滝川一益
1525.? 〜 1586.10.21

滝川一益は、現在の滋賀県にあたる近江国の武将です。織田四天王のひとり。鉄砲の腕前を買われ、織田信長にスカウトされて重用されます。鉄砲隊を率いた長篠の戦いで歴史を変える戦果を挙げたほか、鉄甲船を用いた水軍の指揮も執りました。信長の死後、織田家中での立場が微妙になり、急転直下しました。享年62歳。
- 滝川一益の人物タイプ
- 猛将
このページでは、滝川一益が何をしたどんな人なのか、ハイライトやエピソードを紹介しています。きっと滝川一益のことが好きになります。
- 名 前:滝川一益 → 滝川入庵 → 滝川不干
- 幼 名:久助
- 官 位:左近尉、左近将監、伊予守
- 出身地:近江国(滋賀県)
- 領 地:上野国、伊勢国
- 居 城:蟹江城 → 長島城 → 厩橋城 → 桑名城
- 子ども:5男 3女 2養
- 跡継ぎ:滝川一時
- 父と母:滝川資清 / 不明
甲州征伐で大活躍したが清洲会議に乗り遅れてしまった
覇王ノブナガを支えた織田四天王のひとり、滝川一益は敵勢力の制圧において、織田家臣のなかでもダントツの成果を挙げています。
鉄砲の扱いが誰よりも上手く、水軍の指揮もできる。滝川一益を戦地に送り込めば、たちどころに敵勢力を蹴散らしました。そんな都合のいい男、滝川一益を織田信長は酷使します。
休む間もなく戦いに明け暮れたノンストップバトラー・滝川一益は、信長の天下統一事業を強烈に推し進めました。
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制圧部隊を率いて
敵対勢力を駆逐
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滝川一益が戦ったのはいずれも激戦地で、死をも恐れぬ本願寺の一向宗門徒、恐怖の武田騎馬隊、海戦最強の毛利水軍といった列強を相手に戦い、そのすべてに勝利して駆逐しました。
伊勢攻略では先鋒隊で突入し、北伊勢の豪族衆(北勢四十八家)を壊滅させる働きをしました。これだけに止まらず、北畠家当主の弟・木造具政を調略する頭脳プレーで、最大勢力の弱体化に成功。信長の次男・信雄を北畠家に送り込む糸口をつくります。
伊勢のデルタ地帯に巣食う一向宗との戦いでは、地元の海賊・九鬼嘉隆を引き連れて、水軍による海上からの鉄砲射撃で、敵砦を陥落させました。
仲良くなった九鬼水軍と連携して、最強といわれていた毛利水軍をも駆逐します。その際、鉄板で装甲した安宅船『鉄甲船』という常識やぶりの兵器を建造しました。

1575年の長篠の戦いにはじまる武田氏との戦いは滝川一益のハイライトです。信長自慢の鉄砲隊が火を吹いた世紀の一戦で、滝川一益は鉄砲隊を指揮して圧勝します。武田領に侵攻した甲州征伐では、武田勝頼の潜伏先を突き止めて攻め滅ぼしました。
抜群の功績を挙げた滝川一益を、織田信長は『東国の御取次』に任命し、関東地方を束ねるボスに据えました。関東の雄・北条氏も滝川一益に従いました。
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その会議、
ちょっと待って!
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武田氏を滅ぼした同年の1582年、本能寺の変で信長が亡くなると、関東では北条氏が反乱を起こします。対応に追われた滝川一益は、激務のすえ命からがら逃げました。その間に、織田家では後継ぎを決める清洲会議が行われ、滝川一益は重臣なのに会議に出席できませんでした。
悪いことに、清洲会議の欠席が響いて、格下だった羽柴(豊臣)秀吉にすっかりナメられてしまいます。秀吉が仕切って行われた信長の葬儀には呼んでもらえず、焼香に行っても門前払いにされる始末でした。
ギザギザハートの滝川一益は、このあと柴田勝家に味方して秀吉と戦いますが、敗れて、失意のままひっそりと退きました。激戦区で戦い続けた男の引き際は、なんともさびしいものでした。
滝川一益の生涯をふりかえる
滝川一益は、1525年に近江国・甲賀郡に武士の次男として生まれます。素行不良で一族から絶縁され、放浪したのち堺で鉄砲の製造と扱い方を学びます。鉄砲の腕前を見込まれて織田信長の家来になり、1567年からはじまった伊勢国攻めで活躍しました。これで信長の信頼を得ると各地を転戦し、戦功を重ねました。
1582年に武田勝頼を攻め滅ぼしますが、本能寺の変で信長が横死すると領内で反乱が起こり、鎮圧できずに敗走します。豊臣秀吉が台頭した織田家で居場所を失い1586年に越前国・大野で亡くなりました。62歳でした。
信長の死後は柴田勝家と協力して秀吉に対抗しましたが敵わず、すべての領地を没収されました。晩年はかつての迫力はなく、失明して出家しました。

甲斐国と信濃国、上野国と伊勢国の一部を合わせた118万石が滝川一益の領地でした。武田領を受け継いだのも束の間、関東の統括はできませんでした。
滝川一益の性格と人物像
滝川一益は「振り幅が大きい人」です。合戦の駆け引きが抜群で、”進むも滝川、退くも滝川” と称されたほど。コミュニケーションも得意で、関東諸侯から尊敬される人柄の兄貴肌。スピード出世しますが、晩年にかけて乱高下しています。
鉄砲の扱い、知識は特筆すべき点で、堺で製造法と使い方を3年間学びました。信長の面接試験では、50m先にある30cmの的に100発中72発を命中させています。柱にあけた穴を通して、向こう側の敵を撃ち倒せました。
素行が悪くて博打好き。あまりの不良さゆえ一族から追い出されています。無頼漢ですが気持ちが良い男でした。柴田勝家とは仲良しで、小賢しい秀吉とは気が合いませんでした。
忍者の里である甲賀出身ということで、忍者説がありますが、定かではありません。まんが『花の慶次』で人気の前田慶次は、一益と同じ滝川一族です。
滝川一益の能力を考えてみる

鉄砲の腕前はもとより、さまざまな兵種で結果を出せる統率力が滝川一益の魅力です。知恵を使った交渉や調略も得意です。
滝川一益のエピソードや逸話
領地よりも茶道具が欲しかったのに重荷を背負わされてしまう
甲州征伐で武田勝頼を滅ぼした功績を、織田信長は大いに喜びました。
信長「どんな褒美でもやろう、なにが欲しい?」
一益「では、珠光小茄子を頂きとうございます」
なんと、一益は領地ではなく茶道具を所望しました。
信長「冗談だろ?よし!関東で一番えらい役職をあげよう。励め!」
一益「…はい」
茶会を催すことは武士のステータスだったので、一益は小さくて品がある茶入が欲しかったのです。それにもう高齢で、戦いに明け暮れる日々に疲れていました。しかし、気を良くした信長は、関東武士を取りまとめる役目を彼に与えました。

茶人・三国一太郎五郎に宛てた滝川一益の手紙には、こう綴られていました。
「思わぬ地獄に堕ちてしまった。茶の湯を楽しむのも遠い。どうしよう」
居候先で叔父さんの側室に手をだしたあげく叔父さんを斬ってしまう
滝川一益が若い頃、親類の叔父さんの家に居候をしていました。そこにいた叔父さんの側室に、一益はエッチなちょっかいを出します。そんなことを続けていたある日、ついに叔父さんに現場を見られてしまいました。
激怒した叔父さんは、抜刀して一益に斬りかかります。あろうことか、一益はこれを返り討ちにしてしまいました。さすがにやりすぎてしまった一益は、叔父さんの家を出て行きました。
それからかなり経って、織田家でブイブイ活躍していた一益のもとを、この側室だった女性が訪ねてきます。一益はこの女性を正室として迎えたとか。
滝川一益の有名な戦い
伊勢・長島(三重県桑名市)の一向宗門徒と織田信長による合戦。石山合戦に伴って3回行われた。織田軍は柴田勝家らを投入するが、熾烈な争いは一進一退が続く。九鬼嘉隆の水軍を率いた滝川一益が海上攻撃で打破。信長は、屋長島、中江を柵で囲い、焼き討ちで全滅させた。
長島一向一揆で滝川一益は勝っています。
第3次合戦で、海上攻撃を行う水軍を率いた一益は、安宅船の上から敵兵を狙撃しました。陸海制圧に貢献し、勝利を呼び込みました。
長篠城(愛知県新城市)をめぐって、織田徳川連合軍と武田勝頼が争った。この合戦で織田信長は、武田騎馬隊を馬防柵によって封じ、滝川一益が率いた3,000挺からなる鉄砲隊で、絶えず銃弾を浴びせる近代戦術を使った。山県昌景が戦死した武田軍の被害は1万人とも。
長篠の戦いで滝川一益は勝っています。
鉄砲隊の総指揮を執り、当代最強の武田騎馬隊を壊滅させます。信玄の死後、武田氏の弱体化を招くきっかけになった戦いであり、合戦の主役を槍から鉄砲へと変えた、歴史を動かした一戦です。
信玄亡きあと衰退する武田氏を織田信忠が率いる織田軍が攻めた合戦。滝川一益に追い詰められた武田勝頼は、40名ほどを伴って天目山(山梨県甲州市大和町)に退き自害。武田家は滅亡した。浅間山の噴火や家臣団の崩壊、小山田信茂の離反など、武田勢は不運もあった。
甲州征伐で滝川一益は勝っています。
実質的な指揮官として武田領に攻め込んだ一益は、信濃国から粛々と侵略します。信長の到着を待たずに、織田軍は甲斐国まで制圧しました。
信長の死後、北条氏政を中心とした北条一族が織田氏を離反し、滝川一益を攻めた合戦。神流川(埼玉県児玉郡上里町)周辺で争われ、滝川軍は北条氏邦を敗るなど緒戦に勝ったが、味方である北条高広ら与力の足並みが揃わず苦戦。北条氏直が押し返して滝川勢を敗走させた。
神流川の戦いで滝川一益は敗れています。
滝川一益のターニングポイントになった戦いです。
関東の統治を命じられてから、わずか3か月後に起こった青天の霹靂でした。一益は孤軍奮闘もむなしく敗れます。この戦いで足止めされたため、本能寺の変後の織田家の動きに加われませんでした。
信長亡きあと、織田家の掌握を狙う羽柴秀吉と、家中を二分していた柴田勝家が賤ヶ岳(滋賀県長浜市)付近で展開した戦い。前田利家の戦線離脱によって、柴田軍は潰走。勢いづく秀吉に北ノ庄城を攻められ落城した。秀吉子飼いの福島正則ら若手武将が活躍した。
賤ヶ岳の戦いで滝川一益は敗れています。
友人でもある柴田勝家に味方して、蒲生氏郷らの軍勢と長島城で戦いましたが、孤立し、開城降伏しました。
滝川一益の詳しい年表・出来事
滝川一益は西暦1525年〜1586年(大永5年〜天正14年)まで生存しました。戦国時代中期から後期に活躍した武将です。
1525 | 1 | 滝川資清の次男として近江国に生まれる。幼名:久助 |
? | ? | 織田信長に仕える。 |
1562 | 38 | 松平元康(徳川家康)と同盟の交渉役を務める。【清洲同盟】 |
1567 | 43 | 北畠具教との戦に参加。先陣で伊勢国の豪族衆を制圧する。 |
1569 | 45 | ”大河内城の戦い”北畠具教・具房父子との戦に参加。木造具政を調略して織田氏に従わせる。多芸城および周辺を焼き討ちにする。 織田信長から伊勢国の北部を拝領する。 蟹江城を居城にする。 |
1573 | 49 | ”一乗谷城の戦い”朝倉義景との戦に参加。朝倉家滅亡 ”第2次長島一向一揆”一向宗門徒の鎮圧戦に参加。柴田勝家と坂井城を攻略する。 |
1574 | 50 | ”第3次長島一向一揆”一向宗門徒の殲滅戦に参加。九鬼水軍を率いて海上からの射撃で大打撃を与える。 織田信長から伊勢国・長島を拝領する。 長島城を居城にする。 |
1575 | 51 | ”長篠の戦い”武田勝頼との戦に参加。鉄砲隊を指揮して山県昌景ほか敵将を多数討ち取り、武田騎馬隊を壊滅させる。 ”越前一向一揆”一向宗門徒の殲滅戦に参加。 |
1576 | 52 | ”天王寺砦の戦い”石山本願寺との戦に参加。 ”第1次木津川口の戦い”毛利水軍との戦に参加。 |
1577 | 53 | ”第1次紀州征伐”雑賀衆との戦に参加。浜手から攻める。 |
1578 | 54 | 明智光秀の指揮下で荒木城を包囲。 ”第2次木津川口の戦い”毛利水軍との戦に参加。九鬼水軍の鉄甲船を率いて大鉄砲で大勝する。 ”有岡城の戦い”荒木村重が織田氏に叛く。討伐に向かう。 |
1579 | 55 | 荒木勢の中西新八郎を調略して上﨟塚砦を降す。 |
1581 | 57 | ”第2次天正伊賀の乱”伊賀衆との戦に参加。甲賀口から攻める。 |
1582 | 58 | ”甲州征伐”武田勝頼との戦に軍監として参加。武田勝頼を天目山に追い詰めて勝利する。武田家滅亡 織田信長から上野国と信濃国・小県、佐久を拝領する。 織田信長から関東御取次役に任命され、関東八州の統治を任じられる。 関東の諸将が織田氏に従う。 厩橋城に居城を移す。 主君・織田信長が死亡。【本能寺の変】 ”沼田城の戦い”藤田信吉が織田氏に叛く。沼田城を攻められるが、鎮圧する。 甲斐国および信濃国で武田旧臣たちが反乱を起こす。 ”神流川の戦い”北条氏直が上野国に侵攻してくる。善戦するが、信濃国に敗走する。 清洲城で柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉、池田恒興の4人で会議を行われる。出席できず。【清洲会議】 敗走を続けて伊勢国に辿り着く。 |
1583 | 59 | ”賤ヶ岳の戦い”柴田勝家の指揮下で羽柴秀吉との戦に参加。伊勢国で羽柴軍と争うが、孤立して降伏する。 羽柴秀吉に所領をすべて没収される。 越前国の丹羽長秀のもとで蟄居。 |
1584 | 60 | 蟄居を解かれて羽柴秀吉に召集される。 ”小牧・長久手の戦い”羽柴秀吉の指揮下で徳川家康との戦に参加。九鬼嘉隆と前田長定を調略する。 ”蟹江城合戦”蟹江城を占拠するが徳川軍に包囲され、開城降伏して落ち延びる。 出家 → 滝川入庵 |
1586 | 62 | 越前国・大野で死去。 |

- 滝川一益 – Wikipedia
- 滝川一益(信長の関東方面司令官兼遊撃隊長):年表でみる戦国時代
- 【刀剣ワールド】滝川一益の歴史(戦国武将)
- 織田信長家臣石高どれぐらいだったのでしょう?柴田勝家、丹羽長重、池田恒興、豊臣… – Yahoo!知恵袋
- 滝川一益 無頼の人がいつしか茶の湯の人に? – YouTube
- 本郷和人監修『戦国武将の解剖図鑑』エクスナレッジ
- 矢部健太郎監修『超ビジュアル!戦国武将大事典』西東社
- 小和田哲男監修『ビジュアル 戦国1000人』世界文化社
- 歴史人『最強!織田家臣団の実力』KKベストセラーズ
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