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柴田勝家

1522.?〜 1583.6.14

 
柴田勝家のイラスト
  

柴田勝家は、現在の愛知県西部にあたる尾張国の武将です。織田四天王のひとり。はじめ、信長の弟・信行に仕えます。信長と争い、敗れたのち家来になります。先鋒隊で抜群の強さを発揮し、出陣した多くの戦で先陣をつとめました。信長の死後、羽柴秀吉との権力争いに敗れて妻・市とともに自害しました。享年62歳。

柴田勝家は何をした人?このページは、柴田勝家のハイライトになった出来事をなるべく正しく、独特の表現で紹介しています。きっと柴田勝家が好きになる「秀吉の台頭に反対して最後まで信長のために戦い抜いた」ハナシをお楽しみください。

  • 名 前:柴田勝家
  • 幼 名:権六
  • あだ名:鬼柴田、かかれ柴田、瓶割り柴田
  • 官 位:従六位下、左京大進、従五位下、修理亮、贈従三位
  • 出身地:尾張国(愛知県)
  • 領 地:越中国、能登国、加賀国、越前国
  • 居 城:北ノ庄城
  • 正 室:市(織田信長の妹)
  • 子ども:2男 9養
  • 跡継ぎ:柴田勝政
  • 父と母:柴田勝義 / 不明

秀吉の台頭に反対して最後まで信長のために戦い抜いた

柴田勝家は、織田信長の合戦において常に先鋒(せんぽう)をつとめて勇猛果敢に敵陣に突撃し、恐れられた豪傑(ごうけつ)です。『鬼柴田』と呼ばれており、立派なヒゲをたくわえた姿はさながら鍾馗(しょうき)様のようで、肖像画からも鬼っぽさを感じます。

鬼の風貌(ふうぼう)とは裏腹に、柴田勝家とは人情と正義感にあふれる(おとこ)でした。


孤軍奮闘
ひとりぼっちのあいつ

1582年に本能寺の変で織田信長が明智光秀に討たれたあと、織田家は騒然となりました。柴田勝家、丹羽長秀、羽柴(豊臣)秀吉、池田恒興ら重臣たちで、信長の後継者を決める会議が尾張(おわり)清洲城(きよす)で行われます。この会議は『清洲会議(きよすかいぎ)』と呼ばれました。

信長の(かたき)である明智を討った秀吉が清洲会議(きよすかいぎ)でも発言力を強め、後継者は秀吉が()した三法師(信長の孫)になります。そして、ここから秀吉は三法師が幼いのをいいことに織田家を好き勝手にし、野心をあらわにしました。

【清洲会議】柴田勝家と豊臣秀吉が対立するようす

柴田勝家は、信長への恩義を忘れた秀吉の不義理な振る舞いが許せません。こっちも負けてはおれんと立ち上がり、織田家を背負って真っ向から秀吉と対立しました。

有力な織田家臣の多くが秀吉に味方するなか、柴田勝家に味方したのは部下たちと協力者の滝川一益くらいでした。春になって兵を動かそうと準備を進めましたが、それよりも少し早い雪が降り積もったころ、秀吉軍が滝川一益を攻めました。

現在の福井県にあたる越前国(えちぜんのくに)の柴田勝家は、冬になると雪で動けません。そこをねらった秀吉の作戦でした。

なんの!柴田勝家の部下には猛将・佐久間盛政と暴れん坊・前田利家がいます。勝負はこれからと思った矢先、中立と思っていた丹羽長秀が参戦してきて佐久間盛政の賤ヶ岳砦(しずがたけとりで)が落とされました。残る頼みは前田利家でしたが、利家はなぜか動かず、しまいには秀吉方に寝返る始末でした。

なにからなにまで上手く運ばず、秀吉の思うつぼでした。

ひとりぼっちの柴田勝家に、もはや勝ち目はありませんでした。信長の死からわずか10か月後の1583年3月に、柴田勝家は豊臣秀吉に攻め滅ぼされてしまいました。


信長の先陣で奮闘
かかれ柴田!

信長の最精鋭として「かかれえーっ!」の掛け声とともに先鋒隊(せんぽうたい)で斬り込み、大活躍した柴田勝家は『かかれ柴田』と呼ばれました。内外に知れた織田家ナンバー1の猛将でした。

じつは、柴田勝家が信長の戦列に加わるのは意外にも遅かったのです。というのも、柴田勝家はかつて信長の弟・織田信行びいきのグループでした。信長が織田家の当主になった頃、これに反対し、信行を()して信長に合戦を挑んで負けたことがありました。

そんな理由で、なかなか信長から信頼してもらえず、モヤモヤ柴田に出番が回ってきたのは信長に仕えて12年たってから。1568年に足利義昭を奉じて京に向かう上洛(じょうらく)戦で、スタメンに抜擢(ばってき)されてようやく出番が回ってきた柴田勝家は、猛ハッスルして先陣を任されるようになったのです。

それからはずっと信長の先陣に立ちつづけるようになりました。


厄介者だらけの
北陸パートを担当

信長の天下統一事業でも、柴田勝家は最前線の指揮官をつとめます。

柴田勝家が信長から攻略を命じられたのは、エクストラハードな北陸エリア。ここには、毘沙門天の化身と(おそ)れられた越後(えちご)の上杉謙信や死をも恐れぬ加賀(かが)の一向宗など、難敵がひしめいていました。

1577年に対決した上杉謙信には瞬殺されましたが、加賀(かが)の一向宗には勝利します。1488年からおよそ90年間つづいていた加賀(かが)一向一揆を鎮圧する歴史的な成果を挙げています。ながらく未統治だった加賀国(かがのくに)を、1580年に柴田勝家が平定しました。

一揆勢から没収した刀を材料にしてつくった鎖で、船をつないだ舟橋をかけるなど、統治にも知恵を発揮しています。これは秀吉の刀狩りに先駆けた試みとして『知恵柴田』とも呼ばれました。

生涯を簡単に振り返る

1522年、柴田勝家は尾張国(おわりのくに)・愛知郡に土豪の子として生まれます。はじめ、織田信長の父・織田信秀に仕え、信長の弟・信行の教育係をつとめました。信行を当主にするために信長と戦いますが、敗れて改心します。その後は信長に忠義を尽くし、伊勢国(いせのくに)・長島や加賀国(かがのくに)の一向一揆との戦いでは、激戦区で奮闘しました。

北陸方面軍を率いる司令官をつとめますが、本能寺の変で信長が横死(おうし)してしまいます。跡継ぎを決める清洲会議(きよすかいぎ)で豊臣秀吉と対立。これが織田家を二分する争いに発展し、賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いが勃発(ぼっぱつ)しました。

最後と死因

秀吉との戦いに敗れ、越前国(えちぜんのくに)北ノ庄城(きたのしょうじょう)に退きます。城に火を放ち、柴田勝家は妻・(いち)と心中、腹を十文字に切る切腹をしました。1583年6月14日、死因は自害。62歳でした。自害する直前に80人ほどの家来を集めてささやかな(うたげ)をし、逃げたい者を城外に出しました。そして「猿の天下など見たくもない」と、織田家と滅ぶことを選びました。

領地と居城

柴田勝家の領地・勢力図(1583年)

越前国(えちぜんのくに)加賀国(かがのくに)能登国(のとのくに)越中国(えっちゅうのくに)を合わせた130万石ほどが柴田勝家の領地でした。雪深い地域であったため、豊臣秀吉との戦いでは兵の動員が間に合わず、相手に主導権を取られた原因の一端になっています。

柴田勝家の性格と人物像

柴田勝家は「不器用でまっすぐな正直者」です。

親分肌で、若手からも(した)われ「親父どの」と呼ばれて親しまれました。人情味あふれる人柄で、すべてを包み、許せる(ふところ)のひろさがあります。キリスト教の布教にも寛大で、助けないけど邪魔もしないというスタンスが、宣教師からも好かれました。

信長や織田家のことをよく知るイエズス会のルイス=フロイスは、勝家のことを ”一生を軍事に費やした人、信長の時代でもっとも勇猛で果敢な武将” と評しています。事実、一人で30もの首をとったことがあります。戦場での突進力は半端ないものでした。

不作法で教養が浅く、信長にお願いして茶器をもらったものの、茶会の出席は許可されませんでした。

信長の妹・市にずっと憧れていました。61歳まで独身でしたが、念願(かな)って、(いち)と25歳差という歳の差婚をします。(いち)の連れ子だった3人の娘といっしょに、10か月ほどの結婚生活をしています。娘たちは秀吉に命乞いをして預けています。

身長185cmでがっしりした体格。肖像はいずれも(ひげ)モジャです。仕事の鬼で趣味はありません。曲がったことが大嫌い。悪知恵が回る秀吉とは犬猿(けんえん)の仲でした。

能力を表すとこんな感じ

柴田勝家の能力チャート

すさまじい気迫で攻めかかる突進力が柴田勝家の持ち味です。味方にとっては頼もしく、敵からすればおっかない。しかし、恐怖で従えるのではなく、確かな信頼関係で部下と結ばれていました。

信長の野望シリーズに登場する柴田勝家の能力値も参考にしています。

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柴田勝家の面白い逸話やエピソード

水瓶を叩き割る ”瓶割り柴田”

勝家が守っていた長光寺城(ちょうこうじじょう)六角義賢に包囲されました。持久戦に持ち込まれ、城内の水が少なくなると、勝家は城兵たちに水をたくさん飲めと命じます。

みんなが水を飲み終えたところで、水瓶をパッカーンと槍で(たた)き割り「城に(こも)っていても生きる道はない!敵を蹴散らすぞ!」と鼓舞(こぶ)しました。「かかれー!」と、城から出撃して、囲んでいた六角軍に突っ込み、撃退しました。

【瓶割り柴田】水瓶を割って決死の覚悟を示す柴田勝家

このパフォーマンスで、柴田勝家は『瓶割り柴田』とも呼ばれるようになります。”飲め柴田” でも ”水!柴田” よかった気がしますが、とにかくニックネームが多い愛され柴田です。

心で会話した前田利家との最期

勝家を「親父どの」と呼んで(した)っていた前田利家が、賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いでは持ち場から動かず、勝手に府中城に帰ってしまいました。

かわいがっていた部下の思わぬ戦線離脱によって、勝家は羽柴秀吉に敗れてしまいます。ボロボロになって北ノ庄城(きたのしょうじょう)に退却する途中、勝家は府中城の利家を訪ねました。

裏切った理由など聞かず、利家にこれまで働いてくれたことを感謝する思いを伝えます。利家は黙っていましたが、勝家は湯漬け(お茶漬け)を一杯たべると「お前と秀吉は友達なんだから、降参して家来にしてもらえ」とだけ告げて帰りました。

居城の北ノ庄城(きたのしょうじょう)に戻った勝家は、預かっていた利家の娘(当時の習わしで部下は上司に人質を出す)に「利家のところに帰れ」と城から逃します。ほどなくして、秀吉から勝家攻めの先鋒(せんぽう)を命令された前田利家の部隊を迎えうち、勝家は自害しました。

柴田勝家の有名な戦い

稲生の戦い いのうのたたかい 1556.9.27 ● 織田信行軍1千7百 vs 織田信長軍7百 ○

織田信長の家督相続を不満とする弟・織田信行が挙兵、稲生原(愛知県名古屋市西区名塚町)付近で行われた合戦。序盤、柴田勝家を擁する信行軍が優勢に進めるが、戦線にいた織田信長が大声で叫ぶと柴田隊が混乱。信長が林通具を討ち取ると信行軍は敗走した。

稲生の戦いで柴田勝家は敗れています。
終生(しゅうせい)の主君となる織田信長との合戦は、勝家の生涯を左右するものになりました。この敗戦以降は、信長に対して絶対的な忠誠を誓っています。

観音寺城の戦い かんのんじじょうのたたかい 1568.9.12 ○ 織田&浅井軍6万 vs 六角軍1万1千 ●

京に上洛する織田信長が、途上にある観音寺城(滋賀県近江八幡市)を攻めた合戦。18からなる支城で構成された難攻不落の山城だったが、丹羽長秀らの活躍により、わずか1日で要所であった箕作城と和田山城が陥落。六角義賢は観音寺城を放棄して甲賀郡に逃亡した。

観音寺城の戦いで柴田勝家は勝っています。
ようやく柴田勝家が戦列に加わることができた合戦です。森可成と観音寺城の攻略にあたりましたが、これといった戦闘はありませんでした。緒戦での活躍が信長に認められました。

長島一向一揆 ながしまいっこういっき 1574.7.14 〜 9.29 ○ 織田軍12万 vs 本願寺軍10万 ●

伊勢・長島(三重県桑名市)の一向宗門徒と織田信長による合戦。石山合戦に伴って3回行われた。織田軍は柴田勝家らを投入するが、熾烈な争いは一進一退が続く。九鬼嘉隆の水軍を率いた滝川一益が海上攻撃で打破。信長は、屋長島、中江を柵で囲い、焼き討ちで全滅させた。

長島一向一揆で柴田勝家は勝っています。
第1次侵攻で退却するおりに、殿(しんがり)を務めた勝家は負傷し、旗指物(はたさしもの)を奪われる屈辱を味わいます。織田軍総動員で長島一向一揆を根絶(ねだ)やしにするまで、足掛け4年。一揆鎮圧の中心メンバーとして戦いました。

手取川の戦い てどりがわのたたかい 1577.11.3 ● 織田軍4万 vs 上杉軍2万 ○

加賀に侵攻した織田軍の柴田勝家は、七尾城が上杉軍に落とされたことを知り、撤退を開始。これを上杉謙信が急襲し、手取川(石川県白山市湊町)で粉砕した合戦。パニックの様子を伝える「上杉に逢うては織田も手取川、はねる謙信逃げるとぶ長」という狂歌が残っている。

手取川の戦いで柴田勝家は敗れています。
撤退するところを軍神・上杉謙信に襲撃されて潰走(かいそう)しました。雨で河川が増水していたこと、羽柴秀吉が無断で部隊から離脱するなど、開戦前から良くない雰囲気でした。

加賀平定戦 かがへいていせん 1580.? ○ 織田軍1万5千 vs 一向一揆軍? ●

加賀平定を目指す柴田勝家が一向一揆と争った合戦。勝家は、兵を二手に分けて尾山御坊(現在の金沢城・石川県金沢市丸の内)の支城や砦に猛攻撃をしかけ、次々と攻略。本山である尾山御坊を正面と側面から攻め、一揆衆を混乱に陥れた。敵将を討ち取る大勝だった。

加賀平定戦で柴田勝家は勝っています。
難敵が多い北陸戦線を攻略するカギとなった合戦で、尾山御坊(おやまごぼう)を攻略し、一向宗を制圧します。この戦いの勝利によって、信長と勝家にとって悲願だった加賀(かが)平定を達成しました。

賤ヶ岳の戦い しずがたけのたたかい 1583.3.12 〜 4.23 ○ 羽柴軍5万 vs 柴田軍3万 ●

信長亡きあと、織田家の掌握を狙う羽柴秀吉と、家中を二分していた柴田勝家が賤ヶ岳(滋賀県長浜市)付近で展開した戦い。前田利家の戦線離脱によって、柴田軍は潰走。勢いづく秀吉に北ノ庄城を攻められ落城した。秀吉子飼いの福島正則ら若手武将が活躍した。

賤ヶ岳の戦いで柴田勝家は敗れています。
柴田勝家のターニングポイントになった戦いです。
秀吉との決戦に挑みましたが、前田利家の離脱という誤算もあり、勝家の命運は尽き、織田氏の終焉(しゅうえん)を意味しました。ここから、豊臣秀吉の天下統一がはじまります。

柴田勝家の詳しい年表と出来事

柴田勝家は西暦1522年〜1583年(大永2年〜天正11年)まで生存しました。戦国時代中期から後期に活躍した武将です。

15221柴田勝義の子として尾張国に生まれる。幼名:権六
織田信行(信長の弟)の家老になる。
155231主君・織田信秀が死去。次代・織田信長に仕える。
”萱津の戦い”織田信友との戦に参加。坂井甚介を討ち取り30の首級をあげる。
155433”安食の戦い”織田信友を攻める。河尻左馬丞ならびに織田三位を討ち取って撃破。
155635今川領・福谷城を攻めるが、榊原康政に敗れる。
”稲生の戦い”織田信行を擁立すべく林秀貞、林通具と挙兵。織田信長に叛くが鎮圧される。
織田信行ともども許される。
155837織田信行が再び謀反を画策したため織田信長に密告、信行が誅殺される。
156342”新加納の戦い”斎藤龍興との戦いに参加。第3陣で敗れる。
156847”観音寺城の戦い”六角義賢・義治父子との戦に参加。第2陣を率いる。
”勝龍寺城の戦い”三好三人衆との戦に参加。岩成友通が篭る勝龍城を攻略、50の首級をあげる。
156948三好三人衆との戦に参加。【本圀寺の変】
”大河内城の戦い”北畠具教・具房父子との戦に参加。
157049”金ヶ崎の戦い”朝倉義景との戦に参加。森可成、池田恒興らと天筒山城を攻略。
”野洲河原の戦い”六角義賢・義治父子が長光寺城に侵攻してくる。佐久間信盛と撃退する。
”姉川の戦い”浅井氏&朝倉氏との戦に参加。
”野田城・福島城の戦い”三好三人衆との戦に参加。浅井氏&朝倉氏が背後を狙っていたため、撤退を進言する。織田軍の最後尾を担って全軍を京に着かせる。【第1次信長包囲網】
”志賀の陣”比叡山延暦寺に篭る浅井氏&朝倉氏との戦に参加。
157150”第1次長島一向一揆”一向宗門徒の鎮圧戦に参加。退却する織田軍の最後尾を担って負傷する。
”近江一向一揆”佐久間信盛らと金森の一向宗門徒を駆逐する。670の首級をあげて志村城を壊滅させる。小川城、金森城を降す。
”比叡山焼き討ち”比叡山延暦寺の殲滅戦に参加。
157251松永久秀が畠山領・交野城を攻める。佐久間信盛と撃退する。
157352”槙島城の戦い”足利義昭との戦に参加。石山砦を降し、今堅田砦を攻略。二条城に篭る三渕藤英を説得、開城させる。【室町幕府の滅亡】
”一乗谷城の戦い”朝倉義景との戦に参加。朝倉家滅亡
”小谷城の戦い”浅井長政との戦に参加。浅井家滅亡
佐久間信盛、丹羽長秀、蒲生賢秀と六角領・鯰江城を攻め落とす。
”第2次長島一向一揆”一向宗門徒の鎮圧戦に参加。滝川一益と坂井城を攻略する。
157453”第1次高屋城の戦い”三好康長&石山本願寺の討伐に向かう。長島一向一揆の殲滅戦に加わるため、撤退する。
”第3次長島一向一揆”一向宗門徒の殲滅戦に参加。賀鳥口から攻める。
157554”第2次高屋城の戦い”三好康長&石山本願寺との戦に参加。
”長篠の戦い”武田勝頼との戦に参加。
”越前一向一揆”一向宗門徒の殲滅戦に参加。丹羽長秀と鳥羽城を陥落させる。
織田信長から越前国の大半を拝領する。
北ノ庄城を居城にする。
157655織田信長から北陸地方の平定を任じられる。
157756指揮下にいた羽柴(豊臣)秀吉が不和を理由に戦線を離脱。
”手取川の戦い”上杉謙信が加賀国に侵攻してくる。七尾城を落とされ、手取川で大敗する。
158059”加賀平定戦”北陸地方の一向一揆の本山である尾山御坊を制圧。加賀一向宗の主導者19人を松任城で謀殺する。
加賀国を平定。
158160京都で行われた軍事パレードに参加。【京都御馬揃え】
158261”魚津城の戦い”上杉領・越中国に侵攻して魚津城を攻略する。
主君・織田信長が死亡。【本能寺の変】
京に向かおうとするが上杉景勝に背後を攻められ、明智光秀を討伐する機会を逃す。
清洲城で柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉、池田恒興の4人で会議を行う。織田信孝(信長の三男)を後継者に推挙するが賛同を得られず。【清洲会議】
織田信長の妹(市)と結婚。
織田信孝、滝川一益と結託して羽柴秀吉に対抗する。
養子・柴田勝豊が羽柴秀吉に懐柔され、岐阜城を攻められた織田信孝が羽柴秀吉に降伏。
158362”賤ヶ岳の戦い”近江国で羽柴秀吉と争う。伊勢国で共闘する滝川一益と交通が分断される。前田利家が戦線を離脱し、やむをえず撤退。
”北ノ庄城の戦い”羽柴秀吉に越前国・北ノ庄城を攻められ、妻・市とともに自害。
戦国時代で柴田勝家が生きた期間の表

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