徳川家康がしたこと、功績や政策を簡単にわかりやすくしたまとめ

徳川家康がしたこと、功績や政策を簡単にわかりやすくしたまとめ

江戸時代の日本史に出てくる『徳川家康がしたこと』がよくわからない!征夷大将軍になって江戸幕府を開いたのは信長や秀吉よりすごいことなの?幕藩体制にはどんな意味があったのか簡単に知りたい。出来事や大事なポイントがよくわかる。教科書に載っている ”徳川家康がしたこと” をわかりやすくまとめてみましょう。

教科書に載っている徳川家康がした有名なこと

徳川家康は日本の江戸時代に活躍(かつやく)した武将で、織田信長や豊臣秀吉と同時代を生き、戦国の世を終わらせた人物です。

盟友として信長の天下統一を目指し、信長の死後は秀吉の家来となり、秀吉の死後は征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)になって江戸幕府を開きました。

まずはじめに、主な出来事をまとめた「徳川家康の簡単な年表」を見てみましょう。

徳川家康の略年表

関東移封(いほう)(1590年)
関ヶ原の戦い(1600年)
江戸幕府の成立(1603年)
禁教令(1612年)
大坂冬の(じん)・夏の(じん)(1614年、1615年)
以上が、徳川家康の重要な出来事です。

このほか、武家諸法度(1615年)、参勤交代(1635年)の法令も教科書に()っています。

それでは、徳川家康がしたことを順番に大事なポイントと合わせて紹介(しょうかい)します。

1590年:関東移封

関東移封のポイント
  • 豊臣秀吉が天下統一を果たした。
  • 豊臣秀吉の命令で関東に領地替えになった。
  • 現在の東京都の発展につながる。
徳川家康は豊臣秀吉に命じられて関東に移封した(1590年)

豊臣秀吉が天下統一した1590年、徳川家康は秀吉に命じられて関東に領地()えします。

家康は江戸の都市計画をすすめ、小石川上水や神田上水などのインフラ整備を行いました。湿地(しっち)浅瀬(あさせ)()め立てて土地を広げ、運河をめぐらせて都市を活気づけました。

江戸が発展すると人口が100万人を()え、現在の東京の基礎(きそ)がつくられていきました。


関東移封を
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関東での本拠地(ほんきょち)を江戸にするよう命じたのも秀吉でした。東日本の戦略拠点(きょてん)となる江戸を家康に任せるためでした。

もうひとつ理由があります。関東は湿地(しっち)だらけだったので、秀吉は家康が開発に苦労すると思いました。家康が失敗したら、責任を追求しようと考えていたのです。

1600年:関ヶ原の戦い

関ヶ原の戦いのポイント
  • 豊臣秀吉の死後に起こった権力争い。
  • 豊臣政権を維持したい石田三成が挙兵したが徳川家康が勝った。
  • 徳川家康の権力が確立して豊臣政権の基盤が弱くなった。
  • 天下分け目の戦いと呼ばれている。
関ヶ原の戦いがあった場所(1600年)

1600年10月21日に起こった関ヶ原の戦いは、徳川家康が率いる東軍が石田三成を中心とする西軍を(たお)した戦いです。

豊臣秀吉が亡くなった後、天下をねらう徳川家康が権力を強めます。一方、家康を排除(はいじょ)したい石田三成が挙兵し、敵対しました。

反徳川の西軍をやぶった家康は、これで天下の実権を(にぎ)りました。


関ヶ原の戦いを
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このときの徳川家康は豊臣家の家臣でした。家康の東軍と三成の西軍が争った関ヶ原の戦いとは、豊臣家の家臣同士による内部紛争(ふんそう)でした。

家康は西軍に味方した大名から領地を取り上げて、東軍に味方した大名に(あた)えました。豊臣氏には、大坂城とその周辺だけを残しました。

1603年:江戸幕府の成立

江戸幕府の成立のポイント
  • 朝廷から任命されて徳川家康が征夷大将軍になった。
  • 徳川家康が本拠地の江戸で幕府を開いた。
  • 幕府と藩による政治体制がはじまる。
徳川家康は征夷大将軍になって江戸幕府を開いた(1603年)

1603年3月24日、朝廷(ちょうてい)から征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任じられた徳川家康は、江戸幕府を開きます。

征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)とは武家の棟梁(とうりょう)のこと。徳川家康は一番えらい武士になりました。

江戸幕府は、すべての領地を支配するのではなく、地方の大名の領地は「(はん)」に任せました。幕府が(はん)を統制する『幕藩(ばくはん)体制』で全国を統治しました。


江戸幕府の成立を
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征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)になった2年後の1605年に、家康は三男・徳川秀忠に将軍職を(ゆず)ります。これは「これからも徳川家が治めていく」というメッセージでした。

1612年、1614年:禁教令

禁教令のポイント
  • キリスト教の布教と信仰を禁止した。
  • 隠れて信仰を続けるキリシタンも大勢いた。
【禁教令】徳川家康が行ったキリスト教禁止政策のイメージ(1612年、1614年)

1612年、キリスト教が江戸幕府の支配の(さまた)げになると考えた徳川家康は、江戸・京都・駿府(すんぷ)など幕領での布教を禁止し、教会を(こわ)すように命じました。

1613年には『伴天連追放之文(ばてれんついほうのふみ)』を公布し、キリスト教を日本の宗教の敵と定めます。1614年には全国的な禁教令を発布し、すべてのキリスト教宣教師を国外へ追放しました。


禁教令を
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家康もはじめは南蛮(なんばんく)貿易の利益を優先していました。しかし、キリスト教がスペインやポルトガルによる侵略(しんりゃく)のきっかけになると思い、禁教令を出しました。

幕府のキリスト教禁止はエスカレートし、のちの鎖国(さこく)政策につながっていきます。

1614年、1615年:大坂冬の陣・夏の陣

大坂冬の陣・夏の陣のポイント
  • 秀吉の子・豊臣秀頼の大坂城を2回も攻めた。
  • 徳川家康が豊臣氏を滅ぼした。
  • 徳川氏に対抗する大名がいなくなった。
大坂の陣で徳川家康は豊臣氏を攻め滅ぼした(1614年、1615年)

江戸幕府が開かれた後も大坂城には豊臣秀吉の息子・豊臣秀頼がいました。

徳川家康は、大坂城に残していた豊臣氏を(ほろ)ぼすため、1614年12月に大坂冬の(じん)、1615年5月に大坂夏の(じん)を起こします。

豊臣氏を(ほろ)ぼし、江戸幕府による支配を完全なものにしました。


大坂冬の陣・夏の陣を
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江戸幕府を開いた家康は天下を取りましたが、豊臣氏は従いませんでした。家康は、方広寺の()(がね)因縁(いんねん)をつけて豊臣氏を(おこ)らせ、大坂城を()める口実にしました。

徳川家康が行った政治

幕藩体制で全国を支配した

江戸幕府は、全国の土地と人々を「幕府」と「(はん)」で支配しました。徳川家康が作ったこの仕組みを『幕藩(ばくはん)体制』といいます。

幕府が支配した直轄地(ちょっかつち)を『幕領』といい、将軍直属の家来の領地も(ふく)めると全国のおよそ1/4ほどになりました。さらに、大阪・京都・長崎などの都市や、佐渡(さど)金山などの鉱山も直轄地(ちょっかつち)にして、収入を得ていました。

一方の(はん)とは、地方の大名が支配する土地のことで、決められたルールのなかで大名が統治することが認められていました。

【幕藩体制】江戸幕府の幕府と藩による統治システムの図


幕府は
旗本と御家人

幕府の幕領を治めるのは徳川将軍家で、旗本と御家人(ごけにん)にそれぞれ1万石以下を知行地として(あた)えました。

旗本とは、将軍に会うことができる家来のこと。御家人(ごけにん)とは、将軍にお目にかかることができない家来のこと。どちらも直参(じきさん)(将軍直属の家来)です。


藩は
親藩・譜代・外様

(はん)を治めるのは、1万石以上の領地を持つ地方の大名です。
藩主(はんしゅ)となる大名には、次のようなランクがありました。

親藩(しんぱん) … 徳川家の親戚(しんせき)
譜代(ふだい)大名 … 代々徳川家に仕える
外様(とざま)大名 … 関ヶ原以降に従った

親藩(しんぱん)譜代(ふだい)大名といった徳川将軍家との関係が深い大名は信頼(しんらい)も厚く、家康は(かれ)らに重要な土地を任せ、江戸を守る要所としました。

外様(とざま)大名とは、関ヶ原の戦い以降に徳川家康に従った大名たちのことです。

徳川将軍家からの信頼(しんらい)(うす)外様(とざま)大名には、江戸から(はな)れた土地を(あた)えました。反乱を起こしてもすぐに江戸を()められないようにするためでした。

朱印船貿易で利益を独占した

東南アジアとの貿易は豊臣秀吉のころから行われていましたが、この利益を独占(どくせん)するために徳川家康は貿易を幕府の統制下に置きました。

朱印状(しゅいんじょう)』という証書を発行し、朱印状(しゅいんじょう)を持つ船のみ海外への渡航(とこう)を許可しました。朱印船(しゅいんせん)は収入の一部を幕府に納めなければならず、必ず長崎から出航して長崎に帰港する決まりでした。

朱印船(しゅいんせん)貿易を通じて、フィリピン、ベトナム、タイなどの港や都市には日本人の商人たちが住む日本町ができました。

朝鮮国との国交を回復した

豊臣秀吉が行った朝鮮(ちょうせん)出兵(文禄(ぶんろく)慶長(けいちょう)(えき))によって、日本と(みん)朝鮮(ちょうせん)との関係は悪化していました。徳川家康は、対馬(はん)の宗義智を通じて朝鮮国(ちょうせんこく)との国交を回復するよう、はたらきかけます。

1607年に朝鮮(ちょうせん)国王から日本に『朝鮮(ちょうせん)通信使』と呼ばれる使節が派遣(はけん)され、両国の国交が回復しました。

明国(みんこく)との国交も回復しようとしましたが、それはかないませんでした。

徳川家康が基盤をつくった仕組み

武家諸法度で大名を統制

完全な支配体制を構築するために、幕府は1615年に『武家諸法度』を発布します。

武家諸法度は、武士の心得のようなことが定められたルールブックですが「無断で城を修築してはいけない」「大名どうしが許可なく結婚(けっこん)してはいけない」など、大名の行動を制限するものも(ふく)まれ、違反(いはん)した場合は厳しい(ばつ)(あた)えられました。

【武家諸法度】1615年に江戸幕府が公布した条文

2代将軍・徳川秀忠の名義で武家諸法度が発布されますが、これをつくったのは徳川家康でした。

ちなみに、武家諸法度とセットで1615年に『禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)』も発布されました。禁中とは、天皇および朝廷(ちょうてい)のことで、幕府は天皇と公家も統制したのです。

参勤交代で江戸勤務させる

参勤交代』は、江戸幕府が大名を統制するために行った政策です。

大名が自分の領地と江戸を行き来して勤務する参勤交代の制度は、多くの家臣をつれて移動するため、たいへんな費用や旅費がかかりました。

参勤交代にかかる費用はすべて大名が負担するため、結果的に大名の経済力を()ぐ効果がありました。

1635年に3代将軍・徳川家光が武家諸法度に加えたことで制度化されますが、それ以前から大名が江戸に出向いて勤務する参勤の習慣はありました。

もともとは徳川家康への忠誠の証明として参勤は行われていました。そのため強制力はなく、あくまでも大名が自主的に江戸に来て勤務するといったものでした。

日光東照宮に祀られて神となる

1616年6月1日(元和2年4月17日)に徳川家康は波乱の生涯(しょうがい)を終えます。

家康の遺言により、久能山東照宮(静岡県静岡市)に埋葬(まいそう)されたのち、一周忌(いっしゅうき)を待って日光東照宮(栃木県日光市)に遺骸(いがい)が移されました。

家康は死後も日光山から関東八州の鎮守(ちんじゅ)(守り神)となることを宣言し、後水尾天皇から『東照大権現』の神号を(おく)られました。

現在も日光東照宮には、東照大権現=徳川家康が神として(まつ)られています。

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以上が徳川家康がしたことのまとめです。信長・秀吉と共存し、征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)になってからは、江戸幕府を中心に天下泰平(てんかたいへい)の日本を築く仕組みをつくりました。

260年つづく江戸時代を創世した開祖であり、現在の東京をデザインした創造主、それが徳川家康です。

徳川家康のイラスト
徳川家康のハナシを読む

徳川家康(松平元康)は、現在の愛知県東部にあたる三河国の武将・大名です。今川氏の人質から独立すると織田信長とともに天下統一を目指し、信長の死後は豊臣秀吉のもとで国家運営に携わります。秀吉の死後、征夷大将軍に就任して江戸幕府を開き、泰平の世が260年つづく江戸時代の開祖となりました。享年74。

徳川家康がしたことのまとめは以上です。
つづいて【織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の関係】についてまとめたページがおすすめです。

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