大内義隆
1507.12.18 〜 1551.9.30

大内義隆は、現在の山口県東部にあたる周防国の武将・大名です。父から大内氏の最盛期を受け継ぎますが、軍事路線で失敗し落胆。一転して文化教養に傾倒し、周防国を「西の京都」と呼ばれるほど発展させます。武力を捨てた軟弱な姿勢が武断派の家臣の反発を招き、寵愛した陶晴賢に襲撃されて自害しました。享年45。
- 大内義隆の武将タイプ
- 文化
大内義隆は何をした人?このページは、大内義隆のハイライトになった出来事をなるべく正しく、独特の表現で紹介しています。きっと大内義隆が好きになる「京文化と公家に憧れるあまりやっぱり内乱を起こされた」ハナシをお楽しみください。
- 名 前:大内義隆
- 幼 名:亀童丸
- 官 位:従五位下、従五位上、左京大夫、正五位下、周防介、筑前守、従四位下、太宰大弐、左兵衛権佐、従四位上、兵部権大輔、正四位下、伊予介、従三位、侍従、正三位、兵部卿、従二位
- 幕 府:石見守護、安芸守護、周防守護、長門守護、筑前守護、豊前守護
- 出身地:周防国(山口県)
- 領 地:中国地方
- 居 城:大内氏館
- 正 室:貞子(万里小路秀房の娘)、おさいの方(小槻伊治の娘)
- 子ども:3男 1女 3養
- 跡継ぎ:大内義長
- 父と母:大内義興 / 東向殿
- 大 名:大内氏16代当主
京文化と公家に憧れるあまりやっぱり内乱を起こされた
大化の改新より以前の611年から続く大内氏は、戦国時代では中国地方全域と北九州地方に一大勢力を誇る大大名でした。
最盛期から没落期の大内氏の当主をつとめたのが大内義隆です。
大内氏は世代交代のたびに内乱が起こるのがお家芸でしたが、大内義隆の家督相続は例外的にスムーズでした。
というのも、早い段階から大内義隆を後継者であると父が明確にしていたことと、重臣・陶興房の献身的なサポートで、争いが起こらないようコントロールされていたのです。
そのような状況下で当主となった大内義隆は、西国一の大名家というブースト要素も手伝って勢力を拡大させます。
もう、なにもかも順調。家臣たちも、強いオオウチを誇らしく思いました。
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優雅な
公家に憧れて
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このころ、争いが絶えず荒廃する京の都から、多くの公家や僧侶たちが大内氏を頼って避難してきます。大内義隆はこれを歓迎し、周防国には京風文化があふれ、山口の街はさながら都のような華やかさで『西の京都』と呼ばれました。
大内義隆には領土的野心がありましたが、1543年に尼子氏の出雲国を攻めた月山富田城の戦いで惨敗したことですっかりやる気をなくしてしまいます。
すると、優雅な貴族暮らしへの憧れが強まり、公家のような日々を過ごします。
武を棄てて芸事に勤しむうち、政治にも関心がなくなり、家臣に丸投げするようになりました。
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やっぱり内乱が
起こってしまう
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自分が政をしなくても大丈夫。信頼できる家臣のサポートがあるから。そう思っていられたのも束の間、大内義隆に不穏な兆候が現れます。
これまで武力を推進してきた武断派の陶隆房(のちの晴賢、陶興房の息子)と、政治を行う文治派が、1545年ごろからジリジリと対立しはじめます。
そのうちに陶派の行動がエスカレートし、文治派の暗殺計画が露見します。
命の危険を感じた文治派の相良武任から陶隆房の処分を求められますが、大内義隆は仲良くしてほしいと願うばかりで何もしません。
そのうちに大内氏の弱体化に腹を立てた陶ら武断派によって、1551年に大寧寺の変を起こされ、大内義隆は暗愚な主君として討たれてしまいました。
父から家を継ぐ際には内乱を起こさずにバトンタッチできた大内義隆でしたが、公家かぶれで腑抜けてしまったがために反乱が起こってしまい、900年以上つづいた大内氏の歴史も終わってしまいました。
生涯を簡単に振り返る
生まれと出自
1507年、大内義隆は周防国・大内氏館に守護大名である大内義興の長男として生まれます。名家の次期当主として大切に育てられ、父が亡くなったあとは陶興房ら重臣に支えられました。北九州に進出し、少弐氏や大友氏と争いながら勢力を広げると、武断派の家臣の後押しを受けて中国地方の統一に乗り出します。
政治への興味を失う
出雲国の尼子晴久を攻めたおりに返り討ちにあい、それ以来、領土拡大の意欲も政治への興味も失ってしまいます。文治派の相良武任に国事を任せきりにし、公家や文化人との交流に没頭するようになりました。
最後と死因
武断派の不満が募り、やがて文治派のいざこざに発展。これを制止しきれずに陶晴賢に反乱を起こされ、周防国から長門国・深川の大寧寺に逃げ込みます。追い詰められた大内義隆は冷泉隆豊に介錯されて自刃しました。1551年9月30日、死因は自害。45歳でした。
領地と居城

周防国、長門国、石見国、安芸国に、北九州の筑前国、豊前国を加えた100万石ほどが大内義隆の領地でした。本拠地は西の京と呼ばれるほど栄えました。
大内義隆の性格と人物像
大内義隆は「好きな事しかしない人」です。
勢づいていた軍事路線も気持ちが折れると見向きもしなくなり、西国一の太守でありながら政治に興味を示さず。
色欲が強く、奥さんから浮気をやめるよう注意を受けますが、女性ばかりでなく少年にまで夢中になって離婚されています。
主君と小姓の色恋仲を衆道といいますが、大内義隆の美少年好きは有名。謀反を起こした陶晴賢や、毛利氏の小早川隆景とも衆道の関係にありました。フランシスコ=ザビエルから男色を注意されてキレたことも。
貴族のような束帯で牛車に乗り、三条西実隆ら文化人との交流をはじめ、和歌、連歌に熱心です。
学問は古道学を好みました。文化の発展には貢献しましたが、その反動による重税で領民が苦しんでいます。
ザビエルから眼鏡をプレゼントされており、日本最古のメガネ男子でした。
大内義隆が厳島神社に奉納したとされる藍韋肩赤威甲冑は、美しい状態で現存しています。
能力を表すとこんな感じ

文化に対する前向きな姿勢が大内義隆の良い点です。キリスト教の布教を許すなど異国文化にも理解を示し、自国の発展につながりました。
能力チャートは『信長の野望』シリーズに登場する大内義隆の能力値を参考にしています。東大教授が戦国武将の能力を数値化した『戦国武将の解剖図鑑』もおすすめです。
大内義隆の面白い逸話やエピソード
陶晴賢とのラブストーリーがロマンチック
陶氏は大内氏に仕える参謀を務めていました。武断派筆頭の陶晴賢も、早くから才覚を見込まれた重臣であり、かつ絶世の美少年であったため、大内義隆は彼を寵愛していました。
ある晩、義隆は晴賢に会いたくてたまらず、なんと30キロも離れた晴賢の家まで5時間かけて早馬を飛ばします。
一晩中駆けつづけて晴賢のもとに着いてみると、美少年はすやすやと眠っていました。義隆は少年の美しい寝顔を見て、起こすのはしのびないと枕元に和歌を残して帰ったといいます。
大内義隆の有名な戦い
尼子氏の居城である月山富田城(島根県安来市広瀬町)をめぐって、たびたび行われた合戦。第2次合戦では、尼子十旗と呼ばれる支城を落とした毛利軍によって本城を包囲される。山中鹿介が一騎討ちを制するなど奮戦したが、毛利元就の兵糧攻めによって尼子義久は降伏した。
月山富田城の戦いで大内義隆は敗れています。
大内義隆のターニングポイントになった戦いです。
出雲国に攻め込んだ第1次合戦で尼子軍のゲリラ戦法に戸惑い、大軍でありながらまさかの敗戦。おまけに養嗣子で後継者の晴持が溺死し、軍事や政治への関心をなくすきっかけになりました。
大内家当主である大内義隆に対して、武断派筆頭の陶隆房が謀反を起こした事件。圧倒的に有利な兵力差で陶軍が押し迫り、大内館を攻められた義隆は足を痛めながら逃れるが、暴風雨のため船を出せず、大寧寺(山口県長門市深川湯本)で自害。義隆の嫡男・義尊も殺害された。
大寧寺の変で大内義隆は敗れています。
かつて蜜月の仲であった陶隆房に追いつめられて、義隆は自害しました。隆房に殺害された嫡男・義尊はわずか7歳。この後、大内氏は陶隆房が全権を握りますが、毛利元就によって滅ぼされます。
大内義隆の詳しい年表と出来事
大内義隆は西暦1507年〜1551年(永正4年〜天文20年)まで生存しました。戦国時代中期に活躍した武将です。
1507 | 1 | 大内義興の嫡男として周防国に生まれる。幼名:亀童丸 |
1520 | 14 | 元服 → 大内義隆 |
1523 | 17 | 父・義興が日明貿易をめぐって明国の役人を殺害。明国との関係が悪化。【寧波の乱】 |
1524 | 18 | ”佐東銀山城の戦い”初陣。武田光和との戦に参加。佐東銀山城を攻めるも尼子氏の援軍により退く。 万里小路秀房の娘(貞子)と結婚。 |
1528 | 22 | 父・大内義興の死去により家督を相続。 |
1530 | 24 | 左京大夫に就任。 松浦興信が従属する。 ”田手畷の戦い”*杉興運に少弐資元の勢福寺城を攻めさせるが撃退される。 安芸国で争っていた尼子経久と和睦。 |
1532 | 26 | 大友義鑑と少弐資元が筑前国に侵攻してくる。 北九州平定の大義名分を得るため太宰大弐の官職を得られるよう朝廷に働きかけるが断られる。 |
1533 | 27 | 渋川義長が大内氏に叛く。 |
1534 | 28 | 少弐家臣・龍造寺家兼を調略する。 ”勢場ヶ原の戦い”*陶興房に大友領・豊後国に侵攻させる。総力戦の末、痛み分け。 渋川領・朝日山城を攻め落とす。渋川義長を自害させる。 |
1535 | 29 | 後奈良天皇の即位礼にあわせて2千貫を寄進する。再び太宰大弐の官職を得られるよう働きかける。 |
1536 | 30 | 太宰大弐に就任。 *陶興房に肥前国・多久城を攻めさせ少弐資元を自害させる。 龍造寺胤栄に肥前守護代を命じる。 |
1537 | 31 | 将軍・足利義晴から上洛を要請される。尼子氏の動向が気になり断念する。 |
1538 | 32 | 尼子詮久(晴久)に石見銀山を奪われる。 将軍・足利義晴の仲介により大友氏と和睦。 |
1539 | 33 | 補佐役・陶興房が死去。 *将軍・足利義晴の要請により尼子詮久を牽制するため武田信実の安芸国・佐東銀山城を攻め落とす。 尼子氏との和睦が破談。 尼子詮久から石見銀山を奪い返す。 |
1540 | 34 | ”吉田郡山城の戦い”*尼子詮久が安芸国に侵攻してくる。陶隆房(晴賢)を毛利元就の援軍に向かわせる。 |
1541 | 35 | *毛利元就が安芸国内の尼子勢力を駆逐し、安芸武田氏を攻め滅ぼす。武田家滅亡 |
1542 | 36 | 陶隆房ら武断派に出雲国攻めを提言される。 尼子領・出雲国に侵攻する。赤穴城を攻め落とす。 |
1543 | 37 | ”第1次月山富田城の戦い”尼子晴久が篭る月山富田城を攻める。反撃に苦戦し撤退するおりに養嗣子・大内晴持が溺死する。 山名理興が大内氏から離反する。 出雲国攻めの失敗により方針を改める。相良武任ら文治派を重用する。 尼子晴久に石見銀山を奪われる。 |
1544 | 38 | ”布野崩れ”*備後国・比叡尾山城を攻める尼子氏を毛利氏と三吉義隆に迎撃させる。 尼子晴久に追放された佐波氏を支援し石見国に入れる。 |
1545 | 39 | 陶隆房が相良武任を失脚させる。 |
1547 | 41 | ”神辺合戦”*陶隆房と毛利元就が山名理興を攻める。 相良武任を呼び戻して政務に復帰させる。 相良武任が陶隆房を失脚させる。 |
1548 | 42 | 龍造寺胤信(隆信)と同盟を結ぶ。 |
1550 | 44 | 宣教師・フランシスコ=ザビエルに会う。非礼に立腹しキリスト教の布教を許さず。 陶隆房が相良武任の暗殺を計画。これを未然に防ぐ。 陶隆房が叛くという噂が流れるが不問にする。 |
1551 | 45 | 宣教師・フランシスコ=ザビエルに会う。多くの献上品を受けてキリスト教の布教を許す。 都を山城国・京から周防国・山口に移す遷都を計画する。 陶隆房と内藤興盛が大内氏に叛く。逃亡先の大寧寺を襲撃されて自害。【大寧寺の変】 |

- 大内義隆 – Wikipedia
- 大内義隆〜西日本随一の実力者をわかりやすく解説|日本の旅侍
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