たいげん せっさい

太原雪斎

1496.?〜 1555.11.23

 
太原雪斎の面白いイラスト
  

太原雪斎(崇孚、九英承菊)は、現在の静岡県中部にあたる駿河国の武将・僧侶です。今川義元が幼少のころから教育係をつとめ、当主になってからは執権として辣腕を振るった今川家の大黒柱です。政治と軍事に関わり、外交能力が高く、武田氏や北条氏といった強国を利用して、義元の海道制覇に貢献しました。享年60。

太原雪斎は何をした人?このページは、太原雪斎のハイライトになった出来事をなるべく正しく、独特の表現で紹介しています。きっと太原雪斎が好きになる「義元を育てた宰相があと少し生きていたら歴史は違った」ハナシをお楽しみください。

  • 名 前:九英承菊 → 太原崇孚
  • あだ名:黒衣の宰相
  • 出身地:駿河国(静岡県)
  • 父と母:庵原政盛 / 興津氏
  • 大 名:今川義元

義元を育てた宰相があと少し生きていたら歴史は違った

太原雪斎とは、今川義元の全盛期を築いた参謀(さんぼう)で、僧侶(そうりょ)でありながらも卓越(たくえつ)した戦略的思想から戦国時代でも随一(ずいいち)の軍師と目される人物です。

太原雪斎があと5年ほど生きていれば、桶狭間(おけはざま)で今川義元が織田信長に討たれることはなかったといわれており、そもそも桶狭間(おけはざま)の戦いが起こらなかったともいわれています。

海道一と(しょう)された今川義元の功績のほとんどが、太原雪斎の創出・演出によるものでした。

はじまりは義元を今川家の当主にした1536年の『花倉の乱』でした。

義元の異母兄・玄広恵探との家督(かとく)争いで、太原雪斎は陣頭(じんとう)指揮を()って花倉館を()め、敵方を降して勝利しました。以来、太原雪斎は今川義元の最高顧問(こもん)になります。

合戦に強いだけの(ぼう)さんではありません。

太原雪斎は、どんな相手にも「それでいいよ」と言わせるチートな交渉力(こうしょうりょく)をもった和尚(おしょう)でした。


隣国を利用して
領土をひろげる

義元が家督(かとく)()いだころの今川氏は、甲斐(かい)の武田氏とケンカをしている最中でした。ここに出向いた太原雪斎は、なんと武田当主・武田信虎の(むすめ)定恵院(じょうけいいん))を、義元の(よめ)さんにする縁組(えんぐ)みを決めます。

おまけに武田氏の嫡男(ちゃくなん)・晴信(武田信玄)に今川氏の遠縁(とおえん)(むすめ)さんを嫁入(よめい)りさせるアンビリバボーな政略結婚(けっこん)を成立させました。

同じころ、今川氏は北条氏とも領土をめぐって交戦状態にありました。太原雪斎は、北条氏の背後に位置する関東管領の上杉憲政をそそのかして兵を出させ、北条氏を(はさ)()ちにします。

今川 vs 北条 vs 上杉による戦闘(せんとう)が過熱したところで、婚姻(こんいん)関係を活かして武田氏に仲介(ちゅうかい)依頼(いらい)、北条氏に(うば)われていた領地を返還(へんかん)させることで決着させました。

1546年ごろから、今川義元は三河国(みかわのくに)の松平氏と尾張国(おわりのくに)の織田氏の争いに介入(かいにゅう)します。

織田氏との合戦では、ほとんどの場合で太原雪斎が大将をつとめて戦上手で知られる織田信秀と戦い、1549年までに何度も退け、信秀の息子・織田信広をとっ(つか)まえます。

織田氏に()らわれていた松平竹千代(徳川家康)と織田信広を人質交換(こうかん)し、松平氏を()さえることに成功。駿河国(するがのくに)遠江国(とおとうみのくに)に加えて今川氏が三河国(みかわのくに)を実効支配し、今川義元は3か国の太守となりました。

さらに太原雪斎は、今川家の分国法『今川仮名目録(いまがわかなもくろく)』に21箇条(かじょう)を加えて、民衆が暮らしやすい法整備を行う()け目のなさで領国を発展させました。

太原雪斎の活躍(かつやく)によって、今川義元は『海道一の弓取り』と(しょう)されるまでになり、天下に最も近い戦国大名として周知されるのでした。


マッチング和尚の
ウェディング同盟

武田氏は信濃国(しなののくに)を取りたい。
北条氏は関東を制圧したい。
今川氏は織田氏を倒したい。

そこで、太原雪斎は
武田信玄の長男・義信と今川義元の長女・嶺松院(れいしょういん) ]を仲人し
今川義元の長男・氏真と北条氏康の娘・早川殿(はやかわどの) ]を仲人し
北条氏康の次男・氏政と武田信玄の娘・黄梅院(おうばいいん) ]を仲人して、
相互結婚(けっこん)のマッチング同盟を結びました。

1554年、太原雪斎のホーム善得寺で締結(ていけつ)された『甲相駿三国同盟(こうそうすんさんごくどうめい)』によって、三者が背中合わせになり、それぞれの目標に注力できるWinWinWinの関係を築きました。

残念ながら、その翌年の1555年に太原雪斎は他界します。

それから5年後の1560年、織田領を()めた今川義元が桶狭間(おけはざま)の戦いで織田信長に討ち取られ、今川氏は一気に没落(ぼつらく)してしまいました。

のちに、徳川家康は「義元公は雪斎和尚(おしょう)としか相談せずに政治をしてたから、和尚(おしょう)が亡くなったらダメになるのは当然」と話し、武田信玄の軍師・山本勘助も「今川家は、あの(ぼう)さん次第」と評していました。

すっかり慢心(まんしん)していた今川義元は、風雲児・織田信長の実力を(あなど)って命を落としましたが、太原雪斎がいればこのような結果にはならなかったでしょう。

生涯を簡単に振り返る

生まれと出自

1496年、太原雪斎は駿河国(するがのくに)庵原城(いはらじょう)に庵原政盛の子として生まれます。10歳のころから仏門に入って修行に(はげ)みました。今川家の三男・方菊丸(ほうぎくまる)(今川義元)の教育係をつとめ、ふたりで京都の建仁寺などで修行します。今川家の長男と次男が亡くなると家督(かとく)争いが生じ、義元の味方をして花倉の乱に勝ちました。

強国・今川氏の基盤を作る

武田信玄や北条氏康との外交で優位を保ち、婚姻(こんいん)同盟を中心とした対外政策を駆使(くし)して今川氏の発展を支えました。兵を率いて尾張国(おわりのくに)の織田信秀と戦い、三河国(みかわのくに)の松平氏から嫡男(ちゃくなん)・竹千代を人質に得るなど、義元の西方進出の基盤(きばん)をつくりました。

最後と死因

最晩年は武田氏と北条氏との甲相駿(こうそうすん)三国同盟を締結(ていけつ)させ、今川氏の領土を盤石(ばんじゃく)にします。その翌年、太原雪斎は駿河国(するがのくに)長慶寺(ちょうけいじ)で亡くなりました。1555年11月23日、死因は病気。60歳でした。

太原雪斎の性格と人物像

太原雪斎は「いつも最適解を導き出せる人」です。

理念、弁舌に富み、ファイティングポーズをとる相手にも(こぶし)をおろさせることができます。不要な争いを()けて、(たが)いの利益を主張して手を結ばせるなど、合理主義的な戦略を好みます。

「形式や位などに(まど)わされず、徳がある(そう)であれば尊敬すること。どんなに(えら)くても、立場にあぐらをかいて堕落(だらく)しているものを有り難がらぬこと」主君であり弟子でもある今川義元に、太守として、人間の価値を見誤らないように心得を遺しています。

徳が高い僧侶(そうりょ)で、慢心(まんしん)しがちな今川義元を導きつつ、法衣の上から(よろい)を着て坊主頭(ぼうずあたま)鉢巻(はちま)きで戦いました。僧侶(そうりょ)でありながら自身も戦場に(おもむ)いて采配(さいはい)をふるった武闘派和尚(ぶとうはおしょう)です。

雪斎が築き、住職をしていた臨済寺には実際に身につけていた陣中袈裟(じんちゅうげさ)が現存しています。威厳(いげん)がある座り姿の木像と肖像画(しょうぞうが)も残っており、パシーンと(たた)く警策を持った僧侶(そうりょ)の姿をしています。

まじめに修行しない義元をよく(しか)っていたといいます。

能力を表すとこんな感じ

太原雪斎の能力チャート

海千山千の戦国大名たちを説得できたのは、太原雪斎の人徳と博学によるところ。兵法にも明るく、統率力を発揮して勝利に導いています。

能力チャートは『信長の野望』シリーズに登場する太原雪斎の能力値を参考にしています。東大教授が戦国武将の能力を数値化した『戦国武将の解剖図鑑』もおすすめです。

太原雪斎の面白い逸話やエピソード

竹千代少年を手塩にかけて育てた

松平氏から今川氏に人質として送られてきた竹千代は、おとなしい子どもでしたが物覚えがよく、勉強熱心でした。

雪斎和尚は、この少年に興味を持ちました。

集中力が続かない今川義元(ちが)って、教えれば教えるほど吸収する竹千代に、雪斎は本や字の読み書きのほか、仏教や政治的思考、さらに兵法や軍学を伝授しました。

竹千代の理解は素晴らしく、ときには雪斎を(おどろ)かせるアイデアも出しました。

雪斎が亡くなった年に元服した竹千代は、松平元康と名乗り、桶狭間(おけはざま)の戦いで義元が討たれたあと、今川氏から独立して徳川家康となりました。

のちに天下を治め、260年も続く江戸幕府を築いた家康には、今川家の人質時代に(つちか)った雪斎イズムが脈々と残っていたのでした。

太原雪斎の有名な戦い

花倉の乱 はなくらのらん 1536.6.13 〜 6.28 ● 玄広恵探軍? vs 栴岳承芳軍? ○

今川氏10代目・今川氏輝ならびに彦五郎が謎の死を遂げ、当主不在となったことで勃発した今川氏の内乱。正当な後継者として栴岳承芳を推した太原雪斎らが、玄広恵探の派閥を花倉城(静岡県藤枝市)で打ち破った合戦。勝利した承芳は当主となり、今川義元と名乗った。

花倉の乱で太原雪斎は勝っています。

太原雪斎のターニングポイントになった戦いです。
自ら(やり)を手に花倉館を()めて、玄広恵探を自刃(じじん)に追いこみました。この勝利で絶対的な信頼(しんらい)を得た雪斎は、今川義元の最高顧問(こもん)として辣腕(らつわん)(ふる)るうようになります。

河東の乱 かとうのらん #1:1537.2.? ○ 北条&武田軍? vs 今川&扇谷上杉軍? ● #2:1545.7.? 〜 11.? ○ 今川&武田&山内上杉軍? vs 北条軍? ●

駿河東部(静岡県沼津市あたり)をめぐり今川氏と北条氏が2回行った合戦。はじめ、今川義元が家督を継いだばかりの今川領を北条氏が奪った。第2次の戦いでは、武田晴信とともに義元が北条氏康を攻撃、上杉憲政が北条領を脅かす挟み撃ちによって河東を取り返した。

河東の乱で太原雪斎は勝っています。

上杉憲政との同盟をまとめる、武田晴信を動かして仲介(ちゅうかい)させる雪斎の交渉力(こうしょうりょく)によって、駿河(するが)東部を北条氏康から奪還(だっかん)しました。

小豆坂の戦い あずきざかのたたかい #1:1542.9.19 ○ 織田軍? vs 今川軍? ● #2:1548.4.27 ● 織田軍4千 vs 今川&松平軍1万 ○

三河・岡崎城の攻略を目指す織田信秀と守る今川氏と松平氏の連合軍が小豆坂(愛知県岡崎市羽根町)で争った合戦。数で劣る織田軍も奮戦したが、今川軍の伏兵によって崩された。太原雪斎を大将とした今川軍は、坂上の地形を活かしつつ粘り強く戦って大勝した。

小豆坂の戦いで太原雪斎は勝っています。

伏兵(ふくへい)戦術を駆使(くし)した見事な采配(さいはい)で織田信秀を敗走させました。これにより、織田氏との西三河(みかわ)争奪戦(そうだつせん)に勝利しました。

太原雪斎の詳しい年表と出来事

太原雪斎は西暦(せいれき)1496年〜1555年(明応(めいおう)5年〜弘治(こうじ)元年)まで生存しました。戦国時代初期から中期に活躍(かつやく)した武将です。

14961庵原政盛の子として駿河国に生まれる。
150510駿河国・善得寺に入る。
150914剃髪 → 九英承菊と名乗る。
152227芳菊丸(今川義元)の教育係になる。
今川氏親から家臣になるよう要請されるが断る。
152934芳菊丸と山城国・建仁寺に入る。
153540琴渓承舜の7回忌法要のため駿河国・善得寺に戻る。
153641今川氏輝と彦五郎が死亡。今川氏の当主が不在になる。
芳菊丸を還俗させて今川義元と名乗らせ、当主に擁立する。
”花倉の乱”義元の異母兄・玄広恵探を擁立する派閥と争う。兵を率いて花倉館を陥落させ恵探を自害させる。
今川義元に参謀として仕える。
153742武田信虎の娘(定恵院)と今川義元の婚姻交渉を成立させる。武田晴信(信玄)と今川氏の遠縁の娘(三条の方)の婚姻交渉を成立させる。【甲駿同盟】
”第1次河東の乱”北条氏綱との戦に参加。駿河東部を奪われるが慎重論を唱えて先送りにする。
154348改名 → 太原崇孚
154550関東管領・上杉憲政と同盟の交渉役を務める。
”第2次河東の乱”北条氏康との戦に参加。上杉憲政との共闘を実現させ北条領を挟撃させる。武田晴信を仲介として北条氏と和睦。駿河東部を返還させる。
駿河国・臨済寺をひらく。
154651織田信秀に攻められる松平広忠の救援に向かう。
154752田原城を攻略。戸田康光を討ち取る。
154853”第2次小豆坂の戦い”織田信秀が三河国に侵攻してくる。織田信広を伏兵で撃破し織田軍を退散させる。
154954”第3次安祥合戦”2万の兵を率いて織田領・安祥城を奪還、城主・織田信広を捕縛する。
竹千代と織田信広の人質交換に尽力する。
155055山城国・妙心寺の住職になる。
155257武田晴信の嫡男・義信と今川義元の長女(嶺松院)の婚姻交渉を成立させる。【甲駿同盟の強化】
155358今川仮名目録33箇条に21箇条を追加制定する。
今川領内の寺社と宗教の統制を行う。
在来商人を保護する商業政策を行う。
155459北条氏康の娘(早川殿)と今川義元の嫡男・氏真の婚姻交渉を成立させる。【相駿同盟】
駿河国・善得寺にて、武田氏、北条氏、今川氏が互いに婚姻関係を結ぶ同盟を成立させる。【甲相駿三国同盟】
155560駿河国・長慶寺で病死。
戦国時代で太原雪斎が生きた期間の表
太原雪斎の顔イラスト
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