いしだ みつなり

石田三成

1560.?〜 1600.11.6

 
石田三成の面白いイラスト
  

石田三成は、現在の滋賀県にあたる近江国の武将です。豊臣五奉行のひとり。幼い頃から豊臣秀吉に仕え、町割りや太閤検地など多くの政務を執り行います。外交の窓口として諸勢力と交渉をする豊臣家の頭脳でした。秀吉の死後、日に日に権力を増す徳川家康と対立し、関ヶ原の戦いに敗れて処刑されました。享年41。

石田三成は何をした人?このページは、石田三成のハイライトになった出来事をなるべく正しく、独特の表現で紹介しています。きっと石田三成が好きになる「家康の不忠義を許さず豊臣家のために関ヶ原に挑んだ」ハナシをお楽しみください。

  • 名 前:石田三成
  • 幼 名:佐吉
  • あだ名:平懐者
  • 官 位:従五位下、治部少輔
  • 出身地:近江国(滋賀県)
  • 居 城:佐和山城
  • 正 室:皎月院(宇多頼忠の娘)
  • 子ども:3男 3女
  • 父と母:石田正継 / 瑞岳院
  • 大 名:豊臣秀吉豊臣秀頼

家康の不忠義を許さず豊臣家のために関ヶ原に挑んだ

石田三成とは、関ヶ原の戦いで徳川家康に敗れた悲運の武将です。豊臣秀吉にかわいがられ、秀吉に()るぎない忠義心を(いだ)いていたことで知られています。

1598年に天下人・豊臣秀吉が(ぼっ)し、豊臣家を()いだ秀頼はまだ5歳でした。幼君の将来を案じた秀吉は、死に際に『五大老・五奉行(ごぶぎょう)』による統治サポートシステムを制定します。

五大老とは、徳川家康を筆頭とした5人の大大名。
五奉行(ごぶぎょう)とは、石田三成をふくむ行政官5人からなるグループ。

奉行(ぶぎょう)たちが行う行政に、大老たちが顧問(こもん)として関わるイメージです。

五奉行(ごぶぎょう)のひとり、石田三成は、風紀委員のように(けむ)たがられてしまう男でしたが、豊臣家を守るために(かれ)は少しの不正も許しませんでした。


不届き者の台頭と
頼れる親分の死

秀吉が亡くなったのをいいことに、さっそくルールをやぶる不届き者があらわれます。

不届き者、それは徳川家康です。

秀吉は生前、豊臣家を頂点とした世の中が続くように、いくつかのルールを設けていました。

そのうちの一つが ”大名同士が勝手に結婚(けっこん)しちゃダメ” というもの。婚姻(こんいん)関係が派閥(はばつ)となって、そこに権力が集中してしまうからですね。

ところが秀吉が亡くなると、伊達政宗、福島正則、加藤清正、黒田長政など、有力な大名の縁者(えんじゃ)と徳川家康の身内によるウエディングラッシュが起こります。

あからさまな「家康さんを囲む会」が結成されるのを(だま)って見ていられません。

石田三成は、五大老のひとりである前田利家と相談して、家康を問いただしました。利家親分の威光(いこう)のおかげもあって、家康に「もうしません」の誓書(せいしょ)を書かせました。

しかし、秀吉の死から8か月後、ただひとり徳川家康に対抗(たいこう)できる存在だった前田利家が亡くなってしまいます。


脳筋たちの暴走
痛恨の失脚劇

利家が亡くなった直後、これを待っていたように、加藤清正、福島正則、藤堂高虎、細川忠興、浅野幸長、黒田長政といった七人の脳筋たちが石田三成の屋敷を襲撃(しゅうげき)します。

武断派と呼ばれるこの七将は、朝鮮(ちょうせん)出兵でろくすっぽ(やり)働きもせず(えら)そうに()()う石田三成のことを心の底から(きら)っていました。

ぶっ殺せー!的な勢いで(おそ)いかかる脳筋たちからなんとか(のが)れ、徳川家康の仲介(ちゅうかい)騒動(そうどう)は収まりました。

この騒動(そうどう)で、石田三成は蟄居(ちっきょ)(家でじっとしてろ)を命じられてしまいました。


豊臣家一の忠臣か
混乱を招いた逆臣か

石田三成が不在になった豊臣家では、徳川家康が天下乗っ取りモードに入ります。

そんなおり、五大老・上杉景勝と家康のあいだでトラブルが起こります。家康は上杉討伐(とうばつ)のために会津へ向かいました。

これはチャンス。

徳川家康を背後から討つ絶好の機会と考えた石田三成は、思い切って挙兵しました。

1600年に起こった天下分け目の決戦、関ヶ原の戦いのはじまりです。

関ヶ原の戦いで石田三成と徳川家康が対立した図

毛利輝元、宇喜多秀家ら2人の大老を味方につけた石田三成は、大谷吉継と決起します。西側の諸大名を巻きこんで西軍を結成しました。

一方で、徳川家康は東側の諸大名をすでに傘下(さんか)に加えており、こちらも東軍を結成します。石田三成の挙兵を聞いた家康は、会津征伐(せいばつ)をやめて引き返し、西に向かってきました。

そして、美濃国(みののくに)・関ヶ原で東西両軍は激突(げきとつ)しますが、戦いはわずか6時間で東軍が勝利し、石田三成は徳川家康に敗れてしまいました。

関ヶ原の戦いは豊臣家を二分した内部抗争(こうそう)であり、このときの徳川家康は(まだ)豊臣家の家臣です。

家康と争い、敗れた石田三成は ”豊臣家に内乱を起こした反逆者” として(とら)われ、この内紛(ないふん)鎮圧(ちんあつ)した徳川家康こそが豊臣家をまとめていくリーダーとして周知されてしまいました。

徳川家康という悪党を弾劾(だんがい)したつもりが、あべこべに裁かれることになってしまったのです。


なぜ、西軍は
あっさり負けた

どうして石田三成の西軍は、あっさり負けてしまったのでしょう?

関ヶ原の戦いの最大の焦点(しょうてん)は、開戦から4時間後に小早川秀秋が西軍から東軍に寝返(ねがえ)ったことでした。

1万5千の小早川隊に1千5百の大谷隊が壊滅(かいめつ)させられ、西軍は精神的支柱を失います。

ほかにも、西軍として参加した島津義弘が戦闘(せんとう)に加わらない、総大将を務めた毛利輝元が消極的だったことなど、西軍派は足並みが(そろ)わず、統率がとれていない状態で家康との決戦になってしまったのでした。

* * * * *

石田三成との関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、このあと大名たちの領地を再編成し、豊臣氏の直轄領(ちょっかつりょう)を減らして弱体化させました。

それから3年後の1603年に江戸幕府がひらかれ、政権は徳川氏のものとなりました。

生涯を簡単に振り返る

生まれと出自

1560年、石田三成は近江国(おうみのくに)・坂田郡に石田正継の次男として生まれます。観音寺の寺小姓(こしょう)をしていたところを豊臣秀吉に見出されます。加藤清正らと切磋琢磨(せっさたくま)しながら成長し、やがて行政を担う奉行(ぶぎょう)職で能力を発揮。太閤(たいこう)検地刀狩(かたなが)など、秀吉の政策のほとんどに(たずさ)わり、スポークスマンとして諸将に秀吉の意向を伝えました。

実直な働き者、嫌われる

朝鮮(ちょうせん)(えき)では総奉行(そうぶぎょう)をつとめて司令官を担いますが、前線で戦う武将たちから(きら)われます。秀吉が(ぼっ)したことで、朝鮮(ちょうせん)(みん)との戦争をやめる交渉役(こうしょうやく)も担当しました。その後、仲が悪い武断派ともめてしまい、役職を失います。そうしているうちに、徳川家康に天下をねらう動きが見られるようなり、豊臣の世を守るために挙兵しました。

最後と死因

関ヶ原の戦いに敗れてから3か月後に田中吉政に()らわれ、大津城の城門で生き(さら)しにされたのち、家康と無言の会見を行いました。それから9日後、小西行長、安国寺恵瓊とともに京の市中を引き回され、石田三成は六条河原で処刑(しょけい)されました。1600年11月6日、死因は斬首(ざんしゅ)。41歳でした。首は三条河原に(さら)されました。

処刑(しょけい)される直前「のどが(かわ)いた」と湯を所望し、そばにいた兵が渋柿(しぶがき)ではどうかと差し出します。「(かき)(たん)の毒ゆえ食べぬ」と断ると、これから死ぬくせに兵たちが笑いました。すると「大義を(いだ)くものは最後まで命を大切にするものだ」と言い返したといいます。

領地と居城

石田三成の領地・勢力図(1595年)

近江国(おうみのくに)・佐和山19万石が石田三成の領地でした。豊臣秀吉が九州に加増を提案しますが、これを断って馴染(なじ)みがあるこの土地を(はな)れませんでした。

石田三成の性格と人物像

石田三成は「子どものような正義感がある人」です。

1にも2にも規則が大事。曲がったことが許せず、まるで融通(ゆうずう)がききません。規律を重んじるあまり、ルールを守れない者を見下す態度をとってしまうことがあり、横柄(おうへい)(やつ)=何様?と(きら)われますが、本人はまったく気にしません。

秀吉からの信頼(しんらい)も厚く、奉行(ぶぎょう)ではトップの立場かと思いきや、じつは五奉行(ごぶぎょう)での序列は二番手ないし三番手でした。

血気盛んな武者が多い豊臣家臣のなかでも少数派のインテリだったため、効率よく仕事をこなす様子が(うと)んじられています。

いくさ下手と馬鹿(ばか)にされるので、凄腕(すごうで)の軍師・島左近をスカウトして弱点を補いますが「(左近は)三成には勿体(もったい)ない」と陰口(かげぐち)をたたかれてしまいます。

関ヶ原の戦いでは、経験豊富な諸将の意見を聞き入れず、名将・島津義弘が提案した夜襲(やしゅう)作戦を「田舎もののやること」と却下(きゃっか)してしまう残念さも露見(ろけん)しています。

人望がなく、親友の大谷吉継も「お前には求心力がない。お前の呼びかけじゃ(だれ)も従わない」とキッパリ。そうは言っても、吉継は命がけで戦ってくれる友人で、不器用な三成を放っておけない(かれ)のような人もいました。

(あた)えられた予算は正しく使い切ることがモットー。自分のことに関して極端(きょくたん)倹約家(けんやくか)で、居城には(たたみ)も植木もなく、(かざ)り気もありませんでした。

自分の給料の多くを家来の給与(きゅうよ)にあてるなど、つねに他者を優先しました。

身長156cm、華奢(きゃしゃ)な体格で武芸は得意ではありません。好きな食べ物は(かき)鷹狩(たかが)りが趣味で、(たか)の能力を数値化したデータベースをつくってしまう()りようでした。

関ヶ原で身につけた『乱髪天衝脇立兜黒糸威らんぱつてんしょうわきだてくろいとおどし』は残っていませんが、石田三成が太閤(たいこう)検地に使った『検地基準尺』は現物が残っています。

能力を表すとこんな感じ

石田三成の能力チャート

不正を見逃(みのが)さない正義感が石田三成の長所であり短所です。兵站へいたんなどの軍事サポートは得意でしたが、いかんせん武力に(とぼ)しいのは本人も自覚していました。

能力チャートは『信長の野望』シリーズに登場する石田三成の能力値を参考にしています。東大教授が戦国武将の能力を数値化した『戦国武将の解剖図鑑』もおすすめです。

石田三成の面白い逸話やエピソード

気味よし!秀吉も感服した心づかいの三献茶

佐吉と名乗っていたころの石田三成と、のちに豊臣秀吉となる羽柴秀吉が出会ったお話です。

鷹狩(たかが)りの帰り道、のどがかわいた秀吉はお寺に立ち寄ります。寺小姓(こしょう)が出てきたので、秀吉は「のどカラッカラやねん」というと、寺小姓(こしょう)はお茶を運んできました。

はじめは大きな茶碗(ちゃわん)にぬるいお茶。
これをぐいーっと飲み干し「気味よし!おかわり!」と、秀吉。

(はい)目は少し小さな茶碗(ちゃわん)に温かいお茶。
これも飲み干し「おかわり」と、秀吉。

(ばい)目は小さくて風情(ふぜい)がある茶碗(ちゃわん)に熱いお茶。

【三献茶】豊臣秀吉と石田三成が出会った逸話

しみいるように茶を飲むと、秀吉はふうっと一息ついて、寺小姓(こしょう)の心づかいに感心しました。

(ぱい)目はのどの渇きを満たすもの。
(はい)目は茶を味わうもの。
(ばい)目は気を落ち着けるもの。

秀吉は、佐吉というこの寺小姓(こしょう)をその場で雇用(こよう)したといいます。

かわいそうな大谷吉継を気づかう

大坂城でひらかれた茶会でのこと。石田三成は大谷吉継と同席していました。

大谷吉継は皮膚(ひふ)にかゆみを(ともな)う結節や斑紋(はんもん)ができるハンセン病を(わずら)っており、顔はひどい(うみ)におおわれていました。参加者たちは、吉継を気味悪がりました。

茶会は、参加者たちがひとつの茶碗(ちゃわん)で順番に飲む「まわし飲み」で行われました。

すると、茶碗(ちゃわん)を持っていた大谷吉継の顔からたれた(うみ)が茶に入ってしまいます。

それを見た一同はドン引き。

申し訳なさそうにする吉継から三成が茶碗(ちゃわん)を取り上げると、ずずーっと飲み干しました。

三成は「おいしかったので飲みきってしまいました。もう一杯たててもらえますか」と(さわ)やかに言いました。

石田三成のこの対応に、大谷吉継は深く感謝しました。

徳川家康のことが嫌いすぎる

豊臣家中での序列は、言うまでもなく徳川家康のほうが石田三成よりも上です。

しかし、秀吉亡き後の天下をねらう家康を三成は激しく(きら)い、あからさまな態度をとってしまいます。


家康には
頭を下げない

あるとき、頭巾(ずきん)をかぶった三成が()き火で暖まっていると、浅野長政がやってきて「まもなく家康公が見えるから、頭巾(ずきん)をとって挨拶(あいさつ)しろよ」と告げます。

しばらくして家康が歩いてきますが、三成は見向きもしません。

あわてた長政が三成の頭巾(ずきん)をはぎ取って()き火に放り込みますが、三成は無視したままでした。


家康には
お礼も言わない

大仏普請(ふしん)の現場で、三成が指揮に使っていた木の(つえ)を手から落としてしまいます。そこに視察に来ていた家康が(つえ)を拾いあげて「はい、どうぞ」と三成に(わた)します。

しかし、三成は仏頂面(ぶっちょうづら)で家康の手から(つえ)を受け取り、お礼も言わずに立ち去ってしまいました。

石田三成には、このように子どもじみた一面があり、それをよく知っていた家康に挑発(ちょうはつ)され、関ヶ原の戦いを起こすよう利用されてしまった感があります。

石田三成の有名な戦い

賤ヶ岳の戦い しずがたけのたたかい 1583.6.6 〜 6.13 ○ 羽柴軍5万 vs 柴田軍3万 ●

信長亡きあと、織田家の掌握を狙う羽柴秀吉と、家中を二分していた柴田勝家が賤ヶ岳(滋賀県長浜市)付近で展開した戦い。前田利家の戦線離脱によって、柴田軍は潰走。勢いづく秀吉に北ノ庄城を攻められ落城した。秀吉子飼いの福島正則ら若手武将が活躍した。

賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いで石田三成は勝っています。

味方の行軍を助けるため、夜間でも移動できるように設置しておいた松明(たいまつ)で道を照らしました。これによって敵の意表をつくことに成功し、三成は一番槍(いちばんやり)手柄(てがら)をもらいました。

忍城の戦い おしじょうのたたかい 1590.7.17 〜 8.17 ○ 豊臣軍5万 vs 北条軍2千 ●

天下統一に迫る豊臣秀吉による、小田原征伐の前哨戦のひとつ。成田長親が篭る忍城(埼玉県行田市)を石田三成が水攻めにした合戦。無勢ながら、籠城軍は徹底抗戦したが、小田原城の降伏により決着した。28kmにおよぶ堤防が築かれ、この石田堤は現在も残っている。

忍城(おしじょう)の戦いで石田三成は勝っています。

大軍で忍城(おしじょう)水攻(みずぜ)めにしたものの、落とすことができなかった三成は「いくさ下手」のレッテルを()られてしまいます。しかし、水攻(みずぜ)めを命じたのは秀吉で、三成は強攻(きょうこう)を主張していました。

関ヶ原の戦い せきがはらのたたかい 1600.10.21 ● 西軍8万2千 vs 東軍8万9千 ○

秀吉の死後、徳川家康が権力を増すなか、石田三成が反徳川の挙兵。家康が率いる東軍と三成が率いた西軍が、関ヶ原(岐阜県不破郡関ケ原町)で雌雄を決した。井伊直政が撃ちかけた鉄砲によって開戦。西軍・小早川秀秋が東軍に寝返り、わずか6時間で東軍が勝利した。

関ヶ原の戦いで石田三成は敗れています。

石田三成のターニングポイントになった戦いです。
西軍にまとまりがなかった、小早川秀秋が裏切ったなどのイレギュラーもあり、まったく思いどおりにいきませんでした。このあとは徳川家康が豊臣氏を弱体化させ、秀吉が築いた栄華(えいが)(ほろ)びてゆきました。

石田三成の詳しい年表と出来事

石田三成は西暦(せいれき)1560年〜1600年(永禄(えいろく)3年〜慶長(けいちょう)5年)まで生存しました。戦国時代後期に活躍(かつやく)した武将です。

15601石田正継の次男として近江国に生まれる。幼名:佐吉
157415羽柴(豊臣)秀吉の小姓になる。父と兄も仕える。
157718羽柴秀吉の播磨国攻めに同行する。
158324”賤ヶ岳の戦い”柴田勝家との戦に参加。斥候部隊を率いる。美濃国から近江国に引き返す秀吉本隊の高速移動を助けて一番槍の手柄をあげる。【美濃大返し】
158425”小牧・長久手の戦い”徳川家康との戦に同行する。
近江国の検地を行う。【太閤検地】
158526治部少輔に就任。
158627堺奉行を任じられ、堺を完全に従属させる。堺を兵站基地として整備し、九州征伐にかかる輸送能力を強化する。
158728黒田官兵衛とともに筑前国・博多の町割りをする。
158829島津義久と豊臣秀吉の謁見を斡旋する。
158930美濃国の検地を行う。【太閤検地】
159031島左近を熱心に勧誘して召し抱える。
”小田原征伐”北条氏の討伐戦に参加。
北条領・館林城を開城降伏させる。
”忍城の戦い”成田長親が篭る忍城を水攻めにするが落せず。
豊臣秀吉が小田原城を開城降伏させる。北条家滅亡
忍城が開城降伏。
豊臣秀吉の天下統一が成る。
奥州の検地を行う。【太閤検地】
159132”九戸政実の乱”九戸政実の鎮圧戦に参加。佐竹義重と相馬口方面から制圧する。【奥州仕置】
159233大谷吉継、増田長盛と朝鮮出兵の総奉行を務める。豊臣秀吉の意向を前線に伝える司令官を担う。【文禄の役】
日本国と明国のあいだで講和交渉が行われる。
漢城で軍議を開き豊臣秀吉の朝鮮入り中止が決まる。
159334”碧蹄館の戦い”明・朝鮮軍との戦に参加。
”幸州山城の戦い”宇喜多秀家の指揮下で朝鮮軍との戦に参加。
日本軍の戦況悪化を受けて、加藤清正に咸鏡道の撤退を命じる。
”第2次晋州城攻防戦”宇喜多秀家の指揮下で朝鮮軍が篭る晋州城を攻める。
小西行長と共謀して豊臣秀吉に加藤清正を讒言する。
明国の謝用梓、徐一貫を伴って小西行長、大谷吉継らと名護屋城に帰還する。
159435島津領の検地を行う。【太閤検地】
佐竹領の検地を行う。【太閤検地】
159536関白・豊臣秀次に謀反の疑いがかかる。秀次を糾問する。切腹を命じられた秀次の助命を嘆願をするが叶わず。秀次の遺臣を預かる。【秀次切腹事件】
豊臣秀吉から近江国・佐和山を拝領する。
近江国・佐和山城を居城にする。
159637京都奉行に任じられる。
豊臣秀吉からキリスト教の弾圧を命じられる。京と大坂で捕縛した信徒を長崎で処刑する。助命を嘆願するが叶わず。【日本二十六聖人】
159738再度行われた朝鮮出兵を国内から支援する。戦況を豊臣秀吉に報告した結果、処分を受けた武断派から恨まれる。【慶長の役】
159839主君・豊臣秀吉が死去。次代・豊臣秀頼に仕える。
豊臣秀吉の遺命により五大老・五奉行による合議制が敷かれる。
浅野長政、石田三成、増田長盛、長束正家、前田玄以が五奉行に任じられる。
朝鮮から兵を帰国させる撤退業務を行う。
159940徳川家康の婚姻政策に反発して騒動になる。前田利家の仲裁で誓書を交わす。
五大老上首・前田利家が亡くなる。
加藤清正、福島正則、黒田長政、細川忠興、浅野幸長、池田輝政、加藤嘉明の7将が石田三成の屋敷を襲撃。徳川家康、毛利輝元、上杉景勝で協議し石田三成を蟄居させる。【石田三成襲撃事件】
家臣・島左近の提案により徳川家康の暗殺を計画するが察知され、暗殺計画への関与を疑われた大老・前田利長と奉行・浅野長政が職を解任される。以後、豊臣政権の主導権は徳川家康が握る。
160041上杉家臣・直江兼続と協議して徳川家康の打倒を計画する。
徳川家康が陸奥国・会津の上杉討伐に向かう。
大谷吉継と反徳川の挙兵。
”伏見城の戦い”*宇喜多秀家らに鳥居元忠が篭る伏見城を攻め落とさせる。
”浅井畷の戦い”*丹羽長重が前田利長を敗走させる。
”木曽川・合渡川の戦い”*美濃国・岐阜城の織田秀信が池田輝政に敗れる。
”杭瀬川の戦い”*島左近、明石全登が中村一栄を敗走させる。
”関ヶ原の戦い”徳川家康に与する勢力を東軍。石田三成に加担する勢力を西軍として決戦に臨む。美濃国・関ヶ原で激突し敗れる。戦場から逃れる。
捕縛され、小西行長、安国寺恵瓊と山城国・京の六条河原で斬首。
戦国時代で石田三成が生きた期間の表
石田三成の顔イラスト
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