丹羽長秀
1535.10.16 〜 1585.5.15

丹羽長秀(惟住長秀)は、現在の愛知県西部にあたる尾張国の武将です。織田四天王のひとり。信長の養女を正室に迎えるなど、信頼が厚く、米のように欠かせない存在といわれたオールマイティな存在です。遊軍を率いて各地を転戦したほか、信長が居城とした、革新的な安土城を築く総責任者を務めました。享年51。
- 丹羽長秀の武将タイプ
- 官僚
丹羽長秀は何をした人?このページは、丹羽長秀のハイライトになった出来事をなるべく正しく、独特の表現で紹介しています。きっと丹羽長秀が好きになる「米のように欠かせない男が安土城の普請に腕を振るった」ハナシをお楽しみください。
- 名 前:丹羽長秀 → 惟住長秀
- 幼 名:万千代
- あだ名:米五郎左、鬼五郎左
- 官 位:越前守
- 出身地:尾張国(愛知県)
- 領 地:加賀国、越前国、若狭国、近江国
- 居 城:佐和山城 → 後瀬山城 → 大溝城 → 北ノ庄城
- 正 室:桂峯院(織田信長の養女)
- 子ども:6男 6女
- 跡継ぎ:丹羽長重
- 父と母:丹羽長政 / 能呂氏
- 大 名:織田信長
米のように欠かせない男が安土城の普請に腕を振るった
織田信長の家来衆を評した「木綿藤吉、米五郎左、掛かれ柴田に、退き佐久間」という風評があります。このうち『
”米のように欠かせない存在” という意味で、織田信長にとって欠かせない存在だった丹羽長秀は、信長の天下を象徴する安土城を築いた人物です。
丹羽長秀を「友であり兄弟」と呼んでいた信長は、養女を嫁に出します。さらに、信長は丹羽長秀の長男に娘を嫁がせるほど家族ぐるみの超なかよしでした。
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信長の無茶ぶりを
なんとかする
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信長は、琵琶湖の東、標高199メートルの安土山に誰も見たことがない城、エンタメキャッスル・安土城の築城を決め、その責任者に丹羽長秀を任命します。
信長が描いた安土城。それは天下を治める城、見せるための城でした。
丹羽長秀は、1576年から安土城プロジェクトの総指揮を執ります。信長から無理難題をつぎつぎと命じられますが、丹羽長秀は見事にクリアしました。
”山をぐるっと石垣で囲いたい” と信長。(⋯⋯山って広いんですよ)
並の石垣では崩れてしまう。
並みの石垣では崩れてしまう。そこで丹羽長秀は、比叡山焼き討ちの片付けをしたときに、焼け残った石垣の丈夫さを思い出します。それを築いた石工集団『穴太衆』を石垣建造に起用してこれをクリア。
”内部をスコーンと吹き抜けにしたい” と信長。(⋯⋯柱がないと崩れますよ)
ふつうでは考えられないことですが、地下1階地上6階建てのうち、BF〜3Fまでを吹き抜けにして、リクエストに答えました。

5F部分の八角形という難しい構造も実現させて信長を喜ばせました。吹き抜け部分をどうやったのか現在も謎です。
築城開始から3年の歳月を経て、1579年に完成した安土城は、赤や青、最上階は金色で塗装され、夜にはライトアップされるファンタジーな城でした。
これを見たイエズス会の宣教師は「ヨーロッパで一番の城よりスゴイ」と絶賛。かなり興奮した様子で手記に書き残しました。
まさに、織田信長の天下を印象づけるアバンギャルドな安土城が完成したのです。
前例のない城を築いた丹羽長秀の築城DNAは、長男・長重にも受け継がれ、こちらも築城名人として知られています。
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とにかく便利な
米おとこ
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1560年の桶狭間の戦いをはじめ、数々の合戦に参陣。美濃攻めでは、信長が新たに本拠地と決めた小牧山城を築城し、内通工作で敵将の調略や堂洞城を攻略するなど、抜群の働きで天下への足がかりを作りました。
1568年に信長が上洛を果たすと、畿内を治める織田政権の中心メンバーとして、京都で政務を執り行いました。
全盛期の信長が1581年に行った軍事パレード『京都御馬揃え』では、先頭で入場する大役を任され、丹羽長秀なら一番手にふさわしいパフォーマンスをしてくれるはずという信頼感を物語っています。
このような功績に加えて、朝倉義景との戦後処理では、義景の母と妻子を処刑するといった酷な任務も遂行しています。
派手さはないものの、いかなる役割りもこなす不可欠な存在。信長の期待を裏切らない米おとこでした。
生涯を簡単に振り返る
生まれと出自
1535年、丹羽長秀は尾張国・春日井郡に丹羽長政の次男として生まれます。信長を囲む悪ガキグループの一員でした。織田家の家督争いから一貫して信長を支持しています。桶狭間の戦いや美濃攻めで活躍し、信長を支える最側近として重宝されました。四国征伐の副官に任じられますが、本能寺の変で信長が討たれたため頓挫しました。
信長の死後、葛藤する
信長の死後、後継者を決める『清洲会議』では豊臣秀吉に織田家の主導権を握られ、これを支援します。賤ヶ岳の戦いで秀吉に助勢して柴田勝家を討ちますが、秀吉のやり方に共感できなくなると次第に非協力的な程度を示すようになりました。
最後と死因
長年、腹痛に悩んでおり、丹羽長秀は痛みの原因を取り出すといって越前国・北ノ庄城で割腹しました。1585年5月15日、死因は自害。51歳でした。腹部から寄生虫、胃がん、胆石のいずれかを取り出したとされますが、秀吉に加担したことを後悔して切腹したとも言われています。
領地と居城

若狭国、越前国と加賀国の一部を合わせた123万石が丹羽長秀の領地でした。信長が一国を与えたはじめての国持ち大名でした。
丹羽長秀の性格と人物像
丹羽長秀は「堅実で頑固な人」です。
飾り気がなく素直ですが、言い出したらきかない強情さがあります。しかし、すべての行動は道理が通っていますので、最善の選択である場合がほとんどです。
上司の命令には忠実で、さらにもうひと知恵を加えることができます。
合戦では奇策などを用いないため、華やかさはありません。しかし、困難な戦況でも退くことをせず、攻めるときにはガツンと杭を打ちこむように確実で強い攻め方をしたといいます。
茶器の良し悪しを見分ける眼力もあり、信長から名品を集めてくるよう依頼されたことも。粗野な信長家臣団のなかで、教養がある貴重な存在でした。
加納口で目に矢をうけて戦死した千秋季光の名刀『あざ丸』を所有していたことがあります。それ以来、眼病に悩まされるようになったので、この呪いの刀を熱田神宮に奉納しました。長秀の眼病は治り、あざ丸は現在も熱田神宮に所蔵されています。
能力を表すとこんな感じ

全体的に高バランスで、あらゆることに秀でているのが丹羽長秀の強みです。理路整然とした性格が安定感を生み出しています。
能力チャートは『信長の野望』シリーズに登場する丹羽長秀の能力値を参考にしています。東大教授が戦国武将の能力を数値化した『戦国武将の解剖図鑑』もおすすめです。
丹羽長秀の面白い逸話やエピソード
腹を切って寄生虫を取り出し、秀吉に送りつけた
丹羽長秀はずっと腹痛に悩まされていました。腹痛の原因は、サナダムシとして知られる寸白という寄生虫病でした。
『多聞院日記』によると、長秀は「なんで寄生虫なんぞに殺されなきゃならんのだ」と憤慨して短刀で腹を切り、腸内から取り出したといいます。
『寛政重修諸家譜』には、長秀が腹から取り出した寄生虫は生きていて ”鳥のくちばしをしたイシガメに似ている虫” だったと記されています。
長秀は、それを豊臣秀吉のもとに送りつけました。
権力を増すごとに、織田家をないがしろにしていった秀吉に対して、信長の忠臣であった長秀は「貴様も織田家に巣食う寄生虫だ」という皮肉をこめたといいます。
丹羽長秀の有名な戦い
尾張に侵攻してきた今川義元を桶狭間(愛知県名古屋市緑区桶狭間)で織田信長が討ち取った合戦。10倍近い圧倒的な兵力差があり、局面的に織田勢が不利だったが、今川の本陣を強襲し、義元の首級をあげる快挙となった。戦国史上もっとも有名なジャイアントキリング。
桶狭間の戦いで丹羽長秀は勝っています。
未明に飛び起きた信長は、わずか5騎を従えて、熱田神宮に駆けて行きました。このうちの一人が丹羽長秀でした。信長は自分と共に熱田に向かった者たちのおかげで勝てたと称えました。
京に上洛する織田信長が、途上にある観音寺城(滋賀県近江八幡市)を攻めた合戦。18からなる支城で構成された難攻不落の山城だったが、丹羽長秀らの活躍により、わずか1日で要所であった箕作城と和田山城が陥落。六角義賢は観音寺城を放棄して甲賀郡に逃亡した。
観音寺城の戦いで丹羽長秀は勝っています。
観音寺城の支城である箕作城を攻め落とし、猛烈な戦いぶりで「鬼」の異名をとります。これが戦いを大きく左右しました。
織田軍に包囲された浅井長政を救援すべく朝倉義景は出陣した。しかし、浅井氏の劣勢をみて撤退を開始する。義景の撤退を予測していた織田信長は、猛追撃して朝倉軍を壊滅させた。一乗谷城(福井県福井市城戸ノ内町)は陥落し、朝倉氏は滅亡した。刀根坂の戦いとも。
一乗谷城の戦いで丹羽長秀は勝っています。
朝倉氏の掃討戦に加わり武功をあげた長秀は、この活躍で若狭国を与えられます。信長から最も信頼されている家老となりました。
本能寺で織田信長を討った明智光秀と駆けつけた羽柴秀吉が山崎(京都府長岡京市)で激突した合戦。天王山の戦いとも呼ばれる。秀吉は中国地方で毛利氏と交戦中だったが、これを停戦し、急行した。予想外の速さで現れた羽柴軍に明智軍は劣勢となり、敗走した。
山崎の戦いで丹羽長秀は勝っています。
丹羽長秀のターニングポイントになった戦いです。
本能寺に一番近い場所にいながら何も出来ず、明智討伐にも出遅れてしまいます。かろうじて秀吉の陣営に加わりましたが、動き出しの遅さは大失態でした。これにより秀吉の意思に従わざるを得なくなりました。
信長亡きあと、織田家の掌握を狙う羽柴秀吉と、家中を二分していた柴田勝家が賤ヶ岳(滋賀県長浜市)付近で展開した戦い。前田利家の戦線離脱によって、柴田軍は潰走。勢いづく秀吉に北ノ庄城を攻められ落城した。秀吉子飼いの福島正則ら若手武将が活躍した。
賤ヶ岳の戦いで丹羽長秀は勝っています。
秀吉に加勢して出陣した長秀は、快進撃を続けていた柴田方の佐久間盛政を撃破。賤ヶ岳砦の確保に成功し、勝利を呼びこみました。秀吉から柴田勝家の領地を与えられますが、これを最後に秀吉に対して難色を示すようになります。
丹羽長秀の詳しい年表と出来事
丹羽長秀は西暦1535年〜1585年(天文4年〜天正13年)まで生存しました。戦国時代中期から後期に活躍した武将です。
1535 | 1 | 丹羽長政の次男として尾張国に生まれる。幼名:万千代 |
1550 | 16 | 織田信長に仕える。 |
1553 | 19 | ”梅津表の合戦”初陣。 |
1556 | 22 | ”稲生の戦い”織田信行との戦に参加。 |
1560 | 26 | ”桶狭間の戦い”今川義元との戦に参加。 |
1563 | 29 | 小牧山城の築城奉行を務める。 織田信長の養女・織田信広の娘(桂峯院)と結婚。 ”新加納の戦い”斎藤龍興との戦に参加。第4陣で敗れる。 |
1564 | 30 | 尾張国内の反勢力、黒田城、小口城を調略で降す。 |
1565 | 31 | 斎藤家臣、加治田城主・佐藤忠能を調略する。 斎藤領・美濃国攻めに参加。 ”堂洞合戦”斎藤龍興との戦に参加。岸信周が篭る堂洞城の本丸に攻め込んで陥落させる。 |
1568 | 34 | ”観音寺城の戦い”六角義賢・義治父子との戦に参加。箕作城を攻略する。 佐久間信盛、明智光秀、木下(豊臣)秀吉、中川重政とともに京都で政務を行う。 |
1569 | 35 | ”大河内城の戦い”北畠具教・具房父子との戦に参加。 |
1570 | 36 | ”姉川の戦い”浅井氏&朝倉氏との戦に参加。 ”志賀の陣”比叡山延暦寺に篭る浅井氏&朝倉氏との戦に参加。横山城を守備、六角義賢を撃破して近江国と美濃国の交通を回復する。 |
1571 | 37 | 織田信長から近江国・佐和山を拝領する。 近江国・佐和山城を居城にする。 ”近江一向一揆”柴田勝家らと金森の一向宗門徒を駆逐する。 ”比叡山焼き討ち”比叡山延暦寺の殲滅戦に参加。 |
1573 | 39 | ”槙島城の戦い”足利義昭との戦に参加。石山砦を降し、今堅田砦を攻略する。【室町幕府の滅亡】 ”一乗谷城の戦い”朝倉義景との戦に参加。朝倉義景の母、妻、子を処刑する。朝倉家滅亡 ”小谷城の戦い”浅井長政との戦に参加。浅井家滅亡 織田信長から若狭国を拝領する。 若狭国・後瀬山城を居城にする。 柴田勝家、佐久間信盛、蒲生賢秀と六角領・鯰江城を攻め落とす。 ”第2次長島一向一揆”一向宗門徒の鎮圧戦に参加。佐久間信盛、羽柴(豊臣)秀吉と西別所城を攻略、トンネルを掘って白山城に攻め込み陥落させる。 |
1574 | 40 | ”第3次長島一向一揆”一向宗門徒の殲滅戦に参加。ごだみ岬で待ち伏せする一揆勢を撃破する。 |
1575 | 41 | ”高屋城の戦い”三好康長、石山本願寺との戦に参加。 ”長篠の戦い”武田勝頼との戦に参加。 ”越前一向一揆”一向宗門徒の殲滅戦に参加。柴田勝家と鳥羽城を陥落させる。 |
1576 | 42 | 近江国・安土城の築城総奉行を務める。 |
1577 | 43 | ”第1次紀州征伐”雑賀衆との戦に参加。浜手から攻める。 ”信貴山城の戦い”松永久秀が織田氏に叛く。討伐に向かう。 |
1578 | 44 | 明智光秀の指揮下で荒木城を包囲。 ”第2次上月城の戦い”毛利軍に包囲される尼子再興派の援軍に向かう。 ”八上城の戦い”明智光秀の指揮下で波多野秀治との戦に参加。波多野宗長が篭る氷上城を攻略する。 |
1579 | 45 | ”有岡城の戦い”荒木村重が織田氏に叛く。討伐に向かう。 近江国・安土城が完成。 |
1581 | 47 | 京都で行われた軍事パレードで先頭部隊を務める。【京都御馬揃え】 ”第2次天正伊賀の乱”伊賀衆との戦に参加。比自山城を攻める。 |
1582 | 48 | 織田信長から神戸(織田)信孝と四国地方の平定を任じられる。 主君・織田信長が死亡。【本能寺の変】 織田信長を討った明智光秀の娘婿・津田信澄を共謀者として殺害する。 ”山崎の戦い”羽柴秀吉の指揮下で明智光秀との戦に参加。出遅れる。 清洲城で柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉、池田恒興の4人で会議を行う。三法師(信長の孫)を後継者とする秀吉に賛同する。【清洲会議】 羽柴秀吉、丹羽長秀、池田恒興の3人で談合を行い、清洲会議の決定を反故する。三法師ではなく織田信雄を当主に擁立する。 近江国・大溝城を居城にする。 |
1583 | 49 | ”賤ヶ岳の戦い”羽柴秀吉の指揮下で柴田勝家との戦に参加。佐久間盛政を撃破、賤ヶ岳砦を確保する。 越前国の大半と加賀国・能美に移封。 越前国・北ノ庄城を居城にする。 |
1585 | 51 | 越前国・北ノ庄城で自害。 |

- 丹羽長秀 – Wikipedia
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