あまご はるひさ

尼子晴久

1514.3.8 〜 1561.1.9

 
尼子晴久の面白いイラスト
  

尼子晴久(詮久)は、現在の島根県東部にあたる出雲国の武将・大名です。幼い頃に父を亡くし、下克上で成り上がった祖父・経久から尼子氏を継ぎます。西国の大内氏と覇権を争い、山陰・山陽に勢力を拡げて中国地方8か国の守護に任じられました。叔父や一族をも粛清し、家中の統制を図りました。享年48。

尼子晴久は何をした人?このページは、尼子晴久のハイライトになった出来事をなるべく正しく、独特の表現で紹介しています。きっと尼子晴久が好きになる「祖父を継いだ勢いで山陰・山陽8か国の守護になった」ハナシをお楽しみください。

  • 名 前:尼子詮久 → 尼子晴久
  • 幼 名:三郎四郎
  • 官 位:従五位下、修理大夫、民部少輔
  • 幕 府:因幡守護、伯耆守護、出雲守護、隠岐守護、美作守護、備前守護、備中守護、備後守護、相伴衆
  • 出身地:出雲国(島根県)
  • 領 地:中国地方
  • 居 城:月山富田城
  • 正 室:尼子国久の娘、不明女
  • 子ども:4男 2女
  • 跡継ぎ:尼子義久
  • 父と母:尼子政久 / 山名氏
  • 大 名:尼子氏5代当主

祖父を継いだ勢いで山陰・山陽8か国の守護になった

尼子晴久は、偉大(いだい)な祖父の意志を受け()ぎ、尼子氏を中国地方一の大大名に()し上げた人物です。

一度は出雲(いずも)守護代の座から転落し、浪人(ろうにん)の身から下克上(げこくじょう)を成して、出雲(いずも)伯耆(ほうき)備後(びんご)3か国の太守にまで成り上がった謀将(ぼうしょう)・尼子経久の孫として、尼子晴久は生まれました。

当初、祖父の後継者(こうけいしゃ)は尼子晴久の父である尼子政久だったのですが、父は陣中(じんちゅう)で笛を()いて味方を鼓舞(こぶ)していたところを矢で射られて亡くなってしまいます。

そのため、尼子晴久は飛び級で祖父の(あと)()ぐことになったのです。

80歳の祖父に代わって、24歳で当主となった(かれ)は、大内氏から石見(いわみ)銀山を強奪(ごうだつ)し、山陰(さんいん)・山陽のいたるところで戦い、他国の領地を(うば)います。

しかし、1541年に祖父が亡くなると潮目が変わり、尼子晴久から離反(りはん)する国人が相次ぐようになりました。

これを絶好の機会と見た大内義隆が、尼子晴久を一気に(たた)くべく4万5千もの大軍で月山富田城に()めてきました。


会心のカウンターで
大内義隆のやる気をくじく

1543年3月、月山富田城は大内軍に包囲されます。尼子晴久が率いる籠城兵(ろうじょうへい)は1万5千ほど。

尼子晴久は手勢を分けて、一方を大内軍の補給路に向け、ゲリラ戦をしかけて兵站(へいたん)に混乱を生じさせます。すると、尼子サイドから離反(りはん)して大内サイドについていた国人衆が味方に寝返(ねがえ)、勢いは尼子に(かたむ)きました。

大内方は大軍ゆえに兵站(へいたん)が機能しなければ戦闘(せんとう)を続けることができず、撤退(てったい)していきます。尼子晴久はこの機を(のが)さず城から出撃(しゅつげき)し、()げる大内軍を追いまくります。

この戦いで大内氏の次代当主になるはずだった大内晴持は溺死(できし)。大内軍の殿(しんがり)をつとめた毛利元就の部隊も壊滅(かいめつ)させ、元就はわずか7()()げていきました。

月山富田城の戦いに敗れた大内義隆は意気消沈(しょうちん)してやる気を失い、これを境に尼子晴久は勝利の余勢をかって勢力を拡げていきます。

1551年には因幡国(いなばのくに)伯耆国(ほうきのくに)出雲国(いずものくに)隠岐国(おきのくに)美作国(みまさかのくに)備前国(びぜんのくに)備中国(びっちゅうのくに)備後国(びんごのくに)8か国の守護を任され、山陰(さんいん)&山陽の覇者(はしゃ)となったのでした。


絶対に譲れない
支配構想がそこにある

じつは、味方勢力の統制の(あま)さから、祖父は領内を制しきれずに尼子晴久にバトンタッチしていました。

そこで尼子晴久は、コロコロと寝返(ねがえ)る国人たちの領地を没収(ぼっしゅう)&追放して権力を自らに集中させることにします。

それだけではまだ不安。
叔父(おじ)であり妻の父である尼子国久が率いる尼子軍の精鋭(せいえい)部隊「新宮党(しんぐうとう)」の直轄化(ちょっかつか)を図ります。妻が亡くなった直後、尼子晴久は新宮党(しんぐうとう)の国久・誠久父子を殺してしまいました。

身内をも粛清(しゅくせい)して中央集権の支配体制を築いてゆき、祖父から()いだ尼子氏を中国地方の大大名に()し上げますが、思い(えが)いた政権の完成を見ることなく、尼子晴久は(なぞ)の急死によってこの世を去りました。

生涯を簡単に振り返る

生まれと出自

1514年、尼子晴久は出雲国(いずものくに)に尼子政久の次男として生まれます。兄が早逝(そうせい)し、父も早くに亡くなってしまったので、5歳のころから祖父・経久の後継者(こうけいしゃ)として育ちます。叔父(おじ)・塩冶興久が起こした反乱の鎮圧(ちんあつ)活躍(かつやく)し、おとなりの美作国(みまさかのくに)備後国(びんごのくに)まで()め取り、祖父から家督(かとく)()ぎます。

中央集権を推し進める

大内領であった石見(いわみ)銀山を強奪(ごうだつ)するなど、他国への侵攻(しんこう)を開始し、赤松晴政や別所就治を敗走させ、山名氏や浦上氏を()り従えて勢力(けん)を拡大しました。大きくなった家中を統制するため、主戦力だった新宮党(しんぐうとう)を率いた叔父(おじ)・国久と従兄(いとこ)・誠久を(だま)し討ちにしました。

最後と死因

大内氏が没落(ぼつらく)したあとは毛利元就と石見(いわみ)銀山をめぐって争い、戦いに明け暮れますが、尼子晴久は出雲国(いずものくに)・月山富田城で急死しました。1561年1月9日、死因は脳溢血(のういっけつ)。48歳でした。あまりに急に亡くなったため、新宮党(しんぐうとう)の残党による毒殺説もあります。

領地と居城の移り変わり

尼子晴久の領地・勢力図(1540年)
尼子晴久の領地・勢力図(1552年)

出雲国(いずものくに)本拠地(ほんきょち)とした中国地方8か国およそ100万石が尼子晴久の領地でした。美作国(みまさかのくに)因幡国(いなばのくに)まで進出し、祖父の代よりもはるかに領土を拡げています。

尼子晴久の性格と人物像

尼子晴久は「ワンマンだけどやり手な人」です。

大叔父(おおおじ)・幸久から ”短慮(たんりょ)で大将の器じゃない。血の気が多く仁義に欠く” と、なかなか辛辣(しんらつ)な評価を受けますが、決して気が短いバカではありません。

しかしながら血の気が多い点は否めず、他人のアドバイスには耳も貸しません。

権力を己に集中させるためなら手段を選ばず、身内といえども邪魔者(じゃまもの)は迷いもなく排除(はいじょ)しています。(ただ)し、新宮党(しんぐうとう)粛清(しゅくせい)に関しては指示系統の単一化が理由であり、感情的なものではありません。

祖父にも(おと)らないいくさ上手で、晴久と何度も戦った名将・毛利元就は、晴久が亡くなったことを聞いて「一度でいいから旗本同士で戦いたかった」と、実力を評価し死を()しみました。

尼子氏の侵攻(しんこう)(ともな)って焼失した中山神社を再建しています。
晴久が建てた本殿(ほんでん)入母屋妻入造(いりもやつまいりづくり)の神社は『中山造(なかやまづくり)』と呼ばれ、独特の神社建築様式は岡山県津山市一帯の神社に見られます。

能力を表すとこんな感じ

尼子晴久の能力チャート

自らの欲得のために、尼子晴久は行動力を発揮します。お前の物も(おれ)の物といったジャイアニズムと、ズルい策士の顔を合わせ持ちます。

能力チャートは『信長の野望』シリーズに登場する尼子晴久の能力値を参考にしています。東大教授が戦国武将の能力を数値化した『戦国武将の解剖図鑑』もおすすめです。

尼子晴久の有名な戦い

吉田郡山城の戦い よしだこおりやまじょうのたたかい 1540.6.? 〜 1541.1.13 ● 尼子軍3万 vs 大内(毛利)軍1万2千 ○

大内氏と交戦する尼子晴久が吉田郡山城(広島県安芸高田市吉田町)を攻めた合戦。郡山合戦ともいわれる。尼子軍と毛利勢が激突した第2次侵攻で、毛利元就は少数の兵を三手に分けて尼子軍を攻撃。大打撃を与えて撃退した。この戦いの後、尼子氏は安芸から撤退した。

吉田郡山城の戦いで尼子晴久は敗れています。

祖父・経久の反対を()し切って、大内方の毛利元就を()めましたが苦戦し、撤退(てったい)しています。本陣(ほんじん)の背後から大内軍の奇襲(きしゅう)を受けて大叔父(おおおじ)・幸久は討死、晴久も命からがら()げました。

月山富田城の戦い がっさんとだじょうのたたかい #1:1543.3.?〜 5.7 ● 大内軍4万5千 vs 尼子軍1万5千 ○ #2:1565.4.17 〜 1566.11.28 ○ 毛利軍3万 vs 尼子軍1万 ● #3:1569.8.? ● 尼子再興軍1千 vs 毛利軍5百 ○

尼子氏の居城である月山富田城(島根県安来市広瀬町)をめぐって、たびたび行われた合戦。第2次合戦では、尼子十旗と呼ばれる支城を落とした毛利軍によって本城を包囲される。山中鹿介が一騎討ちを制するなど奮戦したが、毛利元就の兵糧攻めによって尼子義久は降伏した。

月山富田城の戦いで尼子晴久は勝っています。

尼子晴久のターニングポイントになった戦いです。
吉田郡山城での敗戦により、大内氏が尼子領へ侵攻(しんこう)を開始します。大内氏に甚大(じんだい)被害(ひがい)(あた)えて退けた第1次合戦を契機(けいき)快進撃(かいしんげき)に転じ、尼子氏は最盛期を(むか)えます。

忍原崩れ おしばらくずれ 1556.3.? ● 毛利軍7千 vs 尼子軍2万5千 ○

大内氏の内乱を制した毛利元就が石見銀山の支配を目論む。同じく銀山の奪取に向かった尼子晴久が忍原(島根県大田市川合町)で激突した合戦。緒戦は毛利方が有利だったが、晴久と小笠原長雄の援軍が合流した尼子軍が数で勝り、圧倒した。新原崩れとも。

忍原崩(おしばらくず)れで尼子晴久は勝っています。

石見(いわみ)銀山をめぐる争奪戦(そうだつせん)で、毛利軍の精鋭(せいえい)をものともせず、銀山支配の要所である山吹城(やまぶきじょう)()め落としました。

尼子晴久の詳しい年表と出来事

尼子晴久は西暦(せいれき)1514年〜1561年(永正(えいしょう)11年〜永禄(えいろく)3年)まで生存しました。戦国時代中期に活躍(かつやく)した武将です。

15141尼子政久の次男として出雲国に生まれる。幼名:三郎四郎
15185父・尼子政久が阿用城の戦いで陣没。
祖父・経久から伯耆守護代に任じられる。
153017叔父・塩冶興久が尼子氏に叛く。【塩冶興久の乱】
153421叔父・塩冶興久を追って山内領・甲立城を攻め自害させる。
美作国を攻める。
備後国を攻める。
153724祖父・尼子経久の隠居により家督を相続。
大内領・石見銀山を奪取。
153825赤松領・因幡国に侵攻する。
赤松領・播磨国に侵攻する。
赤松晴政を淡路国に敗走させる。
別所就治が篭る三木城を攻める。
153926赤松領・龍野城を攻め落とす。
宮氏が降伏、配下になる。
渋川氏が降伏、配下になる。
別所就治が篭る三木城を攻めて降す。
赤松晴政を摂津国・堺に敗走させる。
*大内氏に武田信実が攻められる。援軍を送るが安芸国・佐東銀山城が陥落する。
大内氏との和睦が破談。
大内義隆に石見銀山を奪われる。
154027”吉田郡山城の戦い”毛利元就を攻める。大内氏の援軍に苦戦し撤退する。大叔父・尼子久幸が討死。
安芸国内の尼子勢力が毛利元就に駆逐される。
154128祖父・尼子経久が死去。
尼子氏に従っていた国人衆が大内氏に従う。
備中国を攻める。
美作国を攻める。
改名 → 尼子晴久
154330”第1次月山富田城の戦い”大内義隆に月山富田城に攻められる。篭城し退ける。大内氏に従っていた国人衆が再び尼子氏に従う。
大内義隆から石見国東部を奪還、佐波氏を追放する。
大内氏から帰参した尼子清久ら一族を粛清。追放や所領没収で国人衆を抑圧する。
大内義隆から石見銀山を奪い返す。
154431山名誠通(久通)が従属するが、山名祐豊に討たれる。
因幡国・鹿野城をめぐって山名祐豊と争う。
”布野崩れ”備後国・比叡尾山城を攻める。新宮党・尼子国久が児玉就忠と福原貞俊を撃破するが、三吉広隆の奇襲に敗れる。
大内義隆の支援を受けた佐波氏が石見国に入り支配を失う。
154835三浦貞勝が従属する。
155138備後国の支配を強める。
浦上政宗を降すが浦上宗景の抵抗に遭う。
因幡国、伯耆国、出雲国、隠岐国、美作国、備前国、備中国、備後国、8か国の守護に就任。
修理大夫に就任。
155239備後国の江田氏ならびに宇賀島衆を懐柔する。
*宮元盛と宮光音を支援し備後国内の大内勢を攻めさせる。
155340美作国に侵攻。浦上宗景を撃破。播磨国・加古川まで進軍する。
備後国が大内勢に攻められる。引き返し、陶晴賢と交戦。江田氏の旗返山城を落とされ支配を失う。
155441陶晴賢を通じて大内義長と同盟する。
正室(尼子国久の娘)が死去。
叔父・尼子国久と従兄・誠久を誅殺し、新宮党の拠点を接収する。
155542嫡男・義久を総大将として播磨国に派遣。
浦上領・天神山城を攻める。
陶晴賢が毛利元就に討たれる。大内氏の内紛に乗じて石見銀山の奪還に向かい山吹城を包囲する。
155643”忍原崩れ”石見銀山をめぐって毛利元就と争い、小笠原長雄と迎撃し退ける。山吹城を陥落させる。
石見銀山を防衛するため山吹城に本城常光を配備する。
155845毛利元就が小笠原領・温湯城を攻める。援軍に向かうが江の川が増水して渡れず。
155946”降露坂の戦い”*毛利元就が山吹城に攻めてくる。本城常光が大勝し追撃、敗走させる。
美作国・中山神社を再建。
156047備中国・上房で三村家親を敗走させる。
156148出雲国・月山富田城で急死。
戦国時代で尼子晴久が生きた期間の表
尼子晴久の顔イラスト
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