清洲会議ってなに?わかりやすく相関図で見る立ち位置と思惑

織田信長が本能寺の変で横死した織田家では、羽柴秀吉、柴田勝家など4人の重臣たちによって後継者を決める『清洲会議』が開かれます。参加メンバーには思惑があり、織田家ひいては信長亡き後の天下に野望を馳せる者も。誰がどうやって清洲会議の主導権を握ったのか?相関図と合わせて清洲会議をみてみましょう。
清洲会議が行われた目的と意味
『清洲会議』は天正10年6月27日(1582年7月12日)に尾張国・清洲城で開かれた会議のことです。当時は清須城と表記したため、”清須会議” ともされています。
死亡した信長の後継者選びと遺領の再配分を目的として、織田家の重臣4名(柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉、池田恒興)が清洲城に集まりました。
清洲会議が行われる25日前、天正10年6月2日(1582年6月21日)に織田信長が明智光秀に襲撃される『本能寺の変』が起こります。
京・本能寺に宿泊していた信長は寝込みを襲われて自害し、信長の長男・信忠も二条御新造を襲撃されて自害しました。

本能寺の変によって、織田家の当主が不在となってしまったのです。
このころの信長はまさに天下統一を目前としていました。
その信長が家臣の明智光秀の謀反によって横死してしまったのだから、織田家はおろか全国の大名にも衝撃が走りました。
一刻も早く家中の体制を整えなければ、反織田勢力が一斉に挙兵する緊張感がありました。
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本能寺の変
その時、彼らは
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このころの織田家臣団は方面軍を結成し、天下統一へ向けて地方平定に従事していました。そのため、本能寺がある京には重臣たちはいませんでした。

真っ先に京に駆けつけたのは中国方面軍を率いていた羽柴秀吉で、本能寺の変が起こった11日後の6月13日に山崎の戦いで明智光秀をやぶり、主君・信長の仇を討ちました。
この時、本能寺から一番近い場所に居たのは丹羽長秀でしたが、行動が遅れ、秀吉に先を越されてしまいます。
長秀は秀吉の部隊に合流して明智軍と戦いました。池田恒興もこれに加わっています。
秀吉から「丹羽様、宿老であるあなた様が指揮をお執りくださいませ」と伝えられた長秀は「……ここまで陣を整えたのはお主であるから、指揮もお主が執るべきだ」と返答します。
長秀の実直な性格を知っていた秀吉は ”丹羽長秀が指揮を譲る” ように仕向けて、主君の仇討ちの手柄を自分のものにしたのです。
一方、柴田勝家は北陸地方で上杉氏と交戦中で動けずにいました。清洲会議のメンバーのなかで、信長の弔い合戦に参加していないのは、柴田勝家だけでした。
このような経緯から、清洲会議が開かれます。
秀吉の独壇場になったとする通説
『川角太閤記』によると、清洲会議に重臣たちを招集したのは柴田勝家でした。
織田家の宿老であり、信長に次ぐ実力者であった勝家は、同じく宿老の丹羽長秀と山崎の戦いで功を挙げた羽柴秀吉、池田恒興を呼びます。
信長の嫡男である長男・織田信忠も本能寺の変で死亡していたため、次男・織田信雄と三男・織田信孝が後継者に名乗り出ました。
そこで、会議メンバーの重臣たちは「どちらを推すか?」という話になるのですが、ここで秀吉が仰天のトリックプレーを仕掛けます。

秀吉は、信長の嫡男・信忠の長男・三法師(幼児)を後継者に推挙します。
三法師は信長の嫡孫にあたるので、次男や三男よりも織田家を継ぐ道理にかなっているというのです。
これは盲点でした。
三法師を推す秀吉の提案に、三男・信孝を推していた柴田勝家と丹羽長秀は難色を示します。
しかし、勝家は信長の弔い合戦に不参加であり、長秀も秀吉に先を越されてしまった手前、いささか立場が弱い。
秀吉の言うように道理も通っているため、話し合いの結果、信長の後継者は三法師。織田信孝が後見することで議決されました。
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恐るべし
猿知恵
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さて、織田家の新当主をむかえるため、家臣一同が広間に座していると、なんと三法師を肩に抱いた秀吉が現れ「織田家当主になられた三法師様であるぞ。頭が高い」と平伏を求めます。

柴田勝家、丹羽長秀ら一同は驚きますが、しかたなく三法師を抱く羽柴秀吉に平伏しました。それは、まるで皆が秀吉に従うように見えました。
秀吉は、この少し前にひとりで三法師に近づき、おもちゃで遊んで懐かせておいたのです。
『多聞院日記』には ”大旨は羽柴のままの様になった”(超訳:秀吉の思いどおり)とあり、これが清洲会議の通説とされています。
清洲会議に参加したメンバーと相関図
清洲会議に関わった人物を相関図にまとめます。

清洲会議の席に臨んだのは、柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉、池田恒興の4人。
会議には参加していませんが、織田信長の後継者候補として、次男・織田信雄、三男・織田信孝、嫡孫・三法師。
映画『清須会議』では、個性豊かな俳優たちが織田家の面々を魅力的に演じています。
羽柴秀吉=狙うは天下
1537年(天文6年)生まれ。
愛知県名古屋市中村区の出身です。
46歳で清洲会議に参加。
信長に非凡な才覚を買われて、草履取りから大名にまで出世した成り上がり。
一夜で砦を築いた墨俣一夜城など、他人が考えもつかないような方法で手柄を立ててきました。
秀吉は、中国方面軍を率いて備中国で毛利輝元と交戦中に本能寺の変が起こります。わずか7日で200kmを走破した『中国大返し』で京に駆けつけ、明智光秀を討ちました。
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天下への
野心が芽生える
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信長の弔い合戦に乗り出した時点で、秀吉は天下への野心を抱いています。清洲会議は天下への第一歩であり、秀吉の思惑どおりに決着したといえます。
まだ3歳の三法師を当主にすればサポートが必要であり、少なくとも10年は誰かが実質的なトップを務めることになります。あるいは頃合いを見て幼君を下ろすことも。
清洲会議の決定において、居城である長浜城をあっさり勝家に譲渡するなど、聞き分けが良い一面を見せますが「あとで取り返せばいい」という算段がありました。
ちなみにこの頃の秀吉が名乗った「羽柴」とは、織田家のトップ2人(柴田勝家・丹羽長秀)から一字ずつもらったもの。これも先輩ふたりを敬うパフォーマンスでした。
柴田勝家=織田家の保守
1522年(大永2年)生まれ。
愛知県名古屋市名東区の出身です。
61歳で清洲会議に参加。
信長の父の代から織田氏に仕える最古参の年長者。
『かかれ柴田』の異名を持つ家中随一の猛将で、信長の合戦では常に先鋒を任されていました。
勝家は北陸方面軍を指揮しており、越中国で対峙する上杉景勝と緊張状態が続くなかで本能寺の変が起こります。京に向かう背後を上杉勢に攻められ、身動きが取れませんでした。
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織田家を守る
一心に尽きる
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私心のない勝家は織田家の保守のみを想っていました。第一方針が三男・信孝の擁立でしたが、結果的に織田家が守れるのであれば、三法師を補佐する案でも良しとしています。
意見対立した秀吉と勝家でしたが、清洲会議が終わった後、秀吉のお膳立てで勝家は信長の妹・市と結婚します。
丹羽長秀=落ち度が否めず
1535年(天文4年)生まれ。
愛知県名古屋市西区の出身です。
48歳で清洲会議に参加。
信長とは幼馴染で、信長の養女を妻とし、信長の娘を長男の嫁にもらうほど仲良し。
安土城の築城奉行を任されるなど、信長からの信頼が厚い知性派の重鎮です。
長秀は、織田信孝を補佐して四国征伐に向かうまさにその時に本能寺の変が起こります。本能寺のすぐ近くに居ましたが、初動にもたつき、秀吉に遅れをとります。
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弔い合戦の出遅れが
気後れにつながる
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織田信孝を伴って山崎の戦いに参戦しましたが、明智討伐の手柄は秀吉のもの。主君の仇を討った秀吉に対して、清洲会議でも遠慮がちになってしまいます。
池田恒興=勝ち馬に乗る
1536年(天文5年)生まれ。
愛知県名古屋市の出身です。
47歳で清洲会議に参加。
母が信長の乳母だったこともあって、信長と兄弟のように育った親友。
しかしながら、他の3人には功績が及ばず、古参の割に出世が遅れていました。
本能寺の変が起きたとき、いち早く秀吉に合流して明智光秀の討伐に加わりました。一隊を率いて光秀の本隊に奇襲をかけ、総崩れにする活躍をしています。
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今があるのは
秀吉のおかげ
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清洲会議に出席できなかった滝川一益の代理での選出ともいわれています。
明智討伐以降、秀吉の麾下に収まり、弔い合戦が評価されて昇格&清洲会議に参加しています。
清洲会議で決まったこと
清洲会議での決定事項は以下のとおりです。
・信長の後継者は三法師
・織田信孝が三法師を後見
・丹羽長秀、池田恒興が執権
・堀秀政が三法師の傅役
・信長の遺領は再配分
後継者選びに加えて、織田信長の遺領の再配分は、織田家を支える家臣団の力関係を整えるうえで重要な議題でした。
織田家の領地の再配分
尾張国は次男・信雄、美濃国は三男・信孝、そして本拠地である南近江・安土城は三法師が引き継ぎます。
清洲会議に参加した重臣4名の加増内容がこちら。
・柴田勝家 … 12万石アップ
・丹羽長秀 … 15万石アップ
・池田恒興 … 15万石アップ
・羽柴秀吉 … 28万石アップ
柴田勝家は越前国にプラス秀吉の領地であった北近江3郡と長浜城を得ます。
丹羽長秀は若狭国にプラス北近江2郡、池田恒興には摂津国3郡が加増されました。
羽柴秀吉には新たに政治と経済の中心地である山城国と河内国、明智光秀の領地だった丹波国が養子・秀勝に与えられ、筆頭宿老の柴田勝家を上回る石高となりました。
やはり主君の仇を討ったという秀吉の功績は絶大でした。
織田家中ではこれまで筆頭だった勝家の影響が弱まり、秀吉が発言力を増していくことになります。
蚊帳の外に置かれてしまった人
信長が1582年に滅ぼした武田氏の遺領(信濃国、甲斐国)問題は、徳川家康が預かります。
家康は、清洲会議に参加した重臣たちに武田遺領を平定する許可を求め、秀吉らはこれを認めました。
しかし、これは信長から関東御取次役に任じられていた滝川一益の管轄であり、一益は反乱を起こした北条方の鎮圧に四苦八苦しているうちに勝手に決められてしまったことを不満に思います。
また、後継者候補から外れた信雄と信孝も、尾張と美濃で隣接する国境をめぐってトラブルになり、信雄が勝訴したことで信孝の不満が高まります。
じつは最初から後継者は三法師で決まっていた?
嫡男とは、正室が生んだ最初の男子のことで、通常はこの子が家督を継ぎます。
信長と正室のあいだには子がいなかったため、側室が生んだ信忠を嫡男としました。
信忠はすでに信長から家督を継いでおり、その信忠になにかあった場合は、信忠の嫡男・三法師が継ぐことは当然でした。
そもそも、清洲城で会議が行われた理由も三法師がそこに居たからと言われています。
清洲会議の議題は、3歳の三法師が成人するまで名代を置くかどうかであり、信雄と信孝が対立したのは、”後継者ではなく名代を争った” と考えられます。
結局、ふたりとも単独で名代を務める賛同が得られず、信雄・信孝は後見人、羽柴秀吉ら重臣を執権とする体制に、協力者として徳川家康を加えて補佐していくことになったとする説があります。
清洲会議のその後
清洲会議をパーフェクトゲームで終わらせた秀吉は、織田家を乗っ取るための行動をつぎつぎと起こします。
秀吉は三法師の傅役となった堀秀政を抱き込むと、執権を務める丹羽長秀と池田恒興の両名を自分の派閥に加えます。
柴田勝家の排除に取り掛かるためです。
一方で、秀吉の動きを危惧した織田信孝は柴田勝家に相談し、反秀吉派を組織します。
勝家は、秀吉が清洲会議での決定に違反しているとして、諸大名に弾劾状を送りました。
清洲会議に参加できなかった滝川一益も反秀吉派に加わり、織田家では内部対立が表面化していきます。
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清洲会議?
んなもん知らん
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天正10年10月11日(1582年11月6日)から5日間、京・大徳寺で秀吉は信長の葬儀を行います。
秀吉の養子で信長の四男・羽柴秀勝を喪主とし、自身は信長の位牌を持って ”信長の志を継ぐ者” であることを世間にアピールしました。
信長の葬儀には、勝家や信孝をはじめ反秀吉派はおろか、三法師も呼ばれませんでした。
葬儀の後で秀吉は、丹羽長秀と池田恒興と協議して、織田信雄を織田家名代にします。徳川家康もこれに賛同し、清洲会議での決定はここに覆されました。
羽柴秀吉の天下取りがはじまる
三法師は、後見を務める織田信孝の岐阜城に引き取られたのち、安土城に移るというのが清洲会議の決定事項でしたが、これは信孝が履行せずにいました。
秀吉はこれを理由に信孝に謀反の嫌疑をかけて討伐を目論みます。
これに対抗するため、滝川一益、柴田勝家が反秀吉の挙兵をしますが、1583年の賤ヶ岳の戦いで秀吉に敗れます。
秀吉は、岐阜城を攻めて織田信孝を降すと、織田信雄に命じて信孝を切腹させました。
三法師を保護した信雄が安土城に入ると、秀吉は信雄が後見することを良しとせずこれを追放し、憤慨した信雄が挙兵するに至ります。
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1584年の小牧・長久手の戦いで織田信雄と争い、和議を結んだ秀吉は織田直轄領を大幅に縮小し、領土の再編成を行います。
これにより主従が逆転し、織田家は秀吉の支配下となりました。
のちに関白・豊臣秀吉となる羽柴秀吉は、こうして巨大な独立勢力となり、天下取りへ乗り出すのです。
三法師はどうなった?
9歳で元服した三法師は、秀吉から一字もらって織田秀信と名乗ります。
1593年に秀吉の甥・豊臣秀勝が亡くなると美濃国・岐阜城13万石を継承しました。その際、秀勝の養子になったともされます。
羽柴姓を与えられ、秀吉の存命中は豊臣一門に従い、秀吉の没後に起こる1600年の関ヶ原の戦いでは西軍に与して徳川家康と戦い、敗れました。
家康によって改易され、高野山に放逐されますが、祖父・信長が行った紀州征伐を恨みに思う僧たちにいじめられ、1605年に26歳で生涯を閉じました。


