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いしだ みつなり

石田三成

1560.? 〜 1600.11.6

 
石田三成のイラスト
  

石田三成は、現在の滋賀県にあたる近江の武将・大名です。小姓として幼い頃から豊臣秀吉に仕え、早くから内政面で多くの政務を執り行います。外交面では窓口として諸勢力と交渉をする豊臣家の頭脳であり顔でした。秀吉の死後、日に日に権力を増す徳川家康と対立し、関ヶ原の戦いに敗れて処刑されました。享年41歳。

石田三成の人物タイプ
官僚

このページでは、石田三成が何をしたどんな人なのか、ハイライトやエピソードを紹介しています。戦国武将・石田三成のことがきっと好きになります。

  • 出身地:近江(滋賀県)
  • 特 徴:融通がきかない
  • あだ名:平懐者
  • 居 城:佐和山城

豊臣氏の栄光と発展のためにあらゆる政務と財務を執り行った

一人が万民のために、万民は一人のために尽くせば、みんなが幸せになれる。石田三成はこの「大一大万大吉」の精神をモットーとしていました。
織田信長が本能寺の変で亡くなったあと、天下統一事業は豊臣秀吉が引き継ぎます。石田三成は秀吉のもとで天下万民が平和に暮らせるように努めました。

石田三成は、天下をとった豊臣政権を屋台骨として支えました。さまざまな奉行職を歴任し、豊臣家の地盤固めと発展に尽くしました。経済の重要拠点でもある堺、博多、京都で奉行職を歴任しています。日本全国の領地をくまなく調べる「太閤検地」の奉行としても働きました。

外交官として、諸大名や朝廷と豊臣家をとりなし、朝鮮出兵のおりには、明国との停戦交渉という難題も担当しています。目立った槍働きはありませんが、石田三成とは「豊臣のすべてをつなぐリンクマン」です。

三成が支えていた豊臣家の業務ネットワーク

戦においては、兵站(軍需品、物資の管理と補給を担う機関)や、諜報部隊を指揮して戦闘を有利にする役割をしました。
堺を兵站として整備し、九州の島津氏を攻める遠征軍の動員を円滑にしました。秀吉の九州平定が短期間で完了したのは、堺 → 九州のホットラインを機能させたのが大きかったといわれています。石田三成は頭の良さを活かして、前線部隊が戦をしやすいように支援を行っていました。

秀吉に命じられた石田三成が主導して行った検地によって、国内の生産量が明確になり、漏れなく年貢を取り立てることができるようになりました。当時の日本は、複雑な課税・納税の仕組み上、生産量などは申告制であったため、正確に把握できていませんでした。

石田三成は権利関係を整理し、すべて同一基準によって算出するための測量を実施して、エクセルがない時代に膨大な情報をまとめた帳簿を作成しました。石田三成がコツコツと行った地道な作業が、豊臣家の繁栄を支えていました。

[生涯] わかりやすい解説

① 豊臣政権

石田正継の次男として生まれます。
15歳のときから豊臣秀吉の小姓として仕えるようになって、若いうちからお供をします。
領地の検地や経済都市の開発など、多くの政務を任されます。

朝鮮出兵では、日本軍の監督として秀吉からの命令や指示を伝える役目をしますが、これが福島正則などの武闘派に嫌われる原因になって、命を狙われるほど怒らせてしまいます。

② 関ヶ原の戦い

秀吉が亡くなると豊臣秀頼を支えていく「五大老・五奉行制度」で、行政奉行になります。
加藤清正たち武闘派とますます仲が悪くなってしまい、徳川家康によって佐和山城に閉じこめられてしまいました。

三成がいなくなると、徳川家康が豊臣家のルールをやぶって好き放題します。
これに怒った三成は徳川家康に戦いを挑みますが、関ヶ原の戦いに敗れてしまいました。
石田三成は罪人として捕まり、六条河原で処刑され、三条河原に首をさらされました。

石田三成の簡単な年表

[能力] 有能な管理職ゆえに嫌われてしまう損な人

他人の意見を聞かない、非効率なことはしないなど、気難しいイメージがある石田三成は、執務においてはまさに頑固者です。しかし、それは豊臣家にとってなにが一番良いのかという基本理念に沿ったものですので、勤め人としては当然です。目上の人に応対する外交官の役割も完璧にこなしていますので、気遣いもできます。

豊臣秀吉の言葉を伝える役割が多く、任務を忠実に遂行したのに横柄だとか、生意気だとか、ムカつくとか言われてしまうツライ立場でした。一方で、三成には一緒に戦ってくれる友達もいました。

石田三成の逸話・面白いエピソード

気味よし!秀吉も感服した心づかいの三献茶

三成がまだ佐吉と名乗っていた頃、豊臣秀吉が鷹狩りの帰り道で立ち寄ったお寺でのできごと。のどカラッカラやねんという秀吉がお茶をくれと所望。佐吉少年が大きな茶碗にぬるいお茶を入れて運んできました。

秀吉はそれをゴクゴクと飲み干し「気味よし!おかわり!」すると今度は、先ほどより少し小さな茶碗にほんのり暖かいお茶を運んできました。これも飲み干すと、最後は小さくて風情がある茶碗に熱っついお茶を少しだけ注いできました。しみいるように茶を飲むと、ふうっと一息つき、秀吉は少年の心づかいに気づいたといいます。

はじめの一杯は喉をうるおすためのもの。次は茶を味わうもの。最後は香りを楽しむもの。
秀吉は佐吉少年と、その兄と父の雇用をその場で決めたとのことです。

石田三成の戦い・有名な合戦

賤ヶ岳の戦い しずがたけのたたかい 1583.3.12 〜 4.23 羽柴軍5万 vs 柴田軍3万

信長亡きあと、織田家の掌握を狙う羽柴秀吉と、家中を二分していた柴田勝家が賤ヶ岳(滋賀県長浜市)付近で展開した戦い。前田利家の戦線離脱によって、柴田軍は潰走。勢いづく秀吉に北ノ庄城を攻められ落城した。秀吉子飼いの加藤清正ら若手武将が活躍した。

賤ヶ岳の戦いで石田三成は勝っています。味方の行軍を助けるため、夜間でも移動できるように松明(たいまつ)を美濃から近江の道にセットしました。この働きに秀吉は感動したといいます。敵の動向を探る諜報隊を率いて、一番槍の功名をあげています。

関ヶ原の戦い せきがはらのたたかい 1600.10.21 西軍(豊臣)8万 vs 東軍(徳川)10万

秀吉の死後、徳川家康が権力を増すなか、石田三成が反徳川の挙兵。家康が率いる東軍と三成が率いた西軍が、関ヶ原(岐阜県不破郡関ケ原町)で雌雄を決した。井伊直政が撃ちかけた鉄砲によって開戦。西軍・小早川秀秋が東軍に寝返り、わずか6時間で東軍が勝利した。

石田三成は関ヶ原の戦いで敗れています。打倒・家康を目論み、天下分けめの決戦に臨みましたが、三成が率いた西軍は敗れてしまいます。勝利した家康は勢いを増し、豊臣カラーを排除され、このあと全国の勢力図は徳川一色に染まりました。
石田三成の死は、豊臣氏の凋落につながり、やがて徳川家康によって滅亡します。戦国時代の終焉を迎える日本史のターニングポイントになった合戦です。

石田三成の年表を詳しく

石田三成は西暦1560年〜1600年(永禄3年〜慶長5年)まで生存しました。戦国時代中期から後期に活躍した武将です。
徳川家康の17歳下です。
豊臣秀吉より23年あとに生まれています。

15601石田正継の次男として近江に生まれる。幼名:佐吉
157415羽柴秀吉(豊臣秀吉)の小姓になる。父と兄も羽柴氏に仕える。
157718羽柴秀吉の中国攻めに帯同する。
158324”賤ヶ岳の戦い”柴田勝家に奇襲をかける策を講じ、一番槍の手柄を挙げる。
158425”小牧・長久手の戦い”徳川家康との戦に帯同。
近江の検地を実施。
158627知行の半分を与えて島左近を登用。
堺奉行を任ぜられ、堺を完全に従属させる。
堺を兵站基地として整備し、九州征伐にかかる輸送能力を強化する。
158930美濃の検地を実施。
159031”小田原征伐”秀吉が率いる20万の大軍が小田原城を包囲。館林城、忍城の攻略を命じられる。
北条氏の降伏により開城、豊臣秀吉が天下統一を果たす。北条家滅亡
奥州の検地を実施。
159233朝鮮出兵の総奉行になる。【文禄の役】
159334”碧蹄館の戦い”明・朝鮮軍との戦に参加。
”幸州山城の戦い”朝鮮軍との戦に参加。
159435島津領、佐竹領の検地を実施。
159536豊臣秀吉から秀吉の甥・豊臣秀次を謀反の嫌疑によって糾問するよう命ぜられる。
北近江・佐和山城の城主となる。
159637豊臣秀吉からキリスト教の弾圧を命ぜられる。
159738再度行われた朝鮮出兵を国内から支援する。【慶長の役】
159839豊臣秀吉が死去。
秀吉の死後、豊臣氏を支える五大老・五奉行制度の行政奉行になる。
朝鮮から兵を帰国させる撤退業務を行う。
159940細川忠興、加藤清正、福島正則ら7将に大坂屋敷を襲撃されるが、事前に伏見に逃れる。殺気立つ7将を鎮めるとして、徳川家康が仲介し、佐和山城に蟄居を命ぜられる。
家臣・島左近の提案により徳川家康の暗殺を計画するが徳川氏に察知され、暗殺計画への関与を疑われた大老・前田利長と奉行・浅野長政が職を解任される。以後、豊臣政権の主導権は徳川家康が握る。
160041”関ヶ原の戦い”東軍・西軍にわかれた大大名同士の決戦。西軍の実質的な指揮官を担うが、東軍・徳川家康に敗れる。捕縛され、斬首。
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