おだ のぶたか

織田信孝

1558.4.22 〜 1583.6.19

 
織田信孝の面白いイラスト
  

織田信孝(神戸信孝)は、現在の愛知県西部にあたる尾張国の武将です。父・信長の北伊勢支配のため、神戸具盛の養嗣子となりました。各地を転戦したのち、四国征伐の指揮官を任されますが、本能寺で父が討たれて立ち消えます。織田家の後継を兄・信雄と競いますが、台頭した羽柴秀吉に敗れました。享年26。

織田信孝は何をした人?このページは、織田信孝のハイライトになった出来事をなるべく正しく、独特の表現で紹介しています。きっと織田信孝が好きになる「報いを待てや羽柴筑前。信長の三男は無念の切腹をした」ハナシをお楽しみください。

  • 名 前:神戸信孝 → 織田信孝
  • 幼 名:勘八
  • 官 位:従五位下、侍従
  • 出身地:尾張国(愛知県)
  • 領 地:美濃国、伊勢国
  • 居 城:亀山城 → 神戸城 → 岐阜城
  • 正 室:鈴与姫(神戸具盛の娘)
  • 子ども:1女?
  • 父と母:織田信長 / 坂氏
  • 養 父:神戸具盛
  • 大 名:織田信長

報いを待てや羽柴筑前。信長の三男は無念の切腹をした

織田信長の三男に生まれた織田信孝は、信長亡き後の織田家の動乱を象徴(しょうちょう)している人物です。

信長の長男・信忠を補佐する役目として期待を集め、将来が楽しみなホープでしたが、豊臣秀吉によって非業の死を()げています。

1582年6月、明智光秀が謀反(むほん)を起こした本能寺の変で、織田信長と長男・信忠が死亡。
次男・織田信雄と三男・織田信孝を候補とした後継者(こうけいしゃ)えらびが重臣たちによって行われます。

ところが、この『清洲(きよす)会議』で後継者(こうけいしゃ)に選ばれたのは信長の孫・三法師でした。

織田信孝は三法師の後見=世話役になりました。


秀吉の企みに
柴田勝家と対抗する

しばらくすると、家臣の羽柴(豊臣)秀吉がなにやら悪い(たくら)みをします。

秀吉は父の(かたき)を討った功労者でしたが、幼い三法師を当主にするなど、どうやら織田家を乗っ取るつもりのようです。

織田信孝は、筆頭家臣の柴田勝家と連絡(れんらく)をとって秀吉に織田家が乗っ取られるのを防ごうとします。

すると、この動きを察した秀吉から「後見の織田信孝が三法師様を我がものにしている」と(うった)えられ、謀反(むほん)の疑いをかけられてしまいます。

雪国を本拠地(ほんきょち)としている柴田勝家が兵を動かせない12月、秀吉は援軍(えんぐん)が得られない織田信孝の岐阜城に()めてきました。

どうすることもできず、織田信孝は降参しました。


秀吉の思うつぼに
はまってしまう

1583年1月、柴田勝家が秀吉打倒(だとう)の兵を挙げます。ここに織田信孝も立ち上がりました。

しかし、すでに家中の多くを味方につけていた秀吉は賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いを有利にすすめ、柴田勝家を()(ほろ)ぼします。

秀吉には、この挙兵を利用して反対派を一掃(いっそう)するねらいがあったのです。

秀吉が新たに織田家当主とした兄・信雄の軍勢が、織田信孝の岐阜城に()し寄せます。兄の説得で織田信孝は再び降伏(こうふく)しました。

織田信孝は野間に送られますが、その道中、秀吉によって母が(はりつけ)にされたことを耳にします。そして、秀吉にプレッシャーをかけられた兄・信雄から切腹を言い(わた)されました。

このとき、織田信孝がしたためた辞世の句には、秀吉への(いか)りがこめられていました。

昔より 主を内海の野間なれば 報いを待てや 羽柴筑前(ちくぜん)
(昔より内海の野間は主君を討つ故事が残る場所だが、羽柴秀吉お前にも報いがあるからな)

羽柴筑前(ちくぜん)とは、羽柴筑前守(ちくぜんのかみ)秀吉のこと。
野間という場所は、源頼朝の父・源義朝が、家人(けにん)の長田父子に(だま)し討ちにされた地であり、この父子が後に処刑(しょけい)されていることにかけています。

織田家の候補者(こうけいしゃ)候補から急転し、謀反人(むほんにん)とされた織田信孝が切腹したのは本能寺の変から1年後でした。

激しい(いきどおり)りのなかで、織田信孝は腹をかき切って腸をつかみ出し、(とこ)の間の()(じく)に臓物を投げつける壮絶(そうぜつ)な最後でした。

生涯を簡単に振り返る

生まれと出自

1558年、織田信孝は尾張国(おわりのくに)・熱田に織田信長の三男として生まれます。伊勢国(いせのくに)の国人領主・神戸具盛の養子として送りこまれ、父による北伊勢(いせ)支配を担いました。神戸氏を()ぐと旧臣たちを粛清(しゅくせい)し、残った従者たち『神戸四百八十人衆(かんべよんひゃくはちじゅうにんしゅう)』を家臣としました。

四国征伐に抜擢されるが…

父から織田家を()いだ長兄・信忠に従って一向一揆(いっこういっき)との戦いなどで功をあげ、四国征伐軍(せいばつぐん)の指揮官に大抜擢(だいばってき)されますが、父と長兄が本能寺の変で横死(おうし)し、それどころではなくなります。

最後と死因

次兄・信雄と相続問題で()め、信雄を支援する豊臣秀吉に対して柴田勝家と協力しますが、勝家が秀吉に敗れたため降伏(こうふく)切腹を命じられた織田信孝は尾張国(おわりのくに)・野間の内海大御堂寺(おおみどうじ)で腹を切りました。1583年6月19日、死因は自害。26歳でした。腸をつかんで投げたといいます。

領地と居城

織田信孝の領地・勢力図(1583年)

清洲会議で相続が決まった美濃国(みののくに)が織田信孝の領地でした。兄・信雄の尾張国(おわりのくに)とお(となり)同士で相続しましたが、国境問題でも折り合いが悪くなってしまいました。

織田信孝の性格と人物像

織田信孝は「カタストロフィな人」です。

突如(とつじょ)として表舞台(おもてぶたい)急浮上(きゅうふじょう)したシンデレラボーイですが、クライマックスで急転し、予想外の大破局をしてしまいます。

イエズス会の宣教師との親交が深く、ルイス=フロイスは「頭が良く(だれ)に対しても礼儀(れいぎ)正しい」と信孝を評していました。

キリスト教に興味があり、ロザリオを持ち歩くなど傾倒(けいとう)していますが、父・信長の反応が(こわ)くて洗礼は受けていません。かわりに数人の家臣を説得してキリシタンに改宗させています。

じつは、異母兄(いぼけい)・信雄よりも20日はやく生まれていました。しかし、信孝は母の身分が低かったため、後から生まれた信雄が次男とされました。

出生時のことを根に持って信雄を敵視していたという俗説がありますが、実際はそんなことありません。

弌剣平天下(いっけんへいてん)(けん)ひと()りで天下を平らげるという意味の印判を用いました。父が(かかげ)げた「天下布武(てんかふぶ)」のスローガンに類似しており、気概(きがい)の強さが見て取れます。

信孝が無念の切腹をしたときの物とされる短刀と、飛び散った血痕(けっこん)が残る梅の()(じく)が伝わっています。

能力を表すとこんな感じ

織田信孝の能力チャート

人格者であった織田信孝は、家中の人望も厚い期待の星でした。しかしながらズル(がしこ)さがなく、根回しの悪さからはずれくじを引いてしまいました。

能力チャートは『信長の野望』シリーズに登場する織田信孝の能力値を参考にしています。東大教授が戦国武将の能力を数値化した『戦国武将の解剖図鑑』もおすすめです。

織田信孝の有名な戦い

山崎の戦い やまざきのたたかい 1582.7.2 ○ 羽柴軍4万 vs 明智軍1万6千 ●

本能寺で織田信長を討った明智光秀と駆けつけた羽柴秀吉が山崎(京都府長岡京市)で激突した合戦。天王山の戦いとも呼ばれる。秀吉は中国地方で毛利氏と交戦中だったが、これを停戦し、急行した。予想外の速さで現れた羽柴軍に明智軍は劣勢となり、敗走した。

山崎の戦いで織田信孝は勝っています。

本能寺の変が起こった当時、大坂にいた信孝は4千を連れて羽柴軍に合流します。名目上の総大将として参戦し、右翼(うよく)一隊を率いました。

賤ヶ岳の戦い しずがたけのたたかい 1583.6.6 〜 6.13 ○ 羽柴軍5万 vs 柴田軍3万 ●

信長亡きあと、織田家の掌握を狙う羽柴秀吉と、家中を二分していた柴田勝家が賤ヶ岳(滋賀県長浜市)付近で展開した戦い。前田利家の戦線離脱によって、柴田軍は潰走。勢いづく秀吉に北ノ庄城を攻められ落城した。秀吉子飼いの福島正則ら若手武将が活躍した。

賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いで織田信孝は敗れています。

織田信孝のターニングポイントになった戦いです。
一旦(いったん)は羽柴秀吉に降りますが、柴田勝家の動きに呼応して岐阜城で挙兵します。しかし、勝家の敗戦を受けて降伏(こうふく)。これにより、織田家で秀吉に対抗(たいこう)できる者はいなくなりました。

織田信孝の詳しい年表と出来事

織田信孝は西暦(せいれき)1558年〜1583年(永禄(えいろく)元年〜天正(てんしょう)11年)まで生存しました。戦国時代後期に活躍(かつやく)した武将です。

15581織田信長の三男として尾張国に生まれる。幼名:勘八
156811神戸具盛の養嗣子になる。
157013父・信長が養父・具盛を近江国・日野城に幽閉する。
養父・神戸具盛の隠居により家督を相続。
改名 → 神戸(三七郎)信孝
157114神戸氏の旧臣を粛清。120人を追放する。
父・信長の命令で検地を行う。【神戸検地】
157316織田信長から伊勢国・亀山城を拝領する。
伊勢国・亀山城を居城にする。
157417”第3次長島一向一揆”初陣。一向宗門徒の殲滅戦に参加。
157518”越前一向一揆”一向宗門徒の殲滅戦に参加。
157619兄・北畠信意(織田信雄)が北畠具教を殺害。連携して出陣する。【三瀬の変】
157720”第1次紀州征伐”雑賀衆との戦に参加。
侍従に就任。
158023禁裏と交渉をする村井貞勝を補佐する。
伊勢国・神戸城を改築、居城にする。
158124京都で行われた軍事パレードに参加。【京都御馬揃え】
”高野山制圧戦”高野山の殲滅戦に参加。
武田氏から離反する木曾義昌を取次ぐ。
158225織田信長から丹羽長秀と四国地方の平定を任じられる。
四国征伐に備えて伊勢国ほか、伊賀衆、甲賀衆、雑賀衆など大動員する。摂津国に着陣。
父・織田信長と兄・織田信忠が死亡。【本能寺の変】
織田信長を討った明智光秀の娘婿・津田信澄を共謀者として殺害する。
”山崎の戦い”羽柴秀吉の指揮下で明智光秀との戦に参加。出遅れる。
復姓 → 織田信孝
清洲城で柴田勝家、丹羽長秀、羽柴(豊臣)秀吉、池田恒興の4人で会議を行う。兄・信雄と次代を競うが、三法師(信長の孫)が後継者となる。【清洲会議】
美濃国を相続。
美濃国・岐阜城を居城にする。
岐阜城で三法師を後見する。
羽柴秀吉、丹羽長秀、池田恒興の3人が談合を行い、清洲会議の決定を反故する。兄・信雄が織田家当主に擁立される。
柴田勝家、滝川一益と結託して羽柴秀吉に対抗する。
羽柴秀吉に岐阜城を包囲され降伏。三法師を渡す。
森長可、稲葉良通、氏家行広、岡本良勝、斎藤利堯が離反する。
158326”賤ヶ岳の戦い”柴田勝家に呼応して挙兵。柴田勝家が羽柴秀吉に敗れる。兄・信雄に岐阜城を包囲され開城降伏する。
捕われて移送中に尾張国・野間で自害。
戦国時代で織田信孝が生きた期間の表
織田信孝の顔イラスト
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