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いまがわ よしもと

今川義元

1519.? 〜 1560.6.12

 
今川義元のイラスト
  

今川義元(梅岳承芳)は、現在の静岡県中部にあたる駿河国の武将・大名です。数奇な運命から今川氏の当主になります。武田、北条、織田という強国に囲まれながらも、巧みな外交戦略で東海道の覇権を握りました。尾張国の織田領に侵略しようとした矢先、桶狭間の戦いで織田信長の強襲に遭い、討死しました。享年42歳。

今川義元は何をした人?このページは、今川義元のハイライトになった出来事をなるべく正しく、独特の表現で紹介しています。きっと今川義元が好きになる「海道一の手腕と三国同盟で栄華を築くも桶狭間に倒れた」ハナシをお楽しみください。

  • 名 前:栴岳承芳 → 今川義元
  • 幼 名:芳菊丸
  • あだ名:海道一の弓取り
  • 官 位:従四位下・治部大輔
  • 幕 府:駿河守護、遠江守護
  • 出身地:駿河国(静岡県)
  • 領 地:駿河国、遠江国、三河国
  • 居 城:今川館
  • 正 室:定恵院(武田信虎の娘)
  • 子ども:2男 3女
  • 跡継ぎ:今川氏真
  • 父と母:今川氏親 / 寿桂尼

海道一の手腕と三国同盟で栄華を築くも桶狭間に倒れた

今川氏の駿河国(するがのくに) は現在の静岡県にあたります。おとなりには、甲斐国(かいのくに) (山梨県)の武田氏、相模国(さがみのくに) (神奈川県)の北条氏、尾張国(おわりのくに) (愛知県)の織田氏がいました。今川義元はこれらの列強との勢力争いを優勢にすすめて『海道一の弓取り』と称され、天下に最も近いと目された太守(たいしゅ) です。

なぜ、今川義元は広大な領地を持つことができたのでしょう?それは今川義元が、これから領土を拡げていく方向と敵対する勢力、専守するボーダーラインを明確にすることで、取り組む課題をシンプルにできたからです。


東の問題を
他力本願でクリア

東の問題は北条氏康でした。北条氏との抗争では、上野国(こうずけのくに)の上杉憲政をそそのかして北条領を挟み討ちにするプランを画策します。北条氏を共通の敵とする利害関係によって、難なく上杉憲政を味方につけました。

武田氏とは婚姻関係を結び、その縁をつかって武田晴信(信玄)を動かします。結託して北条領を(おびや)かすと、苦境に立たされた北条氏康に揺さぶりをかけて、1545年の河東の乱で北条氏から旧領を奪い返しました。


なかよくしよう
三国同盟

東側が落ち着いたところで、京都大好きっ子の今川義元は、西に向けて領土拡大を目論見(もくろみ)ます。

幸い、この頃の武田氏と北条氏はどちらも上杉謙信のパワハラに悩まされていました。両者は越後国(えちごのくに)からしょっちゅう攻めてくる謙信になるべく戦力を割く必要がありましたので、これを利用して同盟を申し出ます。

今川氏と武田氏と北条氏が互いの子どもたちを結婚させる相互ウェディング同盟によって、背後の安全を共有しようというアイデアでした。今川義元の腹心(ふくしん)であるスーパー和尚・太原雪斎(たいげんせっさい)が交渉をまとめて、1554年に『甲相駿(こうそうすん)三国同盟』が結ばれました。

【甲相駿三国同盟】武田・北条・今川の婚姻関係によって締結された同盟

こうして今川義元は、西への領土の拡大に専念できるようになりました。

1547年、織田氏と争っていた三河国(みかわのくに)の松平氏に親切にする姿勢をみせて()り寄り、松平広忠をしれっと支配下に入れ、1549年にはその子・竹千代(徳川家康)を人質にとることに成功します。

今川義元は『寄親(よりおや)寄子(よりこ)制度』の政策をいち早く導入していました。家臣団に上下関係をもたせる縦割りチームによって兵の動員数を増やしていた今川氏は、他国をしのぐ兵力を持ちます。寄親(よりおや)寄子(よりこ)はスタンダードな統制システムですが、この時点では先取りでした。

甲相駿(こうそうすん)三国同盟の後ろ盾と圧倒的な兵力を強みに、今川義元は尾張(おわり)へ侵攻します。


義元の野望
信長という誤算

松平くんをいじめるな!」というパフォーマンスのもと、織田信秀と三河国(みかわのくに)を取り合うシーソーゲームを繰り返して、次第に領地を拡大しました。一方の織田家では信秀が亡くなり、織田信長が当主になっていました。

シナリオどおりに事が運んでいた今川義元にとって、織田信長など小者に過ぎません。1日か2日でやっつけられるだろうと、すでに勝利したような気持ちで織田領に攻め入りました。先発隊が次々と織田氏の(とりで)を落とす朗報が届くと、自信は確信になりました。

しかし良かったのはここまで。1560年6月、桶狭間の戦いが起こります。

連勝に気を良くしてランチ休憩していた今川義元を急な雨が襲います。せっかくのランチが台無し。いっそう強い雨音を感じた次の瞬間、本陣に突入してきた織田の兵に今川義元は討たれました。

あっけない最後でした。

これまで今川義元を支えてきた頭脳とも言える太原雪斎(たいげんせっさい)が、桶狭間の戦いの5年前に亡くなっており、大幅な戦力ダウンが否めませんでした。なによりも、織田信長という非凡な才能は大きな誤算でした。

思わぬところで野望が(つい)えた今川義元ですが、とても有能な統治者でした。『今川仮名目録(いまがわかなもくろく)』という分国法に基づいて、室町幕府から独立した国家を築いた先駆け的な戦国大名でした。

生涯を簡単に振り返る

1519年、今川義元は駿河国(するがのくに)駿府館(すんぷやかた)に守護大名である今川氏親の三男として生まれます。後継者には2人の兄がいましたので、4歳のときから太原雪斎(たいげんせっさい)について僧侶の修行をしました。兄が2人同時に亡くなる奇妙な出来事が起こり、今川家の当主が空席になります。異母兄の玄広恵探(げんこうえたん)と花倉の乱で争い、勝利して当主の座に就きました。

北条氏、武田氏と緊迫した隣国(りんごく)関係にありましたが、相互婚姻による同盟関係を結びます。背後の安全を得て尾張国(おわりのくに)へ侵攻しました。西に領土拡大を図ったねらいは京への上洛(じょうらく)であり、その第一歩が織田信長との戦いでした。

最後と死因

織田領に攻め入り、桶狭間で休憩をとっていたところを激しい雨に見舞われます。とつぜん目の前に現れた織田方の服部一忠の膝を斬りつけて撃退しますが、毛利良勝に組み伏せられて今川義元は討ち取られました。1560年6月12日、死因は討死。42歳でした。最後まで激しく抵抗し、毛利良勝の左手の指を()みちぎったといいます。

領地と居城

今川義元の領地・勢力図(1560年)

東海道沿いの駿河国(するがのくに)遠江国(とおとうみのくに)三河国(みかわのくに)が今川義元の領地でした。3か国あわせて100万石に満たないくらいでしたが、金山や貿易港によって大きな財を得ています。1560年前後では屈指の強国でした。

今川義元の性格と人物像

今川義元は「野心家で少し自信過剰な人」です。

織田信長に負けたイメージのせいで見くびられがちですが、北条氏康や武田信玄をも利用した有能な人物です。しかしながら、他者を軽んじるところがあり、相手の力量を数字でのみ判断してしまいます。

室町幕府から独立を宣言したり、そもそも坊さんだったのに名門武家の頭領に立候補したり、よほどの自信がなければできません。有能であるがゆえに慢心してしまう悪い(くせ)がありました。

京風に憧れを抱いており、お歯黒、置眉(おきまゆ)(まゆ毛を抜いて書くこと)、薄化粧、公家風の装束(しょうぞく)を着て蹴鞠(けまり)などに興じますが、連歌はあまり得意ではありません。毎月開催していた歌会で、師匠からひどく添削(てんさく)される様子が記録されています。

胴長短足で馬に乗れなかったといい、輿(こし)に乗って移動しました。ヘタレな風評がありますが、剣術や弓術はわりと得意です。桶狭間の戦いでも刀を抜いて相手の膝を斬りつけるなど、泥臭く戦って織田兵にも深手を負わせています。

義元の愛刀『義元左文字(よしもとさもんじ)』は、桶狭間で信長が奪い取ったあと、信長 → 秀吉 → 家康によって天下バトンのごとく引き継がれ現在も残っています。

桶狭間で討ち取られた義元の首は清洲(きよす)須ヶ口(すかぐち)(さら)されたのち、今川家臣・岡部元信に渡されました。その際に着用していた金箔があしらわれた豪華な星兜は、375年が経過した昭和10年になって大阪府岸和田・三の丸神社で発見されました。

能力を表すとこんな感じ

今川義元の能力チャート

優秀な参謀の支えがありましたが、今川義元の政治能力は当時のトップレベルです。隣国(りんごく)の武田信玄や北条氏康をも(しの)ぐ国力を築き、外交で優位を保つ頭脳を持っていました。慢心だけが弱点でした。

歴史シミュレーションゲーム「信長の野望」シリーズに登場する今川義元の能力値も参考にしています。

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今川義元の面白い逸話やエピソード

幼い徳川家康にやさしい「むごい教育」をした

松平氏から人質として預かった竹千代(徳川家康)は、まだ8歳の子どもでした。この竹千代に「むごい教育をせよ」と、今川義元は家来に命じます。

”竹千代には、朝から晩まで海の幸や山の恵みで贅沢(せいたく)させてあげて。寝たいときに寝て、いつも好きなことをさせてあげて。夏は暑くならないように、冬は寒くないように。勉強が嫌ならさせなくていいよ”

竹千代(徳川家康)にむごい教育をした

要するに、毎日ご馳走(ちそう)、ゲームでもYouTubeでも好きなときに好きなだけやっていいよ、学校も塾も行かなくてOK!子どもなら誰もがうらやむ環境です。なぜ、これがむごい教育なのでしょう。

義元は最後にこう言います。
そのようにしていれば、たいていの人間はダメになるから

竹千代が将来の脅威(きょうい)とならないよう、ダメ人間にしておくつもりでした。意味がわかるとコワイ話ですね。

桶狭間の戦いの直前にライバルの亡霊を見てしまう

花倉の乱で家督を争ったライバル、異母兄・玄広恵探(げんこうえたん)は義元に敗れて自害しました。桶狭間の戦いに出陣する今川義元の夢に恵探(えたん)の亡霊が現れたというオカルトな話があります。

恵探(えたん)こたびの出陣を止めよ
義元「そなたは我が敵。お前の言うことなんか聞かんわ!」
恵探(えたん)貴様のためではない。今川家のために言うておる

義元はこれを斬り捨てたところで夢から覚めました。

出陣の日、義元の本隊が桶狭間に向けて駿府(すんぷ)を出発し、藤沢にさしかかったあたりで道端の茂みに玄広恵探(げんこうえたん)の姿を見ます。あわてた義元はとっさに刀の柄に手をかけますが、恵探(えたん)はふっと消えてしまいました。

これより先、今川義元は討死。恵探(えたん)は今川家のために言うておったわけです。

今川義元の有名な戦い

花倉の乱 はなくらのらん 1536.6.13 〜 6.28 ●玄広恵探軍? vs 栴岳承芳軍? ○

今川氏10代目・今川氏輝ならびに彦五郎が謎の死を遂げ、当主不在となったことで勃発した今川氏の内乱。正当な後継者として栴岳承芳を推した太原雪斎らが、玄広恵探の派閥を花倉城(静岡県藤枝市)で打ち破った合戦。勝利した承芳は当主となり、今川義元と名乗った。

花倉の乱で今川義元は勝っています。
亡くなった当主・氏輝は、義元の同母の兄であり、家督争いで対抗馬になった玄広恵探(げんこうえたん)は異母兄であったため、今川家臣の多くは義元に味方しました。勝利の立役者となった太原雪斎(たいげんせっさい)を、以降は参謀として重用(ちょうよう)しました。

河東の乱 かとうのらん 1545.7.? 〜 11.? ○ 今川&武田&山内上杉連合軍? vs 北条軍? ●

駿河東部(静岡県沼津市あたり)をめぐり今川氏と北条氏が2回行った合戦。はじめ、今川義元が家督を継いだばかりの今川領を北条氏が奪った。第2次の戦いでは、武田晴信とともに義元が北条氏康を攻撃、上杉憲政が北条領を脅かす挟み撃ちによって河東を取り返した。

河東の乱で今川義元は勝っています。
義元が駿河(するが)東部を奪還したこの合戦が周辺に与えた影響は大きく、ここで敗れた北条氏が河越夜戦で上杉氏を倒すきっかけになりました。

小豆坂の戦い あずきざかのたたかい 1548.4.27 ● 織田軍4千 vs 今川&松平軍1万 ○

三河・岡崎城の攻略を目指す織田信秀と守る今川氏と松平氏の連合軍が小豆坂(愛知県岡崎市羽根町)で争った合戦。数で劣る織田軍も奮戦したが、今川軍の伏兵によって崩された。太原雪斎を大将とした今川軍は、坂上の地形を活かしつつ粘り強く戦って大勝した。

小豆坂の戦いで今川義元は勝っています。
義元の出陣はありませんでしたが、太原雪斎(たいげんせっさい)が信長の父・織田信秀に勝利し、三河争奪戦にリードしました。

桶狭間の戦い おけはざまのたたかい 1560.6.12 ● 今川軍2万5千 vs 織田軍3千 ○

尾張に侵攻してきた今川義元を桶狭間(愛知県名古屋市緑区桶狭間)で織田信長が討ち取った合戦。10倍近い圧倒的な兵力差があり、局面的に織田勢が不利だったが、今川の本陣を強襲し、義元の首級をあげる快挙となった。戦国史上もっとも有名なジャイアントキリング。

桶狭間の戦いで今川義元は敗れています。
今川義元のターニングポイントになった戦いです。
前哨戦(ぜんしょうせん)の勝利で楽観し、慢心したところを織田軍に信長に討たれてしまいました。桶狭間の戦いは織田信長の飛躍につながったほか、徳川家康の独立など歴史を動かしました。

今川義元の詳しい年表と出来事

今川義元は西暦1519年〜1560年(永正16年〜永禄3年)まで生存しました。戦国時代中期に活躍した武将です。

15191今川氏親の三男として駿河国に生まれる。幼名:芳菊丸
15235駿河国・善得寺に入る。
15268父・今川氏親が死去。長兄・今川氏輝が家督を相続。
152911太原雪斎に師事する。
太原雪斎と山城国・建仁寺に入る。
153012剃髪 → 梅岳承芳
153618長兄・氏輝と次兄・彦五郎が同日に急死。今川氏の当主が不在になったため、後継者に名乗りをあげる。
還俗 → 今川義元
異母兄・玄広恵探を擁立する派閥が今川氏の継承権を主張。今川館を攻められるが退け、北条氏綱の協力を得て勝利する。恵探を自害させる。【花倉の乱】
家督を相続。
153719武田信虎の娘(定恵院)と結婚。武田氏と同盟を結ぶ。【甲駿同盟】
北条氏との同盟が破談。
”第1次河東の乱”北条氏綱に駿河国の東部を攻め取られる。
堀越氏、井伊氏が今川氏から離反する。
154022織田信秀が三河国に侵攻してくる。松平領を織田氏と争う。
154224”第1次小豆坂の戦い”*太原雪斎に命じて織田信秀と三河国で決戦を挑むが、敗れる。
154527関東管領・上杉憲政と同盟を結ぶ。
”第2次河東の乱”北条氏康から駿河国東部を奪い返す。上杉憲政と画策して多方面から北条領を攻めて窮地に追い込む。武田晴信(信玄)の仲介で和睦。
”高遠合戦”*武田晴信のもとに援軍を派遣。
154628*太原雪斎を援軍として松平広忠のもとに派遣。
154729松平広忠が従属する。
三河国を実質的に支配。
松平氏から人質として竹千代が引き渡される途中、戸田康光の裏切りによって織田信秀に奪われる。
戸田康光の田原城を攻め滅ぼす。
154830”第2次小豆坂の戦い”*織田信秀が三河国に侵攻してくるが、太原雪斎に撃退させる。
154931松平広忠が死去。松平領を今川氏の直轄領にする。
”第3次安祥合戦”*太原雪斎に織田領・安祥城を攻めさせて奪還、織田信広を捕縛。
尾張国・笠寺観音で竹千代と織田信広を人質交換する。
155032刈谷城を降して西三河の織田勢力を駆逐する。
正室・定恵院が亡くなる。
155234武田晴信(信玄)の嫡男・義信に娘(嶺松院)を嫁がせる。【甲駿同盟の強化】
155335分国法・今川仮名目録に守護使不入地の廃止を追加制定。室町幕府の統制下から独立する。
155436”村木砦の戦い”織田信長に村木砦を攻められる。
北条氏康の娘(早川殿)を嫡男・氏真の嫁にもらい同盟を結ぶ。北条氏康の四男・氏規を人質として預かる。【相駿同盟】
武田氏、北条氏、今川氏が互いに婚姻関係を結ぶ同盟が成立する。【甲相駿三国同盟】
155537松平竹千代(徳川家康)を元服させる。一字を与えて松平元信と名乗らせ、今川氏一門の関口親永の娘(瀬名姫=築山殿)と結婚させる。
第2次川中島の戦いを仲介し武田晴信と長尾景虎(上杉謙信)を和睦させる。
駿河国、遠江国、三河国で検地を行う。
水野信元、鈴木信重、吉良義安、奥平貞勝らが相次いで今川氏に叛き、三河国で挙兵する。【三河忿劇】
参謀・太原雪斎が死去。
155638松平氏の庶流、奥寺氏、菅沼氏、牧野氏で反今川派が内乱を起こす。
155840”寺部城の戦い”*松平元康(徳川家康)に鈴木重辰を攻めさせる。寺部城が陥落。
三河国で起こった反今川派の反乱が概ね収束する。
三河国を平定。
長男・今川氏真に家督を譲る。引き続き政治・軍事を主導する。
”石ヶ瀬川の戦い”*松平元康に水野信元を攻めさせる。
156042”桶狭間の戦い”織田領・尾張国に侵攻する。松平元康ら先陣が砦を落とすが、義元本隊を織田信長に強襲されて討死。
戦国時代で今川義元が生きた期間の表

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