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ふくしま まさのり

福島正則

1561.? 〜 1624.8.26

 
福島正則のイラスト
  

福島正則(高斎)は、現在の愛知県西部にあたる尾張国の武将です。賤ヶ岳七本槍のひとり。実母が豊臣秀吉の叔母であった縁で小姓になり、数々の戦いで自慢の槍を振るいました。豊臣家ファーストでしたが、秀吉の没後は石田三成ら文治派と対立、徳川家康に与して関ヶ原を戦い、主家との板挟みに悩みました。享年64歳。

福島正則は何をした人?このページは、福島正則のハイライトになった出来事をなるべく正しく、独特の表現で紹介しています。きっと福島正則が好きになる「秀吉子飼いの猛将は大一番の賤ヶ岳で一番槍をとった」ハナシをお楽しみください。

  • 名 前:福島正則 → 福島高斎
  • 幼 名:市松
  • 官 位:従五位下、左衛門尉、侍従、左近衛権少将、従四位下、従三位、参議
  •  藩 :広島藩主、高井野藩主
  • 出身地:尾張国(愛知県)
  • 領 地:安芸国
  • 居 城:清洲城 → 広島城
  • 正 室:照雲院(津田長義の娘)、昌泉院(徳川家康の養女)
  • 子ども:5男 3女
  • 跡継ぎ:福島忠勝
  • 父と母:福島正信 / 松雲院

秀吉子飼いの猛将は大一番の賤ヶ岳で一番槍をとった

豊臣秀吉が台頭するきっかけになった賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いで、七人の若武者が活躍しました。

賤ヶ岳の七本槍』と呼ばれた彼らの名は、加藤清正、脇坂安治、加藤嘉明、片桐且元、平野長泰、糟屋武則、そして福島正則がいました。

なかでも福島正則と加藤清正は秀吉の血縁にあり、家族同然に可愛がられた子飼いの猛将でした。


賤ヶ岳の戦いで
真っ先に敵首をとる

1583年に豊臣秀吉と柴田勝家が激突した賤ヶ岳の戦いは、信長不在の織田家の命運を左右する出来事でした。と同時に豊臣秀吉が天下取りに乗り出したはじめの戦いです。当然、気合い入りまくりの秀吉は、この大一番に福島正則ら秘蔵っ子を投入しました。

未明から柴田方の前線部隊である佐久間盛政に対して、秀吉軍は包囲を仕掛けます。これを察知した佐久間隊もすぐに対応して、兵を下がらせようとしました。秀吉は馬廻衆を連れて賤ヶ岳に陣を移動させます。福島正則はこのなかに居ました。

やがて柴田勢が権現山に向かって移動を開始すると「今だ!みな手柄を立てよ!」と、すかさず秀吉が下知します。「フゥオオオ!」福島正則は雄叫びをあげて佐久間隊に突っ込みました。

前方には柴田方の猛将・拝郷家嘉の姿があり、福島正則はこれに一騎討ちを挑みます。拝郷の槍を叩き落として取っ組み合いになり、転がりながら脇差しの一撃で討ち取りました。

七本槍の活躍もあって、賤ヶ岳の戦いは秀吉方の勝利に終わります。若武者たちは秀吉から3千石を加増されましたが、一番槍の活躍をした福島正則には5千石が与えられました。加藤清正はこれに激しく嫉妬し、福島正則は同世代を一歩リードする存在になりました。


気がつけば
徳川家臣になっていた

石田三成がムカつくという理由から、1600年の関ヶ原の戦いでは徳川家康を推します。三成の挙兵を聞いて動揺する者たちに「迷うな!家康さんに味方しようぜ」と呼びかけて皆をまとめました。この豊臣家の内乱を家康が収めてくれると思ったのです。

ところが、これをきっかけに徳川氏の家臣に編入されてしまいました。家康が天下をねらっていたとは思ってもみませんでした。

豊臣家と敵対する徳川家康を討つことは敵わず、とはいえ主家である豊臣家とは戦いたくない。時勢としては征夷大将軍になった徳川氏の世であり、これに従わない豊臣氏が悪いのか、福島正則にはわからなくなりました。

やがて徳川氏と豊臣氏の最終決戦が勃発しますが、家康から江戸の警備を命じられて蚊帳(かや)の外に置かれてしまいました。

生涯をざっくり振り返る

1561年、福島正則は尾張国の海東郡二ツ寺村に桶屋の長男として生まれます。母が豊臣秀吉の叔母だった縁で小姓になりました。賤ヶ岳の戦いをはじめとした数多(あまた)の合戦で活躍し、豊臣家の主要な戦場で加藤清正と武功を競います。石田三成との軋轢(あつれき)から、秀吉の死後は徳川家康に助勢して関ヶ原を戦いました。

豊臣秀頼を敬い、徳川家との間で葛藤し、大坂の陣では身動きが取れず、豊臣家の滅亡を傍観しました。その後、規律違反により減転封され、1624年に信濃国・高井野で亡くなりました。死因は病気です。64歳でした。

初代・広島藩主を務めて領内政治にも励みましたが、広島城の雨漏りを無断で修築したとして罰せられ、転封先で嫡男・福島忠勝を亡くすなど散々な晩年を過ごしました。

領地・支配した地域

福島正則の領地・勢力図(1600年)

安芸国と備後国の2か国で50万石が福島正則の領地でした。関ヶ原の戦功として拝領しましたが、晩年は信濃国4万石に減封されています。

福島正則の性格と人物像

福島正則は「感情に素直すぎるピュアな人」です。

よく言えばまっすぐ。悪く言えばバカです。しかし、愚直な性格は人を魅了するところがあり、不思議なカリスマ性で人気がありました。

百戦以上戦って敵に背中を見せたことがありません。島津義弘の突撃を食い止めようとしたところを家臣に止められ、悔しくて歯ぎしりしながら後ろ向きに歩いて下がりました。本多忠勝のファンで、関ヶ原の戦いでは忠勝の戦いぶりを絶賛して憧れを隠しませんでした。

お酒が大好きですが、酒癖が悪く酔って失敗すること多数。なんど失敗しても懲りません。酔って浮気をしたことがバレて、薙刀を持った奥さんに追いかけ回されたこともあります。それ以来、恐妻家でした。

子どもの頃から乱暴で、大人と喧嘩をして木材を削る(のみ)で叩きのめしたことがあります。

正則が豊臣秀吉から拝領した『日本号』は天下三名槍のひとつとして伝わり、現存しています。脇立に大きな水牛の角を模した『黒漆塗桃形大水牛脇立兜(くろうるしぬりももなりだいすいぎゅうわきだてかぶと)』が有名です。けんかしていた黒田長政と仲直りするため、朝鮮出兵のおりにお互いの兜を交換したものでした。

能力を表すとこんな感じ

福島正則の能力チャート

槍の名手だった福島正則は、個の強さが抜きん出ています。実収にあった年貢を見直すなど、猪武者のイメージに反して内政力もあります。

福島正則の面白い逸話やエピソード

自慢の槍を飲み取られてしまう

福島正則が所有した名槍『日本号』は、正親町(おおぎまち)天皇から足利義昭に贈られた逸品で、その後は織田信長に受け継がれ、信長の没後に豊臣秀吉の手に渡っていました。それを福島正則が授かったものでした。

1596年の正月のこと。黒田長政の家臣が新年の挨拶に訪れます。名を母里友信といい、酒豪として知られた人物でした。正則は友信に酒をすすめますが断られます。断られて正則はムキになってしまいます。

正則「黒田の腰抜け武士め!大盃の酒を飲んだら何でもやるぞ」
友信「ムッ何でも!?しからば」(大盃を飲み干す)
友信「プハッ!では日本号を所望します」
正則「え?」

福島正則は名槍『日本号』を飲み取られてしまった

言ってしまった手前、やむをえず福島正則は名槍・日本号を母里友信に差し出しました。この様子は福岡県の民謡『黒田節』に歌われています。

♪酒は飲め飲め 飲むならば 日の本一の この槍を 飲みとる程に 飲むならば これぞまことの 黒田武士♪

酒に酔ってうっかり家臣を切腹させてしまう

ある日のこと、酒を飲んで酔った福島正則が、勘違いから家臣の拓殖(つげ)清右衛門に怒ります。命じた命じられていないといった行き違いでしたが、怒りが収まらない正則は「清右衛門に腹を切らせ!」と言い放って寝てしまいます。清左衛門は命じられたとおりに切腹しました。

翌朝、すっきり目覚めた正則は、ごく普通に清左衛門を呼びますが来ません。連れてくるよう他の家臣に命じると、目の前に首が運ばれてきました。家臣が昨日の出来事を話すと、ギョッとした正則は大泣きして清左衛門の首に謝りました。

酒イイ話もある

加藤嘉明のもとを出奔した塙直之が、福島家を訪ねてきます。事情を聞いた正則は、塙直之を匿ってあげました。そこに加藤家から塙を探して使者が来ます。正則は使者たちと酒を酌み交わし、時間稼ぎをして直之を逃してやったといいます。

関ヶ原の戦いで福島隊と戦った宇喜多秀家は、戦後は八丈島に流罪となっていました。正則の家臣が幕府に献上するお酒を輸送中に、八丈島に立ち寄ります。そこで遭遇した宇喜多秀家に幕府のお酒を少し分け与えました。報告を受けた福島正則は号泣して「よくやった」と喜びました。

福島正則の有名な戦い

三木合戦 みきかっせん 1578.3.29 〜 1580.1.17 ○ 織田軍?万 vs 別所軍7千5百 ●

織田氏に叛いた別所長治が篭る三木城(兵庫県三木市上の丸町)を羽柴秀吉が2年ちかく包囲した合戦。竹中半兵衛が考案した補給ルートを断つ作戦で、三木城を孤立させた。餓死者であふれた城内は凄惨をきわめ、開城降伏となった。三木の干し殺しとも。

三木合戦で福島正則は勝っています。
これが初陣でしたが、2人の兜首を討ち取る活躍をしています。

山崎の戦い やまざきのたたかい 1582.7.2 ○ 羽柴軍4万 vs 明智軍1万6千 ●

本能寺で織田信長を討った明智光秀と駆けつけた羽柴秀吉が山崎(京都府長岡京市)で激突した合戦。天王山の戦いとも呼ばれる。秀吉は中国地方で毛利氏と交戦中だったが、これを停戦し、急行した。予想外の速さで現れた羽柴軍に明智軍は劣勢となり、敗走した。

山崎の戦いで福島正則は勝っています。
羽柴軍の猛攻に耐えかねて壊滅した明智軍が退いた勝龍寺城を攻めました。その際、明智方の組頭を討ち取っています。

賤ヶ岳の戦い しずがたけのたたかい 1583.3.12 〜 4.23 ○ 羽柴軍5万 vs 柴田軍3万 ●

信長亡きあと、織田家の掌握を狙う羽柴秀吉と、家中を二分していた柴田勝家が賤ヶ岳(滋賀県長浜市)付近で展開した戦い。前田利家の戦線離脱によって、柴田軍は潰走。勢いづく秀吉に北ノ庄城を攻められ落城した。秀吉子飼いの福島正則ら若手武将が活躍した。

賤ヶ岳の戦いで福島正則は勝っています。
福島正則のターニングポイントになった戦いです。
撤退する柴田軍を追撃して、一騎討ちで拝郷家嘉を仕留めました。この功績により、一番槍に名乗りをあげて勇名を轟かせました。ここでの勝利が、これ以降の豊臣秀吉を勢いづかせました。

場門浦海戦 じょうもんほかいせん 1594.9.29 〜 10.4 ● 朝鮮軍? vs 日本軍?○

朝鮮水軍の李舜臣が日本軍を駆逐するために場門浦沖(大韓民国慶尚南道巨済市)を攻撃した。積極的な攻勢をかける朝鮮軍に対して、軍船で出撃した福島正則がこれを迎撃。敵船を焼き討ちし、これを撃退した。郭再祐ら朝鮮陸軍は上陸して交戦するのを避けて引きあげた。

場門浦海戦で福島正則は勝っています。
朝鮮海軍と陸軍が場門浦城に攻め寄せますが、単独軍で迎撃し撃退に成功しました。

関ヶ原の戦い せきがはらのたたかい 1600.10.21 ● 西軍8万 vs 東軍10万 ○

秀吉の死後、徳川家康が権力を増すなか、石田三成が反徳川の挙兵。家康が率いる東軍と三成が率いた西軍が、関ヶ原(岐阜県不破郡関ケ原町)で雌雄を決した。井伊直政が撃ちかけた鉄砲によって開戦。西軍・小早川秀秋が東軍に寝返り、わずか6時間で東軍が勝利した。

関ヶ原の戦いの戦いで福島正則は勝っています。
東軍の先陣として宇喜多秀家の向かいに陣取りました。ところが井伊直政に抜け駆けされて不意に開戦してしまいました。この後、宇喜多隊を退ける働きで勝利に貢献しました。

福島正則の詳しい年表と出来事

福島正則は西暦1561年〜1624年(永禄4年〜寛永元年)まで生存しました。戦国時代中期から後期に活躍した武将です。

15611福島正信の長男として尾張国に生まれる。幼名:市松
母の縁で羽柴(豊臣)秀吉の小姓になる。
157818”三木合戦”初陣。別所長治との戦に参加。魚住源太ら兜首を2人討ち取る。
158222”山崎の戦い”明智光秀との戦に参加。勝龍寺城を攻めて明智軍の組頭を討ち取る。
158323”賤ヶ岳の戦い”柴田勝家との戦に参加。拝郷家嘉を討ち取り一番槍・一番首の手柄を挙げる。
158424”小牧・長久手の戦い”織田信雄&徳川家康との戦に参加。
158525”第2次紀州征伐”雑賀衆との戦に参加。
”四国征伐”長宗我部氏の討伐戦に参加。
158727豊臣秀吉から伊予国・今治を拝領する。
159030”小田原征伐”北条氏の討伐戦に参加。織田信雄の指揮下で韮山城を攻める。
159232宇喜多秀家を総大将とした日本軍の5番隊で長宗我部元親、蜂須賀家正らと朝鮮国に侵攻。【文禄の役】
”竹山の戦い”朝鮮軍が竹山城を攻めるがこれを撃退、大勝する。
159333朝鮮国から帰国。
159434朝鮮国に戻り、巨済島の松真浦城および場門浦城の守備と兵站を担当する。
”場門浦海戦”李舜臣が率いる朝鮮水軍を迎撃。水軍を率いて敵船を焼き討ち撃退する。
朝鮮国から帰国。
159535関白・豊臣秀次に謀反の疑いがかかる。秀次に切腹命令が下り検使として告げに行く。【秀次切腹事件】
豊臣秀吉から尾張国・清洲を拝領する。
159838主君・豊臣秀吉が死去。次代・豊臣秀頼に仕える。
159939加藤清正、福島正則、黒田長政、細川忠興、浅野幸長、池田輝政、加藤嘉明の7将で石田三成の屋敷を襲撃する。徳川家康に仲裁してもらう。【石田三成襲撃事件】
養子・正之に徳川家康の養女(満天姫)を嫁にもらう。
160040”会津征伐”上杉氏の討伐戦に参加。石田三成の挙兵に際して、小山評定で徳川家康の支持をいち早く誓約する。
織田秀信の岐阜城を黒田長政と陥落させる。
”関ヶ原の戦い”石田三成との戦に東軍として参加。井伊直政に抜け駆けされたのち宇喜多秀家と交戦。明石全登に苦戦するが宇喜多隊の進撃をくい止める。
東軍の勝利後、西軍から大坂城の接収に尽力する。
徳川家康から安芸国・広島と備後国・鞆を拝領する。
160141領内の検地を行う。実収に合った年貢の見直しをする。
160242厳島神社の平家納経を修復する。
160343安芸国・広島藩の藩主になる。【江戸幕府の創設】
亀居城を築城する。
160444徳川家康の養女(昌泉院)と結婚。
161151徳川家康と豊臣秀頼の会見に仮病で同席せず、1万の兵で周辺の警備をする。【二条城会見】
161252隠居を願い出るが許可されず。
161454豊臣秀頼から徳川家康との戦に加勢を求められるが、拒絶する。豊臣方による蔵米8万石の接収を黙認する。
江戸で留守居役を命じられる。
161656主君・徳川家康が死去。次代・徳川秀忠に仕える。
161959台風で壊れた広島城を修繕する。無断で城郭の改築を行い武家諸法度に違反したとして領地を没収される。信濃国・川中島と越後国・魚沼に減転封される。
次男・福島忠勝に家督を譲り隠居。
出家 → 福島高斎
162060次男・福島忠勝が死去。失意のあまり越後国・魚沼を幕府に返上する。
162464信濃国・高井野で病死。
戦国時代で福島正則が生きた期間の表

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