前田慶次
1541.?〜 1612.7.2?

前田慶次(慶次郎、利益、穀蔵院飄戸斎)は、現在の滋賀県にあたる近江国の武将です。滝川一族から前田家の養子になりますが出奔し、京などを転々として過ごしました。派手な格好と破天荒な逸話の数々で知られる傾奇者で、剛勇無双の槍の名手です。晩年は上杉家に仕えて長谷堂城の戦いで奮戦しました。享年72歳。
- 前田慶次の武将タイプ
- 文化
前田慶次は何をした人?このページは、前田慶次のハイライトになった出来事をなるべく正しく、独特の表現で紹介しています。きっと前田慶次が好きになる「天下御免!戦国随一の傾奇者は雲のように悠々と生きた」ハナシをお楽しみください。
- 名 前:前田利益
- 別 名:慶次、慶次郎、慶二郎、啓次郎、利貞、利卓、利太、利大、利興、宗兵衛、穀蔵院飄戸斎、龍砕軒不便斎
- 出身地:近江国(滋賀県)
- 正 室:前田安勝の娘
- 子ども:1男 5女
- 跡継ぎ:前田正虎
- 父と母:不明
- 養 父:前田利久
天下御免!戦国随一の傾奇者は雲のように悠々と生きた
前田慶次は、漫画『花の慶次』や小説『一夢庵風流記』で大人気になった人物です。
戦国時代で随一の傾奇者で、型やぶりなキャラクターが面白く、江戸時代には ”前田慶次” という読み物のジャンルが確立したほどでした。江戸幕府の政治家・新井白石も前田慶次のファンで「世にかくれなき勇士なり」と評しています。
それほどまでに人気者の前田慶次が何をした人なのかはよくわかっていません。というのも、破天荒すぎる性分が前田家では好まれておらず、彼は禁忌として扱われ、文献とともに存在を闇に葬られてしまったのです。
そのため、物語の多さとは裏腹に前田慶次の資料は乏しく、いまだ判然としない部分も含まれますが、とにかく痛快な男でした。
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秀吉のお墨付き
傾奇御免状
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天下を取った豊臣秀吉から「かねてから噂にきく傾奇者・前田慶次に会ってみたい」と聚楽第に呼び出されます。秀吉ほか徳川家康など諸大名たちが集まるなか、前田慶次の品評会が行われました。
前田慶次は、片側に寄せたへんてこな髷で現れ、ざわつく一同の前をゆっくり歩いていき、秀吉の御前でぷいっと顔を横に向けて平伏しました。”頭は下げるが秀吉には従わない” というメッセージでした。

看過できない態度ではあるものの、髷は正面を向いているので礼は尽くしている。
秀吉は「面白い!気に入った」と上機嫌になり「今後はいつどこであろうと思いのままに傾くがよい。わしが許す」と『傾奇御免状』をもらいました。
もとよりアウトサイダーの前田慶次にとって、どう振る舞おうが誰の許可も必要としていません。が、そんなことは秀吉もお見通しです。これには、問題児にお墨付きを与えて前田家に留め置くことで、前田家の結束を妨げるのが秀吉の本当の狙いでした。
ともあれ、前田慶次は天下御免が認められた唯一の傾奇者になりました。
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泥大根のような
押しかけ助っ人
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関ヶ原の戦いが勃発した1600年、東北地方では長谷堂城の戦いが起こります。前田慶次は友人である直江兼続に加勢しようと、上杉家に突然あらわれて助っ人として押しかけます。
泥がついた大根3本を持参して「この大根のように見かけはむさくるしいが、噛ほどに味が出る拙者でござる」と上杉景勝に自分を売り込み、浪人兵を統括する『組外御扶持方』という役目が与えられました。
長谷堂城の戦いで上杉軍は敗れますが、追撃してくる最上軍を相手に「負け戦は俺の好物」といい、前田慶次は殿(撤退する軍の最後尾)を買って出ます。岡定俊、山上道及、上泉泰綱、車斯忠といったクセが強い浪人部隊を率いて、見事な撤退戦を演じてみせました。
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前田慶次は
何者か?
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前田慶次は、前田家の血縁ではありません。織田信長の家臣である前田利久に実子がいなかったため、前田家を継ぐものとして滝川家から前田利久の養子になりました。ところが、信長の鶴の一声で前田家当主が長男・利久から四男・利家に移されます。
前田利家は前田慶次の叔父にあたりますが、年齢が離れておらず、この家督問題が発端でふたりの関係はギクシャクしました。折り合いが悪いまま前田家を去り、山城国・京や大和国などを漫遊しました。
このような事情で諸国を放浪した様子を物語にしたのが『花の慶次』などの作品です。
悠々自適で自由奔放。しかし、理不尽に振り回され、居場所を求めてさまよった一生でした。死と隣り合わせの戦場でこそ、命の鼓動を感じていたのかもしれません。
生涯を簡単に振り返る
1541年頃、前田慶次は近江国・甲賀郡に滝川一族の子として生まれます。滝川城で育ちました。前田利久の妻の縁で滝川家から養子に入り、前田家の嫡子になりますが、織田信長の命令によって前田家当主が利久から利家に交代してしまいます。これを受けて荒子城から退去させられました。
しばらくは叔父・前田利家に仕えますが出奔。京周辺を転々とする放浪生活を経て、友人の直江兼続を頼って上杉景勝に仕官します。北の関ヶ原と言われた長谷堂城の戦いで武名を轟かせました。
最後と死因
絵画など風流に凝り、自適な晩年を過ごしたのち前田慶次は出羽国・米沢の肝煎太郎兵衛宅で亡くなりました。1612年7月2日、死因はリウマチの悪化または腹の病気。72歳でした。加賀藩の資料では、出奔後は大和国でひっそりと暮らしたのち1605年に没したとなっています。
前田慶次の性格と人物像
前田慶次は「右向けと言われれば左を向く人」です。
反抗的な態度から ”世間をなめている” と咎められ、窮屈な生きづらさからまた反発してしまいます。50歳の頃にバテレン追放令が発布されると、キリスト教徒でもないのに十字架を首から下げるといった、ずっと反抗期のような人です。
心たくましい猛将で戦を好みます。周囲から一目置かれた槍の名手ですが、同様かそれ以上に文化・教養に明るく、細川藤孝を招いて連歌会を開くなど只者ではありません。大親友の直江兼続とは、連歌会で意気投合したのが出会いでした。
大槍を軽々と振り回す怪力で、晩年の米沢で力自慢の領民と慶次が力比べをしたという大きな石が残っています。領民たちとも気さくに遊びに興じていた様子が各地に言い伝わっています。
漫画『花の慶次』では197cmの大柄な設定ですが、実際は160cmほどの平均的な身長でした。人目を惹くほど美しい愛馬の名前は『松風』、真っ赤な皆朱の大槍を使っていたという点は漫画と同じです。キセルは吸っていなかったようです。
諸国を漫遊する旅路では、朝鮮人の家来を少なくとも3人連れていました。米沢にたどり着くまでの出来事を記した『前田慶次道中日記』ほか、和歌や俳句、絵画などを残しています。困り顔をした自作の能面といった物まで残っていますが、肖像画はひとつもありません。
腕部の鱗模様が特徴的な『朱漆塗紫糸素懸威五枚胴具足』ほか数点の甲冑がいずれも美品で見つかっています。穂先から柄末端までの長さが313cmある慶次自慢の大槍『平三角造直槍』も現存しています。
甲賀出身ということで忍びの術を会得していた説がありますが定かではありません。同郷で、近しい血縁者に織田四天王の滝川一益がいます。
慶次は別名で、本名は前田利益です。
穀蔵院飄戸斎、龍砕軒不便斎などのおどけた変名も名乗っています。
能力を表すとこんな感じ

甲冑の損傷が少ないことから前田慶次の強さが予想できます。人々を惹きつける奇妙な魅力があり、吸引力のある人物です。
信長の野望シリーズに登場する前田慶次の能力値も参考にしています。
前田慶次の面白い逸話やエピソード
悪戯の度が過ぎる
前田慶次には人を馬鹿にしたような態度をとったり、たびたび度が過ぎた悪戯をする癖がありました。この悪戯というのがタチが悪く、リスクがあるほど慶次は愉快になるのでした。
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叔父・前田利家を
水風呂につける
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叔父であり前田家の当主である前田利家から、ふざけた態度を改めるよう、慶次はたびたび注意を受けていました。
真冬の寒い日、慶次は利家に「これまで心配かけてすみません。これからは真面目になります」と詫びて「つきましては茶をいっぷく馳走したいので俺んちに来てください」と招待します。
利家を自宅に招き入れると慶次は「寒かったでしょう。風呂を用意してますのでどうぞ」と案内します。利家はいそいそと風呂場に向かい湯船に入りました。なんと湯船のなかは冷水でした。

おどろいて湯船から飛び出した利家が「あの馬鹿者を連れてこい!」と怒鳴りますが、慶次は馬で走り去っており、そのまま前田家を出ていきました。
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商人の足を
百貫で買う
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京の町をぶらぶらしていると、呉服屋の太った店主が店先に足を投げ出していました。横柄な態度でふんぞり返る店主の足がじゃまで買い物ができません。
慶次はニコニコして店に入ると店主に訪ねます。「この足も売り物かね?」すると店主はニヤニヤして「百貫なら売ろう」とふっかけます。百貫とは現在のお金で1,200万円ほどです。
慶次は「よし買った。ではこの足はもらっていくぞ」と、足を押さえつけ、刀に手をかけて切り落とそうとしました。店主は泣いて謝り、それから京では足を投げ出すのが禁止されたとか。
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和尚の頭を
ぶん殴る
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上杉家の菩提寺である林泉寺。格式高いお寺なので、和尚もちょっと偉そうな感じでした。ひとつからかってやろうと思った慶次は、巡礼の僧に扮して林泉寺の和尚を訪ねます。
しきりに煽て、得意げに案内する和尚と境内をひと歩きしたあと、見事な漢詩をしたためます。これに感心した和尚は慶次を奥の間に案内しました。
気を良くした和尚と碁をうつことになり、勝ったほうが負けたほうの頭をはたく遊びをすることに。一局めは和尚が勝ち、慶次が頭を前に出すと和尚がぺちっと軽くはたきました。
二局めは慶次が勝ちました。どうぞといって和尚が頭を前に出すと、渾身のフルパンチをぶちこんで気絶させてしまいました。
「大ふへんもの」と書かれた旗差物と皆朱の槍
前田慶次が上杉景勝に仕官した頃の話。出陣を前にしたツワモノ揃いの上杉兵の前に『大ふへんもの』と書かれた旗指物をつけて現れます。
「武辺者」とは、武勇に優れた者という意味。すると「お前は何様か」と上杉兵たちが慶次に詰め寄ります。慶次は得意げに「貧乏な浪人暮らしが長くて ”不便している” という意味だ」と、おどけました。あるいは「俺は強すぎて相手になる奴がいない。”自分が不憫だ” という意味だ」と、これまたおどけてみせました。
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みんなで持とう
皆朱の槍
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ふざけた旗差物のほかに、前田慶次は真っ赤な皆朱の槍を持参します。ところが、皆朱の槍は許可された武人のみ所持できるのが上杉家のルールでした。慶次の槍を見た上杉家の猛者が、新参者がどういうつもりだと憤慨します。
なるほど、これは不公平。
慶次は上杉景勝に次第を伝えると、景勝は希望するもの全員に皆朱の槍を許可しました。腕に自信があるものたちは皆が赤い槍を携えて、なんとも珍しい皆朱の槍部隊ができあがりました。
長谷堂城の戦いで、この朱槍隊は前田慶次に率いられ、一丸となって奮戦しました。
前田慶次の有名な戦い
本能寺の変を知った滝川一益が兵を率いて京に向かう途中、武蔵国境の神流川(埼玉県児玉郡上里町)を超えたところで北条軍と遭遇。滝川軍は北条氏邦を敗るなど緒戦に勝ったが、味方である北条高広ら与力の足並みが揃わず苦戦。北条氏直が押し返して滝川勢を敗走させた。
神流川の戦いで前田慶次は敗れています。
近親者である滝川一益のもとにいた慶次は滝川軍の先陣をつとめています。
小牧・長久手で羽柴氏と徳川氏の争いがおこると、能登では佐々成政が前田領の末森城(石川県羽咋郡宝達志水町)を攻撃。城主・奥村永福が奮闘するが、落城寸前まで追い込まれる。金沢城から駆けつけた前田利家が背後から佐々勢を攻めて撃退に成功した。末森の合戦とも。
末森城の戦いで前田慶次は勝っています。
前田利家に先駆けて少数の兵で末森城の救援に向かい、佐々勢の虚をつく奇襲攻撃に成功しています。
総大将を直江兼続とした上杉軍が最上家の志村光安が守る長谷堂城(山形県山形市)を攻めた合戦。上杉方は上泉泰綱が討死、関ヶ原で西軍敗報により撤退。追った最上義光も頭部に弾丸を受ける激戦となった。兼続とともに前田慶次も奮戦した。北の関ヶ原、慶長出羽合戦とも。
長谷堂城の戦いで前田慶次は敗れています。
前田慶次のターニングポイントになった戦いです。
合戦の直前に上杉家に仕官し、友人である直江兼続に加勢しました。敗戦に自決を覚悟した兼続を一喝して思いとどまらせると、殿を引き受けて上杉軍の撤退を成功させています。
前田慶次の詳しい年表と出来事
前田慶次は西暦1541年〜1612年(天文10年〜慶長17年)まで生存しました。戦国時代中期から後期に活躍した武将です。※生没年は諸説あります。
1541 | 1 | 滝川一族の子として近江国に生まれる。 |
? | ? | 前田利久の養子になる。 改名 → 前田(慶次郎)利益 |
1569 | 29 | 織田信長の命令で養父・利久から叔父・利家に前田家当主が交代する。 養父・利久と荒子城を退去する。 |
1581 | 42 | 叔父・前田利家に仕える。 |
1582 | 43 | ”沼田城の戦い”滝川一益の指揮下で藤田信吉との戦に参加。 ”神流川の戦い”滝川一益の指揮下で北条氏政・氏直父子との戦に参加。 |
1584 | 45 | ”末森城の戦い”佐々成政との戦に参加。末森城主・奥村永福の救援に向かい佐々軍を撃退する。 佐々勢の菊池武勝が寝返る。これに代わって阿尾城に入る。 阿尾城の奪還にきた神保氏張を撃退する。 |
1587 | 48 | 養父・前田利久が死去。 |
1590 | 51 | ”小田原征伐”北条氏の討伐戦に参加。 奥羽地方の領土仕置に同行する。【第1次奥州仕置】 |
? | ? | 叔父・前田利家のもとを出奔。妻子を加賀国に残して浪人となる。 |
1600 | 60 | 上杉景勝に仕える。 組外御扶持方に任命されて浪人衆を統率する。 ”長谷堂城の戦い”最上義光との戦に参加。敗れて撤退する最後尾を担って上杉軍を退却させる。 徳川家康が関ヶ原の戦いに勝利する。 |
1601 | 61 | 上洛して徳川家康に謝罪する上杉景勝に同行する。 他家から仕官の誘いが次々と舞い込むが、すべて拒否する。 主君・上杉景勝が徳川家康から出羽国・米沢に減転封を命じられる。 |
1612 | 72 | 出羽国・肝煎太郎兵衛宅で病死。 |

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