みずの のぶもと

水野信元

?〜 1576.1.27

 
水野信元の面白いイラスト
  

水野信元(忠次)は、現在の愛知県東部にあたる三河国の武将です。知多半島の独立勢力でしたが、信長が出現した頃から織田氏に臣従します。妹の於大が徳川家康の生母で家康とは甥と叔父の関係でした。織田・徳川を結ぶ清洲同盟を仲介し両家に貢献しますが、武田氏との内通を疑われて誅殺されました。

水野信元は何をした人?このページは、水野信元のハイライトになった出来事をなるべく正しく、独特の表現で紹介しています。きっと水野信元が好きになる「家康と信長をつないだ仲人だったのに恩を仇で返された」ハナシをお楽しみください。

  • 名 前:水野忠次 → 水野信元
  • 官 位:下野守
  • 出身地:三河国(愛知県)
  • 領 地:三河国、尾張国
  • 居 城:緒川城
  • 正 室:松平信定の娘
  • 子ども:2男 10女 1養
  • 跡継ぎ:水野信政
  • 父と母:水野忠政 / 松平信貞の娘
  • 大 名:織田信秀 → 織田信長

家康と信長をつないだ仲人だったのに恩を仇で返された

水野家とは、徳川家康の生母(せいぼ)於大(おだい)(かた)の実家。於大(おだい)(かた)の兄であり家康の叔父にあたる水野信元は、とりわけ徳川家との関わりが深い人物です。

水野氏はこれまで松平氏・今川氏に従っていましたが、水野信元の代になると織田氏に協力する方針へ転換します。

この影響で松平広忠に嫁いでいた於大(おだい)(かた)は離縁され、幼い家康は母と生き別れになってしまいました。責任を感じてか、水野信元は(おい)っ子の家康をなにかと気にかけるようになります。


歴史をつくった
清洲同盟

織田氏との関わりを強めた水野信元は、今川軍に包囲されて困っていたところを当主になったばかりの織田信長に救われます。

これをきっかけに織田氏の傘下にカテゴライズされ、信長と主従の関係になりました。

ほどなくして、1560年の桶狭間の戦いで今川義元が信長に討たれると、どさくさに乗っかって(おい)っ子・家康が今川氏から独立して大名になりました。

今川義元が亡くなったことで、信長と家康にはそれぞれの思惑(おもわく)が生じます。

義元の脅威がなくなったので隣国の美濃(みの)を攻めたい信長。
義元がいなくなった今川氏から三河(みかわ)を取りたい家康。

しかし、ふたりは先ごろまで争っていた敵同士。抜き差しならぬ関係ですので、互いに背後を気にしてやりづらい状況が続いていました。

そこで白羽(しらは)の矢が立ったのが水野信元です。

水野領はちょうど信長と家康の中間にあり、水野信元は両者に顔が利くキーパーソンでした。

【清洲同盟】織田信長と徳川家康による同盟

水野信元はふたりを仲介し、1562年に織田・徳川による『清洲同盟(きよすどうめい)』が成ります。これより以降、1582年の本能寺の変で信長が横死(おうし)するまで同盟は機能しました。

こうしてお互いの背中を守る盟友を得た信長と家康は、それぞれの版図(はんと)を拡大します。

この同盟は、織田信長による天下統一事業の生命線となるのでした。


甥っ子くん
そりゃないぜ

1575年の長篠(ながしの)の戦いで、信長は大量の鉄砲隊を動員して武田騎馬隊を壊滅させます。織田・徳川連合軍が互いに機能し、武田勝頼を倒しました。

この長篠(ながしの)の戦いにおいて、水野信元が武田氏に内通したというデマが流れます。

デマを流したのは織田家臣・佐久間信盛。佐久間は「水野信元が敵方の秋山信友に兵糧を運ぶのを見た」というのです。

そんな事実はありません。

この(うわさ)を知った水野信元は身の危険を感じ、ひとまず(おい)っ子・徳川家康の岡崎城に避難します。

難を逃れたかに思えた水野信元でしたが、岡崎城下の大樹寺(だいじゅじ)に案内されたところで殺されてしまいます。佐久間の讒言(ざんげん)を信じた信長が、家康に水野信元を殺害するよう命じたのでした。

まさか(おい)っ子に殺されるとは思いませんでした。

生涯を簡単に振り返る

生まれと出自

水野信元は三河国(みかわのくに)・刈谷城に水野忠政の次男として生まれます。今川氏、松平氏、織田氏との距離を保ちつつ、力攻めと婚姻を駆使して尾張国(おわりのくに)知多(ちた)郡を支配しました。独立勢力でしたが、尾張国(おわりのくに)へ侵攻をもくろむ今川氏のプレッシャーに抗しきれなくなり、織田信長の臣下に加わります。

信長と家康をつなぐ

桶狭間の戦いの後、(おい)・徳川家康と織田信長を仲介して、両者の協力関係を築く清洲同盟(きよすどうめい)締結(ていけつ)貢献(こうけん)します。姉川の戦い、三方ヶ原(みかたがはら)の戦い、長篠(ながしの)の戦いなど、織田・徳川の合戦にも欠かさず参陣して活躍しました。

最後と死因

信長から武田氏との内通疑惑をかけられ、水野信元は家康を頼りますが三河国(みかわのくに)大樹寺(だいじゅじ)で徳川家臣の平岩親吉(ちかよし)と石川数正によって誅殺(ちゅうさつ)されました。1576年1月27日、死因は殺害。水野家は断絶しますが、のちに信長がこれを冤罪(えんざい)であったと認め、水野忠重に旧領を与えて再興を許しました。

領地と居城

水野信元の領地・勢力図(1547年)

尾張国(おわりのくに)三河国(みかわのくに)をまたぐ知多(ちた)と刈谷あわせて20万石ほどが水野信元の領地でした。ちょうど信長と家康のあいだを領有していました。

水野信元の性格と人物像

水野信元は「面倒見がいい叔父さん」です。

敵味方の立場でありながら桶狭間の戦いでは(おい)っ子・徳川家康を戦場から逃す手助けをし、独立した家康が一向一揆の困難に直面すると援軍を送ってあげる父親のような叔父さんです。

荒っぽく、野心家で、領土拡大欲が強くて頭も良いです。柔と剛を使い分けて近隣勢力を掌握(しょうあく)するしたたかさがありました。

やられたらすぐにやり返します。転んでもただでは起き上がりません。

連歌師・里村紹巴(さとむらじょうは)と交流があり、文化人の活動を支えるパトロンとして財力と影響力を持っていました。

なにげに室町幕府15代将軍・足利義昭とのパイプも持っており『永禄六年諸役人附(えいろくろくねんしょやくにんづけ)』には「外様衆(とざましゅう)」として記名されていることから、幕府直臣(じきしん)の地位を得ていたことがわかります。義昭から信長討伐の密書も受け取っていました。

能力を表すとこんな感じ

水野信元の能力チャート

水野信元には、若かりし日の信長や家康も頼りにした存在感があります。信頼に足る強さと、なにより人情味が魅力です。

能力チャートは『信長の野望』シリーズに登場する水野信元の能力値を参考にしています。東大教授が戦国武将の能力を数値化した『戦国武将の解剖図鑑』もおすすめです。

水野信元の有名な戦い

村木砦の戦い むらきとりでのたたかい 1554.2.25 ○ 織田軍? vs 今川軍? ●

尾張国知多郡(愛知県知多郡東浦町)の水野信元を攻めるため、今川軍が村木に砦を築く。斎藤氏から得た安藤守就の援軍に那古野城の留守を任せ、織田信長が自ら信元の救援に向かい、この砦を攻め落とした。信長がはじめて鉄砲を実戦投入し、三段撃ちを試用した合戦。

村木砦の戦いで水野信元は勝っています。

水野信元のターニングポイントになった戦いです。
知多(ちた)郡を今川軍に攻められ、居城である緒川城(おがわじょう)も孤立させられてしまい、絶体絶命のピンチを迎えます。信長の援軍に救われた信元は、織田氏の配下に加わりました。

桶狭間の戦い おけはざまのたたかい 1560.6.12 ● 今川軍2万5千 vs 織田軍3千 ○

尾張に侵攻してきた今川義元を桶狭間(愛知県名古屋市緑区桶狭間)で織田信長が討ち取った合戦。10倍近い圧倒的な兵力差があり、局面的に織田勢が不利だったが、今川の本陣を強襲し、義元の首級をあげる快挙となった。戦国史上もっとも有名なジャイアントキリング。

桶狭間の戦いで水野信元は勝っています。

織田方として参戦。今川義元が討たれると、今川方の先鋒を務めた(おい)・徳川家康が落ち延びるのを助けて大高城から逃しました。

三河一向一揆 みかわいっこういっき 1563.?〜 1564.2.27 ● 一向一揆? vs 松平軍? ○

上宮寺や勝鬘寺(ともに愛知県岡崎市)などの寺社を拠点とした本願寺門徒と松平元康の争い。今川氏から独立して三河の支配を強める松平氏が、上宮寺から無理に兵糧を奪ったことを発端とする一向一揆。本多正信らが一揆に加担し、松平家中で家康に反する内紛が起きた。

三河一向一揆で水野信元は勝っています。

水野信元は(おい)である徳川家康(松平元康)に援軍を送っています。

三方ヶ原の戦い みかたがはらのたたかい 1573.1.25 ○ 武田軍3万 vs 織田&徳川軍1万5千 ●

西上作戦で遠江に侵攻した武田信玄と織田徳川の連合軍が三方ヶ原(静岡県浜松市北区三方原町)で激突した合戦。徳川の本拠地・浜松城をスルーして進軍した信玄の策略にかかった徳川家康が、城から出て野戦をしかけた。山県昌景の猛攻を受けて徳川軍は壊滅、敗走した。

三方ヶ原の戦いで水野信元は敗れています。

織田氏からの援軍として佐久間信盛と共に合戦に加わります。籠城論を主張して家康と意見対立します。が、三方ヶ原(みかたがはら)で大敗した家康に変わって浜松城の指揮を採り、夜間に鉄砲隊で威嚇(いかく)して武田軍を退(しりぞ)けました。

長篠の戦い ながしののたたかい 1575.6.29 ● 武田軍1万5千 vs 織田&徳川軍3万8千 ○

長篠城(愛知県新城市)をめぐって、織田徳川連合軍と武田勝頼が争った。この合戦で織田信長は、武田騎馬隊を馬防柵によって封じ、滝川一益が率いた3,000挺からなる鉄砲隊で、絶えず銃弾を浴びせる近代戦術を使った。山県昌景が戦死した武田軍の被害は1万人とも。

長篠の戦いで水野信元は勝っています。

武田方と通じたとする佐久間信盛のでまかせにより、怒った信長から殺害命令が出されてしまいました。

水野信元の詳しい年表と出来事

水野信元は生年が不明です。1576年(天正3年)まで生存しました。戦国時代中期から後期に活躍した武将です。

1水野忠政の次男として三河国に生まれる。
1543父・水野忠政の死去により家督を相続。
宮津城を攻め落とす。新海淳尚を討ち取る。
宮津城を廃城にし、亀山城を築城。稲生政勝を配備する。
成岩城を攻め落とす。榎本了圓を滅ぼす。
長尾城を攻める。岩田安広を降し追放する。
常滑水野家・水野守隆に娘を嫁がせる。
富貴城を攻め落とす。戸田法雲を滅ぼす。
布土城を築城。六弟・忠分を配備する。
1544松平氏ならびに今川氏を離反して織田氏に従う。
妹(於大)が松平広忠に離縁される。
1546松平家臣・酒井忠尚を離反させる。
1547久松俊勝に妹(於大)を嫁がせる。
戸田守光を娘(妙源)の婿に迎える。
尾張国・知多を掌握。
1549織田信秀が今川義元に敗れて安祥城を奪われる。
織田氏を離反して今川氏に従う。
1551織田信秀が死去。織田信長が織田氏当主になる。
※この頃から再び織田氏に従ったかもしれない。
1554今川義元が三河国に侵攻してくる。刈谷城が包囲され、緒川城の前に村木砦が築かれて危機になる。
”村木砦の戦い”織田信長の援軍を得て今川領・村木砦を攻め落とす。
織田信長に従属する。
1555鈴木信重、吉良義安、奥平貞勝と呼応して今川氏に叛き、三河国で挙兵する。【三河忿劇】
1558”石ヶ瀬川の戦い”甥・松平元康(徳川家康)に尾張国・知多を攻められる。
1560”桶狭間の戦い”今川義元との戦に参加。今川義元が織田信長に討たれたのち、今川軍の先鋒を務めた甥・松平元康の退却を助ける。
長弟・信近が刈谷城を岡部元信に攻められて討死。
今川氏に奪われた刈谷城、重原城を攻めて奪還する。信近の首級も取り戻す。
甥・松平元康に重原城を攻められるが、撃退する。
1561北条氏康から松平元康との争いを仲介する申し出を受ける。
1562甥・松平元康と織田信長の同盟を仲介する。以降も松平元康の相談に乗る。【清洲同盟】
末弟・忠重と従兄弟・清久が松平元康のもとへ去る。
1563”三河一向一揆”一向一揆との戦に参加。松平元康に味方する。
1567長弟・信近の子・水野信政に家督を譲る。
1568足利義昭を奉じて京に進軍を開始する織田信長の軍勢に加わる。
1570”姉川の戦い”浅井氏&朝倉氏との戦に参加。佐和山城を攻める。
1573”三方ヶ原の戦い”武田信玄との戦に参加。佐久間信盛、平手汎秀と徳川氏の援軍に向かう。敗走する甥・徳川家康に代わって指揮を採り武田軍の追撃を防ぐ。
1574将軍・足利義昭から「武田勝頼と協力して信長を討て」の御内書が届く。
”第3次長島一向一揆”一向宗門徒の殲滅戦に参加。
1575”長篠の戦い”武田勝頼との戦に参加。
1576佐久間信盛によって織田信長に讒言され、武田氏との内通を疑われる。
織田信長の命令を受けた甥・徳川家康に三河国・大樹寺で水野信政と一緒に殺害される。
水野信元の顔イラスト
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