34 | 武蔵国に侵攻し、忍城・成田長康を降伏させる。 下野国に侵攻し、唐沢山城・佐野昌綱を降伏させる。 下総国に侵攻し、結城晴朝を降伏させる。 |
1564 | 35 | ”山王堂の戦い”北条氏に寝返った小田氏治を制圧、小田城を攻略。 反旗を翻した唐沢山城の佐野昌綱を降伏させる。 ”第5次川中島の戦い”武田信玄と対峙。にらみあいに終わる。 長尾政景の次男(実姉の子)を養子にする。 |
1565 | 36 | 里見氏が北条氏に攻められ、救援のために下総国に出陣する。 |
1568 | 39 | ”放生津の戦い”越中国に出陣。一向一揆と椎名康胤の制圧が目的だったが、本庄繁長が越後国で謀反を起こしたため、引き返し、鎮圧する。 |
1569 | 40 | 北条氏康と和睦し、同盟を結ぶ。【越相同盟】 |
1570 | 41 | 北条氏の要請を受け、武田氏と交戦。 北条氏康の七男を養子にする。 改名 → 上杉(不識庵)謙信 |
1571 | 42 | 北条氏康が死去。次代・北条氏政によって同盟を破棄されてしまう。 |
1572 | 43 | ”尻垂坂の戦い”武田信玄の調略によって扇動された一揆衆を鎮圧する。 |
1576 | 47 | 一向一揆に支配されていた越中の諸城を次々と攻略。蓮沼城を陥落させ、椎名康胤を討ち取る。 越中国を平定。 ”第1次七尾城の戦い”能登国に侵攻し、七尾城を包囲するが撤退。 将軍・足利義昭の織田信長討伐に加勢する。【第3次信長包囲網】 |
1577 | 48 | ”第2次七尾城の戦い”疫病の蔓延や遊佐続光の内通によって七尾城が開城・降伏。 末森城を攻略。 能登国を平定。 ”手取川の戦い”柴田勝家を総大将とする織田軍を撃破。 |
1578 | 49 | 越後国・春日山城で病死。 |

- 上杉謙信 – Wikipedia
- 上杉謙信年表
- 「第四次川中島の戦い(1561年)」信玄と謙信が一騎討ち?川中島最大の激闘の真実とは | 戦国ヒストリー
- 三太刀七太刀之跡の碑 /【川中島の戦い】史跡ガイド
- 上杉謙信女性説 | Japan | Fandom
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