浅井三姉妹(茶々・初・江)お市の方の3人娘の数奇な運命

浅井三姉妹(茶々・初・江)お市の方の3人娘の数奇な運命

『浅井三姉妹』は、浅井長政とお市の方とのあいだに生まれた姫たちです。茶々・初・江と名付けられた浅井三姉妹は、二度の落城で父と母を失い、豊臣秀吉のもとで育ちます。やがて覇権を争うことになる豊臣氏と徳川氏の渦中にあって、浅井三姉妹がそれぞれどのように天下の情勢に関わったのか並べてみましょう。

浅井三姉妹の生い立ち

浅井三姉妹は、現在の滋賀県にあたる近江国おうみのくにの戦国大名・浅井長政と、織田信長の妹・お市のあいだに生まれた(ひめ)たちのことです。

戦国一のイケメンといわれる浅井長政を父とし、天下一の美女と名高いお市を母としたこの美しい(ひめ)たちは、戦国の動乱によって運命を引き()かれてしまいました。

織田信長のめいとして生まれ、豊臣秀吉の養女として育ち、徳川家康の天下取りにも深く関わった浅井三姉妹は、戦国時代の女性の代名詞となっています。

浅井三姉妹(茶々・初・江)


お市の方が
浅井家に嫁いだ背景

浅井三姉妹の母・お市の方は、1567年に織田家から浅井長政のもとに嫁入(よめい)りします。

この頃の織田信長は、美濃国みののくにを手に入れ、武力で天下を制圧しようと意気ごんでいました。

天下を取るために京に上る必要があり、現在の岐阜県から京都府に向かうルートとして滋賀県を確保したかったのです。

そこで、若くて勢いのある浅井長政を味方につけて、美濃国みののくに近江国おうみのくにを友好的な関係にしようと考えました。

こういった背景があり、信長は妹のお市を浅井長政に(とつ)がせたのです。

実父・浅井長政が叔父・織田信長に滅ぼされる

浅井長政の協力もあり、信長は1568年に上洛じょうらく(京に上ること)を果たしますが、1570年に対立し、姉川の戦いで信長と長政は激突(げきとつ)します。

その後も信長と争い続けた浅井長政は、1573年の小谷城の戦いで居城を()められて自害し、浅井氏は滅亡(めつぼう)しました。

お市の方と浅井三姉妹も小谷城にいましたが、落城寸前に織田家臣・藤掛永勝が救出し、信長のもとに送り届けました。

このとき、
長女・茶々5歳。
次女・初4歳。
三女・江1歳。

これより10年ほど、お市の方と浅井三姉妹は織田信長の庇護ひごを受けて過ごします。

養父・柴田勝家が豊臣秀吉に敗れる

1582年の本能寺の変で織田信長が亡くなると、お市の方は織田家の筆頭宿老である柴田勝家と再婚(さいこん)。勝家を(たよ)って、3人の(むすめ)と共に越前国えちぜんのくにに移ります。

しかし、10か月ほど経ったころ、勝家は同じ織田家臣の豊臣秀吉と対立し、1583年に賤ヶ岳しずがたけの戦いに敗れてしまいます。

居城の北ノ庄城(きたのしょうじょう)を攻められた勝家とお市の方は自害。

両親を失った浅井三姉妹は、秀吉に引き取られました。

このとき、
長女・茶々15歳。
次女・初14歳。
三女・江11歳。

秀吉のもとで成長した(ひめ)たちは、やがて天下をめぐる豊臣氏と徳川氏の渦中(かちゅう)数奇(すうき)な運命を辿たどってゆきます。

浅井三姉妹の長女=茶々

1569年(永禄12年)生まれ。
滋賀県長浜市の出身です。
お市の方が23歳のときの娘です。

長女『茶々』の読み方は(ちゃちゃ)です。

茶々の本名は『浅井菊子(きくこ)』。豊臣秀吉の側室となり『淀殿よどどの』や『よどの方』と呼ばれるようになります。

茶々が生まれたのは、叔父(おじ)・織田信長が足利義昭を(ほう)じて上洛じょうらくした翌年のこと。このころから信長は急速に勢力を()ばします。

信長の死後、茶々は豊臣秀吉の側室になります。茶々20歳、秀吉52歳。32歳差での輿こし入れでした。

淀殿が爆誕、大坂城の主人となる

淀殿=茶々は豊臣家を牛耳った

茶々は秀吉待望の男子・すてを出産。狂喜(きょうき)した秀吉から山城国やましろのくに淀城よどじょう(あた)えられ、これを機に『淀殿よどどの』と呼ばれます。

すては幼いうちに亡くなってしまいますが、それからまもなく淀殿よどどのひろいを産みます。

すでに晩年を(むか)えていた秀吉はわずか4歳のひろいを元服させます。(ひろい)は名を豊臣秀頼と改め、天下人の地位を()ぎました。

政治経験がない淀殿よどどのでしたが、幼い秀頼を後見し、女だてらに大坂城主のように()()います。

しかし、豊臣家臣であった徳川家康が征夷大将軍せいいたいしょうぐんになると主従が逆転します。

時勢を受け入れられなかった淀殿よどどのは、直感的かつ感情的に家康に対抗(たいこう)しました。

長女・茶々の最後

やがて徳川家との衝突(ちょうとつ)()けられなくなり、大坂城を()められます。1615年6月4日、大坂夏の(じん)で茶々は秀頼とともに自害しました。享年47歳。

三女・江は徳川秀忠に(とつ)いでおり、大坂城が落城した際には淀殿よどどのと秀頼の助命が嘆願たんがんされましたが、秀忠がこれを許さず切腹を命じます。

淀殿よどどのは秀頼を連れて城内を()げ回り、焼け残った蔵で最後を(ひむか)えました。

大坂城が落城した日、燃え上がる(ほのお)に照らされた夜空は赤く染まり、京都からもこの様子が見て取れたといいます。

浅井三姉妹の次女=初

1570年(永禄13年)生まれ。
滋賀県長浜市の出身です。
長女・茶々の1歳下です。
お市の方が24歳のときの娘です。

次女『』の読み方は(はつ)です。

幼名は『御鐺おなつ』または『於那おなつ』。夫・京極高次が亡くなると出家して『常高院』を名乗りました。

初が生まれたのは、父・浅井長政と叔父(おじ)・織田信長が明確な対立関係になったころでした。

浅井家の主筋にあたるかつての名門・京極家に嫁入(よめい)りし、18歳のときに従兄いとこ・京極高次の正室になりました。

豊臣氏と徳川氏をつなぐ絆となる

常高院=初は豊臣氏と徳川氏を取り持った

夫に先立たれ、出家して『常高院』と名乗るようになった初は、対立が表面化してきた豊臣家と徳川家のあいだを取り持つ役をします。

豊臣家には姉・茶々がおり、徳川家には妹・江がいました。

徳川家康による大坂城()めが始まると、常高院は豊臣氏の使者として徳川方の阿茶局あちゃのつぼねとの和議に尽力(じんりょく)しました。

結局、両者の和議は反故ほごとなり、徳川氏によって豊臣氏は(ほろ)ぼされてしまいます。

次女・初の最後

晩年は妹の江と頻繁(ひんぱん)に会うなど静かに過ごし、1633年9月30日に京極忠高の江戸屋敷(やしき)で初は亡くなりました。享年64歳。浅井三姉妹で一番長生きしています。

初に子どもはいませんでしたが、夫・高次をよく支え、大津城の戦いなどの困難も共にし、京極家を大名として復活させました。

浅井三姉妹の三女=江

1573年(天正元年)生まれ。
滋賀県長浜市の出身です。
長女・茶々の4歳下、次女・初の3歳下です。
お市の方が27歳のときの娘です。

三女『』の読み方は(ごう)です。

江は『小督おごう』『於江与之方おえよのかた』『江子』とも書きます。
いみなは『浅井達子』。死後、戒名(かいみょう)の『崇源院殿昌誉和興仁清』から『崇源院(すうげんいん)』と呼ばれます。

江が生まれたのは、実家である浅井氏が滅亡(めつぼう)した年でした。

12歳で佐治一成のもとに(とつ)ぎますが政情の変化によりすぐに離縁(りえん)させられ、秀吉のおい・豊臣秀勝と再婚(さいこん)します。秀勝とはほどなくして死別しました。

三度目となる結婚(けっこん)で、23歳のときに徳川家康の三男・徳川秀忠(とつ)ぎます。

将軍の妻と母、天皇の祖母となる

崇源院=江は徳川将軍家の母となった

夫・秀忠は、家康の(あと)をついで徳川2代将軍になります。

江は将軍の妻である御台所みだいどころとなり、秀忠とのあいだに次代将軍の徳川家光をふくむ、2男5女を授かりました。

徳川家が豊臣家との対立を表面化させていくにつれ、しゅうと・徳川家康と姉・淀殿よどどの衝突(しょうとつ)()けられなくなり、ついに徳川氏による大坂城()めが行われます。

大坂城落城により淀殿よどどのは自害。江は淀殿よどどのが父・浅井長政の供養のために建てた養源院で、姉とおい・秀頼の菩提ぼだいとむらいました。

その後、江戸幕府による支配体制を強める徳川秀忠によって、五女・和子まさこ後水尾ごみずのお天皇の中宮ちゅうぐうとして入内じゅだいします。

和子まさこ後水尾ごみずのお天皇とのあいだに明正めいしょう天皇を授かり、江は天皇の生母の母=祖母となりました。

三女・江の最後

1626年11月3日に江戸城の西の丸で江は亡くなりました。享年54歳。

豊臣秀勝とのあいだに生まれた女子(完子)は、徳川家に(とつ)ぐにあたって豊臣家の姉・茶々に引き取られています。豊臣家が(ほろ)びたのちは、徳川秀忠の養女として(むか)えられました。

三女・勝姫および秀勝との(むすめ)・完子の血筋は、大正天皇の皇后・貞明(ていめい)皇后となる九条節子へとつながれ、昭和天皇の先祖となります。

浅井三姉妹の父たち

浅井長政のイラスト
浅井長政のハナシを読む

浅井長政(賢政)は、現在の滋賀県にあたる近江国の武将・大名です。六角義賢に支配されていた父を隠居させて、六角氏から浅井氏を独立させました。織田信長の妹・市と結婚して同盟を結びますが、朝倉氏との関係を優先します。浅井&朝倉の連合軍で、信長を相手に何度も戦いますが、敗れて自害しました。享年29。

実父・浅井長政は、北近江きたおうみの大名です。琵琶湖(びわこ)の北東に位置する小谷城が居城でした。

信長の妹・お市を妻に(むか)え、織田信長と同盟します。

信長のパートナーとして期待されますが、祖父が世話になった朝倉氏を信長が()めたことで決別しました。

柴田勝家のイラスト
柴田勝家のハナシを読む

柴田勝家は、現在の愛知県西部にあたる尾張国の武将です。織田四天王のひとり。はじめ、信長の弟・信行に仕えます。信長と争い、敗れたのち家来になります。先鋒隊で抜群の強さを発揮し、出陣した多くの戦で先陣をつとめました。信長の死後、羽柴秀吉との権力争いに敗れて妻・市とともに自害しました。享年62。

養父・柴田勝家は、織田信長の筆頭宿老です。越前国えちぜんのくに北ノ庄城(きたのしょうじょう)が居城でした。

落城する北ノ庄城(きたのしょうじょう)から浅井三姉妹を(にが)し、お市の方と最後を共にします。

本能寺の変で織田信長が横死おうししたのち、織田家の実権を(にぎ)らんとする豊臣秀吉に対抗(たいこう)しました。

豊臣秀吉のイラスト
豊臣秀吉のハナシを読む

豊臣秀吉(羽柴秀吉、木下藤吉郎)は、現在の愛知県西部にあたる尾張国の武将・大名です。貧しい身分の出ですが、織田信長のもとで頭角を現し、出世していきました。信長の死後、巧みな手腕で全国の大名を従えていき、天下統一を果たします。天皇に次いで身分が高い、関白・太政大臣まで上りつめました。享年62。

養父・豊臣秀吉は、織田信長の死後に天下統一をした天下人です。摂津国せっつのくに・大坂城が居城でした。

浅井長政の小谷城を()めたのも、柴田勝家の北ノ庄城(きたのしょうじょう)を落城させたのも秀吉でした。

つまり、浅井三姉妹にとってかたきのような存在です。

浅井三姉妹を養女とした秀吉は、長女・茶々を側室にします。
三女・江を政略結婚(けっこん)に利用し、徳川氏の懐柔(かいじゅう)を強めました。

秀吉は、跡取(あとと)りとなる豊臣秀頼を産んだ茶々を異常なほど溺愛(できあい)しました。

徳川家康のイラスト
徳川家康のハナシを読む

徳川家康(松平元康)は、現在の愛知県東部にあたる三河国の武将・大名です。今川氏の人質から独立すると織田信長とともに天下統一を目指し、信長の死後は豊臣秀吉のもとで国家運営に携わります。秀吉の死後、征夷大将軍に就任して江戸幕府を開き、泰平の世が260年つづく江戸時代の開祖となりました。享年74。

徳川家康は、豊臣秀吉の没後(ぼつご)に江戸幕府をひらいた開祖で、三女・江を徳川秀忠の妻に(むか)えた義父です。武蔵国むさしのくに・江戸城が居城でした。

秀吉の存命時は豊臣家臣だった家康でしたが、秀吉が亡くなると征夷大将軍せいいたいしょうぐんに就任し、天下を治めました。

江にとってしゅうとである家康は、反乱分子となった豊臣氏を天下泰平(てんかたいへい)のために討伐(とうばつ)することを決めます。それは茶々と豊臣秀頼を()(ほろ)ぼすことであり、姉妹は敵同士となってしまいました。

浅井三姉妹が経験した戦い

小谷城の戦い おだにじょうのたたかい 1573.9.4 〜 9.26 ○ 織田軍3万 vs 浅井軍5千 ●

信長に叛いた浅井長政を殲滅するべく、織田信長が小谷城(滋賀県長浜市湖北町)を攻めた合戦。小谷山を要害とした堅城を攻略するため、織田軍の木下秀吉は、城内を分断する作戦を実行する。崖を登って奇襲に成功し、小谷城を陥落させた。これにより、浅井氏は滅亡した。

叔父(おじ)・織田信長に()められ、生まれ育った小谷城が落城しました。

茶々、初、江の3人とも、小谷城でこの戦いを経験しています。実父・浅井長政を亡くしました。

賤ヶ岳の戦い しずがたけのたたかい 1583.6.6 〜 6.13 ○ 羽柴軍5万 vs 柴田軍3万 ●

信長亡きあと、織田家の掌握を狙う羽柴秀吉と、家中を二分していた柴田勝家が賤ヶ岳(滋賀県長浜市)付近で展開した戦い。前田利家の戦線離脱によって、柴田軍は潰走。勢いづく秀吉に北ノ庄城を攻められ落城した。秀吉子飼いの福島正則ら若手武将が活躍した。

豊臣秀吉に攻められ、移り住んだ北ノ庄城(きたのしょうじょう)が落城しました。

茶々、初、江の3人とも、北ノ庄城(きたのしょうじょう)でこの戦いを経験しています。実母・お市の方と養父・柴田勝家を亡くしました。

大坂冬の陣 おおさかふゆのじん 1614.12.19 〜 1615.1.19 △ 徳川幕府軍20万 vs 豊臣軍9万 △

方広寺鐘銘事件を発端に、徳川氏と豊臣氏がついに衝突。徳川家康は20万の大軍で大坂城(大阪府大阪市中央区)に迫った。豊臣秀頼は牢人を集めて籠城。真田幸村が考案した真田丸で徳川勢を撃退した。しかし、徳川軍の大砲の威力を前に、豊臣氏は和睦を申しでた。

徳川家康が大坂城を()めますが、一旦(いったん)は和議を結びます。

茶々と初が大坂城でこの戦いを経験しています。初は豊臣方の使者として和平交渉(こうしょう)を成立させました。

大坂夏の陣 おおさかなつのじん 1615.5.23 〜 6.4 ○ 徳川幕府軍16万5千 vs 豊臣軍5万5千 ●

大坂冬の陣から半年後、徳川家康による豊臣氏の殲滅戦。大坂城付近(大阪府藤井寺市、阿倍野区など)で激しい局地戦が行われた。毛利勝永が奮闘し、徳川本陣に真田幸村が決死の突撃をしたが、数で勝る徳川軍が押し切った。大坂城は落城。豊臣秀頼は出陣の機会なく自害した。

茶々(淀殿よどどの)が女城主をつとめていた大坂城が落城しました。

茶々と初が大坂城でこの戦いを経験しています。総攻撃(そうこうげき)が行われる直前、初は徳川方によって救出されました。茶々は子・秀頼と自害しています。

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