こにし ゆきなが

小西行長

1558.?〜 1600.11.6

 
小西行長の面白いイラスト
  

小西行長は、現在の京都府南部にあたる山城国の武将です。もとは商人でしたが武士に転身し、豊臣秀吉に才能を買われて出世します。朝鮮国との交渉役を務めた際に、秀吉に嘘の報告をしたことが朝鮮出兵の原因になってしまい、その後も戦争を終わらせるための嘘を重ねますが、すべて裏目に出ました。享年43。

小西行長は何をした人?このページは、小西行長のハイライトになった出来事をなるべく正しく、独特の表現で紹介しています。きっと小西行長が好きになる「嘘も方便とはいかず文禄・慶長の役を招いてしまった」ハナシをお楽しみください。

  • 名 前:小西行長
  • 幼 名:弥九郎
  • 官 位:従五位下、日向守、摂津守
  • 出身地:山城国(京都府)
  • 領 地:肥後国
  • 居 城:宇土城
  • 正 室:菊姫
  • 子ども:2男 2女 1猶
  • 父と母:小西隆佐 / ワクサ
  • 大 名:宇喜多直家 → 豊臣秀吉豊臣秀頼

嘘も方便とはいかず文禄・慶長の役を招いてしまった

(うそ)も方便と言いますが、(うそ)には相応のリスクが付きまといます。
豊臣秀吉が朝鮮(ちょうせん)()めた文禄(ぶんろく)慶長(けいちょう)(えき)は、小西行長の(うそ)が原因で勃発(ぼっぱつ)しました。

1591年、豊臣秀吉から「朝鮮(ちょうせん)王朝を服従させろ」と言われた宗義智は困惑(こんわく)していました。

宗義智は小西行長にとって娘婿(むすめむこ)であり、困ったことになったので知恵(ちえ)を貸してほしいと相談されて、とりあえず朝鮮(ちょうせん)から使節を呼ぶことにします。

その際「豊臣秀吉が挨拶(あいさつ)したいので来てください」と朝鮮(ちょうせん)に説明しました。

一方で秀吉には「朝鮮(ちょうせん)の使節が服従の挨拶(あいさつ)にきます」と話し、双方(そうほう)を会わせました。

会見はチグハグな空気のまま時間が過ぎていきましたが、秀吉はすっかり上機嫌(じょうきげん)でした。そして、秀吉は朝鮮(ちょうせん)の使節に「(みん)()めの尖兵(せんぺい)を命じる」と言い放ちました。

小西行長はあわててその場を誤魔化(ごまか)しましたが、秀吉は(みん)国攻めを決定します。朝鮮(ちょうせん)サイドには「(みん)に行く際に朝鮮(ちょうせん)を通過させてほしい」とアレンジして話してみたものの、拒否(きょひ)されました。

朝鮮(ちょうせん)との折り合いがつかないまま、秀吉がセレクトした日本選抜(せんばつ)軍による(みん)()めが決定し、まずいことに朝鮮(ちょうせん)半島から(みん)国入りを目指すはこびとなりました。

小西行長を除く全員が先陣(せんじん)朝鮮(ちょうせん)がつとめると思っていました。


ミラクル責任転嫁
文禄の役、勃発

後ろには退けず、かといって前にも進めず困った小西行長は「朝鮮(ちょうせん)が裏切って敵になった」と秀吉に報告します。「自分が朝鮮(ちょうせん)をやっつける」として先陣(せんじん)を志願しました。

小西行長の嘘から文禄の役が勃発

こうして、1592年に文禄(ぶんろく)(えき)が開戦してしまいます。

先を急ぐ小西行長は、すさまじい勢いで首都・漢城(はんじょう)を目指します。
こうなったら、(だれ)よりも先に朝鮮(ちょうせん)の首都に行って、適当に和睦(わぼく)するしかなかったのです。

もうひとり、猛烈(もうれつ)漢城(はんじょう)を目指す男がいました。小西行長をライバル視する加藤清正です。

事情を知らない清正は、小西行長に負けたくない一心で (いや)がらせしました 快進撃(かいしんげき)をしました。

朝鮮(ちょうせん)との争いをイタズラに激化させていくこの男を排除(はいじょ)するために、小西行長は「清正が命令違反(いはん)している」と秀吉に(うそ)の報告をして、加藤清正を強制帰国させてしまいました。


まやかしのダブスタ
慶長の役、勃発

朝鮮(ちょうせん)国での戦いは激しさを増して泥沼(どろぬま)化します。
そして、ついに(みん)国が朝鮮(ちょうせん)国に加勢してきました。

停戦を(あせ)る小西行長は、
秀吉には「(みん)国が降伏(こうふく)した
(みん)王朝には「豊臣秀吉が降参する
という、信じがたいダブルスタンダードで講和に持ちこみました。

ひとまず講和は成立し、1593年に文禄(ぶんろく)(えき)は停戦となりました。

しかしそれから3年後、(おそ)れていたことが現実になります。

(みん)国から親書を持った使節が秀吉のもとに訪れます。

やばい” と感じた小西行長は、親書を読み上げる西笑承兌(さいしょうじょうたい)に話を合わせるようお願いします。ところが西笑(さいしょう)は、(みん)皇帝の手紙をそのまま読み上げてしまいました。

手紙には「豊臣秀吉を(みん)の属国の王として認める」と書かれていました。

小西行長の嘘から慶長の役が勃発

さすがに誤魔化(ごまか)すことはできず、これまでの真実を知った秀吉は天を()くように(いか)り、再び朝鮮(ちょうせん)出兵を厳命します。

こうして、1597年に慶長(けいちょう)(えき)勃発(ぼっぱつ)したのでした。

翌年の1598年に豊臣秀吉が(ぼっ)したため、(みん)国・朝鮮(ちょうせん)国との戦争は終わりました。

身から出た(さび)とはいえ、小西行長は惨憺(さんたん)たる思いをして帰国しました。

自ら創出した虚構(きょこう)翻弄(ほんろう)された小西行長ですが、ハンセン病患者(かんじゃ)のための病院や、孤児院(こじいん)などを私財を投じて運営しました。

南蛮人(なんばんじん)による人身売買の被害者(ひがいしゃ)を助ける活動もしており、決して悪人ではありませんでした。

生涯を簡単に振り返る

生まれと出自

1558年、小西行長は山城国(やましろのくに)・京に商人の次男として生まれます。播磨国(はりまのくに)の商人のところに養子に出され、そこで宇喜多直家の家来になったことがきっかけで豊臣秀吉に会います。秀吉に気に入られてスカウトされ、船で商売をしていた能力を見込(みこ)まれて輸送や水軍を任されます。やがて朝鮮(ちょうせん)出兵の大役に抜擢(ばってき)されるまでになりました。

朝鮮出兵で疲弊、内紛へ

文禄(ぶんろく)慶長(けいちょう)(えき)に終始関わり続けて、戦線と交渉(こうしょう)の両方で活躍(かつやく)します。朝鮮(ちょうせん)から帰国したあと、豊臣家では内紛(ないふん)が起こります。朝鮮(ちょうせん)でのいざこざが原因で武断派の武将たちと軋轢(あつれき)が生じ、これと争うことになりました。

最後と死因

関ヶ原の戦いでは西軍に(くみ)して武断派が(そろ)う東軍と戦い、敗れて(つか)まります。市中を引き回されたのち、小西行長は石田三成らと山城国(やましろのくに)・京の六条河原で処刑(しょけい)されました。1600年11月6日、死因は斬首(ざんしゅ)。43歳でした。首は三条河原に(さら)されました。

領地と居城

小西行長の領地・勢力図(1589年)

肥後国(ひごのくに)の南半分20万石が、小西行長の領地でした。肥後国(ひごのくに)の北半分は、加藤清正の領地だったため、国境をめぐって日頃(ひごろ)から()めていました。

小西行長の性格と人物像

小西行長は「その場を取りつくろうのが上手い人」です。

にわかには信じ難いような話でも、真実味をもたせることができます。しかしながら、上司の顔色を気にするあまり、結果的に大勢の人に迷惑(めいわく)をかけてしまいます。

洗練名はドン=アゴスチノ。熱心なキリシタンです。

秀吉がバテレン追放令を施行(せこう)したあとも、高山右近を(かくま)うなど、キリスト教徒の監視(かんし)(しょう)して保護・支援(しえん)しました。

小西行長の死に際して、ローマ教皇クレメンス8世は悲しみ、イタリアでは行長を主人公にした音楽劇が生まれました。

船の(あつか)いに長けており、イエズス会の宣教師から「海の司令官」と呼ばれました。

南蛮人(なんばんじん)と良好な関係である一方、(みん)朝鮮(ちょうせん)の高官からは「傲慢(ごうまん)(おこ)りっぽい人物」と酷評(こくひょう)されています。

(どう)に日輪の模様が刻まれた小西行長のものとされる『皺革包胴丸具足(まいばりどうまるぐそく)』が現存しています。

能力を表すとこんな感じ

小西行長の能力チャート

小西行長は統率力に優れており、朝鮮(ちょうせん)国での戦いで多くの戦功を挙げています。人望にも厚かったため、(うそ)虚構(きょこう)がまかり通りました。

能力チャートは『信長の野望』シリーズに登場する小西行長の能力値を参考にしています。東大教授が戦国武将の能力を数値化した『戦国武将の解剖図鑑』もおすすめです。

小西行長の面白い逸話やエピソード

加藤清正と仲が悪すぎて足を引っ張りあってしまう

4歳下の加藤清正と小西行長は、肥後国(ひごのくに)を分け合う関係でした。

このふたり、みっともない足の引っ張り合いから、犬猿(けんえん)の仲となってしまいます。

そもそもの発端(ほったん)は、小西領・天草地方で起こった一揆(いっき)でした。

天草は住民の半分がキリシタンだったので、行長は領内で起こったこの反乱をなるべく穏便(おんびん)に済ませようとしました。ところが、越境(えっきょう)してきた加藤清正が、(たの)んでもいないのに武力で鎮圧(ちんあつ)してしまいます。

清正としては、争いもなく行長が騒動(そうどう)をおさめてしまうと、天草水軍が小西のものになってしまう。それは面白くないので、小西と天草に遺恨(いこん)を残したかったのです。

それ以来、ふたりはしばしば衝突(しょうとつ)をくり返します。

清正から「薬屋のせがれ」と馬鹿にされたことに腹を立てて行長は抜刀(ばっとう)しようとし、これに対して清正も行長にツバを()きかけたこともあり、まるで子どものけんかでした。

小西行長の有名な戦い

四国征伐 しこくせいばつ 1585.5.? 〜 8.20 ○ 羽柴軍10万 vs 長宗我部軍4万 ●

四国地方を制していた長宗我部元親を、阿波、讃岐、伊予の三方向から、羽柴秀長を総大将とした大軍が攻めた。讃岐方面から進軍した黒田官兵衛が諸城を攻略して、阿波に侵攻。小早川隆景が伊予を制圧した。四国全体で戦火が上がったが、長宗我部氏の降伏により終戦した。

四国征伐(せいばつ)で小西行長は勝っています。

海路を活用した兵站(へいたん)を機能させて、大規模な討伐戦(とうばつせん)の補給作戦を支えました。この働きにより、秀吉から絶大な信頼(しんらい)を得ました。

多大鎮の戦い ただいちんのたたかい 1592.4.13 〜 4.14 ○ 日本軍7千 vs 朝鮮軍8百 ●

文禄の役の初戦。釜山から上陸した小西行長が、多大鎮砦(大韓民国釜山広域市)を攻めた合戦。日本軍は堀から水を抜き、木片や土の塊で埋め立てて砦を無力化。火縄銃による攻撃で城内を制圧した。朝鮮軍は尹興信が戦死。鉄砲の威力に圧倒されて戦意を削がれてしまった。

多大鎮(ただいちん)の戦いで小西行長は勝っています。

直前の降伏勧告(こうふくかんこく)拒否(きょひ)され、朝鮮(ちょうせん)国と開戦してしまいます。多大鎮(ただいちん)と同時に宗義智が釜山鎮(ぷさんちん)(とりで)攻略(こうりゃく)し、釜山浦(ぷさんほ)を日本軍の上陸拠点(きょてん)としました。

平壌城の戦い ぴょんやんじょうのたたかい #1:1592.8.23 〜 9.5 ● 明&朝鮮軍? vs 日本軍?○ #2:1593.1.6 〜 1.7 ○ 明&朝鮮軍5万 vs 日本軍?●

日本軍が朝鮮国から接収した平壌城(北朝鮮平壌直轄市)をめぐって、繰り返し行われた攻防戦。接収後は在番を務めた小西行長が明軍・朝鮮軍をそれぞれ退けたが、三度目の攻防戦で明&朝鮮の連合軍が襲来する。フランキ砲などの強力な火力兵器の前に日本軍は潰走した。

平壌城(ぴょんやんじょう)の戦いで小西行長は敗れています。

二度の防衛に成功しますが、三度目の攻防戦(こうぼうせん)では(みん)軍の大砲(たいほう)に歯が立たず、平壌城(ぴょんやんじょう)を捨てて脱出(だっしゅつ)しました。

順天城の戦い じゅんてんじょうのたたかい 1598.10.19 〜 11.7 ● 明&朝鮮軍5万5千 vs 日本軍1万4千 ○

日本軍が築いた順天倭城(大韓民国全羅南道順天市)を明&朝鮮軍が陸海から総攻撃を行った合戦。小西行長を中心に、在番を務めた有馬晴信らが迎えうった。明軍の劉綎は夜半に水軍で奇襲をかけるが、引き潮により多数の船が座礁。日本軍は鉄砲が有効に働き、勝利した。

順天城の戦いで小西行長は勝っています。

小西行長を生捕(いけど)りにする敵の策略を未然に回避(かいひ)し、(ねば)り強く籠城戦(ろうじょうせん)を戦って連合軍を撃退(げきたい)しました。このあと、(みん)国と無血撤退(てったい)の約束をしましたが、(だま)し討ちを受け、露梁(ろりょう)海戦で島津義弘に救われます。

関ヶ原の戦い せきがはらのたたかい 1600.10.21 ● 西軍8万2千 vs 東軍8万9千 ○

秀吉の死後、徳川家康が権力を増すなか、石田三成が反徳川の挙兵。家康が率いる東軍と三成が率いた西軍が、関ヶ原(岐阜県不破郡関ケ原町)で雌雄を決した。井伊直政が撃ちかけた鉄砲によって開戦。西軍・小早川秀秋が東軍に寝返り、わずか6時間で東軍が勝利した。

関ヶ原の戦いで小西行長は敗れています。

小西行長のターニングポイントになった戦いです。
宿敵・加藤清正が東軍に(くみ)したこともあり、石田三成の(たの)みをきいて西軍で参戦しました。しかし、朝鮮(ちょうせん)出兵で疲弊(ひへい)した兵を動員できず、三成たちとも足並みが(そろ)わないうちに敗戦。(とら)われて処刑(しょけい)されました。

小西行長の詳しい年表と出来事

小西行長は西暦(せいれき)1558年〜1600年(永禄(えいろく)元年〜慶長(けいちょう)5年)まで生存しました。戦国時代後期に活躍(かつやく)した武将です。

15581小西隆佐の次男として山城国に生まれる。幼名:弥九郎
備前国の商家の養子になる。
宇喜多氏に商人として出入りする。
宇喜多直家に仕える。
157821宇喜多直家の使者として織田家臣・羽柴(豊臣)秀吉に会う。
羽柴秀吉に仕える。
158023羽柴秀吉から舟奉行に任じられる。
淡路島近くを通る毛利氏の船舶200隻を即座に追い払う。
158427高山右近に勧められてキリスト教の洗礼を受ける。洗礼名:ドン=アゴスチノ
小豆島に宣教師・グレゴリオ=デ=セスペデスを招いて布教を行う。
158528”第2次紀州征伐”雑賀衆、根来衆の討伐戦に参加。水軍を率いる。
”太田城の戦い”太田宗正が篭る太田城を水攻めにする。水軍と大砲を指揮して開城降伏させる。
”四国征伐”長宗我部氏の討伐戦に参加。大規模な兵団や物資の海運を成功させる。
父・隆佐が豊臣秀吉から堺奉行に任命される。
豊臣秀吉とイエズス会を仲介する役割になる。
イエズス会から九州のキリシタン大名に協力する約束を得る。
158629”九州征伐”島津氏の討伐戦に参加。
158730”平佐城の戦い”桂忠詮との戦に参加。九鬼義隆、脇坂安治らと平佐城を攻める。女性と子どもを含む城兵の激しい抵抗に遭うが開城降伏させる。
石田三成とともに筑前国・博多の町割りをする。
”肥後国人一揆”肥後国人衆の鎮圧戦に参加。
豊臣秀吉がキリスト教宣教と南蛮貿易を禁止する。【バテレン追放令】
バテレン追放令に伴って改易された高山右近を匿う。
158831豊臣秀吉から肥後国の一部を拝領し、加藤清正と分割統治する。
158932肥後国・宇土城を築城し、居城にする。
宇土城普請に協力しなかった天草五人衆が一揆を起こす。加藤清正に介入されて鎮圧する。
表向きはキリシタンの監視と称して、天草地方のキリシタンを保護、イエズス会の活動を支援する。
貿易港である徳淵津に麦島城を築城する。
159134娘婿・宗義智に協力して朝鮮使節を服属の使者と偽って豊臣秀吉に会わせる。
朝鮮国を従わせたと思い込んだ豊臣秀吉が明国攻めを決める。
明国攻めの際、朝鮮国に先兵(征明嚮導)させるよう豊臣秀吉から命じられるが朝鮮国に拒否される。
159235宇喜多秀家を総大将とした日本軍の1番隊主将を担い宗義智、有馬晴信らを率いて朝鮮国に侵攻。【文禄の役】
朝鮮国に最後通牒をするが無視される。
”多大鎮の戦い”堀を無力化させる工作で多大鎮砦を攻略、指揮官・尹興信を討ち取る。
”釜山鎮の戦い”*宗義智が釜山を陥落させる。朝鮮軍をなで斬りにする。
”東萊城の戦い”東萊城を攻めて陥落させる。
”鵲院関の戦い”断崖の細道で待ち伏せる朴晋の部隊を奇襲で撃破。追い討ちして300の首級をあげる。
”尚州の戦い”慶尚道の重要拠点を制圧する。李鎰はじめ朝鮮軍の士官を全滅させる。
”忠州の戦い”弾琴台の断崖絶壁に布陣した朝鮮軍を三方向から銃撃、潰走させる。
忠州城で加藤清正の2番隊が合流。先鋒をめぐって加藤清正と喧嘩になる。
朝鮮軍が放棄した漢城を占拠。日本軍の拠点にする。
”大同江の戦い”宗義智を奇襲した朝鮮軍を背後から襲撃。黒田長政の加勢により朝鮮軍を撃退。
朝鮮軍が放棄した平壌城を占拠。
”第1次平壌城の戦い”平壌城に攻めてきた明軍副総裁・祖承訓を撃退する。
石田三成ら奉行衆と漢城での軍議に参加。豊臣秀吉の朝鮮入り中止が決まる。
明国・沈惟敬と交渉。50日間の休戦と講和交渉の同意を得る。
”第2次平壌城の戦い”平壌城に攻めてきた朝鮮軍を撃退する。
159336”第3次平壌城の戦い”明&朝鮮の連合軍が平壌城を攻撃。大砲、霹靂砲で外郭を破壊され、やむなく撤退。連合軍に平壌城を奪われる。龍泉山城まで逃げて黒田長政に救われる。
明国・沈惟敬、小西行長、加藤清正の三者で会談して講和条件をまとめる。
沈惟敬と共謀して講和内容を偽る。
石田三成と共謀して豊臣秀吉に加藤清正を讒言する。
明国の謝用梓、徐一貫を伴って石田三成、大谷吉継らと名護屋城に帰還する。
豊臣秀吉から明国への文書を偽作する。
159639明国からの使節が豊臣秀吉に謁見。明国皇帝からの文書により一連の偽装が露呈する。
激怒した豊臣秀吉から死罪を言い渡されるが、前田利家や淀殿に救われる。
159740豊臣秀吉から再び明国・朝鮮国攻めを厳命される。
小早川秀秋を総大将とした日本軍の右軍1番隊で朝鮮国に侵攻。【慶長の役】
”漆川梁海戦”朝鮮軍との戦に参加。島津義弘と陸上部隊を率いて水軍を援護する。
”南原城の戦い”明&朝鮮の連合軍が篭る南原城を総攻撃で陥落させる。西面から攻め入る。
全州を占拠、順天倭城に入る。
総大将・小早川秀秋が半数の兵を連れて帰国。九州勢が現地に残される。
159841”順天城の戦い”明&朝鮮の連合軍が順天城に大攻勢をしかける。敵の策で生捕りにされそうになるが難を逃れる。水陸から総攻撃を受けるも、これを退ける。
主君・豊臣秀吉が死去。
帰国命令が出る。
”露梁海戦”順天倭城から無血撤退の約束を反故にした明&朝鮮の連合軍に包囲される。島津義弘、立花宗茂らに救出されて撤退する。
朝鮮国から帰国。
160043”関ヶ原の戦い”徳川家康との戦に西軍として参加。田中吉政、筒井定次らと交戦するが敗走。戦場から逃れる。
捕縛され、石田三成、安国寺恵瓊と山城国・京の六条河原で斬首。
戦国時代で小西行長が生きた期間の表
小西行長の顔イラスト
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