かとう きよまさ

加藤清正

1562.7.25 〜 1611.8.2

 
加藤清正の面白いイラスト
  

加藤清正は、現在の愛知県西部にあたる尾張国の武将です。賤ヶ岳七本槍のひとり。母の縁で豊臣秀吉に仕え、数々の合戦で勝利しました。朝鮮出兵では、はじめから最後まで敵地で戦い抜き、虎退治をしたことでも知られています。築城の名人で、武者返しと呼ばれる独特の石垣が圧巻の熊本城を築きました。享年50。

加藤清正は何をした人?このページは、加藤清正のハイライトになった出来事をなるべく正しく、独特の表現で紹介しています。きっと加藤清正が好きになる「虎退治の豪傑は朝鮮出兵で勢い余って隣の国まで攻めた」ハナシをお楽しみください。

  • 名 前:加藤清正
  • 幼 名:夜叉若
  • あだ名:地震加藤、鬼上官、清正公さん
  • 官 位:従五位下、主計頭、従五位上、侍従、肥後守、従四位下、贈従三位
  •  藩 :熊本藩主
  • 戦 績:22戦 17勝 1敗 4分
  • 出身地:尾張国(愛知県)
  • 領 地:肥後国
  • 居 城:熊本城
  • 正 室:山崎片家の娘、清浄院(徳川家康の養女)
  • 子ども:5男 2女
  • 跡継ぎ:加藤忠広
  • 父と母:加藤清忠 / 伊都
  • 大 名:豊臣秀吉豊臣秀頼

虎退治の豪傑は朝鮮出兵で勢い余って隣の国まで攻めた

(やり)一本で野生の(とら)を退治したという武勇伝で知られる加藤清正は、かっこよくて人気がある戦国武将です。豊臣秀吉の子飼いの猛将(もうしょう)である(かれ)(とら)退治をしたのは朝鮮(ちょうせん)出兵でのことでした。

この朝鮮(ちょうせん)(えき)での活躍(かつやく)が加藤清正のハイライトでした。

朝鮮(ちょうせん)出兵では、日本選抜(せんばつ)とも言える豪華(ごうか)な武将たちが朝鮮(ちょうせん)(わた)りましたが、加藤清正はそのなかでナンバー1になるべく奮闘(ふんとう)します。

特に、大っ(きら)いな小西行長には負けたくありませんでした。
小西行長と先を競うように爆進(ばくしん)して勝利を重ね、次第に勢力を強めながら加藤清正は北上していきました。

連戦連勝に気をよくして勢いあまった加藤清正は、少々やりすぎてしまいます。


レッツゴー!
オランカイ

1592年より行われた文禄(ぶんろく)(えき)で、加藤清正の2番隊は朝鮮(ちょうせん)半島北部の咸鏡道(かんきょうどう)の制圧を命じられます。

加藤清正は次々と朝鮮(ちょうせん)軍を撃破(げきは)して、一番乗りでミッションコンプリートを目指しました。

海汀倉(かいていそう)の戦いに圧勝して咸鏡道(かんきょうどう)の制圧を果たすと、朝鮮国(ちょうせんこく)の王子2人をゲット。サブミッションまで攻略(こうりゃく)することに成功します。

すると、加藤清正の強さに()かれた朝鮮兵(ちょうせんへい)3千人が仲間に加わり、かねてから朝鮮(ちょうせん)王朝ともめていた満州オランカイの女真族(じょしんぞく)(たお)そうということになりました。

文禄の役・加藤清正の進路図

あわよくば満州方面から(みん)国に()め入ろうと思ったのですが、そう上手くは行きません。

女真族(じょしんぞく)の激しい抵抗(ていこう)にあってしまい「こっちから(みん)国に行くのは無理」と断念します。となりの民族まで巻きこんだ加藤清正のオランカイ侵攻(しんこう)は、失敗に終わりました。

悪いことに、この行動が小西行長や石田三成の言い訳に利用されてしまいます。

(みん)国・朝鮮(ちょうせん)国との和議をまとめられずにいた三成らは、”清正の勝手な行動で交渉(こうしょう)邪魔(じゃま)された” と秀吉に報告しました。

加藤清正は秀吉からこっぴどく(しか)られ、強制的に帰国させられてしまいます。

石田三成と小西行長の保身に使われた加藤清正は、この出来事をきっかけに2人に対して憎悪(ぞうお)(いだ)くようになり、秀吉(ぼつ)後の豊臣家の分裂(ぶんれつ)につながってしまうのでした。


小西行長と
仲良くできない

加藤清正と小西行長は、どちらも秀吉が気に入っていた家臣です。秀吉は若くて有望なふたりを競わせ、さらに成長させようと考えます。

ところが、これが後々までふたりが仲良くできない原因となってしまいます。

九州征伐(せいばつ)肥後(ひご)国人一揆(いっき)活躍(かつやく)した加藤清正は、1588年に秀吉から肥後国(ひごのくに)(熊本県)の北半分を領地としてもらいました。このとき、肥後国(ひごのくに)の南半分には小西行長が入りました。

一定の成果はあったものの、秀吉が期待したような科学反応は見られず、敵対心ばかりが増してしまいます。

加藤清正は熱烈(ねつれつ)法華宗(ほっけしゅう)の信者。
小西行長はキリシタン。

加藤清正は鍛冶屋(かじや)(せがれ)
小西行長は商人の子。

どちらも信仰心(しんこうしん)が強く、実家が武士ではないという共通点がお(たが)いに ”なんかムカつく” という感情となり、つまらないことで張り合う犬猿(けんえん)の仲になります。

こういった背景から、文禄(ぶんろく)(えき)先陣(せんじん)をつとめることになったふたりはムキになり、作戦会議の席で(ののし)り合い、ツバを()きかけるといった子どものけんかをしてしまいます。

1600年の関ヶ原の戦いで加藤清正が徳川家康の東軍に味方したのは「西軍に石田三成と小西行長が居たから」でした。


土木事業を推進
熊本をビルドする

熊本県の英雄(えいゆう)・加藤清正は、地元では『清正公(せいしょこ)さん』の愛称(あいしょう)で親しまれています。

白川坪井川(つぼいがわ)、緑川、球磨川(くまがわ)菊池川(きくちがわ)など、熊本4大河川の改修と灌漑(かんがい)用水を整備して、豊かな穀倉地帯をつくりあげるなど、熊本に多くの功績を残しました。

もともと熊本は隈本(くまもと)と表記しましたが「隈本(くまもと)より熊本のほうが勇ましい」という理由で、ベアー(Bear)の「熊本」に改称(かいしょう)したのも加藤清正です。

朝鮮(ちょうせん)出兵の蔚山城(うるさんじょう)での過酷(かこく)籠城戦(ろうじょうせん)の経験に基づいて、加藤清正は鉄壁(てっぺき)要塞(ようさい)と呼ぶにふさわしい熊本城を築きました。熊本城は現在も熊本県のシンボルとして愛されています。

生涯を簡単に振り返る

生まれと出自

1562年、加藤清正は尾張国(おわりのくに)・愛知郡中村郷に刀鍛冶(かたなかじ)の子として生まれます。幼いころに父を亡くし、母子家庭に育ちます。母の(えん)で豊臣秀吉の小姓(こしょう)になり、賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いで活躍(かつやく)。秀吉の朝鮮(ちょうせん)出兵の日本拠点(きょてん)となる名護屋城を築き、朝鮮(ちょうせん)国では小西行長と先陣(せんじん)を務めて日本軍を牽引(けんいん)しました。

石田三成を嫌悪する

秀吉が(ぼっ)すると朝鮮(ちょうせん)出兵から帰国。朝鮮(ちょうせん)で仲たがいした石田三成との対立が深刻化し、三成襲撃(しゅうげき)事件を起こすなど、武断派と文治派の軋轢(あつれき)を強めてしまいます。三成が(にく)い感情から、関ヶ原の戦いでは徳川家康の東軍に味方し、九州で西軍派と戦いました。その後、江戸幕府では初代・熊本藩主(はんしゅ)を務めました。

最後と死因

徳川氏の天下となったあとも豊臣秀頼の立場を守るために尽力(じんりょく)し、京・二条城での徳川家康との会見を斡旋(あっせん)して秀頼の護衛をつとめました。会見を終えた帰りの船で発病し、ほどなくして加藤清正は肥後国(ひごのくに)・熊本城で亡くなりました。1611年8月2日、死因は脳溢血(のういっけつ)。50歳でした。梅毒による病死または毒殺説が疑われています。

領地と居城

加藤清正の領地・勢力図(1600年)

肥後国(ひごのくに)52万石が加藤清正の領地でした。もとは小西行長と南北で半分ずつ治めていましたが、行長の死後は徳川家康から南部の小西領も拝領しました。

加藤清正の性格と人物像

加藤清正は「意地っ張りで負けず(いぎら)いな人」です。

どんな競争相手にも負けることを善しとしないので、ライバルの存在が実力以上の結果を引き出します。また、査定に納得がいかないと主君相手にも異議をぶつけるハートの強さがあります。

前線で戦う豪傑(ごうけつ)のイメージがありますが、最前列で戦うことにこだわりはなく、状況(じょうきょう)に応じて後方から采配(さいはい)()るうなど、思慮(しりょ)深い指揮官でした。

立派なあご(ひげ)がトレードマーク。特技は口の中に(こぶし)を入れること。いくさに備えてつねに米3(しょう)味噌(みそ)と銀銭300文を(こし)携帯(けいたい)していました。

論語にマーカーを入れて読み()むなど勤勉で、読み書きや算術も得意でした。

熱心な法華宗(ほっけしゅう)の信者で、領内に法華宗(ほっけしゅう)の寺をいくつも建てています。軍旗にも南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)の題目を(かか)げていました。

愛用の十文字(やり)(とら)退治で()み折られますが、短くなった片方の()(けず)って『片鎌槍(かたかまやり)』にして使いました。並外れた体高の巨馬(きょば)帝釈栗毛(たいしゃくくりげ)』とともに自慢(じまん)逸品(いっぴん)です。

子どものころから、頭がよく勇気がありました。10歳のときに叔父(おじ)の家に入った盗賊(とうぞく)を追いはらったこともあります。

身の(たけ)6尺3寸(190cm)といわれていますが、実際は160cmほどの身長でした。頭部が長い(かぶと)長烏帽子形兜(ながえぼしなりかぶと)』で、背を高く見せていました。

胸部と背部にあばら骨が()いた(しかばね)をデザインしたホラーな(よろい)も現存しています。

能力を表すとこんな感じ

加藤清正の能力チャート

いくつもの兜首(かぶとくび)一騎討(いっきう)ちで討ち取っており、加藤清正は個の強さが際立ちます。熊本の開発にも見られるように領内統治も(ひい)でていました。

能力チャートは『信長の野望』シリーズに登場する加藤清正の能力値を参考にしています。東大教授が戦国武将の能力を数値化した『戦国武将の解剖図鑑』もおすすめです。

加藤清正の面白い逸話やエピソード

ほんとは少し違った清正の虎退治

朝鮮(ちょうせん)でのこと。清正の陣営(じんえい)は、野生の(とら)に兵士が(おそ)われる被害(ひがい)が出ていました。

(とら)に家臣を()われた加藤清正は、相棒の片鎌槍(かたかまやり)を手にして大きな(とら)に立ち向かい、見事にこれを仕留めたというのが『加藤清正の(とら)退治』です。

【加藤清正の虎退治】虎と対峙する加藤清正


じつは槍で
戦っていない

小姓(こしょう)(とら)()み殺されて激怒(げきど)した加藤清正が手にしたのは鉄砲(てっぽう)(とら)が出た山に出かけて行くと、問題の(とら)遭遇(そうぐう)します。

家臣たちに「手出しするな」と伝えて自ら鉄砲(てっぽう)を構えて距離(きょり)をつめると、清正に気づいて突進(とっしん)してきた(とら)の大きな口にズドン。一発で仕留めました。

(とら)退治の武器は(やり)ではなかったのです。

この様子が『虎拳(とらけん)』というお座敷(ざしき)あそびになっています。

(とら)の毛皮、女物の着物、鉄砲(てっぽう)でひと(そろ)え。これを2セット使い、いずれかを身につけて、(ふすま)で仕切られた部屋で見せ合うジャンケンのような遊戯(ゆうぎ)になりました。


虎狩りが
流行していた

朝鮮(ちょうせん)(とら)退治を行ったのは、加藤清正だけではありません。

そもそも清正の(とら)退治は、黒田長政の虎狩(とらが)りがベースになっている後世の創作という説もあります。清正のほか、島津義弘などが虎狩(とらが)りを行っています。

日本軍の武将たちのあいだで虎狩(とらが)りが流行った理由は、不老長寿(ちょうじゅ)を手に入れたい豊臣秀吉の命令でした。

医者から ”(とら)の脳みそに長寿(ちょうじゅ)効果がある” というデタラメな情報を聞いた秀吉が、朝鮮(ちょうせん)で戦う諸将に虎狩(とらが)りを命じたのです。

これを受けて、秀吉のもとには塩漬(しおづ)けされた(とら)が大量に送られてきたとか。

朝鮮から日本にセロリを持ち帰った

朝鮮(ちょうせん)から帰国する際に、加藤清正はセロリを持ち帰りました。

今でも ”食べられる派・食べられない派” で分かれるほど、くせが強いセロリ。清正が持ち帰ったときも民衆に受け入れられず、普及(ふきゅう)しませんでした。

セロリが日本でも定着するのは、第2次世界大戦後のこと。清正が輸入してから、およそ350年後でした。

じつは、このセロリ。清正は人参だと(だま)されて持ち帰っていました。そのため、セロリは別名「清正人参」とも呼ばれています。

加藤清正の有名な戦い

賤ヶ岳の戦い しずがたけのたたかい 1583.6.6 〜 6.13 ○ 羽柴軍5万 vs 柴田軍3万 ●

信長亡きあと、織田家の掌握を狙う羽柴秀吉と、家中を二分していた柴田勝家が賤ヶ岳(滋賀県長浜市)付近で展開した戦い。前田利家の戦線離脱によって、柴田軍は潰走。勢いづく秀吉に北ノ庄城を攻められ落城した。秀吉子飼いの福島正則ら若手武将が活躍した。

賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いで加藤清正は勝っています。

加藤清正のターニングポイントになった戦いです。
柴田方の山路正国と一騎討(いっきう)ちし、崖下(がけした)まで転がり落ちる激しい組み合いの末、討ち取りました。加えて、鉄砲頭(てっぽうがしら)・戸波隼人を討ち取っています。この功績により『賤ヶ岳(しずがたけ)七本槍(しちほんやり)』のひとりに名を連ねました。

小牧・長久手の戦い こまき・ながくてのたたかい 1584.4.23 〜 12.13 △ 羽柴軍10万 vs 織田&徳川軍3万 △

信長の死後、羽柴秀吉に不満を持つ信長の次男・織田信雄と信長の盟友・徳川家康が小牧山城(愛知県小牧市、長久手市)で一進一退の局地戦を展開した。秀吉が別部隊で三河の徳川領を突こうとするが、家康に裏をかかれて大敗。秀吉と信雄が和議を結び、痛み分けとなった。

小牧・長久手の戦いで加藤清正は引き分けています。

豊臣勢に少数で立ちはだかった徳川方の豪傑(ごうけつ)・本多忠勝の前に名乗り出て、両軍が見守る前で一騎討(いっきう)ちをしています。互角(ごかく)で決着がつかず、秀吉に「どちらも死なせるには()しい」と勝負を止められています。

臨津江の戦い りんしんこうのたたかい 1592.5.18 ● 朝鮮軍1万3千 vs 日本軍1万 ○

臨津江(大韓民国京畿道坡州市)を挟んで対陣した日本軍に朝鮮軍が攻撃。ここに駆けつけた加藤清正が朝鮮軍を挟撃、パニックになった朝鮮兵を全滅させた。朴忠侃などの指揮官が逃亡。対岸から大惨敗の様子をみた韓応寅は、気絶してしまった。加藤隊が単独で勝利した。

臨津江(りんしんこう)の戦いで加藤清正は勝っています。

清正は坡州(ぱじゅ)にいましたが、朝鮮(ちょうせん)軍の襲撃(しゅうげき)を受けている味方の救援(きゅうえん)に急行して形勢を逆転させます。()げ場を失った朝鮮(ちょうせん)軍に猛攻(もうこう)を加えて、申硈、劉克良、洪鳳祥といった敵将を討ち取りました。

海汀倉の戦い かいていそうのたたかい 1592.8.24 ○ 日本軍?vs 朝鮮軍?●

咸鏡南道から攻め進む加藤清正を、朝鮮軍は摩天嶺の地形を利用して迎撃を計画。しかし、加藤隊はすでに摩天嶺を通過しており、両軍は海汀倉(北朝鮮咸鏡北道金策市)で遭遇戦となった。韓克諴が率いる騎馬隊を日本軍の鉄砲隊が撃破、大勝し、朝鮮軍を鏡城に退かせた。

海汀倉(かいていそう)の戦いで加藤清正は勝っています。

この戦いの圧倒的(あっとうてき)な勝利によって、朝鮮(ちょうせん)王朝を見限った朝鮮(ちょうせん)兵が、2人の王子(臨海君(イムへグン)順和君(スンファグン))を差し出して清正に降伏(こうふく)します。このあと、咸鏡道(かんきょうどう)を平定した余勢を()って満州オランカイに()め入りました。

晋州城攻防戦 しんしゅうじょうこうぼうせん 1593.6.21 ○ 日本軍9万3千 vs 朝鮮軍8千 ●

晋州城(大韓民国慶尚南道晋州市)をめぐって二度戦った合戦。第1次の戦いは金時敏の朝鮮軍を攻略できず、日本軍は退いた。総力を結集した第2次攻防戦では、亀甲車で城壁を破壊し、黒田長政が城内に攻め入り、競うように加藤清正らが突入し、朝鮮軍を全滅させた。

晋州城(しんしゅうじょう)攻防戦(こうぼうせん)で加藤清正は勝っています。

二度の攻防(こうぼう)でようやく晋州城(しんしゅうじょう)陥落(かんらく)させたのち、清正らは全羅道(ぜんらどう)進撃(しんげき)します。

蔚山城の戦い うるさんじょうのたたかい #1:1598.1.29 〜 2.9 ● 明&朝鮮軍5万7千 vs 日本軍2万3千 ○ #2:1598.10.? 〜 11.? ● 明&朝鮮軍3万 vs 日本軍1万 ○

日本軍が築いた蔚山倭城(大韓民国蔚山広域市)で二度行われた攻防戦。築城中に襲撃を受けた第1次で日本軍は兵糧攻めに苦しみ、馬の肉を食すほどであった。加藤清正が窮地に陥るが、黒田長政らの援軍を受けて形勢逆転。明&朝鮮軍を撃退し、追撃して大ダメージを与えた。

蔚山城(うるさんじょう)の戦いで加藤清正は勝っています。

建設中の不意を(おそ)われた第1次の戦いでは、食料が()き、過酷(かこく)籠城戦(ろうじょうせん)となりました。蔚山城(うるさんじょう)での経験が、長期籠城(ろうじょう)にも対応を可能にした熊本城のさまざまな工夫に活かされています。

加藤清正の詳しい年表と出来事

加藤清正は西暦(せいれき)1562年〜1611年(永禄(えいろく)5年〜慶長(けいちょう)16年)まで生存しました。戦国時代後期に活躍(かつやく)した武将です。

15621加藤清忠の子として尾張国に生まれる。幼名:夜叉若
15643父・加藤忠清が死去。
157312母の縁で羽柴(豊臣)秀吉の小姓になる。
157413山崎片家の娘と結婚。
157615元服 → 加藤(虎之助)清正
158019”第1次鳥取城の戦い”初陣。山名豊国との戦に参加。
158221”備中高松城の戦い”毛利輝元との戦に参加。冠山城に一番に攻め入り竹井将監を討ち取る。
”山崎の戦い”明智光秀との戦に参加。鉄砲隊長の近藤半助を討ち取る。
158322”賤ヶ岳の戦い”柴田勝家との戦に参加。一騎討ちで山路正国、戸波隼人を討ち取る。
”北ノ庄城の戦い”柴田勝家との戦に参加。
158423”小牧・長久手の戦い”織田信雄&徳川家康との戦に参加。本多忠勝と一騎討ちをする。撤退時の最後尾を担う。
158524”四国征伐”長宗我部氏の討伐戦に参加。
158625”九州征伐”島津氏の討伐戦に参加。
158726”肥後国人一揆”肥後国人衆の鎮圧戦に参加。
158827豊臣秀吉から肥後国の一部を拝領し、小西行長と分割統治する。
隅本城を居城にする。
158928肥後国・小西領で天草五人衆が一揆を起こす。これに加勢して一揆衆を鎮圧。怪力・木山正親を一騎討ちで討ち取る。
159029肥後国・隈本城を居城にし、大規模な改修を開始。
159130朝鮮出兵の拠点となる肥前国・名護屋城の普請奉行を担う。
159231宇喜多秀家を総大将とした日本軍の2番隊主将を担い鍋島直茂、相良頼房を率いて朝鮮国に侵攻。【文禄の役】
”慶州城の戦い”慶州城を攻めて朴毅長を敗走させる。1500の首級をあげる。
永川を制圧。忠州城で小西行長の1番隊に合流。遅れをとり、先鋒をめぐって小西行長と喧嘩になる。
朝鮮軍が放棄した漢城に入る。
”梅北一揆”*島津家臣・梅北国兼が肥後国で一揆を扇動する。家臣たちが梅北国兼を討ち取って鎮圧する。
”臨津江の戦い”臨津江で朝鮮軍に襲撃されるが、これを撃退する。
朝鮮軍が放棄した開城に入る。
咸興城を制圧。
”海汀倉の戦い”朝鮮軍の騎馬隊を鉄砲隊で撃破。300の首級をあげる。
朝鮮半島北部・咸鏡道を平定。
会寧で朝鮮国の王子(臨海君、順和君)を捕縛。王子の従臣を捕虜にする。
服属した朝鮮兵3千と女真族領・オランカイに侵攻する。鍾城、穏城、慶源、慶興を制圧しソスポに到達するが撤退。
159332石田三成ら奉行衆から咸鏡道の撤退を命じられる。やむなく漢城に退く。
明国・沈惟敬、小西行長、加藤清正の三者で会談して講和条件をまとめる。
朝鮮国の王子(臨海君、順和君)を返す決定が下り、伊達政宗に預ける。
”第2次晋州城攻防戦”宇喜多秀家の指揮下で晋州城攻めに参加。城内に突入し陥落させる。
石田三成と小西行長によって豊臣秀吉に讒言される。
豊臣秀吉の命令により朝鮮国から帰国。京で謹慎を命じられる。
159635慶長伏見地震が発生。伏見の豊臣秀吉のもとに駆けつける。
159736小早川秀秋を総大将とした日本軍の右軍1番隊で朝鮮国に侵攻。【慶長の役】
”黄石山城の戦い”朝鮮軍が篭る黄石山城を総攻撃で陥落させる。南面から攻め入る。
総大将・小早川秀秋が半数の兵を連れて帰国。九州勢が現地に残される。
159837蔚山城の縄張りをする。
”第1次蔚山城の戦い”明&朝鮮の連合軍に建築中の蔚山城を襲撃される。兵糧攻めに苦しむが、黒田長政らの援軍を得て退ける。楊万金ら多数の指揮官を討ち取り連合軍2万の首級をあげる。
”第2次蔚山城の戦い”明&朝鮮の連合軍が蔚山城に攻めてくる。立花親成(宗茂)の援軍を得て防衛する。
主君・豊臣秀吉が死去。次代・豊臣秀頼に仕える。
帰国命令が出る。朝鮮東部の倭城から軍を撤収。
朝鮮国から帰国。
徳川家康の養女・水野忠重の娘(清浄院)と結婚。
159938加藤清正、福島正則、黒田長政、細川忠興、浅野幸長、池田輝政、加藤嘉明の7将で石田三成の屋敷を襲撃する。徳川家康に仲裁してもらう。【石田三成襲撃事件】
島津氏の重臣・伊集院忠真が反乱を起こす。これを支援する。仲裁した徳川家康から上洛を禁止される。【庄内の乱】
熊本城の築城を開始。
160039石田三成、大谷吉継が反徳川の挙兵。
関ヶ原の戦いが勃発。九州勢力をまとめる黒田官兵衛に加勢する。
徳川家康が関ヶ原の戦いに勝利する。
鍋島直茂が立花親成の柳川城を攻める。黒田官兵衛に仲介を頼む。
徳川家康の命令で黒田官兵衛の軍が解散。
徳川家康から小西領・肥後半国を拝領する。
改易され牢人となった立花親成を食客として迎える。
160342肥後国・熊本藩の藩主になる。【江戸幕府の成立】
160645徳川家臣・榊原康政の嫡男・康勝に娘(あま)を嫁がせる。
榊原康勝が上野国・館林藩の藩主になる。藩政の後見をする。
160746隈本 → 熊本に改称。
肥後国・熊本城が完成。
旧小西領の支城を撤廃。
161049徳川家康の要請で尾張国・名古屋城の築城に協力する。
161150徳川家康と豊臣秀頼の会見を斡旋し立ち会う。【二条城会見】
京から帰国する船内で発病。肥後国・熊本城で病死。
戦国時代で加藤清正が生きた期間の表
加藤清正の顔イラスト
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