さなだ ゆきむら

真田幸村

1567.?〜 1615.6.3

 
真田幸村の面白いイラスト
  

真田幸村(信繁、好白)は、現在の長野県にあたる信濃国の武将です。関ヶ原の戦いのあとで九度山に流罪、不遇を過ごします。大坂の陣で戦国史に登場し、真田丸で徳川軍を相手に完封勝利を収めました。夏の陣では、玉砕覚悟で徳川本陣に突撃し、徳川家康を追いつめた苛烈な戦いぶりが伝説になりました。享年49。

真田幸村は何をした人?このページは、真田幸村のハイライトになった出来事をなるべく正しく、独特の表現で紹介しています。きっと真田幸村が好きになる「大坂の陣の突撃で日本一の兵と称えられて伝説になった」ハナシをお楽しみください。

  • 名 前:真田信繁 → 真田好白
  • 幼 名:弁丸
  • あだ名:日本一の兵
  • 官 位:従五位下、左衛門佐
  • 出身地:信濃国(長野県)
  • 正 室:竹林院(大谷吉継の娘)
  • 子ども:3男 9女
  • 跡継ぎ:真田守信
  • 父と母:真田昌幸 / 山手殿
  • 大 名:豊臣秀吉豊臣秀頼

大坂の陣の突撃で日本一の兵と称えられて伝説になった

織田信長や伊達政宗にも引けを取らない人気を(ほこ)る真田幸村。戦国ファンのハートをワシづかみにする真田幸村ですが、じつは歴史的な功績はなにもありません。

真田幸村は、戦国史上最高の一発屋だったのです。

それは徳川 vs 豊臣の最終決戦となった大坂夏の(じん)でのこと。ここで真田幸村は後世に語り()がれる(すさ)まじい戦いぶりで見る者を魅了(みりょう)しました。

大坂の(じん)で真田幸村の奮戦をみた初代薩摩藩主(さつまはんしゅ)・島津忠恒は「真田日本一の(つわもの)(いにしえ)よりの物語にもこれなき(よし)」と称えています。(超訳:あんなの見たことねえ)

黒田長政は『大坂夏の(じん)屏風(びょうぶ)』に真田隊の勇猛果敢(ゆうもうかかん)な姿を()かせたといい、真田幸村と戦った徳川方の武将から()しみない賛辞がおくられました。


大ヒットした
難波戦記

……ときは戦国、天下をねらう徳川家康。そこに参じたのは真田左衛門佐(さえもんのすけ)幸村、バッタバッタと()(たお)し、徳川本陣(ほんじん)突入(とつにゅう)せん。「ねらうは家康の首ー!」家康ここに追いつめたり!……

【難波戦記】江戸時代に真田幸村が大人気となった物語

戦乱の時代さいごに行われた決戦、大坂の(じん)を題材にした『難波戦記』が江戸時代の庶民(しょみん)のあいだで大ヒット。物語のなかで徳川家康を追いつめるヒーローの名前が『真田幸村』でした。

このモデルとなったのは真田信繁という人物でしたが、難波戦記の影響(えいきょう)から真田幸村の名で知られることとなりました。

難波戦記にも(えが)かれた、大坂の(じん)での2つの出来事が真田幸村を伝説にしました。


幸村の伝説 その1
真田丸の戦い

徳川家康が豊臣家を()(ほろ)ぼそうとした1614年の大坂冬の(じん)で、真田幸村は大坂城のウイークポイントだった南側に巨大(きょだい)な出城『真田丸』を築きます。

真田丸は奥行(おくゆ)き270m(はば)280mもあり、不定形の城郭(じょうかく)を成していました。空堀(からぼり)の深さは9mという手の()みようでした。

真田幸村は、この真田丸に敵を引きつけて一網打尽(いちもうだじん)にします。

真田丸の戦い(大坂冬の陣)の図

まずはじめに、篠山(しのやま)布陣(ふじん)した前田利常を挑発(ちょうはつ)しておびきだし、ちょっかいを出されて(おこ)った前田隊を、真田丸にある急勾配(きゅうこうばい)空堀(からぼり)(さそ)い、雨のような銃弾(じゅうだん)を浴びせました。

前田隊が()めかかったのを見た井伊直孝と松平忠直は、(おく)れをとるまいと先を競って真田丸に()し寄せます。これを前田隊と同じように空堀(からぼり)に落とし、真田丸で壊滅(かいめつ)させました。

真田丸に()め寄せた2万6千もの徳川兵を、わずか4千の真田隊が手玉に取ったのです。

大坂冬の(じん)でメインステージとなった真田丸の戦いを目撃(もくげき)したイエズス会の宣教師たちは「かつてないほどの大虐殺(だいぎゃくさつ)(なまり)(なみだ)をみるくらい信じられないものだった」と、想像を絶する惨状(さんじょう)だったことを伝えています。

真田丸に手を焼いた徳川家康は、やむなく和睦(わぼく)をしました。


幸村の伝説 その2
天王寺口の戦い

大阪冬の(じん)和睦(わぼく)から半年後、仕切り直しとなった1615年の大坂夏の(じん)は、両軍の総力戦となりました。

この大坂夏の(じん)で、真田幸村は圧巻のパフォーマンスを見せます。

緒戦(しょせん)で徳川方の伊達政宗と交戦し、これを軽く蹴散(けち)らすと、退く伊達勢にむかって「関東の兵に男はおらんのかーい!」と、かっこいいセリフで完全勝利。

歴戦の(ゆう)である政宗も、これ以降はあれこれと理由をつけて真田隊との戦闘(せんとう)()けました。

ところが、善戦もむなしく、次第に豊臣方の敗報が届くようになります。総大将の豊臣秀頼がなかなか出陣(しゅつじん)せず、敗色濃厚(のうこう)となってしまいました。

ワンチャンに()ける真田幸村は、毛利勝永と連携(れんけい)して徳川本陣(ほんじん)めがけて特攻(とっこう)し、何重もの敵陣(てきじん)突破(とっぱ)して家康の首をねらいます。

天王寺口の戦い(大坂夏の陣)の図

討ち死に覚悟(かくご)玉砕(ぎょくさい)戦法で、真田幸村は次々と敵陣(てきじん)をやぶって徳川本陣(ほんじん)(せま)り、ついに家康の目の前に到達(とうたつ)します。

ロケットのような真田隊が本陣(ほんじん)()()んだので、家康を護衛する旗本衆は総崩(そうくず)れになって大慌(おおあわ)て。徳川家康もパニックを起こして()げ出します。

このとき、徳川の旗印が(たお)れて土まみれになりますが、こんなことは武田信玄に瞬殺(しゅんさつ)された三方ヶ原の戦い以来でした。

生涯(しょうがい)、忘れえぬ惨敗(ざんぱい)(きっ)した三方ヶ原の戦いでのトラウマが、家康の脳裏に(よみがえ)ります。

本陣(ほんじん)を移しながら()げる家康を、真田幸村は11kmにわたってしつこく追いかけまわしました。あまりの恐怖(きょうふ)から家康は2回も死を覚悟(かくご)しました。

徳川本陣(ほんじん)に対して3回も突撃(とつげき)し、家康に自害をチラつかせるほど追いつめた真田幸村でしたが、ボロボロに傷つき、燃え()きたところで討死してしまいます。

これより数刻後、大坂城は落城しました。

真田日本一の(つわもの)(つづ)った島津忠恒は「御所様(ごしょさま)(家康)の御陣(ごじん)へ、真田左衛門(さえもん)(幸村)仕かかり(そうろう)。三度目に真田も討死にて(そうろう)」と()り返っています。

敗れたとはいえ、大坂の(じん)で特大のインパクトを放った真田幸村の首実検には、多くの武将が見物に訪れて「真田の武勇にあやかりたい」と、(かみ)の毛を持ち帰ったといいます。

このような散り様が人々の記憶(きおく)によって語り()がれ、真田幸村の伝説は今も魅力的(みりょくてき)な物語となっているのでした。

生涯を簡単に振り返る

生まれと出自

1567年、真田幸村は信濃国(しなののくに)小県ちいさがたに真田昌幸の次男として生まれます。父が他家に従属をくり返すたびに人質となって転々としました。はじめは上杉景勝、次いで豊臣秀吉のもとに送られて過ごします。大坂では秀吉に可愛がられました。秀吉が(ぼっ)すると信濃国(しなののくに)・上田の父のもとに(もど)りました。

流罪から一世一代の決戦へ

関ヶ原の戦いでは、西軍に味方して徳川軍を上田城に(むか)()ちます。西軍が敗れたため父と紀伊国(きいのくに)・九度山に流罪(るざい)になりました。14年にもおよぶ貧しい幽閉(ゆうへい)生活を送ったのち、豊臣秀頼の(たの)みをきいて九度山を()け出し、徳川家康と戦います。

最後と死因

大坂冬の(じん)では真田丸で徳川軍を撃退(げきたい)し、大坂夏の(じん)では徳川家康の本陣(ほんじん)突撃(とつげき)しますが、一歩およびません。摂津国(せっつのくに)茶臼山(ちゃうすやま)ちかくの安居神社で体を休めていたところを真田幸村は討たれました。1615年6月3日、死因は討死。49歳でした。足軽の西尾宗次に発見され「首を手柄(てがら)にされよ」と抵抗(ていこう)もしなかったそうです。

真田幸村の性格と人物像

真田幸村は「サムライのイメージどおりの人」です。

義を大事にし、主君筋である豊臣秀頼の呼びかけに命を()けて応えますが、徳川家康の引き()きには断固として応じません。

柔和(にゅうわ)辛抱(しんぼう)強く、物静か。めったなことでは(おこ)らない優しい性格です。兄・信之いわく「幸村こそ国を治めるにふさわしい本当の(さむらい)」と評する人格者でした。

幽閉(ゆうへい)された九度山では、父と軍略についてよく話し合っていました。徳川と戦う機会が必ずくると予想して、攻略法(こうりゃくほう)を議論したといいます。

つねに兵法の勉強や武術の鍛錬(たんれん)(おこた)らず、近所の人たちをあつめて訓練していました。

大坂の(じん)では赤く染めた(よろい)で統一した『赤備え』で臨んでいます。徳川家に仕えていた兄に気をつかって、真田のシンボルである六文銭の旗印は用いませんでした。

額と口に小さな傷が2つ3つありました。大坂城に入るころは歯は欠けて(ひげ)も白くなったと手紙に書いています。大坂入城時の様子から背が低かったこともわかっています。

お酒が好きで、兄に焼酎(しょうちゅう)をせがむ手紙をたびたび送っていました。

真田幸村の甲冑(かっちゅう)といえば鹿角脇立(しかつのわきだて)(かぶと)ですが、残念ながら実物は残っていません。幸村のものと伝わる甲冑(かっちゅう)では『鉄二枚胴具足(てつにまいどうぐそく)』が現存しています。

幸村は別名で、本名は真田信繁です。
講談で広まった幸村という通称ですが、徳川氏伝来の二次資料にも「幸村」と記されているものがあります。

能力を表すとこんな感じ

真田幸村の能力チャート

真田幸村は単騎(たんき)での強さ、統率力が突出(とっしゅつ)しています。また、真田丸での見事な戦いぶりから、父親ゆずりの智略(ちりゃく)がうかがえます。

能力チャートは『信長の野望』シリーズに登場する真田幸村の能力値を参考にしています。東大教授が戦国武将の能力を数値化した『戦国武将の解剖図鑑』もおすすめです。

真田幸村の面白い逸話やエピソード

家康の引き抜きに「もう来ないで」

真田丸に苦戦した徳川家康は、幸村の引き()きを試みます。幸村の叔父(おじ)である真田信尹が交渉役(こうしょうやく)にあたりました。

引き()きの条件として、真田氏ゆかりの「信濃(しなの)の土地を10万石あげるから」と持ちかけますが、幸村はこう答えます。

「家康公に九度山へ流され、なんとか生きていた私に秀頼さまは兵あずけてくれた。領地よりも信頼(しんらい)してもらえたのが(うれ)しかった」

あきらめない家康は「信濃国(しなののくに)をまるごとあげるから」と条件をぐっと上げて再び交渉(こうしょう)します。

これに幸村は「日本の半分くれるといっても(いや)です。もう来ないでください」とキッパリ。とりつく島もない様子にさすがの家康も真田幸村の引き()きをあきらめました。

ちなみに、幸村が大坂城入りしたときの豊臣秀頼からのオファー額は、黄金200枚と銀30(かん)(およそ10億円)だったそうです。

本当に討たれたのか叔父でも確認できなかった

大坂夏の(じん)に勝利した徳川家康は、大坂冬の(じん)のあとで幸村の引き()交渉(こうしょう)にあたった幸村の叔父(おじ)・真田信尹を呼び、幸村の首が本物かどうか確かめさせました。

家康は「顔に傷があったであろう?前歯が欠けているのは確かか?」といった具合に問いますが、信尹はどうにもピント来ない様子。

イライラした家康が「昨年会ったのに忘れたのか!?」と強く(たず)ねます。

それでも信尹が「幸村は(おく)に座っていたし夜で暗かったので⋯⋯」と歯切れが悪く、首が本物である確証が得られません。

苦戦を強いられた幸村を討ち取っていないとなると安心できない家康は「もういい!」とキレてしまい、信尹に恩賞を(あた)えませんでした。

このような逸話(いつわ)があることから、真田幸村は豊臣秀頼を連れて薩摩国(さつまのくに)に落ち延びたという生存説もあります。

こどもの未来を伊達政宗に託した

大坂夏の(じん)で伊達政宗と戦った幸村ですが、自分が亡くなったあとの家族の命運を政宗に(たく)しました。直接対決した晩、幸村は伊達家臣・片倉重長の(じん)に使いを出します。

絶世の美少女として伝わる(むすめ)阿梅(おうめ)(12)を重長に(とつ)がせ、仙台の地で暮らせるようお願いすると、伊達政宗もこれを快諾(かいだく)します。真田幸村の(むすめ)阿梅(おうめ)と次男・真田守信を伊達家に(むか)えました。

真田守信は伊達家臣の片倉氏に仕え、片倉守信に改名。その後、守信の嫡男(ちゃくなん)・真田辰信の代に真田(せい)に復し、仙台真田氏として脈々と幸村の血を受け()ぎました。

真田幸村の有名な戦い

大坂冬の陣 おおさかふゆのじん 1614.12.19 〜 1615.1.19 △ 徳川幕府軍20万 vs 豊臣軍9万 △

方広寺鐘銘事件を発端に、徳川氏と豊臣氏がついに衝突。徳川家康は20万の大軍で大坂城(大阪府大阪市中央区)に迫った。豊臣秀頼は牢人を集めて籠城。真田幸村が考案した真田丸で徳川勢を撃退した。しかし、徳川軍の大砲の威力を前に、豊臣氏は和睦を申しでた。

大坂冬の(じん)で真田幸村は引き分けています。

真田幸村のターニングポイントになった戦いです。
幸村が率いた真田丸の戦いだけをみれば豊臣方の完勝でした。和睦(わぼく)の条件として真田丸は(こわ)され、大坂城の外堀(そとぼり)()められてしまい、豊臣氏は城で戦えなくなりました。

大坂夏の陣 おおさかなつのじん 1615.5.23 〜 6.4 ○ 徳川幕府軍16万5千 vs 豊臣軍5万5千 ●

大坂冬の陣から半年後、徳川家康による豊臣氏の殲滅戦。大坂城付近(大阪府藤井寺市、阿倍野区など)で激しい局地戦が行われた。毛利勝永が奮闘し、徳川本陣に真田幸村が決死の突撃をしたが、数で勝る徳川軍が押し切った。大坂城は落城。豊臣秀頼は出陣の機会なく自害した。

大坂夏の(じん)で真田幸村は敗れています。

戦国最後の合戦で真田幸村は完全燃焼しました。前例にないほどの(すさ)まじい働きぶりで、強大な敵に立ち向かうヒーロー像を残しました。
豊臣氏が(ほろ)び、このあとは徳川氏による泰平(たいへい)の時代が続きます。

真田幸村の詳しい年表と出来事

真田幸村は西暦(せいれき)1567年〜1615年(永禄(えいろく)10年〜慶長(けいちょう)20年)まで生存しました。戦国時代後期に活躍(かつやく)した武将です。

15671真田昌幸の次男として信濃国に生まれる。幼名:弁丸
158519父・昌幸が上杉氏に従属する。
人質として上杉景勝に預けられる。
158721父・昌幸が豊臣氏に従属する。
人質として豊臣秀吉に預けられる。越後国から大坂城に移る。
豊臣秀吉の馬廻衆になる。
159024”小田原征伐”北条氏の討伐戦に参加。
”碓氷峠の戦い”初陣。大道寺政繁との戦に参加。
北条領・武蔵国攻めに参加。
”八王子城の戦い”八王子城攻めに参加。
”忍城の戦い”成田泰季との戦に参加。
159226朝鮮出兵に備えて父・昌幸、兄・信幸と肥前国・名護屋城に入る。【文禄の役】
159428大谷吉継の娘(竹林院)と結婚。
159832主君・豊臣秀吉が死去。
父・昌幸の信濃国・上田城に戻る。
160034”会津征伐”上杉氏の討伐戦に参加。
石田三成、大谷吉継が反徳川の挙兵。
会津征伐から離脱し父・昌幸と石田三成に加勢する。長男・信幸と方針を分かつ。【犬伏の別れ】
”第2次上田合戦”徳川家康との戦に参加。遊軍を率いて徳川秀忠を翻弄する。
徳川家康が関ヶ原の戦いに勝利する。
関ヶ原の戦いで石田三成が敗れたため、父・昌幸と紀伊国・九度山に流罪。
161145父・真田昌幸が死去。
161246出家 → 真田好白
161448豊臣秀頼の呼びかけで九度山を脱出。
摂津国・大坂城に入る。
”大坂冬の陣”徳川家康との戦に参加。大坂城南に真田丸を築して徳川軍を撃退する。
豊臣氏と徳川氏が和睦。大坂城の外堀の埋め立てとあわせて真田丸が撤去される。
161549”大坂夏の陣”徳川家康との戦に参加。徳川本陣に突撃したのち討死。決戦前夜に次男と娘を伊達政宗に託す。
戦国時代で真田幸村が生きた期間の表
真田幸村の顔イラスト
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