佐久間信盛
1528.?〜 1582.2.18

佐久間信盛は、現在の愛知県西部にあたる尾張国の武将です。織田信長が幼い頃から仕えた重臣です。版図拡大期の織田家筆頭家老で、主要な戦いのほぼすべてに参戦しました。新進気鋭の織田軍団にあって次第に存在感が薄れ、働きが不十分であるとして信長から折檻状を突きつけられて追放されました。享年55。
- 佐久間信盛の武将タイプ
- 参謀
佐久間信盛は何をした人?このページは、佐久間信盛のハイライトになった出来事をなるべく正しく、独特の表現で紹介しています。きっと佐久間信盛が好きになる「筆頭家老なのに突然の折檻状で信長からクビにされた」ハナシをお楽しみください。
- 名 前:佐久間信盛 → 佐久間夢斎定盛
- 幼 名:牛助
- あだ名:退き佐久間
- 出身地:尾張国(愛知県)
- 領 地:三河国、尾張国
- 居 城:鳴海城
- 正 室:前田種利の娘
- 子ども:3男 3女
- 跡継ぎ:佐久間信栄
- 父と母:佐久間信清 / 能呂氏
- 大 名:織田信秀 → 織田信長
筆頭家老なのに突然の折檻状で信長からクビにされた
織田信長に仕えて30年、最古参にして筆頭家老の佐久間信盛は、信長から折檻状を送りつけられ、クビにされてしまったことで知られています。
”折檻” とは、厳しくしかること。体罰を加えこらしめること。「折檻状」とは、このような意図でしたためられた痛烈に批判される手紙のことです。
佐久間信盛は、信長が吉法師と名乗っていた幼少から仕える重臣。トラブルメーカーだった信長を一貫して支持した数少ない人物です。
まわりが敵だらけの信長も、佐久間信盛のことは信頼していて、それはもう、あっちこっちにこき使いました。
無茶ぶりに応えつづけた甲斐あって、佐久間信盛は押しも押されぬ筆頭の地位を得ていました。
あの日までは。
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やぶから棒に
19ヶ条の折檻状
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石山本願寺と信長が講和した1580年のこと。本願寺対策部長をつとめていた佐久間信盛がほっとひと息をついたころ、信長から悪夢のような手紙が届きます。ここ5年間の働きを叱りつける内容が19ヶ条も書かれた折檻状でした。
ざっとした内容はこう。
<職務怠慢>
へっぴり腰の無能め!5年間で本願寺を攻めもしない。明智光秀や柴田勝家をみろ。恥を知れ。策をめぐらせるとか、信長に相談しにくるとか、出来ることはいっぱいあっただろ。
<無能すぎ>
三河・尾張・近江・大和・河内・和泉・紀伊の7か国も与力をつけたのに成果なしって馬鹿なの?領地や部下を増やしてやったのに、部下をクビにして土地を自分のものにするとは言語道断!ケチくさいことするから部下がついてこない。そんなの唐でも南蛮でも常識だろ。
<恥ずかしい>
三方ヶ原で武田信玄にちょっと擦られただけで逃げたな。お前は怪我ひとつしなかったが、味方の平手汎秀は討ち死にした。助けもせず逃げ帰ってきたくせに平気でいるなんて恥ずかしいだろ。
<ついでに>
いつぞやは俺に向かって口答えしたな。俺の面目が丸つぶれだわ!
あと息子(佐久間信栄)まで無能とは呆れちゃう。
これらの辛辣な言葉のあとで信長に今後を問われます。
信長「死ぬ気で頑張るか、頭を丸めて高野山に行くか決めろ」
信盛「高野山でお願いします」

こうして佐久間信盛は1580年に高野山へ追放となりますが、怒りがおさまらない信長から高野山に居ることも許されず放浪し、2年後にひっそりとこの世を去りました。
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あのときの
あれかー
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折檻状にある ”信長の面目が丸つぶれ” になった出来事があります。
それは朝倉攻めのおり、朝倉軍を追う織田軍の動きが遅かったことに腹を立てた信長が、諸将を集めて怠慢プレーを叱りました。
重臣たちがみな低頭するなか、佐久間信盛は「そうは言われましても我々ほどの家来はおりません」(超訳:いうて私ら優秀ですよ)と、口走ってしまいます。
言うまでもなく火に油。激昂する信長をみんなで抑えて、なんとか収まりましたが、信長はずっと根に持っていたようです。
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本能寺の変の
一説になっている
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追放された佐久間信盛のポストに入ったのが明智光秀です。1582年に本能寺の変を起こすあの人です。
本能寺の変の直前、信長からDV被害にあっていた光秀は、かつての佐久間信盛の姿と自分を重ね合わせて信長の殺害を決めたという説があります。
一寸先は闇。明日は我が身。
暴君ノブナガのジェットコースター粛清劇をわかりやすく示した佐久間信盛事件でした。
生涯を簡単に振り返る
生まれと出自
1528年、佐久間信盛は尾張国・愛知郡山崎に佐久間信清の長男として生まれます。織田家の嫡男・吉法師(織田信長)を幼少のころから側ちかくで支えました。桶狭間の戦いをはじめ、台頭する信長と織田家の屋台骨としてほとんどの合戦に参陣し、あらゆる局面で大役を担いました。
突然の追放
信長が上洛を果たすと畿内方面を統括する立場を任され、石山本願寺の攻略を命じられます。およそ5年のあいだ対本願寺の司令官を務めますが、成果を挙げられなかったとして役目を解かれ、追放されました。
最後と死因
嫡男・信栄とわずかな郎党を連れてさまよい、佐久間信盛は紀伊国・熊野で亡くなりました。1582年2月18日、死因は病気。55歳でした。熊野に落ち延びるころには従者は1人だったいいます。湯治で足を滑らせて転落死した説もあります。
領地と居城

尾張国・鳴海と、水野信元を貶めて手に入れた知多・刈谷を合わせた20万石ほどが佐久間信盛の領地でした。近江国にも飛び地を持っていました。
佐久間信盛の性格と人物像
佐久間信盛は「取り繕うのが上手い人」です。
調子がいいことを言って上司の機嫌をとったり、それっぽい応答をしますが責任感はありません。
とはいえ、上洛を決めた信長に皆が賛同しかねていると「賛成です。なあ皆!」と呼びかけて動かすなど、適当なムードメイキングが役に立つこともありました。
秀吉が重用されはじめると陰口をたたくものがいましたが「信長様の見る目が間違ったことがあったか?」と不満を述べる者たちをたしなめたといいます。
しかしながら、根も葉もない嘘で水野信元を蹴落として、結果的に信元の領地を頂いてしまう負のカルマも見え隠れし、お調子者では済まされません。
宣教師・ルイス=フロイスは「織田家中でもっとも高位で、富み、かつ強力」であると信盛を評しています。家臣団のなかでも圧倒的な財力がありましたが、すべて没収されてしまいました。
馬上から数人の敵を斬り倒すこともあった豪傑で、撤退戦が得意であったことから『退き佐久間』の異名をとり、殿を任されることが多かったようです。
織田家では信長が認めた場合のみ茶会への出席および開催が認められていましたが、近衛前久との茶会に信長と同席するなど別格の扱いをうけていました。
能力を表すとこんな感じ

人望があり、交渉力や調整力を活かした仕事が佐久間信盛の魅力です。弁が立つからか、言わなくてもいいことを口走ってしまうのが悪い癖です。
能力チャートは『信長の野望』シリーズに登場する佐久間信盛の能力値を参考にしています。東大教授が戦国武将の能力を数値化した『戦国武将の解剖図鑑』もおすすめです。
佐久間信盛の面白い逸話やエピソード
じつは折檻状でディスられるほど酷くもない
信盛に送られた折檻状で、織田信長はいくつかのポイントを責めています。そのいずれにも、佐久間信盛には一応の言い分がありました。
職務怠慢とされた本願寺の件。
石山本願寺に対しては包囲策を用いて積極的な攻勢に出ないというのは信長が決めた基本方針でした。そのため信盛は、本願寺の補給ルートを分断する働きをしています。信長の指示どおりでした。
また、石山本願寺を包囲するには巨額の資金を捻出する必要があり、部下をリストラしたのはこのためでした。
根にもたれてしまった口答えの一件も、信長に叱られてしょげる重臣たちの内心を代弁できるのは家臣団トップの信盛くらいでした。
付き合いが長く、なにかにつけて口を挟んでくる信盛のような重臣は、信長にとって邪魔でした。
実際のところ、本願寺との抗争が講和で手打ちとなったことで、もはや信盛は用済みになってしまったのでしょう。
佐久間信盛の有名な戦い
尾張に侵攻してきた今川義元を桶狭間(愛知県名古屋市緑区桶狭間)で織田信長が討ち取った合戦。10倍近い圧倒的な兵力差があり、局面的に織田勢が不利だったが、今川の本陣を強襲し、義元の首級をあげる快挙となった。戦国史上もっとも有名なジャイアントキリング。
桶狭間の戦いで佐久間信盛は勝っています。
織田信長が劇的な勝利を飾った一戦で、信盛は織田領・善照寺砦の守備をしています。信長は兵を善照寺砦に集結させ、桶狭間の今川本陣に向かいました。
西上作戦で遠江に侵攻した武田信玄と織田徳川の連合軍が三方ヶ原(静岡県浜松市北区三方原町)で激突した合戦。徳川の本拠地・浜松城をスルーして進軍した信玄の策略にかかった徳川家康が、城から出て野戦をしかけた。山県昌景の猛攻を受けて徳川軍は壊滅、敗走した。
三方ヶ原の戦いで佐久間信盛は敗れています。
武田信玄と対決する徳川家康の助勢に向かいますが、途中で信玄の部隊にバッタリ遭ってしまい大敗。あわてて浜名湖まで逃げました。
織田軍に包囲された浅井長政を救援すべく朝倉義景は出陣した。しかし、浅井氏の劣勢をみて撤退を開始する。義景の撤退を予測していた織田信長は、猛追撃して朝倉軍を壊滅させた。一乗谷城(福井県福井市城戸ノ内町)は陥落し、朝倉氏は滅亡した。刀根坂の戦いとも。
一乗谷城の戦いで佐久間信盛は勝っています。
佐久間信盛のターニングポイントになった戦いです。
信長から「朝倉義景を逃すな」という厳命を受けますが、信盛ら重臣たちは信長が率いた本隊に遅れをとります。信長から叱責され、つい口答えをしてしまいました。
反信長の姿勢を強める三好義継の若江城(大阪府東大阪市若江北町)を織田軍の佐久間信盛が攻めた合戦。義継の反乱は足利義昭に同調したものだったが、佐久間勢を押し寄せると義昭は逃亡。三好方の若江三人衆が織田氏と内通し、若江城は陥落。三好氏は滅亡した。
若江城の戦いで佐久間信盛は勝っています。
足利義昭を匿った三好義継を攻めて自害させました。この勝利で、朝倉攻めの際の口答えの件は一応ゆるされます。
長篠城(愛知県新城市)をめぐって、織田徳川連合軍と武田勝頼が争った。この合戦で織田信長は、武田騎馬隊を馬防柵によって封じ、滝川一益が率いた3,000挺からなる鉄砲隊で、絶えず銃弾を浴びせる近代戦術を使った。山県昌景が戦死した武田軍の被害は1万人とも。
長篠の戦いで佐久間信盛は勝っています。
あらかじめ武田方の長坂光堅に嘘の内通をしていました。信盛が寝返りを約束し、武田勝頼に設楽原まで兵を進めさせたことが、織田軍の大勝につながりました。この戦いにおいて、信盛は与力の水野信元の内通を信長に讒言(ありもしない悪口)しています。
対石山本願寺のために織田軍が築いた天王寺砦(大阪府大阪市天王寺区)で行われた攻防戦。雑賀衆の加勢を受けて勢いづく本願寺軍が砦を攻め、明智光秀ら守勢が窮地に陥る。急遽援軍の動員令を出すが間に合わず、織田信長が3千の兵で砦に駆けつけ、敵を追い散らした。
天王寺砦の戦いで佐久間信盛は勝っています。
砦の守備にあたる長男・信栄らの救援に信長と共に駆けつけます。 対本願寺の司令官だった塙直政が討ち死にしたため、これより以降は信盛が引き継ぎました。そして、このころから運命の歯車が狂いはじめます。
佐久間信盛の詳しい年表と出来事
佐久間信盛は西暦1528年〜1582年(享禄元年〜天正10年)まで生存しました。戦国時代中期から後期に活躍した武将です。
1528 | 1 | 佐久間信清の嫡男として尾張国に生まれる。幼名:牛助 |
? | ? | 吉法師(織田信長)の家老になる。 |
1552 | 25 | 主君・織田信秀が死去。次代・織田信長に仕える。 |
1555 | 28 | 織田重孝が守山城主・織田信次の家臣に殺される。逃亡した織田信次に代わって織田信長の異母弟・信時を守山城主に推薦する。 |
1556 | 29 | ”稲生の戦い”織田信行との戦に参加。 筆頭家老になる。 |
1560 | 33 | ”桶狭間の戦い”今川義元との戦に参加。善照寺砦を守る。 織田信長から尾張国・鳴海城を拝領する。 |
1567 | 40 | 徳川家康の嫡男・信康に嫁ぐ織田信長の長女(五徳)を岡崎城まで送る。 |
1568 | 41 | ”観音寺城の戦い”六角義賢・義治父子との戦に参加。箕作城を攻略する。 丹羽長秀、明智光秀、木下(豊臣)秀吉、中川重政とともに京都で政務を行う。 松永久秀を織田氏に従属させる。 細川藤孝、和田惟政と松永久秀の援軍に向かう。 |
1570 | 43 | ”金ヶ崎の戦い”朝倉義景との戦に参加。 近江国・永原城に入る。 ”野洲河原の戦い”六角義賢・義治父子が長光寺城に侵攻してくる。柴田勝家と撃退する。 ”姉川の戦い”浅井氏&朝倉氏との戦に参加。 ”野田城・福島城の戦い”三好三人衆との戦に参加。 ”志賀の陣”比叡山延暦寺に篭る浅井氏&朝倉氏との戦に参加。 |
1571 | 44 | ”第1次長島一向一揆”一向宗門徒の鎮圧戦に参加。中筋口から攻める。 ”近江一向一揆”柴田勝家らと金森の一向宗門徒を駆逐する。 高槻城を接収しようとする荒木村重、松永久秀らに勧告を無視される。代わって明智光秀が撤兵させる。 ”比叡山焼き討ち”織田信長が行った比叡山延暦寺の殲滅戦に参加。 織田信長から近江国・栗田を拝領する。 筒井順慶を織田氏に降伏させる。 大和国で争う筒井順慶と松永久秀を明智光秀と仲介し和睦させる。 |
1572 | 45 | 松永久秀が畠山領・交野城を攻める。柴田勝家と撃退する。 浅井領・小谷城攻めに参加。 美濃国・岐阜城に入り、武田信玄に備える。 |
1573 | 46 | ”三方ヶ原の戦い”平手汎秀、水野信元と徳川家康の援軍に向かう。武田信玄に大敗し浜名湖まで潰走する。 織田信広、細川藤孝とともに二条御所に出向く。織田信長と争った足利義昭との和睦交渉を行う。 ”一乗谷城の戦い”朝倉義景との戦に参加。朝倉家滅亡 ”小谷城の戦い”浅井長政との戦に参加。浅井家滅亡 柴田勝家、丹羽長秀、蒲生賢秀と六角領・鯰江城を攻め落とす。 ”第2次長島一向一揆”一向宗門徒の鎮圧戦に参加。丹羽長秀、羽柴(豊臣)秀吉と西別所城を攻略、トンネルを掘って白山城に攻め込み陥落させる。 ”若江城の戦い”三好領・若江城を攻める。三好義継を自害させる。三好家滅亡 六角領・菩提寺城、石部城を包囲する。 |
1574 | 47 | 六角領・菩提寺城、石部城を落とす。六角義賢・義治父子は逃亡。六角家滅亡 ”第3次長島一向一揆”一向宗門徒の殲滅戦に参加。賀鳥口から攻める。 |
1575 | 48 | 徳川家康のもとへ派遣される。長篠城など徳川領と武田領の境界を検分する。 ”高屋城の戦い”三好康長、石山本願寺との戦に参加。 ”長篠の戦い”武田勝頼との戦に参加。武田方の長坂光堅に内通を偽って油断させ武田軍を設楽原におびき出す。 ”岩村城の戦い”武田勝頼との戦に参加。 ”越前一向一揆”一向宗門徒の殲滅戦に参加。 |
1576 | 49 | 水野信元の武田氏への内通を織田信長に讒言する。水野信元が誅殺される。 織田信長から水野領を拝領する。 ”天王寺砦の戦い”石山本願寺との戦に参加。 天王寺砦の城番になる。対石山本願寺の司令官を任じられる。 |
1577 | 50 | ”第1次紀州征伐”雑賀衆との戦に参加。停戦後、再び挙兵した雑賀衆を筒井順慶と鎮圧に向かうが敗れる。 天王寺砦に配備していた松永久秀が無断で離脱する。 ”信貴山城の戦い”松永久秀が織田氏に叛く。討伐に向かう。 三箇頼照・頼連父子に毛利氏との内通疑惑がかかる。織田信長を説得して父子を救う。 |
1578 | 51 | ”三木合戦”羽柴(豊臣)秀吉の指揮下で三木城の包囲作戦に加わる。 三木城を包囲する羽柴秀吉を援護する兵站を務める。 |
1579 | 52 | ”有岡城の戦い”荒木村重が織田氏に叛く。討伐に向かう。荒木村重に与する高山右近を調略する。 |
1580 | 53 | 石山本願寺との講和の勅使に松井有閑と同行する。 北条氏政の使者の取次役を滝川一益、武井夕庵と務める。 織田信長から直近5年間で功績がないことを叱責される。【19ヶ条の折檻状】 長男・信栄と剃髪し紀伊国・高野山に追放される。 |
1582 | 55 | 紀伊国・熊野で病死。 |
