やまなか しかのすけ

山中鹿介

1545.9.20 〜 1578.8.20

 
山中鹿介の面白いイラスト
  

山中鹿介(鹿之助、幸盛)は、現在の島根県東部にあたる出雲国の武将です。毛利氏に滅ぼされた主家である尼子氏の再興を悲願とし、尼子勝久を旗手に有志を募ってゲリラ戦を展開。出雲国の奪還を目指して孤軍奮闘し、毛利輝元を苦しめました。武勇に優れた豪傑で知られ、一騎討ちの逸話も多く残っています。享年34。

山中鹿介は何をした人?このページは、山中鹿介のハイライトになった出来事をなるべく正しく、独特の表現で紹介しています。きっと山中鹿介が好きになる「我に七難八苦を与えたまえ。尼子氏の再興に命を捧げた」ハナシをお楽しみください。

  • 名 前:山中幸盛
  • 別 名:鹿介、鹿助、鹿之介、鹿之助、亀井甚次郎
  • 幼 名:甚次郎
  • あだ名:山陰の麒麟児
  • 出身地:出雲国(島根県)
  • 居 城:末次城
  • 正 室:亀井秀綱の娘
  • 子ども:2男 1女 1養
  • 父と母:山中満幸 / なみ
  • 大 名:尼子義久 → 尼子勝久

我に七難八苦を与えたまえ。尼子氏の再興に命を捧げた

山中鹿介とは『尼子十勇士』『尼子三傑(さんけつ)』に数えられ、主家である尼子氏を取り(もど)すことに奔走(ほんそう)した悲運の武将です。

毛利氏に(ほろ)ぼされた尼子氏を復活させるためなら、どんな困難もいとわないとして「願わくば、我に七難八苦を(あた)えたまえ」と山中鹿介が三日月に(いの)ったのは有名な話です。

尼子氏の凋落(ちょうらく)は1561年に尼子晴久が急死したことに始まり、1566年に尼子義久が毛利氏に降伏(こうふく)し、(ほろ)びました。

ここから山中鹿介の挑戦(ちょうせん)がはじまります。


アマゴ
サイコー

尼子氏を(たお)した毛利氏は、中国地方の全域を支配下に置いていました。一方の山中鹿介は(あるじ)を失い、牢人(ろうにん)(無職フリーター)という立場でした。

牢人(ろうにん)の身なれど、()っくき毛利をぶっ(たお)して尼子氏を復活させることに執念(しゅうねん)を燃やします。

ところが、困ったことに尼子氏のシンボルとなる主君がいません。

降伏(こうふく)した義久は毛利氏に(つか)まったまま。その他の尼子血縁者(けつえんしゃ)は、先代の晴久が派手に粛清(しゅくせい)してしまい、生存者がいないのです。

山中鹿介は()うようにして尼子の血を探し出し、京で僧侶(そうりょ)になっていた尼子勝久を見つけます。勝久を説得し、1568年にこれを尼子再興の旗頭としました。

山中鹿介は尼子氏の血縁者から勝久を見つけた

そのころ、宿敵・毛利氏は大友氏を()めるために九州に(わた)ります。

これをチャンスとみた山中鹿介は「いっしょにアマゴを取り戻そう!仲間募集!」といった尼子再興のメッセージを発します。わずか5日間で3千人の同志が集まり、かつて尼子領だった出雲国(いずものくに)(うば)い返すゲリラ戦を1569年から開始します。

山中鹿介たちは16の城を()め落とし、出雲(いずも)の大半を尼子の名のもとに取り(もど)しました。

調子に乗った 勢いに乗った山中鹿介は、謀略(ぼうりゃく)をトッピングして毛利方の勢力を寝返(ねがえ)らせ、山陽地方にまで戦火をひろげました。ヒャッハー!

しかし、良かったのはここまで。

1570年の布部山の戦いに敗れると失速し、1571年の新山城の戦いで(つか)まります。が、赤痢(せきり)だと(うそ)をついて何度もトイレに行き、()げ出しました。

1576年からは織田信長を(たよ)り、再び毛利氏と戦うものの敗れて捕縛(ほばく)され、殺されてしまいます。

山中鹿介の悲願は成らず、ゲームオーバーとなりました。


品川大膳との
一騎討ち

少なくとも60以上の首級をあげている山中鹿介は、何度も一騎討(いっきう)ちをしています。なかでも品川大膳(だいぜん)将員との一騎討(いっきう)ちが有名です。

品川大膳(だいぜん)は全身を熊の毛で(おお)われた(けもの)のような大男。素手で(いのしし)の首をねじ切るほどの怪力(かいりき)猛者(もさ)です。山中鹿介は、有名な武士を討ち取って名を上げたい大膳(だいぜん)のターゲットにされます。

1565年の第2次月山富田城の戦いで、両軍が見守るなか、富田川の中洲(なかす)でふたりは一騎討(いっきう)ちをします。2時間ほど刀で()り合ったのち取っ組み合いになり、山中鹿介が腰刀(こしがたな)で品川大膳(だいぜん)脇腹(わきばら)()いて仕留めました。

大膳(だいぜん)の首を取った山中鹿介は、自軍に向かって「石見(いわみ)より出た(おおかみ)大膳(だいぜん))を出雲(いずも)の鹿が討ち取ったり!」と(さけ)び、尼子軍のボルテージは最高潮になったといいます。

戦国史に登場した期間は短く知名度もありませんが、山中鹿介とは、(はな)のある武士でした。

生涯を簡単に振り返る

生まれと出自

1545年、山中鹿介は出雲国(いずものくに)富田庄(とみたのしょう)に山中満幸の次男として生まれます。幼いうちに父を亡くし、貧しい母子家庭で育ちました。亀井秀綱の養子になりますが、病弱な兄に代わって山中家に(もど)りました。主君・尼子晴久が急死すると毛利氏が攻勢(こうせい)を強め、このころから活躍(かつやく)するようになります。

主家滅亡、再興を目指す

尼子義久が毛利氏に敗れて尼子氏はいったん(ほろ)びます。そこで、尼子勝久を擁立(ようりつ)して主家再興を目指し、毛利輝元に戦いを(いど)むようになりました。同志をあつめて奮闘(ふんとう)しますが、敗戦を()り返すようになり、畿内(きない)で勢いを増す織田信長を(たよ)りました。

最後と死因

信長の家臣である豊臣秀吉の指揮下に組み()まれ、播磨国(はりまのくに)・上月城の守備兵として毛利軍と戦いますが、織田氏の援軍(えんぐん)が得られずに孤立(こりつ)してしまいます。敗れて(とら)われ、移送される途中(とちゅう)、山中鹿介は備中国(びっちゅうのくに)・成羽の阿井(あい)(わた)しで殺されました。1578年8月20日、死因は殺害。34歳でした。

山中鹿介の性格と人物像

山中鹿介は「あきらめが悪い人」です。

これと決めたことしか見えず、異常な執着心(しゅうちゃくしん)固執(こしつ)します。(いつわ)りの投降や(うそ)も、目的を果たすためならへっちゃらです。最期も(つか)まったふりをしてひと暴れするつもりでした。

このようなパーソナリティを見抜(みぬ)いていた小早川隆景から「強いし頭も良いが裏表があり、今日は敵、明日は味方にもなる。武士として信用できない」と評され、殺害されています。

部下との別れを(さと)ったおり「上月城での戦いぶりを生涯(しょうがい)忘れない」といった賛辞を書状にしたためて(わた)(いき)な心づかいができるナイスガイでもあります。

不動国行(ふどうくにゆき)太刀(たち)』など、数々の名刀を所持していました。そのうちのひとつ『荒身国行(あらみくにゆき)太刀(たち)』は鹿介が殺されたのち、毛利輝元が所有しています。天下五(けん)の1本『三日月宗近(みかづきむねちか)』も持っていました。

手足は太くたくましく、色白で筋肉質な細マッチョ。晩年は立派なヒゲを生やしており、針先のように(とが)った(ひげ)は、障子に()き立てると軽々とやぶってしまうほど。

『山中鹿介伝』によると身長6尺3寸(190cm)となっていますが『雲陽軍実記』では5尺(150cm)とされています。(するど)い目つきで不敵な面構(つらがま)えの生意気イケメンです。

ギラギラした感じが織田信長から気に入られ『四十鹿毛』という駿馬(しゅんば)をもらっています。

生まれて数ヶ月で4、5歳の体格に見え、幼いころから武芸に秀でており、10歳にして剣術(けんじゅつ)や兵法を学び、13歳で敵を討ち取っています。

鹿角をあしらった(かぶと)が有名です。鹿角の脇立(わきだ)てはありませんが、鹿介の物と伝わる三日月がデザインされた『鉄錆十二間筋兜(てつさびじゅうにけんすじかぶと)』が現存しています。264cmもの長さがある『石州大太刀(せきしゅうおおたち)』を愛用しており、こちらも現物が残っています。

鹿介は別名で、本名は山中幸盛です。
山中鹿之介、山中鹿之助とも表記されます。

能力を表すとこんな感じ

山中鹿介の能力チャート

一騎討(いっきう)ちを制すること数知れず。山中鹿介は個の強さが突出(とっしゅつ)しています。不屈(ふくつ)の精神で何度でも起き上がる行動力も際立っています。

能力チャートは『信長の野望』シリーズに登場する山中鹿介の能力値を参考にしています。東大教授が戦国武将の能力を数値化した『戦国武将の解剖図鑑』もおすすめです。

山中鹿介の面白い逸話やエピソード

鹿介と名乗った由来が諸説ある

病弱な兄の代わりに家督(かとく)()いだおり、(ゆず)り受けた(かぶと)に鹿の角(かざ)りがあったので鹿介を名乗ったというほかにも、鹿介を名乗った由来には諸説あります。


鹿角の兜が
怖すぎた説

『名将言語録』によると、鹿角の(かぶと)で戦場に(おもむ)くと、周囲はその威風堂々(いふうどうどう)とした姿に(おどろ)(おそ)れて服したといいます。それ以来、山中鹿介と名乗るようになったとか。


じつは尼子晴久の
末子だった説

義残後覚(ぎざんこうかく)』によると、鹿介は尼子晴久の子だったが、晴久の死後は毛利氏から(のが)れるために山中に(かく)れて暮らします。
そして、16歳になったころ、人並み外れた体格に育ち、手足の節々(ふしぶし)にひとつかみの毛が生えていたので山中鹿介を名乗ったとか。

他にも、夜晩をしていて(ひま)だったので、友だちと苗字(みょうじ)にちなんだ変名をつけようということになり、山中だから鹿介という、ノリで名乗るようになった説もあります。

七難八苦を与えてほしいとは願っていない

大望のためな苦難が多いほど燃える、乗り()えてみせる、我に痛みを!というマゾッ子全開の「七難八苦をください」ですが、じつは鹿介もそんなお願いはしていません。

16歳になった春、三日月の晩に鹿介は「今日から30日以内に手柄(てがら)を立てたい!」と(いの)ります。

すると、つぎの戦で菊池音八という豪傑(ごうけつ)一騎討(いっきう)ちで討ち取る武功を挙げました。以来、鹿介は三日月を信仰(しんこう)したといいます。

この話が戦前(第2次世界大戦の前)の教科書に取り上げられた際に、七難八苦にアレンジされたようです。

ちなみに、ドラえもん「くろうみそ」の回では、のび太に説教するパパが「われに七難八苦をくださいと月にいのった人を知っているか」と、山中鹿介に()れ、根気がないのび太をその気にさせています。

達人すぎて何でもお見通し

野々口西蔵坊という男が「一騎討(いっきう)ちを3回して首を取りましたが、その時はもうろうとしてよく覚えていません。世の中にはたった1回の戦いで詳細(しょうさい)に覚えている者もいます。それは生まれつき勇気があるのでしょうか?」と鹿介にたずねます。

正直な人だと鹿介は感心し、こう答えました。

「自分も4つ5つ首を取ったときはそんな感じだった。7つ8つで夜が明けたようになり、10個の首をあげると、子どもの遊びのように(つえ)でも敵を討ち(たお)せるようになった

鹿介には、鎧越(よろいご)しでも敵のどこを()いて(たお)したのか見えていたようです。


初陣の若武者で
ひとこと

初陣(ういじん)から帰ったふたりの若者がそれぞれ口にした話を聞いて。

若者A「敵に向かうと(ふる)えてしまい、(たお)した相手がどんな(よろい)だったか覚えていません」

若者B「自分はちがう。敵の(よろい)や馬、組み合った場所まではっきりと覚えてます」

若者が去ったあと、そばにいた者に鹿介はこう言います。

「Aは勇敢(ゆうかん)な武士になるだろう。Bは他人があげた首を拾って手柄(てがら)とするか、さもなくば次のいくさで討たれてしまうだろう」

後日、ふたりは鹿介が話したとおりになったといいます。

山中鹿介の有名な戦い

白鹿城の戦い しらがじょうのたたかい 1563.8.?〜 11.? ○ 毛利軍2万2千 vs 尼子軍2千 ●

弱体化が進む尼子氏を滅ぼすため、毛利元就が出雲国に侵攻。月山富田城の要衝となる白鹿城(島根県松江市法吉町)を攻めた合戦。膠着状態が続き、銀掘り衆を動員して戦いは地下にも及んだ。3ヶ月におよぶ包囲戦のすえ、城主・松田誠保は隠岐へ逃亡。降伏開城された。

白鹿城の戦いで山中鹿介は敗れています。

撤退(てったい)する尼子軍の殿(しんがり)奮闘(ふんとう)し、追撃(ついげき)してくる吉川元春と小早川隆景を7度にわたって撃退(げきたい)しています。

月山富田城の戦い がっさんとだじょうのたたかい #1:1543.3.?〜 5.7 ● 大内軍4万5千 vs 尼子軍1万5千 ○ #2:1565.4.17 〜 1566.11.28 ○ 毛利軍3万 vs 尼子軍1万 ● #3:1569.8.? ● 尼子再興軍1千 vs 毛利軍5百 ○

尼子氏の居城である月山富田城(島根県安来市広瀬町)をめぐって、たびたび行われた合戦。第2次合戦では、尼子十旗と呼ばれる支城を落とした毛利軍によって本城を包囲される。山中鹿介が一騎討ちを制するなど奮戦したが、毛利元就の兵糧攻めによって尼子義久は降伏した。

月山富田城の戦いで山中鹿介は敗れています。

第2次合戦では塩谷口で吉川元春と戦い、小河内幸綱の隊に夜襲(やしゅう)をかけて大打撃(だいだげき)(あた)えています。第3次合戦では、毛利方の手に落ちた月山富田城を再興派を率いて包囲し奪還(だっかん)を試みました。

美保関の合戦 みほのせきのがっせん 1569.10.? ○ 尼子再興軍4百 vs 隠岐軍7百 ●

尼子再興派を支援していた隠岐為清が突如離反し敵対を表明。これを討伐するため、山中鹿介らが美保関(島根県松江市美保関町)に進軍した合戦。はじめは劣勢を強いられ全滅の危機に瀕した尼子派だが、横道兄弟や松田誠保の援軍を得ると逆転し、隠岐軍を壊滅させた。

美保関の合戦で山中鹿介は勝っています。

鹿介は、相手の作戦の裏をかいて海から上陸し、本陣(ほんじん)への奇襲(きしゅう)献策(けんさく)します。しかし(ふね)の数が(そろ)わず、少数で上陸したため、劣勢(れっせい)()いられてしまいました。

布部山の戦い ふべやまのたたかい 1570.3.20 ○ 毛利軍2万 vs 尼子再興軍7千 ●

月山富田城の奪還を図る尼子再興派を毛利輝元が討伐した合戦。尼子軍の山中鹿介は布部山(島根県安来市広瀬町)付近に空陣屋を作り大軍を装うが、地元の豪族を抱き込んだ吉川元春はこの策に気づき、山頂の本陣を強襲。「尼子と毛利の戦いも今日が最後」と記された激戦。

布部山の戦いで山中鹿介は敗れています。

山中鹿介のターニングポイントになった戦いです。
毛利方の吉川元春に布部山山頂の本陣(ほんじん)を落とされ、撤退(てったい)する尼子再興派の殿(しんがり)を務めました。なんとか退却(たいきゃく)できたものの、月山富田城の包囲網(ほういもう)はやぶられ、これより以降、再興派の勢いは失われます。

上月城の戦い こうづきじょうのたたかい #1:1578.1.6 〜 1.10 ○ 織田軍1万5千 vs 赤松&宇喜多軍1万 ● #2:1578.5.24 〜 8.6 ○ 毛利軍3万 vs 尼子再興軍2千3百 ●

織田氏と毛利氏が山陽地方の入り口となる上月城(兵庫県佐用郡佐用町)をめぐって争った合戦。ここを攻略した羽柴秀吉は、防衛のため尼子勝久ら尼子再興派を配備。これを宿敵とする吉川元春ら毛利軍が包囲戦で降伏させ、再興派の中心人物である山中鹿介を捕らえた。

上月城の戦いで山中鹿介は敗れています。

毛利氏の強固な包囲網(ほういもう)により上月城は孤立(こりつ)します。援軍(えんぐん)を送れずにいた羽柴秀吉から、尼子主従は城を捨てて()げるよう(うなが)されますが、鹿介らはこれを固辞して徹底抗戦(てっていこうせん)し、()らわれました。

山中鹿介の詳しい年表と出来事

山中鹿介は西暦(せいれき)1545年〜1578年(天文(てんぶん)14年〜天正(てんしょう)6年)まで生存しました。戦国時代中期から後期に活躍(かつやく)した武将です。

15451山中満幸の次男として出雲国に生まれる。幼名:甚次郎
156117主君・尼子晴久が死去。次代・尼子義久に仕える。
156319”白鹿城の戦い”毛利元就との戦に参加。撤退する最後尾を担って吉川元春と小早川隆景の追撃を7回撃退。7の首級をあげる。
毛利領・尾高城攻めに参加。
156420”弓浜合戦”毛利元就との戦に参加。美保関で杉原盛重を叔父・立原久綱と撃退する。
156622”第2次月山富田城の戦い”毛利元就との戦に参加。吉川元春を退け、一騎討ちで高野監物と品川将員を討ち取る。尼子義久が開城降伏。
主君・尼子義久が毛利氏に幽閉される。尼子家滅亡
156824叔父・立原久綱と尼子再興派を発足。尼子勝久を擁立する。
156925山名祐豊の支援を受けて出雲国で挙兵。
毛利領・出雲国に侵攻する。
忠山砦を占拠。尼子氏再興の檄を飛ばす。
毛利領・新山城を攻める。多賀元龍を敗走させる。
出雲国・末次城を築城、拠点にする。
毛利領・出雲国の城を8つ攻め落とす。
”第3次月山富田城の戦い”毛利領・月山富田城を攻める。天野隆重の偽降伏に騙されて苦戦。包囲するに留まる。
”原手合戦”毛利軍を迎撃。服部左兵衛を敗走させる。
”美保関の合戦”隠岐為清が尼子再興派から離反する。横道高光、横道高宗の援軍により勝利する。
157026”布部山の戦い”月山富田城の救援に来た毛利輝元を迎撃する。吉川元春に本陣を攻め落とされて撤退。
毛利輝元に新山城、高瀬城の麦薙ぎをされる。
海賊衆の支援を受けて出雲国と伯耆国の沿岸部を奪還する。
将軍・足利義昭から海賊衆に毛利氏への攻撃を停止する命令が出される。
毛利氏に出雲国と伯耆国の沿岸部を奪われる。
157127”新山城の戦い”毛利氏の吉川元春に敗れて捕まるが脱出する。
隠岐国へ逃れた尼子勝久に合流。
157228但馬国に潜伏する。
変名 → 亀井甚次郎
157329因幡国・桐山城を占拠する。
山名豊国の支援を受けて因幡国で挙兵。
”鳥取のたのも崩れ”討伐に来た武田高信を甑山城で迎撃。壊滅させる。
武田領・鳥取城を攻める。武田高信を降伏させ、山名豊国を鳥取城に入れる。
因幡国・私部城に入る。
10日間で15城を攻略。東因幡を制圧する。
山名豊国が離反して毛利氏に従う。
157531山名祐豊が毛利氏と同盟を結び尼子再興派の支援を打ち切る。
因幡国・若桜鬼ヶ城を攻略。拠点にする。
毛利氏の吉川元春に若桜鬼ヶ城を包囲される。
157632若桜鬼ヶ城を放棄して因幡国から撤退する。
山城国・京で織田信長に謁見する。
織田氏の明智光秀の指揮下で丹波国攻めに参加。
157733”信貴山城の戦い”松永久秀が織田氏に叛く。討伐に加わり一騎討ちで河合将監を討ち取る。
織田氏の羽柴(豊臣)秀吉の指揮下で播磨攻めに参加。
”第1次上月城の戦い”赤松政範との戦に参加。
播磨国・上月城に尼子勝久と入り、毛利輝元や宇喜多直家に備える。
157834宇喜多直家が上月城に攻めてくる。夜襲をしかけて真壁次郎四郎を討ち取る。
”第2次上月城の戦い”毛利輝元との戦に参加。吉川元春と小早川隆景に上月城が包囲される。織田氏の援軍が得られず孤立。兵糧攻めにより開城降伏。
主君・尼子勝久が自害。
捕われて移送中に備中国・成羽で殺害。
戦国時代で山中鹿介が生きた期間の表
山中鹿介の顔イラスト
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