読み込み中

読み込み中

うえすぎ けんしん

上杉謙信

1530.2.18 〜 1578.4.19

 
上杉謙信のイラスト
  

上杉謙信(輝虎、政虎、長尾景虎)は、現在の新潟県にあたる越後の武将・大名です。領土拡大を目的とせず、義のために戦い、武田信玄や北条氏康を相手に中部・関東に出陣を繰り返しました。天才的な戦術、自ら先陣をきって敵陣に突入するなど、軍神と称されるカリスマ性もあり、ひくてあまたの最強助っ人でした。享年49歳。

上杉謙信の人物タイプ
信仰

このページでは、上杉謙信が何をしたどんな人なのか、ハイライトやエピソードを紹介しています。戦国武将・上杉謙信のことがきっと好きになります。

  • 出身地:越後(新潟県)
  • 特 徴:たのまれると断れない
  • あだ名:越後の龍、毘沙門天、軍神
  • 戦 績:58戦 41勝 7敗 10分
  • 領 地:上野、越後、越中、能登
  • 居 城:春日山城

毘沙門天の化身と畏れられた越後の龍は義のためにのみ戦った

生涯通算でおよそ60回も出陣した上杉謙信は、ほとんどの戦で勝利し、決定的な敗けは一つもなかったといいます。戦いの神様である毘沙門天を崇拝していた上杉謙信は、旗印に「」の文字を刻み、自らを毘沙門天の生まれ変わりと信じていました。道理を外れた略奪行為を罰するために、遠く離れた地にも出陣し、毘の旗をなびかせました。

上杉謙信には私欲が一切なく、正義のためにのみ戦いました。立場や役職にこだわり、武家とはこうあるべきという古くからの慣習を重んじるストイックな上杉謙信は、戦国時代なら当たり前のことだった他人の領地を奪うという行為が許せませんでした。

上杉謙信のハイライトは、武田信玄と5回も争った「川中島の戦い」です。なかでも、第4次・八幡原の戦いは、戦国史に残る名勝負になりました。

妻女山に布陣した上杉軍に対して、信玄は夜間に別働隊(12,000)を向かわせます。「啄木鳥の戦法」と呼ばれる作戦で、早朝に上杉本陣を襲い、つつかれた上杉謙信があわてて山をおりてきたところを信玄率いる本隊(8,000)で仕留めるプランを立てます。

川中島の戦い(第4次・八幡原の戦い)の図

ところが、上杉軍に奇襲をかける予定の時刻、深い霧の向こうから、突如として現れた上杉謙信が率いる上杉軍本隊(13,000)が「車懸かりの陣」という珍妙なフォーメーションで、ぐるぐる回りながら武田軍に襲いかかりました。

あべこべに奇襲をかけるスーパーカウンターアタックを決めた上杉謙信は、単騎で武田本陣に突入し、信玄を3回斬りつけ、信玄もこれを軍配で受けたとする『一騎討ち(三太刀七太刀)』が言い伝わっています。

【三太刀七太刀】川中島の戦いで一騎討ちをする上杉謙信と武田信玄

武田本陣に突撃した上杉謙信ですが、信玄を討ち取るにはいたらず、妻女山に向かった武田軍別働隊が昼前には合流し、両軍が入り乱れるたいへんな混戦となりました。
八幡原の戦いは、午後4時までつづき、決着がつかないまま痛み分け。上杉謙信と武田信玄という名将による戦術の応酬と意地のぶつかり合いが面白い合戦として語り継がれています。

北条氏を討伐するために行った関東出兵では、なんと越後(新潟県)から鎌倉まで攻めていく大遠征を敢行します。難攻不落で知られる小田原城を攻撃、城門を破壊して北条氏康が恐怖したという「小田原城の戦い」や、織田信長の家来で一番の猛将・柴田勝家が率いる大軍を瞬殺した「手取川の戦い」など、上杉謙信の武勇伝は魅力にあふれています。

[生涯] わかりやすい解説

① 家督相続

長尾為景の四男として生まれます。
春日山城下の林泉寺で修行し、14歳で元服、長尾景虎と名乗ります。
当主の兄・長尾晴景が病弱だったので、越後の国衆はまとまりがありませんでしたが、初陣で15歳の景虎がみせた異常な強さにみんなの期待が集まります。
19歳のときに兄・長尾晴景に代わって長尾氏の当主になりました。

② 義のために戦う

武田信玄に領地をとられた北信濃の村上義清が越後に助けを求めてきます。
北信濃を取り返すために、武田信玄12年間にわたって川中島で5回も戦いました。

関東では、山内・上杉憲政が北条氏康に領地をうばわれて越後に逃げてきます。
景虎は、北条氏を攻めて領地を取り返します。これに感謝した上杉憲政から、関東で一番えらい家柄の山内上杉の当主を譲り受けます。
こうして長尾景虎は、上杉謙信になりました。

③ 北陸制圧

自分の子供がいなかった謙信は、姉の子供と北条氏康の七男を養子にもらいます。北条氏とは親戚関係になり、18年続いた関東の戦いはおわりました。

越中、能登であばれていた一向一揆をおとなしくさせた謙信は、加賀に攻めてきた織田軍の柴田勝家を蹴散らします。雪がとけたら、織田信長をやっつけに行くはずでしたが、春がくるまえに春日山城で亡くなりました。

上杉謙信の簡単な年表
上杉謙信の領地・勢力図(1577年)

[能力] 天才的センスのカリスマだけど地盤固めが苦手

相手の戦術を瞬時に見破り、裏をかく奇襲を成功させたり、ここという機会を逃さずに一気に勝負にでるなど、勘が冴えわたる天才型です。あまりの見事さにしびれた武将から送られた感謝状には、アイドルに対する憧れのような表現もみられます。しかし、相手が降伏する → 許す → 裏切られるを繰り返しており、やっつけたあとを固めるのが苦手だったようです。

戦いに疲れたのか、裏切りや離反に嫌気がさしたのか、27歳のときにとつぜん家出をしてしまいます。上杉謙信は、清廉潔白で繊細な感性を持った芸術家みたいな人です。

上杉謙信の逸話・面白いエピソード

じつは女性だったかもしれない

謙信には実子がいなかったので、実姉の子・上杉景勝が上杉氏をつぎました。スペインの船乗りが記した報告書に ”カゲカツ・ウエスギは叔母が開発した金山のカネを持っている” という記述があり、上杉景勝の叔母=謙信? ← え?女性だったの?という「謙信女性説」が浮上しました。

上杉謙信は女性だったという説がある

いわれてみると、謙信所有とされている着物は鮮やかな赤に羽の模様をあしらっていたり、馬の鞍(乗馬のサドル)はオレンジ色のパッチワークが施されたガーリーなものだったり、お気に入りの馬上杯は花柄だし、うさぎの耳をデザインした兜を持っていたり、諸将に宛てたレターは繊細で美しい文字だし、女子ウケしそうな源氏物語屏風(恋愛もの)を織田信長からプレゼントされていたりして、どれも髭モジャのおじさんの趣味ではなさそうな気がします。

無敵の謙信も毎月10日前後ひどい腹痛に悩まされていたとか、謙信の強さを称えて民衆が♪男もおよばぬ大力無双♪と歌っていたなどの逸話も残っており、もはや女性としか思えなくなってきます。

敵に塩を送るツンデレな振る舞いで大嫌いな信玄を助けてしまう

武田信玄と今川氏真の関係が悪化、経済制裁として武田領への流通を止めてしまいました。深刻な塩不足になってしまった武田信玄が困っていると聞いた謙信は、なんと塩を送ってあげたそうです。これに感激した信玄は、立派な刀をお礼として謙信にプレゼントし「塩留めの太刀」と呼ばれ、現在も大切に保管されています。

戦でカタをつければいいものを塩なんぞで弱らせようとするやり方が気に入らないという理由で、大っ嫌いな武田信玄を助けた美談は、たとえ敵でも困っていたら助けるという意味のことわざとして、言い伝わっています。

上杉謙信の戦い・有名な合戦

栃尾城の戦い とちおじょうのたたかい 1544.? 越後豪族衆? vs 長尾軍?

15歳の城主・長尾景虎の実力を甘く見ていた越後の豪族が、栃尾城(新潟県長岡市栃尾町)に対して力攻めを強行した。景虎は兵を二手に分け、一方で守勢を演じ、もう一方で敵の背後を突いた。豪族衆が混乱したところで城内から突撃し、快勝で初陣を飾った。

栃尾城の戦いで上杉謙信は勝っています。誰かのために戦う謙信のスタイルは、デビュー戦の栃尾城の戦いからでした。兄のために戦った15歳の少年の見事な采配は、まとまりがなかった周辺の豪族を惹きつけ、越後を平定するターニングポイントになりました。
やがて謙信の無双ぶりは噂になり、越後の外からもSOSが届くようになります。

唐沢山城の戦い からさわやまじょうのたたかい 1560.? 北条軍3万5千 vs 長尾軍?

下野の唐沢山城(栃木県佐野市富士町)を北条氏政が3万の大軍で包囲。城主・佐野昌綱は絶対絶命の窮地に立たされた。槍だけを持ち、鎧もつけずに現れた長尾景虎は、40騎ほどの手勢で北条軍の中央を突破し、唐沢山城の救援に駆けつけ、北条軍を撤退させてしまった。

唐沢山城の戦いで上杉謙信は勝っています。鎧も着けずに40騎で北条軍の真んなかを通り抜け、3万の兵の目の前で馬に水を飲ませる余裕を見せたという、謙信の豪胆さを伝えるエピソードがあります。

川中島の戦い かわなかじまのたたかい 1561.10.18 上杉軍1万3千 vs 武田軍2万

北信濃を国人衆のもとに取り戻そうとする上杉謙信と、これを支配しようとする武田信玄の合戦。千曲川(長野県長野市小島田町)を挟んで5回対戦したが、決着はつかず。激戦となった第4次・八幡原の戦いでは、謙信が武田本陣に突撃し、信玄を斬りつけたエピソードがある。

川中島の戦いで上杉謙信は引き分けています。名勝負として知られる川中島の戦いは、第4次・八幡原の戦いです。武田信玄と北信濃の領有権をめぐって争った私戦で、歴史的な影響がない合戦ですが、戦国史を彩る華やかな武勇伝として、上杉謙信の名を後世に伝えています。

上杉謙信の年表を詳しく

上杉謙信は西暦1530年〜1578年(享禄3年〜天正6年)まで生存しました。戦国時代中期に活躍した武将です。
北条氏康の15歳下、武田信玄の9歳下です。
織田信長より4年さきに生まれています。

15301長尾為景の四男として越後に生まれる。幼名:虎千代
15367春日山城下の林泉寺に入る。
父・長尾為景が死去。兄・長尾晴景が家督を相続。
154314元服 → 長尾(平三)景虎
三条城 ならびに 栃尾城の城主になる。
154415”栃尾城の戦い”兄・晴景に対して謀反を起こした豪族を撃退する。
154516”黒滝城の戦い”兄・晴景に対して謀反を起こした黒田秀忠を降伏させる。
154819兄・長尾晴景の養子になり家督相続。
155122”坂戸城の戦い”謀反を起こした長尾政景を降伏させる。
越後を平定。
155223関東管領・上杉憲政が北条氏康に領地を追われて頼ってくる。山内上杉領を奪還し、北条氏を追い払う。
155324”第1次川中島の戦い”北信濃の小笠原長時、村上義清が武田晴信(信玄)に領地を追われて頼ってくる。武田晴信の討伐を決意する。
155425”北条城の戦い”北条(きたじょう)高広の謀反を鎮圧、帰参を許す。
155526”第2次川中島の戦い”武田晴信と200日あまり対陣するが決着はつかず。
155627突然、出奔する。家臣の説得により帰る。
”駒帰の戦い”離反した大熊朝秀を打ち破る。
155728”第3次川中島の戦い”北信濃に侵攻。武田晴信は交戦を避ける。
156031越中の椎名康胤が神保長職に攻められ、頼ってくる。神保氏を追い払う。
上野の北条領に侵攻し、上杉憲政の旧領を取り戻す。
”唐沢山城の戦い”下野・唐沢山城の佐野昌綱が北条氏に攻められ、これを助ける。
関東の諸勢力に北条討伐の檄を飛ばす。
156132北条討伐のため、武蔵、相模に進撃する。
”小田原城の戦い”1ヶ月ほど攻め続け、撤退する。
”松山城の戦い”上田朝直を撃破、落城させる。
上杉憲政から関東管領職と山内上杉氏の家督を相続。
改名 → 上杉政虎
”第4次川中島の戦い”武田信玄と八幡原で激突。壮絶な痛み分け。
改名 → 上杉輝虎
156233越中に出陣。神保長職を降伏させる。
156334武蔵に侵攻し、忍城・成田長康を降伏させる。
下野に侵攻し、唐沢山城・佐野昌綱を降伏させる。
下総に侵攻し、結城晴朝を降伏させる。
156435”山王堂の戦い”北条氏に寝返った小田氏治を制圧、小田城を攻略。
反旗を翻した唐沢山城の佐野昌綱を降伏させる。
”第5次川中島の戦い”武田信玄と対峙。にらみあいに終わる。
長尾政景の次男(実姉の子)を養子にする。
156536里見氏が北条氏に攻められ、救援のために下総に出陣する。
156839”放生津の戦い”越中に出陣。一向一揆と椎名康胤の制圧が目的だったが、本庄繁長が越後で謀反を起こしたため、引き返し、鎮圧する。
156940北条氏康と和睦し、同盟を結ぶ。【越相同盟】
157041北条氏の要請を受け、武田氏と交戦。
北条氏康の七男を養子にする。
改名 → 上杉(不識庵)謙信
157142北条氏康が死去。家督を継いだ氏政によって同盟を破棄されてしまう。
157243”尻垂坂の戦い”武田信玄の調略によって扇動された一揆衆を鎮圧する。
157647一向一揆に支配されていた越中の諸城を次々と攻略。蓮沼城を陥落させ、椎名康胤を討ち取る。
越中を平定。
”第1次七尾城の戦い”能登に侵攻し、七尾城を包囲するが撤退。
157748”第2次七尾城の戦い”七尾城を陥落させ、続けて末森城を攻略。
能登を平定。
”手取川の戦い”柴田勝家を総大将とする織田勢を撃破。
157849死去。
上杉謙信のページの先頭に戻る