おおたに よしつぐ

大谷吉継

1559.?〜 1600.10.21

 
大谷吉継の面白いイラスト
  

大谷吉継(紀之介)は、現在の滋賀県にあたる近江国の武将です。豊臣秀吉に才能を認められ、石田三成とともに太閤検地などの政務に携わります。若くして発症した難病に悩みながらも、顔を布で覆って戦場に赴きました。関ケ原の戦いで三成に味方しますが、小早川秀秋の裏切りによって命を落とします。享年42。

大谷吉継は何をした人?このページは、大谷吉継のハイライトになった出来事をなるべく正しく、独特の表現で紹介しています。きっと大谷吉継が好きになる「親友・三成との友情を貫き敗軍を率いて関ヶ原に殉じた」ハナシをお楽しみください。

  • 名 前:大谷紀之介 → 大谷吉継
  • 別 名:平馬、吉隆
  • 幼 名:桂松
  • 官 位:従五位下、刑部少輔
  • 出身地:近江国(滋賀県)
  • 居 城:敦賀城
  • 子ども:3男 1女
  • 父と母:大谷吉房 / 東殿
  • 大 名:豊臣秀吉豊臣秀頼

親友・三成との友情を貫き敗軍を率いて関ヶ原に殉じた

関ヶ原の戦いで徳川家康に(いど)み、苦杯(くはい)(きっ)した石田三成。その三成との友情のために戦い、(じゅん)じたのが大谷吉継です。

大谷吉継と石田三成は1歳ちがいの親友で、ふたりとも主君である豊臣秀吉から「計数の才がある」と評された秀才(しゅうさい)でした。

家来のなかに自分の血縁者(けつえんしゃ)が少ない秀吉は、このような若い才能を大事にし、忠実な政務官として育てました。そのため、ふたりは多くの重要な任務を一緒(いっしょ)にしてきました。

1598年に秀吉が亡くなったあと、豊臣家は大きな転機を(むか)えます。大谷吉継と石田三成も、その渦中(かちゅう)に居ました。


無謀だが
やるなら手を貸す

秀吉が亡くなると、筆頭家臣の徳川家康に天下をねらう動きが見られるようになります。

生前に秀吉が決めたルールを無視して、家康は日に日に権力を増大させます。これを石田三成は許せません。

三成は家康を追求しますが、武断派と三成のあいだでトラブルが起こり、家康からその責任を問われて職を失ってしまいました。

以来、石田三成は打倒(だとう)・家康に燃えていました。

百万石を()える大大名である徳川家康と、職を失った元奉行(ぶぎょう)の石田三成が争っても勝ち目はありません。大谷吉継は、親友・三成から相談を受けて(なや)みます。

石田三成から打倒・家康の相談を受ける大谷吉継

大谷吉継は「まず勝てないからやめておけ」と三成の説得を試みますが、融通(ゆうずう)が利かないうえに頑固(がんこ)な親友は考えを改めません。

仕方ない。大谷吉継は、石田三成を支援(しえん)して徳川家康と戦う決意をします。

家康との決戦は、豊臣家を二分する戦いでした。当然、相手より多くの味方を得たほうが有利になります。

もとより、家康派は着実に増えていて、大谷吉継らは劣勢(れっせい)でした。

それでも大谷吉継の工作によって、三成の味方というより、家康の敵を増やすことに成功します。

西の大名が多い大谷吉継ら三成派は「西軍」、東の大名が多い家康派を「東軍」とした、天下分け目の決戦へと突入(とつにゅう)していきます。

1600年、関ヶ原の戦いです。


想定内の裏切り
予想外の敵

決戦の直前になっても、敵か味方か読めない(やつ)がいました。小早川秀秋です。

たいへんな馬鹿(ばか)で有名だった小早川秀秋には、この戦いの意味もわからなければ志もありません。そのくせ、秀吉の(おい)というだけで大軍を率いている厄介(やっかい)な存在でした。

その小早川秀秋が西軍に居たため、大谷吉継は「小早川は利があるほうに動くから信用できない」と三成に忠告します。

大谷吉継の予想は的中してしまいます。

関ヶ原で、西軍と東軍のあいだに位置する松尾山に小早川の(じん)()かれました。

これを見た大谷吉継は、松尾山を監視(かんし)できるところに(じん)を置き、用心のために脇坂安治、朽木元綱、小川祐忠、赤座直保を小早川の(じん)の前に配置します。

激しい局地戦ではじまった関ヶ原の戦いは序盤(じょばん)拮抗(きっこう)し、1千5百の大谷隊も獅子奮迅(ししふんじん)の働きをしますが、次第に西軍が劣勢(れっせい)になります。

疲弊(ひへい)した大谷吉継のところへ、なだれのように1万5千の小早川隊が()し寄せてきました。

この裏切りを予想していた大谷吉継は周到(しゅうとう)に戦い、10倍の小早川隊を()し返します。それにしてもやけに敵の数が多い。小早川を見張っていた脇坂らはどうした?

なんと、見張りにつけていた脇坂ら4隊までもが小早川隊に加勢して、大谷吉継を()めています。

見張りの4隊が加わった小早川隊の総勢は2万に(ふく)れ上がりました。

予想外の敵にも囲まれ、四方八方から()められた大谷吉継の部隊は混乱し、全滅(ぜんめつ)しました。

友を勝たせたいという一心で戦った大谷吉継でしたが、最後は大きな局面の流れに飲まれてしまいました。


じつは
家康寄りだった

関ヶ原の戦いから3か月前、上杉景勝を討伐(とうばつ)するために徳川家康は会津征伐(せいばつ)を行います。

大谷吉継も家康の会津征伐(せいばつ)に合流する途中(とちゅう)、三成のもとに立ち寄りました。そこで三成から家康との決戦を相談されたのでした。

もともと大谷吉継は、徳川家康を豊臣家中で一番実力がある人物と認めていました。そのため、大谷吉継は秀吉の直臣と徳川氏をつなぐバイプレイヤーを心がけていました。

しかし大谷吉継のなかにも、秀吉亡き後の豊臣家でいつまでも家康を(おさ)えこむのは無理があるとの思いがあったのでしょう。

生涯を簡単に振り返る

生まれと出自

1559年、大谷吉継は近江国(おうみのくに)に大谷吉房の子として生まれます。子ができないことを(なや)んでいた父が松の実を食べたところ、子を授かったので桂松(よしまつ)と名付けられました。母が豊臣秀吉の正室・高台院の取次役だった(えん)で秀吉に仕え、同世代の石田三成と奉行(ぶぎょう)をつとめました。

業病(ハンセン病)を患う

持ち前の頭の良さで調略や兵站(へいたん)に能力を発揮し、秀吉から可愛がられます。しかし、20代半ばでハンセン病が発症(はっしょう)し、以後は病に(なや)まされつづけます。病気の療養(りょうよう)をしながら、文禄(ぶんろく)(えき)では朝鮮(ちょうせん)(わた)って戦い、三成と軍監(ぐんかん)の職務を担いました。

最後と死因

秀吉の死後、豊臣家では徳川家康が権力を増します。これに対抗(たいこう)するため、石田三成と義兵を挙げて関ヶ原の戦いに臨みますが、小早川秀秋の裏切りによって部隊が壊滅(かいめつ)し、関ヶ原の山中で大谷吉継は切腹しました。1600年10月21日、死因は自害。42歳でした。首が見つからないよう()めてくれと(たの)みました。

領地と居城

大谷吉継の領地・勢力図(1590年)

越前国(えちぜんのくに)敦賀(つるが)5万石が大谷吉継の領地でした。敦賀港(つるがこう)の利を活かして、貿易と海運、水軍など、船を使ってこの地を治め、城がある港湾(こうわん)都市にしました。

大谷吉継の性格と人物像

大谷吉継は「舞台(ぶたい)をあやつる黒子のような人」です。

調略や策略を得意とする頭脳型プレイヤーです。全体が見えているので、かゆいところにも手が届きます。

義将、知将というイメージが強い一方で、作戦遂行(すいこう)のために(うそ)をつかうこともいとわず、一揆(いっき)鎮圧(ちんあつ)したのちには見せしめとして百姓(ひゃくしょう)処刑(しょけい)するなど、冷徹(れいてつ)な一面もあります。

挙兵を考えていた親友の石田三成に「人望がないお前が兵を(つの)っても集まらない」と、ぴしゃりと言えるナイスガイ。友を思えばこそ、厳しい言葉をかける優しい思いやりと冷静な判断がうかがえます。

()め名人である豊臣秀吉に「百万石の軍勢を預けてみたい」と言わしめたほどのいくさ上手。心理戦や情報線もお手のものでした。

剣豪(けんごう)・伊東一刀斎に剣術(けんじゅつ)を学んだ豪傑(ごうけつ)です。戦場では勇猛果敢(ゆうもうかかん)に敵に立ち向かい、(やり)でひと()きにして討ち取ったこともあります。

大谷吉継の病気について、ハンセン病が有力な説ですが、ハンセン病と断定されているわけではありません。梅毒の末期症状(しょうじょう)である組織壊死(えし)の可能性も指摘(してき)されています。

病気により、目が見えませんでした。

顔の皮膚(ぎふ)がただれ、(くず)れていたため、白頭巾(しろずきん)で顔を(おお)っていたビジュアルが有名。江戸中期の『関ヶ原合戦誌記』など、軍記物の描写(びょうしゃ)が定着したものと考えられています。

能力を表すとこんな感じ

大谷吉継の能力チャート

頭をつかった作戦が得意ですが、個としての強さも持っています。家臣に対しては慈悲(じひ)深く、信頼(しんらい)され、よく統制されていました。

能力チャートは『信長の野望』シリーズに登場する大谷吉継の能力値を参考にしています。東大教授が戦国武将の能力を数値化した『戦国武将の解剖図鑑』もおすすめです。

大谷吉継の面白い逸話やエピソード

石田三成との友情ネタがたくさん

三成との関係は友情を()えた衆道(しゅどう)(BL)であったとする記録もあるほど、ふたりの関係はかなり親密なものでした。

ふたりの固い友情が、関ヶ原の戦いにおける結束を生んだとも考えられています。


茶会にて
かわいそうな吉継

家臣の結束を強めるため、豊臣秀吉が選りすぐりの者をまねいて大坂城で茶会をひらきました。

参加者たちは、ひとつの茶碗(ちゃわん)にたてられた()い茶をひとくちずつ順番に飲むまわし飲み」をするわけですが、ここで(みな)が大谷吉継の病気のことを気にします。

吉継は病気で顔全体がかさぶたのようになり、(うみ)も出ていました。未知の病と気味悪がられていました。

茶会でのまわし飲みは、参加者の思いをひとつにする意味がありました。参加者たちの心は「吉継と同じ茶碗(ちゃわん)はきつい……」という思いでいっぱいになってしまいます。

(みな)のそのような思いをひしひしを感じていた吉継が茶碗(ちゃわん)を受け取り、口をつけられずにいたとき、顔からひとすじの(うみ)茶碗(ちゃわん)にたれてしまいました。

(あああっ!!!)

吉継の病気がうつるのではないかと、(みな)は飲むふりをするのが精一杯(せいいっぱい)でした。ところが、三成は「早う、こっちにも飲ませてくれ」と茶碗(ちゃわん)を受け取ると、ずずーっと飲み干しました。

茶会でまわし飲みを嫌がられた大谷吉継と一気に飲み干す石田三成

茶がなくなったことで(みな)はホッとし、このときの石田三成()()いに、吉継は深く感謝して(なみだ)しました。


お前のために
言うんだからな

どうしても徳川家康のことが好きになれない石田三成。ついに挙兵します。

大谷吉継も覚悟(かくご)を決めますが、こうなったからにはズバッと言わせてもらいます。

お前はいつも(えら)そうにしているから(きら)われている。三成の名前で呼びかけても(だれ)も集まらないばかりか、かえって家康の支持者が増える

石田三成の名前は出さないほうがいい。毛利輝元を大将に立てて、お前は目立つな」

「お前はすこぶる頭が良い。でも勇気が足りないし決断力もない

とまぁ、ボロカスに言います。

しかし、これも親友を思えばこそのアドバイス(たぶん)。三成も素直に従いました。

小早川秀秋を呪い殺してしまう

関ヶ原の戦いで最初から最後まで奮闘(ふんとう)した大谷吉継でしたが、小早川秀秋の裏切りによって非業の死を()げました。

形勢逆転され、無念の思いで自害する際、吉継は小早川秀秋に対して「人面獣心(じんめんじゅうしん)なり!3年のあいだに(たた)りをなさん!」と(さけ)んだといいます。

超訳(ちょうやく):人の顔をした(けだもの)め!3年以内に(のろ)ってやる!)

すると、これより2年後、小早川秀秋は21歳の若さで急死します。

秀秋は鷹狩(たかが)りに出かけて急に具合が悪くなり、それから3日後に亡くなりました。吉継の亡霊(ぼうれい)をみた秀秋は狂乱(きょうらん)して死に至ったと(うわさ)がたち、吉継の(たた)りといわれました。

大谷吉継の有名な戦い

賤ヶ岳の戦い しずがたけのたたかい 1583.6.6 〜 6.13 ○ 羽柴軍5万 vs 柴田軍3万 ●

信長亡きあと、織田家の掌握を狙う羽柴秀吉と、家中を二分していた柴田勝家が賤ヶ岳(滋賀県長浜市)付近で展開した戦い。前田利家の戦線離脱によって、柴田軍は潰走。勢いづく秀吉に北ノ庄城を攻められ落城した。秀吉子飼いの福島正則ら若手武将が活躍した。

賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いで大谷吉継は勝っています。

吉継は勝家の(おい)・柴田勝豊を調略し、戦況(せんきょう)を有利にしています。秀吉から『三振(みふり)の太刀』と称賛(しょうさん)され、この功績によって刑部少輔(ぎょうぶしょう)に任じられました。

忍城の戦い おしじょうのたたかい 1590.7.17 〜 8.17 ○ 豊臣軍5万 vs 北条軍2千 ●

天下統一に迫る豊臣秀吉による、小田原征伐の前哨戦のひとつ。成田長親が篭る忍城(埼玉県行田市)を石田三成が水攻めにした合戦。無勢ながら、籠城軍は徹底抗戦したが、小田原城の降伏により決着した。28kmにおよぶ堤防が築かれ、この石田堤は現在も残っている。

忍城(おしじょう)の戦いで大谷吉継は勝っています。

石田三成のサポート役として、忍城攻(おしじょうぜ)めに同行しました。長束正家らとともに包囲軍に加わっています。

伏見城の戦い ふしみじょうのたたかい 1600.8.26 〜 9.8 ○ 西軍4万 vs 東軍1千8百 ●

関ヶ原の戦いの前哨戦。西軍・宇喜多秀家らが、伏見城(京都府京都市伏見区)を攻めた。守将の鳥居元忠は、20倍の兵を相手に頑強に戦ったが、鈴木重朝に一騎討ちで敗れた。城兵は全滅し、籠城軍の血で染まった床板は、複数の寺で再利用され、血天井として知られる。

伏見城(ふしみじょう)の戦いで大谷吉継は勝っています。

伏見城(ふしみじょう)がまもなく落ちるという見通しがついたところで、あとを他にまかせて越前国(えちぜんのくに)に向かい、加賀国(かがのくに)で前田利長と戦う丹羽長重に加勢します。虚偽(きょぎ)の情報を流して利長を疑心暗鬼(ぎしんあんき)(おとし)め、前田勢を敗走させました。

関ヶ原の戦い せきがはらのたたかい 1600.10.21 ● 西軍8万2千 vs 東軍8万9千 ○

秀吉の死後、徳川家康が権力を増すなか、石田三成が反徳川の挙兵。家康が率いる東軍と三成が率いた西軍が、関ヶ原(岐阜県不破郡関ケ原町)で雌雄を決した。井伊直政が撃ちかけた鉄砲によって開戦。西軍・小早川秀秋が東軍に寝返り、わずか6時間で東軍が勝利した。

関ヶ原の戦いで大谷吉継は敗れています。

大谷吉継のターニングポイントになった戦いです。
石田三成の参謀(さんぼう)として、西軍副官の立場で現場指揮を()りました。目が見えない吉継は輿(こし)に乗って戦い、わずか1千5百の兵で藤堂高虎らを圧倒(あっとう)します。しかし、警戒(けいかい)していた小早川秀秋に裏切られ、背後から()められて壊滅(かいめつ)しました。

大谷吉継の詳しい年表と出来事

大谷吉継は西暦(せいれき)1559年〜1600年(永禄(えいろく)8年〜慶長(けいちょう)5年)まで生存しました。戦国時代後期に活躍(かつやく)した武将です。※生年を1565年とする説もあります。

15591大谷吉房の子として近江国に生まれる。幼名:桂松 ※大谷盛治の子で豊後国の出身とする説あり
157820”三木合戦”別所長治との戦に参加。
”第2次上月城の戦い”毛利輝元との戦に参加。
158224”備中高松城の戦い”毛利輝元との戦に参加。
”山崎の戦い”明智光秀との戦いに参加。
織田領・美濃国攻めに参加。
158325”賤ヶ岳の戦い”柴田勝家との戦に参加。長浜城主・柴田勝豊を調略する。先懸之衆で武功を挙げる。
158527”第2次紀州征伐”雑賀衆、根来衆の討伐戦に参加。杉本荒法師を槍でひと突きにし討ち取る。
刑部少輔に就任。
この頃からハンセン病を患う。
158628石田三成の指揮下で奉行を務める。
158931豊臣秀吉から越前国・敦賀を拝領する。
越前国・敦賀城を居城にする。
159032”小田原征伐”北条氏の討伐戦に参加。
北条領・館林城攻めに参加。
”忍城の戦い”石田三成の指揮下で忍城攻めに参加。
豊臣秀吉が小田原城を開城降伏させる。北条家滅亡
豊臣秀吉の天下統一が成る。
奥州の検地を行う。一揆が起こり上杉景勝に鎮圧を要請。【太閤検地】
159234石田三成、増田長盛と朝鮮出兵の総奉行を務める。軍監として船舶の調達や物資の輸送を手配する。【文禄の役】
日本国と明国のあいだで講和交渉が行われる。
159335”碧蹄館の戦い”明・朝鮮軍との戦に参加。
”幸州山城の戦い”宇喜多秀家の指揮下で朝鮮軍との戦に参加。
”第2次晋州城攻防戦”宇喜多秀家の指揮下で朝鮮軍が篭る晋州城を攻める。
明国の謝用梓、徐一貫を伴って石田三成、小西行長らと名護屋城に帰還する。
159840主君・豊臣秀吉が死去。次代・豊臣秀頼に仕える。
159941前田利長、浅野長政、大野治長、土方雄久が徳川家康の暗殺を企てる。徳川家康に命じられて前田利長のもとへ出兵する。【家康暗殺未遂事件】
160042徳川家康が陸奥国・会津の上杉討伐に向かう。これに合流する途中で石田三成の挙兵計画を知る。
石田三成と反徳川の挙兵。
”伏見城の戦い”鳥居元忠が篭る山城国・伏見城を攻め落とす。
越前国と加賀国で調略を行う。丹羽長重、山口宗永、上田宗箇を味方につける。虚偽の情報で前田利長を動揺させる。
”関ヶ原の戦い”徳川家康との戦に西軍として参加。後方で指揮し、藤堂高虎と京極高知と交戦する。東軍に寝返った小早川秀秋に襲われ、自害。
戦国時代で大谷吉継が生きた期間の表
大谷吉継の顔イラスト
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