竹中半兵衛
1544.9.27 〜 1579.7.6

竹中半兵衛(重治)は、現在の岐阜県にあたる美濃国の武将です。早熟の天才軍師として知られています。斎藤氏に仕えていましたが、主君・斎藤龍興の愚行を戒めるために稲葉山城を乗っ取ったのちに出奔。しばらく山奥で静かに暮らしますが、織田信長の家臣になり、豊臣秀吉の働きを支える活躍をしました。享年36歳。
- 竹中半兵衛の武将タイプ
- 策士
竹中半兵衛は何をした人?このページは、竹中半兵衛のハイライトになった出来事をなるべく正しく、独特の表現で紹介しています。きっと竹中半兵衛が好きになる「稲葉山城を16人で奪った天才軍師が秀吉を出世させた」ハナシをお楽しみください。
- 名 前:竹中重虎 → 竹中重治
- あだ名:今孔明、両兵衛
- 出身地:美濃国(岐阜県)
- 居 城:菩提山城
- 正 室:得月院(安藤守就の娘)
- 子ども:1男
- 跡継ぎ:竹中重門
- 父と母:竹中重元 / 妙海大姉
稲葉山城を16人で奪った天才軍師が秀吉を出世させた
豊臣秀吉の軍師をつとめた竹中半兵衛は、天才と称された軍略家のひとりです。戦国時代で軍師といえば、竹中半兵衛を思い浮かべる人も多いでしょう。
南北朝時代、足利尊氏を奇策によって苦しめた楠木正成の再来として「昔楠木、今竹中」と称され、三国志のウルトラ軍師・諸葛亮孔明になぞらえて『今孔明』とも呼ばれました。
この竹中半兵衛が秀吉に仕える以前に、主君であった斎藤龍興から本拠地である稲葉山城をわずか16人で乗っ取る珍事件を起こしています。
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許せない!
おしっこの恨み
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斎藤道三の孫にあたる斎藤龍興は、ゴマスリ家来ばかりを大事にするダメな主君でした。龍興は、頭がきれる竹中半兵衛を嫌い、ゴマスリ家来たちは「女みたい、ひ弱」と馬鹿にしていました。
1564年のある日、竹中半兵衛に対する嫌がらせは一線を超えてしまいます。
稲葉山城に出勤する竹中半兵衛に、斎藤飛騨守というゴマスリのひとりが、櫓の上から小便をかけました。頭から小便をかぶった竹中半兵衛は、ゲラゲラ笑う一行を無視して、その場を去りました。

それから何日か経って、普段と同じように竹中半兵衛は16人の従者と出勤します。いつもと違ったのは、槍や鎧を荷物に忍ばせていたことでした。
夜になるのを待って、武装した竹中半兵衛と16人は宿直の斎藤オシッコノカミを襲撃。これを成敗し、ヤァヤァと騒ぎ立てながら「裏切り者が出た!かなりの数だ!」と嘘の情報で稲葉山城内を錯乱させました。
これを敵襲と勘違いした斎藤龍興は、あわてて逃げ出してしまいました。騒然とする城内に舅の安藤守就の兵2千を入れて、数時間のうちに稲葉山城を乗っ取ってしまいました。
竹中半兵衛のこの行動は、当主である斎藤龍興の不甲斐なさを諌めるためであり、決して謀反を起こしたわけではありません。気を引き締めなおしてもらおうという願いでもありました。
半年ほど稲葉山城を占拠したのち、竹中半兵衛は斎藤家を去りました。
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半兵衛と秀吉
三顧の礼
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斎藤家を去ったのち、美濃の山奥でひっそりと暮らして竹中半兵衛を、ありったけの情熱で口説く男が現れます。木下藤吉郎こと豊臣秀吉です。
三国志の劉備玄徳が諸葛亮孔明を登用した際に礼を尽くした『三顧の礼』と同じく、秀吉は竹中半兵衛の住まいを何度も訪ねてきました。
秀吉の熱意に打たれてスカウトされた竹中半兵衛は、1567年に織田家に迎えられ、そのまま秀吉のサポートに配属されました。

斎藤家を辞めたあと、少しのあいだ近江国の浅井氏の世話になっていた竹中半兵衛は、織田家の浅井攻めで実力を見せはじめます。調略を駆使して、次々と浅井氏の城を手に入れました。
1573年に信長が浅井氏の本拠地・小谷城を攻めた戦いで、竹中半兵衛は秀吉にワンチャンつかませます。
秀吉隊は、難攻不落の小谷城を崖から登って城内を分断し、内部から一気に制圧する作戦で小谷城を攻め落としました。おまけに浅井長政に嫁いでいた信長の妹・お市の救出にも成功。この働きによって、秀吉を城持ち大名に出世させました。
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羽柴の苗字を
考えた
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一方で、急速に出世した秀吉を快く思わない織田家臣もいました。そこで竹中半兵衛は、ひとつの策を提案します。
織田家臣団の2トップである、丹羽長秀センパイと柴田勝家おじさんから、一字ずつもらって『羽柴秀吉』に改名することを提案します。
竹中半兵衛のいう通りに秀吉は改名。すると、周囲の反応はガラリ。「かわいいところもあるじゃない」と好印象に変わりました。竹中半兵衛のアイデアで妬み嫉みはなくなり、やりやすくなった秀吉は、仕事に集中することができました。
日本史上もっとも出世したサクセスヒーロー・豊臣秀吉が飛躍した背景には、竹中半兵衛の姿がありました。しかし、名コンビは結成から12年で竹中半兵衛の死によって別れを迎えます。秀吉はその亡骸にしがみつき、号泣して「半兵衛さえいれば難しいと感じることは何ひとつなかった」と惜しんだといいます。
生涯を簡単に振り返る
1544年、竹中半兵衛は美濃国・大御堂城に竹中重元の次男として生まれます。斎藤道三の頃から、義龍、龍興と三代にわたって仕えます。織田信長の美濃国進出を阻みましたが、主君・斎藤龍興に疎まれ、稲葉山城の乗っ取り事件を起こしたのちに出奔。近江国の浅井家に身を寄せますが、ほどなくして山奥に隠棲しました。
その後、豊臣秀吉の熱心な誘いを受けて織田家臣になります。浅井攻めなどで秀吉の活躍を後押しし、飛躍的な出世を助けます。信長から播磨国の平定を命じられた秀吉の軍師をつとめ、三木合戦の大規模包囲戦の総指揮を執りました。
最後と死因
三木城攻めの途上、竹中半兵衛は播磨国・平井山の陣中で喀血して亡くなりました。1579年7月6日、死因は肺結核。36歳でした。「陣中で死ぬは武士の本望」と、最後まで戦場に居ることにこだわりました。
竹中半兵衛の性格と人物像
竹中半兵衛は「静かなる闘志を秘めた人」です。
スルースキルが高く、堪え性がありますが、突然カジュアルな仕返しをします。相手が主君であってもキレたら何をするかわからないミステリアスさ、21歳の若さで山に引きこもってしまう潔さ、繊細さも魅力です。
損得や利益では動かず、自分を認めてくれた人に尽くします。自分の功績よりも上司の出世に喜びを感じ、さり気ない知恵で盛り立てます。
インテリだけど文武両道。剣術は皆伝の腕前という豪傑です。軍学に異常な情熱があり、軍物語を教えている最中にトイレに行こうとした長男を「軍談の途中で席を立つな!ここで漏らせ!」と叱りつけたことも。
細身で女性のような顔立ちで ”婦人の如し容貌” とあります。病弱で、部屋で本を読んでいることが多く、学問を好み、おとなしい人物でした。
肖像画に描かれている『一の谷形兜』のほか、鱗の形を模したものなど、半兵衛が着用した甲冑が現存しています。
半兵衛は通称で、本名は竹中重治です。
能力を表すとこんな感じ

敵も味方も手玉にとってしまう卓越した頭脳が竹中半兵衛の美点です。得意の兵法で織田信長さえも何度も撃退しました。
信長の野望シリーズに登場する竹中半兵衛の能力値も参考にしています。
竹中半兵衛の面白い逸話やエピソード
知らぬ顔の半兵衛、スパイから情報を聞き出してしまう
『知らぬ顔の半兵衛』とは、何もかも知っているのにとぼけて知らないふりをすること、またはそうする人のことを指す慣用句です。この慣用句は、竹中半兵衛のある逸話から生まれています。
半兵衛が斎藤龍興に仕えていたころ、斎藤家の情報を集めたい信長は、前田利家を偵察に送り込みます。利家は半兵衛の娘・千里に近づいて情報を聞き出そうと考えました。
織田家のスパイである利家が、娘と親しくしていることを半兵衛はとっくに気づいていました。それを知らない顔でやり過ごし、偽の情報を流します。さらに、それとなく織田家の情報を聞き出していました。
そうとは知らない織田信長が意気揚々と美濃に攻めてくると、半兵衛はこれをフルボッコにしました。
黒田官兵衛の息子の命を救う
有岡城の荒木村重が信長に謀反を起こしました。黒田官兵衛が村重を説き伏せに向かいましたが、捕われてしまい、有岡城の牢に入れられてしまいました。
戻ってこないので、官兵衛が裏切ったと思った織田信長は、怒りにまかせて官兵衛の嫡男・松寿丸を殺すよう命令します。竹中半兵衛がこの件を引き受け、松寿丸をこっそり隠しました。信長には別の子どもの首を差し出しました。
しばらくして有岡城は織田軍が落としました。牢から救出された官兵衛をみて、信長は早とちりで松寿丸を殺してしまったことを悔やみました。するとそこに、元気な松寿丸の姿が。息子との再会を喜ぶ官兵衛の後ろで、信長も泣いて喜びました。
半兵衛の機転によって松寿丸が無事であったことを聞いた官兵衛は、礼をしようとあたりを見回します。しかし、半兵衛はすでに他界したあとでした。
官兵衛は半兵衛への感謝を忘れないよう、竹中家の家紋『石餅』を使うようになりました。松寿丸は元服して黒田長政と名乗り、半兵衛の子・竹中重門と固い友情で結ばれました。
竹中半兵衛の有名な戦い
美濃に侵攻した織田信長が、稲葉山城を居城とする斎藤龍興を攻めた合戦。竹中半兵衛が率いる斎藤軍は、木曽川近くの新加納(岐阜県各務原市那加新加納町)で織田軍を迎撃する。信長はベストメンバーで臨んだが、伏兵戦術を駆使した半兵衛の采配に完敗した。
新加納の戦いで竹中半兵衛は勝っています。
全軍を伏せておく『十面埋伏の陣』を用いて織田軍を背面から奇襲し、混乱したところを全軍で囲い撃ちにしました。織田信長の美濃攻略の動きを止めた合戦です。
信長に叛いた浅井長政を殲滅するべく、織田信長が小谷城(滋賀県長浜市湖北町)を攻めた合戦。小谷山を要害とした堅城を攻略するため、織田軍の木下秀吉は、城内を分断する作戦を実行する。崖を登って奇襲に成功し、小谷城を陥落させた。これにより、浅井氏は滅亡した。
小谷城の戦いで竹中半兵衛は勝っています。
竹中半兵衛のターニングポイントになった戦いです。
浅井長政の妻で信長の妹・市の救出をサブミッションとした攻城戦で、半兵衛は秀吉に城内を分断する作戦を献策します。勝利と市を救出する戦果をあげた秀吉&半兵衛の名コンビは、ここから飛躍しました。
織田氏に叛いた別所長治が篭る三木城(兵庫県三木市上の丸町)を羽柴秀吉が2年ちかく包囲した合戦。竹中半兵衛が考案した補給ルートを断つ作戦で、三木城を孤立させた。餓死者であふれた城内は凄惨をきわめ、開城降伏となった。三木の干し殺しとも。
三木合戦で竹中半兵衛は勝っています。
豊臣秀吉が得意とした自軍を消耗させずに勝つ無血開城戦法は、半兵衛が策を講じた三木合戦がベースになっています。この戦いの陣中で半兵衛は病により亡くなりました。
竹中半兵衛の詳しい年表と出来事
竹中半兵衛は西暦1544年〜1579年(天文13年〜天正7年)まで生存しました。戦国時代中期から後期に活躍した武将です。
1544 | 1 | 竹中重元の次男として美濃国に生まれる。 |
1556 | 13 | ”長良川の戦い”初陣。斎藤義龍との戦に参加。主君・斎藤道三が討死。 次代・斎藤義龍に仕える。 |
1560 | 17 | 父・竹中重元から家督を相続。 |
1561 | 18 | 主君・斎藤義龍が死去。次代・斎藤龍興に仕える。 ”十四条・軽海の戦い”織田信長との戦に参加。 |
1563 | 20 | ”新加納の戦い”織田信長との戦に参加。十面埋伏の陣を指揮して大勝する。 |
1564 | 21 | 主君・斎藤龍興を諌めるため、義父・安藤守就と画策して稲葉山城を乗っ取る。半年ほど占拠したのち稲葉山城を放棄して斎藤氏を出奔。浪人となる。 近江国・浅井長政に客将として迎えられるが、ほどなくして去る。 美濃国の山奥でひっそりと暮らす。 |
1567 | 24 | 斎藤龍興が織田信長に敗れて伊勢国に逃亡。斎藤家滅亡 木下(豊臣)秀吉の熱心な勧誘で織田信長の家臣になる。【三顧の礼】 |
1570 | 27 | 浅井領・長亭軒城、長比城を調略する。 木下秀吉の与力になる。 ”姉川の戦い”浅井氏&朝倉氏との戦に参加。 |
1573 | 30 | ”小谷城の戦い”浅井長政との戦に参加。城内を分断する奇襲案を木下秀吉に献策する。浅井家滅亡 木下秀吉に改姓を勧めて羽柴姓を名乗らせる。 |
1577 | 34 | ”第1次上月城の戦い”宇喜多直家との戦に参加。小寺(黒田)官兵衛と佐用城を攻略。 |
1578 | 35 | 宇喜多領・八幡山城を調略する。 ”三木合戦”別所長治が織田氏に叛く。大規模な包囲戦による兵糧攻めを羽柴秀吉に献策する。 荒木村重が織田氏に叛く。黒田官兵衛が捕われ、裏切りと誤解した織田信長から官兵衛の嫡男・松寿丸(黒田長政)を匿う。 |
1579 | 36 | 播磨国・三木城の陣中で病死。 |

- 竹中重治 – Wikipedia
- 竹中半兵衛(重治)人物年表
- 「竹中半兵衛」は無欲にして剛毅な天才軍師だった|戦国ヒストリー
- 【戦国こぼれ話】「軍師」竹中半兵衛が主の斎藤龍興を稲葉山城から追放した意味について考えてみる
- 竹中半兵衛の解説 豊臣秀吉の天下統一を一緒に夢見た名軍師ー武将辞典
- 本郷和人監修『戦国武将の解剖図鑑』エクスナレッジ
- 矢部健太郎監修『超ビジュアル!戦国武将大事典』西東社
- 歴史人『戦国の智将ランキング』KKベストセラーズ
- 小和田哲男監修『ビジュアル 戦国1000人』世界文化社
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