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お待ちくだされ

うえすぎ かげかつ

上杉景勝

1556.1.8 〜 1623.4.19

 
上杉景勝のイラスト
  

上杉景勝(長尾顕景)は、現在の新潟県にあたる越後国の武将・大名です。豊臣五大老のひとり。上杉謙信の姉の子で、後継者として養子になります。同じく養子の上杉景虎と家督を争い、勝利しました。豊臣政権では秀吉の没後、徳川家康と対立し、政権交代に伴う減転封により会津を経て米沢に移りました。享年68歳。

上杉景勝は何をした人?このページは、上杉景勝のハイライトになった出来事をなるべく正しく、独特の表現で紹介しています。きっと上杉景勝が好きになる「家康を倒す絶好の機会だったのに痛恨の判断ミスをした」ハナシをお楽しみください。

  • 名 前:長尾顕景 → 上杉景勝
  • 幼 名:卯松
  • 官 位:弾正少弼、越後守、従四位下、左近衛権少将、従三位、参議、近衛中将、権中納言、贈正三位
  •  藩 :米沢藩主
  • 出身地:越後国(新潟県)
  • 領 地:越後国 → 陸奥国 → 出羽国
  • 居 城:春日山城 → 若松城 → 米沢城
  • 正 室:菊姫(武田信玄の娘)
  • 子ども:1男 1養
  • 跡継ぎ:上杉定勝
  • 父と母:長尾政景 / 仙洞院
  • 養 父:上杉謙信

家康を倒す絶好の機会だったのに痛恨の判断ミスをした

越後(えちご)豪族(ごうぞく)・長尾氏の出身である上杉謙信には子どもがおらず、分家(ぶんけ)の長尾政景に嫁いでいた姉の子を養子にもらいました。謙信の後継者になるべく長尾氏から迎えられた子が上杉景勝でした。ところが、気まぐれなのか何なのか、謙信は北条氏から預かっていた人質も養子に迎えます。

罪づくりな謙信は、ふたりの養子のどちらに継がせるか決めないまま、1578年に死んでしまいます。当然、お家騒動(いえそうどう)勃発(ぼっぱつ)し、上杉景勝は1年あまり続いた泥沼の抗争を制して上杉氏の当主になりました。

ハードボイルドな相続ドラマがあった上杉家は激しく消耗し、豊臣秀吉の時代には長い物に巻かれるようにして存続します。甲斐(かい)あって、上杉景勝は豊臣五大老に出世しました。

1598年に秀吉から会津(あいづ)に移るよう命じられ、東北地方の(かなめ)を任されます。上杉景勝を会津(あいづ)赴任(ふにん)させた秀吉の意図は、伊達政宗の抑えと徳川家康を背後から牽制(けんせい)することでした。秀吉のこのねらいは機能していました。

上杉景勝は伊達と徳川を見張るために置かれた

しかし、豊臣秀吉が没した2年後の1600年に事態は急変します。


因縁をつけられて
家康と対立

同じく豊臣五大老のひとりである徳川家康が、豊臣家中でお家騒動(いえそうどう)を起こします。家康は、豊臣家を内部分裂させて日本全土を巻き込む大戦に発展させ、どさくさに天下を取ってやろうと考えたのです。上杉景勝はこれに利用されてしまいます。

家康は、上杉景勝を(あお)って兵を出させるために「上杉が謀反(むほん)の準備をしている」と根も葉もない言いがかりをつけます。因縁(いんねん)をつけられて腹を立てていると、これを察した直江兼続が『直江状(なおえじょう)』と呼ばれる手紙で家康をめちゃくちゃディスりました。

直江状(なおえじょう)(あお)られた家康は会津征伐(あいづせいばつ)にやってきます。このとき、京都で石田三成が徳川打倒(だとう)の挙兵をしました。じつは、石田三成と直江兼続は東西から家康を挟み討ちにする計画していたのです。

三成挙兵を知った家康は、会津征伐(あいづせいばつ)を断念して江戸に引き返していきました。まさに直江兼続がねらっていた展開。兼続は「さぁ、追撃のチャンスです!」と告げますが、上杉景勝はこれを聞き入れません。

結局、そそくさと去ってゆく徳川勢をそのまま見送り、家康と三成は美濃国(みののくに)で激突します。こうして起こったのが関ヶ原の戦いでした。


家康を追わずに
最上を攻めて大失敗

上杉景勝が家康を追撃しなかった理由はこうです。

「人の危うきに乗ずるは上杉の兵法に非ず。家康が因縁(いんねん)をつけてきたので迎え討つつもりだったが、江戸に引き返したのならこちらも引くのが道理」(超訳:正義っぽくない。帰ったのならほっとけ)

このあと上杉景勝は、なぜか山形城の最上義光(よしあき)を攻めます。こちらもどさくさで領地を拡げようとしましたが、山形城の手前にある長谷堂城(はせどうじょう)に苦戦して退却します。伊達政宗まで乱入してきて、わけがわからない展開になってしまいました。

関ヶ原では、上杉のコンビネーションがなかった石田三成が敗れ、徳川家康が勝利します。上杉景勝には大幅減封(げんぽう)のペナルティが課せられました。あのとき家康を追っていれば歴史は違っていたかもしれません。

生涯を簡単に振り返る

1556年、上杉景勝は越後国(えちごのくに)・坂戸城に長尾政景の次男として生まれます。9歳で父を亡くし、叔父・上杉謙信の養子になり可愛がられて育ちます。直江兼続とはこの頃からの親友です。謙信がなくなると家督争いが起こり、御館(おたて)(らん)でライバルの上杉景虎を自害させて当主になりました。

間もなくして織田信長に攻められますが、本能寺の変に救われます。その後は豊臣秀吉に従い、五大老に抜擢(ばってき)されました。会津(あいづ)への引越しを命じられ、伊達氏や最上氏と緊張状態になります。秀吉の没後、徳川家康と対立し敵意をあらわにしましたが、関ヶ原の戦いの後に謝罪。許されて米沢(よねざわ)に移りました。

最後と死因

出羽国(でわのくに)米沢藩(よねざわはん)の初代藩主として働き、病床に()します。献身的な看病をしてくれた寵臣(ちょうしん)清野長範(きよのながのり)と来世での再会を約束し、上杉景勝は出羽国(でわのくに)米沢城(よねざわじょう)で亡くなりました。1623年4月19日、死因は病気。68歳でした。

領地と居城の移り変わり

上杉景勝の領地・勢力図(1582年)
上杉景勝の領地・勢力図(1600年)
上杉景勝の領地・勢力図(1615年)

豊臣政権で越後国(えちごのくに)から陸奥国(むつのくに)会津(あいづ)120万石に転封(てんぽう)され、徳川政権では家康との対立が影響して、出羽国(でわのくに)米沢(よねざわ)30万石に大幅減封(げんぽう)されてしまいました。

上杉景勝の性格と人物像

上杉景勝は「振り幅が極端な人」です。

謙信の没後、家督争いで疲弊(ひへい)した上杉家を織田信長に攻められると、迷いもなく全国を敵に回して死ぬことを選び、徳川家康に叛意(はんい)を問われると即座に一戦を覚悟するなど、いきなりフルスロットルな決断をします。

剛直(ごうちょく)な性格で、クスッとも笑わないポーカーフェイス。肝がすわっており、よほどの事でも動じません。鉄砲玉が飛び交う陣中でも、寝転がってガーガーいびきをかいて寝ていました。景勝の部隊はよく統率がとれており、行軍の際は無言で足音しか響きませんでした。

寛大なのか義理硬いのか、米沢(よねざわ)減封(げんぽう)となったおり、ひとりの家臣も解雇しませんでした。そのせいで財政難になっています。キリシタンにも寛大で、江戸幕府の禁教令にあっても「領内に切支丹(キリシタン)はいない」と答えて信者たちを守ったといいます。

小男と伝わる低身長。しかし、眼光が鋭く表情に凄みがあり、手はつねに刀や脇差しをつかんでいました。寡黙(かもく)で無口。緊張感と重苦しい空気で威厳(いげん)があります。直江兼続とは幼少の頃からのマブダチで、言葉を交わさなくても意思疎通(いしそつう)ができました。

養父・謙信と同じくお酒が好きです。直江兼続と大酒を飲んだことを書状に残しています。前田慶次から大根のまぜご飯(かて飯)をご馳走(ちそう)になり、とても気に入っています。

愛刀家でかなりの鑑定眼(かんていがん)があり、上杉謙信が残したコレクションからお気に入りのものを選りすぐって『上杉家御手選三十五腰(うえすぎけおてえらびさんじゅうごよう)』という目録(もくろく)にまとめています。景勝セレクトには、国宝や重要文化財がズラリ。(まんじ)が刻まれた前立ての兜ほか、数点の甲冑が現存しています。

能力を表すとこんな感じ

上杉景勝の能力チャート

上杉景勝はビリビリした緊張感で部下を統率します。こうと決めたことは完遂(かんすい)しますが、はじめからリスクを取るようなことはしません。

信長の野望シリーズに登場する上杉景勝の能力値も参考にしています。

信長の野望・新生

定番シミュレーション最新作で天下をねらえ!ひかえめに言って傑作

上杉景勝の面白い逸話やエピソード

猿のしぐさに思わず笑ってしまう

上杉景勝は家臣の前で笑ったことがないといい、家来たちも誰ひとりとして主君の笑顔を見たことがありませんでした。絶対に笑わない男、それが上杉景勝。

ある日のこと。飼っていたペットの猿が景勝の烏帽子(えぼし)をとって頭に乗せ、ぺこりとお辞儀(じぎ)をしました。しばらく様子をみていると、猿はどうやら景勝の身振り手振りを真似ているようでした。これに気づいた景勝は思わず「ふっ」と笑いました。

まわりにいた家来たちは「あっ!笑った!」とびっくり。景勝が家臣の前で笑ったのは、この1回だけだったといいます。

笑えない空気に傾奇者・前田慶次も萎える

あるとき、豊臣秀吉が大名たちを招いて宴会をひらきました。傾奇者(かぶきもの)で知られる前田慶次が場に紛れ込んでおり、悪戯(いたずら)の機会をうかがっていました。

(えん)もたけなわになった頃、慶次は猿のお面をつけて登場。おかしな踊りをしながら大名たちに近づいて笑いを誘います。調子に乗った慶次が、ひとりひとり大名の(ひざ)に乗って猿芸をすると、一同は大爆笑となりました。

ところが、慶次は上杉景勝の(ひざ)には乗らず、目の前で猿真似をすることもしません。不思議に思ったものが後で理由をたずねると、慶次は「あの人のビリッとした雰囲気にどうも調子がでなかった」と答えました。宴会の席でも一言も発せず、険しい顔をしていた景勝に、悪戯(いたずら)好きの傾奇者(かぶきもの)()えてしまいました。

上杉景勝の有名な戦い

御館の乱 おたてのらん 1578.3.?〜 1580.? ○ 上杉景勝軍4千 vs 上杉景虎軍6千 ●

後継者未定のまま上杉謙信が没したため、継承権を持つ甥・上杉景勝と北条氏から養子に入っていた上杉景虎が争ったお家騒動。景勝が春日山城本丸を占拠し、景虎は城下の御館(新潟県上越市五智)に陣をとった。北条氏や武田氏も巻き込む大乱になったが、景勝が勝利した。

御館の乱で上杉景勝は勝っています。
上杉景勝のターニングポイントになった戦いです。
景勝はいち早く春日山城かすがやまじょう本丸と金蔵を占拠し、優勢を得ました。景虎を自害に追い込み、勝利したことで山内やまのうち上杉派を一掃、粛清しゅくせいします。当主になると上杉家を上田長尾氏の身内で固めました。

新発田城の戦い しばたじょうのたたかい 1587.?〜 10.25 ○ 上杉軍1万 vs 新発田軍?●

上杉氏に叛いた新発田重家を討伐すべく、新発田城(新潟県新発田市)を上杉景勝が攻めた合戦。直江兼続らが五十公野城を陥落させると、支城を失って孤立した新発田城から出撃した重家は色部長真の陣に突撃。自害して果てた。およそ7年続いた紛争がここに終結した。

新発田城の戦いで上杉景勝は勝っています。
上杉家の当主となり、越後えちご平定の大義名分を得て新発田しばた討伐に乗り出しますが、武勇のほまれ高い新発田重家に苦戦。ようやく討ち果たして北越後えちごを制圧、越後えちごを平定しました。

佐渡征伐 さどせいばつ 1589.6.3 〜 6.16 ○ 上杉軍5千 vs 本間軍?●

佐渡島を統べるべく、上杉景勝が本間一族に従属を求めたことで勃発した合戦。本間高統が篭る河原田城を陥落させた上杉軍は、続いて雑田城を落とし、羽茂城に全軍を殺到させた。本間勢は数百の兵で抗ったが、歯が立たず逃走。本間高貞・高頼は捕縛、処刑された。

佐渡征伐で上杉景勝は勝っています。
景勝は、金山を手に入れるために本間一族に従属を迫りますが、軍事衝突を引き起こしてしまいます。千余(そう)もの舟で出撃し、総攻撃にて制圧しました。以後、佐渡金山の管理を直江兼続に任せています。

八王子城の戦い はちおうじじょうのたたかい 1590.7.24 ○ 豊臣軍1万5千 vs 北条軍3千 ●

小田原征伐の前哨戦のひとつ。北条氏の八王子城(東京都八王子市)を前田利家を総大将とした豊臣軍が攻めた合戦。籠城していたのはわずかな将兵と領民だったが、豊臣秀吉から下された「見せしめにせよ」の命令により、真田昌幸の指揮下で容赦のない殲滅戦が行われた。

八王子城の戦いで上杉景勝は勝っています。
真田昌幸とともに大手口門から攻め入りました。落城後、八王子城は一時的に上杉氏の管理下に置かれました。

大坂冬の陣 おおさかふゆのじん 1614.11.19 〜 12.20 △ 徳川幕府軍20万 vs 豊臣軍9万 △

方広寺鐘銘事件を発端に、徳川氏と豊臣氏がついに衝突。徳川家康は20万の大軍で大坂城(大阪府大阪市中央区)に迫った。豊臣秀頼は牢人を集めて籠城。真田幸村が考案した真田丸で徳川勢を撃退した。しかし、徳川軍の大砲の威力を前に、豊臣氏は和睦を申しでた。

大坂冬の陣で上杉景勝は引き分けています。
大坂城攻めのじろをつくるため、鴫野しぎの村の奪取を命じられます。任務成功後、家康から兵を休ませる交代を命じられますが、これを固辞こじして持ち場を離れませんでした。

上杉景勝の詳しい年表と出来事

上杉景勝は西暦1556年〜1623年(弘治元年〜元和9年)まで生存しました。戦国時代後期に活躍した武将です。

15561長尾政景の次男として越後国に生まれる。幼名:卯松
15649父・長尾政景が溺死。
上杉輝虎(謙信)の養子になる。
樋口(直江)兼続が小姓になる。
156611”臼井城の戦い”初陣。北条氏康との戦に参加。
157520改名 → 上杉景勝
上杉一門筆頭になる。
157823養父・上杉謙信が死去。
上杉景虎との家督争いが勃発。春日山城本丸と金蔵を占拠する。【御館の乱】
武田勝頼と協定を結び支援を受ける。
上杉景虎の実兄・北条氏照と北条氏邦が家督争いに介入。これを坂戸城で退ける。
157924上杉景虎が篭る御館を陥落させる。上杉憲政を殺害。上杉景虎は自害。
家督を相続。
武田勝頼の妹(菊姫)と結婚。【甲越同盟】
158025上田長尾家の家臣で支配体制を築く。越後国人衆を粛清する。
158126樋口兼続に直江氏を継がせる。
新発田重家が上杉氏に叛く。【新発田重家の乱】
158227武田氏が織田信長に攻め滅ぼされる。武田家滅亡
”魚津城の戦い”*織田氏の柴田勝家に魚津城を落とされる。城兵が全滅。
織田信長が死亡。【本能寺の変】
*須田満親に魚津城を織田氏から奪還させる。
信濃国に侵攻する。北条氏直と争い北信濃4郡を得て和睦。【天正壬午の乱】
158328羽柴(豊臣)秀吉と友好的な関係を築く。
”賤ヶ岳の戦い”羽柴秀吉に呼応して佐々領・越中国に進出する。
”放生橋の戦い”新発田重家の討伐に向かう。返り討ちに遭い惨敗する。
蘆名家臣・富田氏実と新国貞通を調略する。
158429”小牧・長久手の戦い”羽柴秀吉に呼応して佐々領・宮崎城を攻撃。
”八幡表の戦い”水原城を新発田氏から奪還する。直江兼続が新発田重家に敗れて水原城を奪われる。
158530”越中征伐”羽柴秀吉に呼応して佐々領・越中国に進出する。
真田昌幸が従属する。
158631羽柴秀吉に従属する。
真田昌幸が羽柴秀吉の配下になる。
羽柴秀吉から新発田氏の討伐と出羽国・庄内への進出許可を得る。
*直江兼続に新発田領・新潟城と沼垂城を攻め落とさせる。
158732”新発田城の戦い”新発田重家が篭る新発田城を包囲。新発田重家は自害。
越後国を平定。
豊臣秀吉から関東と奥羽地方での領土紛争を禁止される。出羽国・庄内と佐渡への進出は許可される。【惣無事令】
158833”十五里ヶ原の戦い”*本庄繁長に最上領・庄内を攻めさせる。
”朝日山城の戦い”*本庄繁長に最上領・朝日山城を攻め落とさせる。
出羽国・庄内を制圧。
参議に就任。
158934本間氏に従属を迫るが拒否される。
”佐渡征伐”本間領・佐渡国に侵攻する。河原田城、雑田城を攻略、羽茂城を全軍で包囲する。本間高貞・高頼を処刑する。
佐渡国を平定。
159035”小田原征伐”北条氏の討伐戦に参加。前田利家の指揮下で北条領を攻める。
”碓氷峠の戦い”前田利家の指揮下で大道寺政繁との戦に参加。
前田利家の指揮下で北条領・武蔵国攻めに参加。
”八王子城の戦い”前田利家の指揮下で八王子城攻めに参加。
”忍城の戦い”石田三成の指揮下で成田長親との戦に参加。
豊臣秀吉が小田原城を開城降伏させる。北条家滅亡
豊臣秀吉の天下統一が成る。
豊臣秀吉によって東北地方の領土再編が行われる。【第1次奥州仕置】
”仙北一揆”奥州仕置に反発して出羽国北部で一揆が起こる。
159136*直江兼続に出羽国・庄内の一揆を鎮圧させる。
159237朝鮮出兵に備えて肥前国・名護屋城に入る。【文禄の役】
159338宇喜多秀家を総大将とした日本軍の援軍として朝鮮国に渡る。熊川倭城を築城。
朝鮮国から帰国。
159439権中納言に就任。
159540陸奥国・会津の蒲生氏郷が死去。蒲生氏で内紛が起こる。豊臣秀吉に津川城の守備を命じられる。【蒲生騒動】
159742小早川隆景の死去により五大老に任じられる。
159843豊臣秀吉から会津への移封を命じられる。越後国から陸奥国に移る。91万石 → 120万石
豊臣秀吉から伊達氏、最上氏ならびに徳川氏の監視と牽制を任じられる。
出羽国・米沢城に直江兼続、陸奥国・白石城に甘粕景継、福島城に本庄繁長らを配備する。
主君・豊臣秀吉が死去。次代・豊臣秀頼に仕える。
豊臣秀吉の遺命により五大老・五奉行による合議制が敷かれる。
159944五大老上首・前田利家が亡くなる。
加藤清正、福島正則、黒田長政、細川忠興、浅野幸長、池田輝政、加藤嘉明の7将が石田三成の屋敷を襲撃。徳川家康、毛利輝元、上杉景勝で協議し石田三成を蟄居させる。【石田三成襲撃事件】
160045陸奥国・神指城を築城。
堀秀治と藤田信吉に訴えられる。上洛を求める徳川家康に直江兼続が慇懃無礼な書簡を送りつける。【直江状】
”会津征伐”徳川家康が上杉討伐の兵を挙げる。
西軍・石田三成、大谷吉継が徳川家康に対して挙兵。徳川家康が美濃国・関ヶ原に向かう。
”白石城の戦い”*登坂勝乃が篭る陸奥国・白石城が伊達政宗に奪われる。
”長谷堂城の戦い”*直江兼続に最上領・長谷堂城を攻めさせる。最上氏&伊達氏の連合軍に敗れる。
東軍・徳川家康の勝利で関ヶ原の戦いが決着する。
160146上洛して徳川家康に謝罪する。
徳川家康から米沢への移封を命じられる。陸奥国から出羽国に移る。120万石 → 30万石
160348出羽国・米沢藩の藩主になる。【江戸幕府の創設】
161459”大坂冬の陣”豊臣氏の討伐戦に参加。鴫野村に設置された豊臣方の柵を攻撃し占拠する。井上頼次を討ち取る。
161560”大坂夏の陣”豊臣氏の討伐戦に参加。京都警備を担当し八幡山に陣を張る。豊臣家滅亡
162065腹心・直江重光(兼続)が死去。
162368出羽国・米沢城で病死。
戦国時代で上杉景勝が生きた期間の表

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