黒田官兵衛
1546.12.22 〜 1604.4.19

黒田官兵衛(如水、孝高、小寺孝隆、祐隆)は、現在の兵庫県南西部にあたる播磨国の武将です。豊臣秀吉の参謀として尽力し、中国大返しにはじまり、四国九州征伐、小田原城の無血開城をつぎつぎと成功させ、天下統一に大きく貢献しました。並外れた頭脳を持った野心家であったため、秀吉から疎まれました。享年59。
- 黒田官兵衛の武将タイプ
- 参謀
黒田官兵衛は何をした人?このページは、黒田官兵衛のハイライトになった出来事をなるべく正しく、独特の表現で紹介しています。きっと黒田官兵衛が好きになる「秀吉と天下を取った軍師が関ヶ原の裏で大博打をした」ハナシをお楽しみください。
- 名 前:小寺祐隆 → 小寺孝隆 → 黒田孝高 → 黒田如水
- あだ名:黒田の瘡天窓、黒勘、両兵衛
- 官 位:従五位下、勘解由次官、贈従三位
- 藩 :中津藩主
- 出身地:播磨国(兵庫県)
- 領 地:豊前国
- 居 城:姫路城 → 中津城
- 正 室:光(小寺政職の姪)
- 子ども:2男 2養
- 跡継ぎ:黒田長政
- 父と母:黒田職隆 / 岩
- 大 名:小寺政職 → 織田信長 → 豊臣秀吉 → 徳川家康
秀吉と天下を取った軍師が関ヶ原の裏で大博打をした
黒田官兵衛とは、豊臣秀吉に天下を取らせた軍師として有名な人物で、なんでもお見通しといった頭脳は気味が悪いほどでした。
1582年6月のこと。織田信長が本能寺の変で明智光秀に討たれたとき、黒田官兵衛は毛利氏の備中高松城を攻める羽柴(豊臣)秀吉の陣中に居ました。
信長の死を聞いて「ゔえざまぁああ(上様〜)」とジタバタ号泣して悲しむ秀吉を気の毒に思い、家来の誰も近寄れないなか、黒田官兵衛がスッと近寄ります。
秀吉の耳元で「天下への道がひらけましたな」と囁ました。
頭の良い秀吉のこと。信長の死を聞いた瞬間に、天下という野望を抱いたに違いありません。あるいは、それ以前から野心を隠していたのかもしれません。
いずれにしても秀吉は ”悲しんでみせた” のです。
黒田官兵衛だけが、秀吉の猿芝居をあっさり見やぶりました。
黒田官兵衛に薄気味悪さを感じつつも、平静を取り戻した(ふりをして)秀吉は、高松城攻めを中止して『中国大返し』と呼ばれる大行軍で京に急行し、山崎の戦いで明智光秀を討ちました。
ここから黒田官兵衛は、さながら双六の駒を進めるように秀吉の天下取りを進めます。

ふたりは、信長の後継者を決める清洲会議、ライバルの柴田勝家を討ち果たす賤ヶ岳の戦い、徳川家康との小牧・長久手の戦いなどを経て、主家である織田家の乗っ取りに成功します。
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四国・九州征伐で
強豪をやぶる
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織田家を吸収した秀吉が天下取りに向けて本格始動したころ、四国は長宗我部氏がほとんど統一しており、九州は島津氏が大部分を取っていました。
秀吉が天下統一をするためには、これらを倒さなければなりません。
黒田官兵衛は四国征伐にも九州征伐にも出向きます。
1585年の四国征伐では、守りの固い岩倉城を水攻めし、4万の大軍で大声と銃声をあげて敵兵を眠らせず、メンタルをガタガタにして開城させました。
自軍の兵を減らさずに敵の重要拠点を攻略したことで四国征伐を優勢に進め、長宗我部元親を降伏させるに至りました。
1586年から1587年にかけて行われた九州征伐では、屈強な島津軍を相手に正面から戦わず、調略で降していきます。追いつめられた島津義弘の夜襲を予測し、あべこべに奇襲で壊滅させました。
戦闘不能となった島津義久は降伏し、西日本に秀吉の敵はいなくなりました。
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小田原城を
無血開城させる
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秀吉の天下統一も目前です。最後まで秀吉に対抗したのは、関東を支配する北条氏でした。
北条氏政・氏直父子は、総構えで9kmにもおよぶ難攻不落の小田原城に籠城。ふつうに攻めても落とせない小田原城を秀吉は20万の大軍で包囲しますが、北条父子はなかなか開城しません。
1590年の小田原征伐で、黒田官兵衛は北条父子を説得する交渉人として召喚されます。
黒田官兵衛は、まず北条氏直の弟・氏房を説得して、小田原城内に酒と肴の贈り物を届けました。すると、北条方からお返しとして鉛と弾薬が送られてきました。
これを「北条に戦う気なし。今だ」と、交渉のタイミングが来たことを確信し、ひとりで小田原城に向かいました。
黒田官兵衛は礼装で刀は持たず、スタスタと小田原城へ入っていき、北条父子に開城させました。
わざとらしい秀吉の大泣き演技から8年、ここに豊臣秀吉の天下統一が成りました。
後年になって、2代将軍・徳川秀忠は、黒田官兵衛を漢の皇帝・劉邦の覇業を支えた軍師になぞらえて『今世の張良』と評し、秀吉に天下を取らせた最大の功労者と称えています。
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どさくさまぎれ
九州の関ヶ原
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秀吉の天下が成ったあとから数年、黒田官兵衛は秀吉から疎んじられ、九州でモヤモヤした日々を過ごしていました。
1598年に秀吉が亡くなり、徳川家康と石田三成が対立して1600年に関ヶ原の戦いが起こります。
どさくさに紛れて、黒田官兵衛は九州を攻め取ろうと企てます。こんなこともあろうかと、ケチと罵られながらも私財を蓄えていたのです。
黒田官兵衛は、すべての財産をはたいて1万の兵をかき集めます。
九州乗っ取りを家康に気づかれては元も子もない。
怪しまれないよう、長男・長政を関ヶ原に送り、家康の陣営に参加させました。
関ヶ原の戦いで家康と三成が激突する2日前、石垣原の戦いで大友義統を撃破した黒田官兵衛は、諸城を落としながら九州を南下していきます。
家康には「敵勢力をやっつけてます!取った土地はもらっていいですよね?」と申し入れて、返事も待たずにバンバン進撃しました。
ところが、数ヶ月はつづくと思っていた関ヶ原の戦いが、たったの半日で決着してしまいました。
「関ヶ原の戦いは家康の勝利」という知らせが入りますが、黒田官兵衛はこれを無視。九州の最南端に位置する島津氏の討伐に向かいます。あとちょっとで九州制覇ですから。
鍋島直茂、立花宗茂、加藤清正といった面々を味方に引き入れ、4万ほどの軍勢に膨れ上がっていましたが、ここで家康からストップされてしまいました。
無念。あとちょっとの時間があれば黒田官兵衛は九州を攻め取れました。
それにしても、関ヶ原の戦いが終わるのが早すぎた。関ヶ原から帰ってきた長男・長政に「なぜこんなに早く決着がついたのか?」と尋ねます。
すると息子は「俺が小早川秀秋を寝返らせたからだよ!やったよ、俺!」と答えました。
なんということでしょう。父ゆずりの交渉力で暗躍した息子の働きによって、関ヶ原は早期決着したのです。
家康さんが手を握って喜んでくれたと話す息子に、黒田官兵衛は労いの言葉も忘れて「どうして反対の手で家康を刺し殺さなかったのか」と毒づきました。
吉川広家に宛てた黒田官兵衛の手紙に「関ヶ原の戦いがあと1か月続いていれば京にも攻め上るつもりだった」と
その後は、おとなしい余生を過ごしたといいます。
生涯を簡単に振り返る
生まれと出自
1546年、黒田官兵衛は播磨国・姫路城に黒田職隆の長男として生まれます。小寺氏に仕える身でしたが、織田氏が畿内に進出すると信長麾下の豊臣秀吉に従い、播磨国平定に尽力します。本能寺の変を機に秀吉の天下統一を大きく助けました。しかし、次第に豊臣政権から遠ざけられ、不遇を過ごします。
関ヶ原の戦いに便乗する
朝鮮の役で石田三成ともめてから折り合いが悪く、秀吉が没したあとに起こった関ヶ原の戦いでは徳川家康に与します。九州で挙兵し、石垣原の戦いで大友義統をやぶると勢力を増して、九州制圧を目論みますが、島津氏の薩摩国に迫ったところで家康からの命令で軍を解散しました。
最後と死因
関ヶ原の戦いの後は隠居して筑前国で過ごし、病気療養のために有馬温泉を訪れた翌年、黒田官兵衛は山城国・京の伏見藩邸で亡くなりました。1604年4月19日、死因は病気。59歳でした。葬儀は簡素に行うよう遺言したといいます。
領地と居城

豊前国6郡12万石が黒田官兵衛の領地でした。天下を取らせる働きをした軍師にしては少ない報酬です。黒田官兵衛を恐れていた豊臣秀吉は、大坂城から遠く離れたわずかな土地を与えました。
黒田官兵衛の性格と人物像
黒田官兵衛は「大きな夢に野心を抱く人」です。
抜群の頭脳でなんでもお見通しです。しかし、頭が良すぎるがために嫌われ、気持ち悪いとすら思われてしまいます。
孔子、孟子、孫子、呉子などの兵法書を熟読しており「戦わずして勝つ」を実践しました。
いらなくなった物を家臣に買い取ってもらう倹約家。「使わなければ金も瓦礫と同じ」と話していました。そうして貯めた私財を軍資金に、人生最後に自分のために挙兵しました。
好物は鯛、黒豆、だんご。茶道は武士のすることではないと馬鹿にしていましたが、茶室が密談にも使われる場所であると知って、お茶に興味を持ちました。
交友範囲がひろく、キリシタンの高山右近や小西行長、毛利家の小早川隆景や吉川広家と仲良しでした。
ドン=シメオンという洗礼名を持っています。好奇心から入信したキリスト教でしたが熱心に信仰していました。
死に際に神の子羊の祈祷文とロザリオを胸の上に置いて、教会を建てる資金を寄付する遺言を残しています。
有岡城に投獄されたことがあり、それ以来、頭部に痘瘡が広がり、左足の膝が曲がってしまい歩行障害が残りました。これらの症状から梅毒性骨髄炎の可能性が指摘されています。
子ども時代はやんちゃ坊主でした。思春期に母を亡くし、寂しさから和歌づくりに没頭するようになり、ひとりで書物を読む時間が増えました。
お椀を返した兜『朱塗合子形兜』ほか、黒田官兵衛が着用した甲冑が現存しています。織田信長からもらった名刀『へし切り長谷部』は国宝として保管されています。
小田原城を開城させたときに北条氏からもらった法螺貝『北条白貝』も残っています。
官兵衛は通称で、本名は黒田孝高です。
能力を表すとこんな感じ

秀吉も警戒した智謀が黒田官兵衛の持ち味です。あらゆる兵法書から得た用兵術や、交渉を行う弁舌は超一流で、秀吉の天下統一に大きく役立てられました。
能力チャートは『信長の野望』シリーズに登場する黒田官兵衛の能力値を参考にしています。東大教授が戦国武将の能力を数値化した『戦国武将の解剖図鑑』もおすすめです。
黒田官兵衛の面白い逸話やエピソード
天下を取らせたのに豊臣秀吉から嫌われてしまう
あるとき、豊臣秀吉が側近たちに「わしの次に天下を取るのは誰だと思う?」と戯れで問いました。
家来たちは徳川家康が本命だといい、対抗馬は前田利家などと話しました。
すると秀吉は「どれも違う、官兵衛よ」と言いました。

家来たちは「黒田官兵衛は10万石ちょっとですよ?」と聞き返します。秀吉は首を横に振りながら「あやつに50万石でも与えたら天下を取られてしまうわ」と答えました。
日頃から秀吉は官兵衛のことを「油断ならないやつ」と周囲に話していましたが、その疑念は年々増していったようで、1596年の慶長伏見地震では直接ひどいことを言われてしまいます。
秀吉の伏見城が地震で倒壊し、心配した官兵衛が駆けつけます。ところが、秀吉から「わしが死なずに残念であったろう」と、生死を確かめに来たのだと勘ぐられてしまいました。
「側に置いておそろしいやつは遠くに飛ばす」という秀吉の言葉があります。まさしく官兵衛のことであり、実際に大坂から遠く離れた豊前(福岡県)を領地として与えました。
お隣りには秀吉が正直な政治家と信頼していた小早川隆景が置かれ、官兵衛は監視されました。
給料アップの誓約書を竹中半兵衛に燃やされる
織田家に来てしばらく経ったころ、官兵衛は豊臣秀吉から給料アップを約束されました。ところがいつまで待っても給料が上がりません。
官兵衛は秀吉のハンコが押された誓約書を持って抗議しました。
くどくど文句をいう黒田官兵衛の様子をみていた竹中半兵衛が、サッと誓約書を取り上げると燃やしてしまいます。
唖然とする官兵衛に、半兵衛は「こんなものを持ってるから不満を感じるのだ」と一喝。官兵衛は叱られてしまいました。
官兵衛は半兵衛のことをあまり良く思っていませんでしたが、この出来事の少しあとに竹中半兵衛に息子(黒田長政)を助けてもらう機会があり、半兵衛には生涯感謝したといいます。
黒田官兵衛の有名な戦い
毛利氏の小早川水軍を率いる乃美宗勝が姫路に進軍。英賀(兵庫県姫路市飾磨区)周辺で、小寺官兵衛が迎撃した合戦。10倍ほど兵力差があったが、上陸したばかりで疲弊していた小早川水軍を急襲し、農民に旗を持たせて数を多く見せた官兵衛の奇策によって撃退した。
英賀合戦で黒田官兵衛は勝っています。
黒田官兵衛のターニングポイントになった戦いです。
毛利氏攻めの糸口を得た織田信長は、官兵衛の勝利に喜びました。指揮官としてやってきた秀吉に官兵衛は姫路城を提供します。ここから軍師・官兵衛の飛躍がはじまります。
織田氏に叛いた別所長治が篭る三木城(兵庫県三木市上の丸町)を羽柴秀吉が2年ちかく包囲した合戦。竹中半兵衛が考案した補給ルートを断つ作戦で、三木城を孤立させた。餓死者であふれた城内は凄惨をきわめ、開城降伏となった。三木の干し殺しとも。
三木合戦で黒田官兵衛は勝っています。
竹中半兵衛が指揮する包囲戦に加わりました。途中、信長に反旗を翻した荒木村重の説得に向かいましたが、捕われて有岡城の牢に投獄されてしまいます。
織田氏の羽柴秀吉が、備中高松城(岡山県岡山市北区高松)を攻めた合戦。秀吉は蜂須賀正勝に命じて、足守川の水をせきとめる高8m、幅12mの堤防を構築し、清水宗治が篭る高松城を水没させた。しかし、本能寺の変が起こったため、毛利氏と和睦することとなった。
備中高松城の戦いで黒田官兵衛は引き分けています。
低湿地に手を焼く秀吉に、高松城を水没させる策を進言します。この戦いの最中に織田信長が本能寺で討たれたため、官兵衛が毛利氏との和睦を成立させて秀吉は信長の仇討ちに向かいます。
本能寺で織田信長を討った明智光秀と駆けつけた羽柴秀吉が山崎(京都府長岡京市)で激突した合戦。天王山の戦いとも呼ばれる。秀吉は中国地方で毛利氏と交戦中だったが、これを停戦し、急行した。予想外の速さで現れた羽柴軍に明智軍は劣勢となり、敗走した。
山崎の戦いで黒田官兵衛は勝っています。
羽柴軍の左翼を率いて戦いました。この勝利は秀吉の生涯を大きく変えることになり、これを機に天下取りへと動きます。
四国地方を制していた長宗我部元親を、阿波、讃岐、伊予の三方向から、羽柴秀長を総大将とした大軍が攻めた。讃岐方面から進軍した黒田官兵衛が諸城を攻略して、阿波に侵攻。小早川隆景が伊予を制圧した。四国全体で戦火が上がったが、長宗我部氏の降伏により終戦した。
四国征伐で黒田官兵衛は勝っています。
宇喜多秀家らと讃岐国から上陸して喜岡城を攻略、高松頼邑を討ち取っています。つづいて香西城、牟礼城を攻め落とし、植田城の罠にかからず岩倉城を陥落させました。
九州東部から薩摩国に迫る豊臣秀長に対し、局面を打破したい島津義弘が決戦を挑む。島津勢は根白坂(宮崎県児湯郡木城町)を急襲するが、すでに砦を構築していた豊臣軍が迎撃。苦戦した島津軍は夜襲を仕掛けるが、これを予見していた黒田官兵衛が返り討ちにし、壊滅させた。
根白坂の戦いで黒田官兵衛は勝っています。
九州征伐の最終決戦で島津義弘が夜襲をしかけてきますが、戦いの流れをつかんでいたのは官兵衛でした。夜襲を想定していた官兵衛は、伏兵で返り討ちにしました。
天下統一に迫る豊臣秀吉が小田原城(神奈川県小田原市)を大軍で包囲した合戦。籠城する北条氏直と、隠居の北条氏政、重臣たちは「小田原評定」と揶揄された結論がでない会議を繰り返した。北条父子を黒田官兵衛が説得し、降伏開城した。小田原攻め、小田原の役とも。
小田原征伐で黒田官兵衛は勝っています。
参謀として小田原入りしていた官兵衛は、無血開城させる交渉役を担います。これまでにも敵を調伏させてきた見事な交渉術で、北条氏政・氏直父子を説得し、開城させました。
九州の関ヶ原と呼ばれる合戦。大友氏の再興を目指す大友義統と、石垣原(大分県別府市)で黒田官兵衛が激突した。序盤、伏兵を使った鉄砲攻撃で、大友勢が黒田勢の先兵を総崩れさせる。黒田勢は官兵衛の本隊が合流すると数で圧倒し、夕方までに大友兵を蹴散らした。
石垣原の戦いで黒田官兵衛は勝っています。
徳川家康と石田三成の決戦の裏で、官兵衛は九州奪取に動きました。石垣原で勝利し、瞬く間に九州を席巻しましたが、で関ヶ原の戦いが早期決着したため、九州制覇は成りませんでした。
黒田官兵衛の詳しい年表と出来事
黒田官兵衛は西暦1546年〜1604年(天文15年〜慶長9年)まで生存しました。戦国時代中期から後期に活躍した武将です。
1546 | 1 | 黒田職隆の嫡男として播磨国に生まれる。幼名:万吉 |
1561 | 16 | 小寺政職の近習になる。 |
1562 | 17 | 元服 → 小寺(官兵衛)祐隆 |
1567 | 22 | 父・黒田職隆から家督を相続。 小寺政職の姪(光)と結婚。 播磨国・姫路城代になる。 |
1569 | 24 | ”青山・土器山の戦い”赤松政秀に姫路城を攻められるが、織田氏の支援を受けて撃退する。 |
1575 | 30 | 主君・小寺政職に織田氏への従属を勧めて織田信長に会う。 |
1577 | 32 | ”英賀合戦”毛利水軍が播磨国に侵攻してくるが、撃退する。 織田家臣・羽柴秀吉に姫路城を提供し、従軍する。 別所長治をはじめ播磨国の諸将を調略して織田氏に従わせる。 ”第1次上月城の戦い”羽柴秀吉の指揮下で赤松政範との戦に参加。竹中半兵衛と佐用城を攻略。 |
1578 | 33 | ”三木合戦”別所長治が織田氏に叛く。小寺氏も同調する。羽柴秀吉の指揮下で三木城の包囲戦に参加。 荒木村重が織田氏に叛く。説得に向かい捕縛され、有岡城に幽閉される。 |
1579 | 34 | 有岡城が開城降伏。土牢から救出される。 |
1580 | 35 | 三木城が開城降伏。 主君・小寺政職が毛利輝元を頼って備後国に亡命する。小寺家滅亡 織田信長に仕える。羽柴秀吉の与力になる。 播磨国・姫路城を改築。 改名 → 黒田孝高 ”第1次鳥取城攻め”山名豊国との戦に参加。 |
1581 | 36 | ”第2次鳥取城攻め”吉川経家との戦に参加。人家を襲撃して城内に追い込む。凄惨な兵糧攻めを指揮する。 ”馬ノ山の対陣”吉川元春と対陣。羽柴秀吉に撤退を提言する。 |
1582 | 37 | ”備中高松城の戦い”毛利輝元との戦に参加。水攻めを献策する。 主君・織田信長が死亡。【本能寺の変】 羽柴秀吉に交戦中の毛利輝元との講和を勧め、京に向かうよう提言する。【中国大返し】 ”山崎の戦い”明智光秀との戦に参加。羽柴秀長と天王山に布陣。松田政近らと交戦する。 |
1583 | 38 | ”賤ヶ岳の戦い”柴田勝家との戦に参加。 摂津国・石山本願寺の跡地で大坂城の縄張りをする。 |
1584 | 39 | ”小牧・長久手の戦い”織田信雄&徳川家康との戦に参加。大坂城の守備を担当。合戦の終盤では小牧山から撤退する最後尾を担う。 |
1585 | 40 | ”四国征伐”羽柴(豊臣)秀長の指揮下で長宗我部氏の討伐戦に参加。宇喜多秀家に帯同して軍監を務め、諸城を陥落させる。讃岐国から侵攻して阿波国を攻略。長宗我部元親の策を打破する。 高山右近らに勧められてキリスト教の洗礼を受ける。洗礼名:ドン=シメオン |
1586 | 41 | ”九州征伐”島津氏の討伐戦に参加。征伐軍の軍監として豊前国から侵攻。諸城を陥落させる。 |
1587 | 42 | ”根白坂の戦い”豊臣秀長の指揮下で島津義久との戦に参加。小早川隆景とともに島津軍を挟撃して島津忠隣と猿渡信光を討ち取り、壊滅させる。 石田三成とともに筑前国・博多の町割りをする。 豊臣秀吉から豊前国の一部を拝領する。 豊前国・中津城の築城を開始する。 ”肥後国人一揆”肥後国人衆の鎮圧戦に参加。 |
1589 | 44 | 長男・黒田長政に家督を譲る。 |
1590 | 45 | ”小田原征伐”北条氏の討伐戦に参加。籠城を続ける北条氏政・氏直父子を説得して開城降伏させる。北条家滅亡 豊臣秀吉の天下統一が成る。 |
1591 | 46 | 朝鮮出兵の拠点となる肥前国・名護屋城の縄張りをする。 |
1592 | 47 | 宇喜多秀家を総大将とした日本軍の軍監として朝鮮国に侵攻。【文禄の役】 漢城で軍議を開き豊臣秀吉の朝鮮入り中止が決まる。 病を理由に帰国する。 |
1593 | 48 | 朝鮮国に戻るが、石田三成と対立して帰国する。 激怒した豊臣秀吉に朝鮮国に送られる。 出家 → 如水軒円清 朝鮮国・晋州城の和式城郭の縄張りをする。 |
1597 | 52 | 小早川秀秋を総大将とした日本軍の軍監として朝鮮国に侵攻。【慶長の役】 朝鮮遠征に加わろうとした次男・熊之助を乗せた船が転覆、溺死する。 小早川秀秋に伴って朝鮮から帰国。 |
1598 | 53 | 主君・豊臣秀吉が死去。 嫡男・長政と糸姫を離縁させる。 徳川家康の養女・保科正直の娘を嫡男・長政の嫁にもらう。 |
1600 | 55 | 石田三成、大谷吉継が反徳川の挙兵。 関ヶ原の戦いが勃発。徳川氏を支持して豊前国で挙兵。敵方の石田三成と九州7か国を恩賞に味方する交渉を秘密裏に行う。 ”石垣原の戦い”豊後国・杵築城を攻めていた大友義統を撃退する。 徳川家康が関ヶ原の戦いに勝利する。 徳川家康に領地切り取り次第を申し出て九州制圧を続行する。 ”佐賀関の戦い”豊後国に侵攻する。大友義統を退けながら諸城を攻め落とす。 鍋島直茂・勝茂父子を勢力に加えて筑後国・久留米城を攻める。 ”江上・八院の戦い”*鍋島直茂が立花親成(宗茂)の柳川城を攻める。加藤清正に頼まれて仲介し立花親成を開城降伏させる。 加藤清正と立花親成を勢力に加えて島津氏の討伐に向かう。 徳川家康の命令で軍を解散。 長男・黒田長政に家督を譲って隠居。 |
1604 | 59 | 山城国・伏見藩邸で病死。 |

- 黒田孝高 – Wikipedia
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