ほそかわ はるもと

細川晴元

1514.?〜 1563.3.24

 
細川晴元の面白いイラスト
  

細川晴元は、現在の徳島県にあたる阿波国の武将・大名です。同族の細川高国との争いを制して、室町幕府の中枢に君臨し、幕政を意のままにしました。しかし、細川京兆家の内紛に明け暮れ、盛衰を繰り返すうち、家臣の三好長慶によって政権から遠ざけられます。復権を悲願としましたが、かないませんでした。享年50。

細川晴元は何をした人?このページは、細川晴元のハイライトになった出来事をなるべく正しく、独特の表現で紹介しています。きっと細川晴元が好きになる「将軍を追い出して幕府にかわって堺公方府をひらいた」ハナシをお楽しみください。

  • 名 前:細川晴元
  • 幼 名:聡明丸
  • 官 位:従四位下、右京大夫
  • 幕 府:幕府管領、山城守護、摂津守護、丹波守護、讃岐守護、土佐守護
  • 出身地:阿波国(徳島県)
  • 領 地:丹波国、山城国、摂津国、和泉国、阿波国、讃岐国
  • 居 城:勝瑞城 → 芥川山城
  • 正 室:三条公頼の娘、六角定頼の娘
  • 子ども:2男 3女 1養
  • 跡継ぎ:細川昭元
  • 父と母:細川澄元 / 清泰院
  • 大 名:細川氏17代当主

将軍を追い出して幕府にかわって堺公方府をひらいた

細川京兆(けいちょう)家は、室町幕府のナンバー2である管領(かんれい)職を世襲(せしゅう)してきた家系であると同時に幕府の実権を握ってきたフィクサー(黒幕)です。

じつは、室町幕府の将軍は飾り物に成り下がっていて、細川家というOSがないと幕府は機能しないのが実態でした。

室町幕府の実権を握るのが細川京兆(けいちょう)家ですから、当然ながら天下のトップも細川氏です。細川家中では必然的に権力あらそいが生じます。

細川氏の権力争いは幕府管領(かんれい)になった人の勝ち。
管領(かんれい)になった後は、やりやすいように将軍をすげかえてズブズブの幕府で甘い汁が吸い放題でした。

このように戦国時代の室町幕府は、細川京兆(けいちょう)家に(むしば)まれて腐りきっていたのです。


みにくい権力抗争
両細川の乱

細川晴元の祖父・細川政元には子がいませんでした。
そのため、澄元・澄之・高国の3人が細川京兆(けいちょう)家の養子に迎えられました。

ところが、これがよくなかった。

1507年に政元が暗殺される『細川殿の変』を発端として、養子たちによる家督相続争いが勃発します。

この争いのなかで、細川晴元の父・澄元は、細川高国に負けて阿波国(あわのくに)に逃げました。

その後も高国の執拗(しつよう)な嫌がらせによって、すっかり弱ってしまった父は細川晴元が7歳のときに亡くなります。

復讐(ふくしゅう)権化(ごんげ)となった細川晴元は、宿敵・細川高国を討ち果たすことに執着します。

こうして『両細川の乱』と呼ばれる(みにく)い権力抗争に発展し、将軍家まで巻き込んで京をザワつかせました。


堺につくろう
あたらしい幕府

14歳になった細川晴元は、阿波(あわ)の国人・三好元長の助けを借りてクーデターを起こします。

1527年の桂川原の戦いで細川高国が率いる幕府軍を倒し、将軍家もろとも高国を京から追い出すことに成功します。

細川晴元と三好元長は、将軍と管領(かんれい)が逃げ出してもぬけのからになった京に代わって、摂津国(せっつのくに)(さかい)に『堺公方府さかいくぼうふ』という幕府っぽいものを勝手につくりました。

【堺公方府】細川晴元と三好元長が足利義維を担いで堺に擬似幕府を開いた

本物の将軍・足利義晴の弟・足利義維よしつなを将軍っぽいものに見立てて、細川晴元が管領、三好元長を軍事司令官として、堺公方府(さかいくぼうふ)は活動をスタートします。

細川晴元をリーダーとした擬似幕府でしたが、2年ほどで三好元長とけんか別れします。

すると、これを幸いとした細川高国が報復にやってきたので、しかたなく三好元長と仲直りして、1531年の大物(だいもつ)崩れに勝利し、細川高国を討って両細川の乱を制しました。

永正の錯乱(さくらん)』と呼ばれた細川京兆(けいちょう)家の内輪揉(うちわも)めに、父の(かたき)を討って勝利した細川晴元は、ここに室町幕府の最高権力者となりました。

……だんだん堺公方府(さかいくぼうふ)のことはどうでもよくなりました。


本願寺に火をつけて
大炎上させてしまう

幕府の権力を得て堺公方府(さかいくぼうふ)への興味が薄れた細川晴元に、ともにこれを立ち上げた三好元長が「初心はどうした?堺公方府(さかいくぼうふ)はどうなる?」とか、あれこれうるさいことを言うようになります。

ちょうどこの頃、河内(かわち)守護・畠山氏と木沢長政の争いが起こりました。

畠山氏の援軍に向かった三好元長に、細川晴元は山科(やましな)本願寺の一揆軍を誘導してぶつけます。

これが1532年の『天文の錯乱(さくらん)』を招く大騒ぎになり、この騒動に巻き込まれた三好元長は自害しました。

ここまでは計算どおりでしたが、そのまま一向一揆軍が暴徒化してしまい、細川晴元もドン引きする大炎上を起こします。

山科(やましな)本願寺に火をつけるという斜め上な方法で鎮火を図りましたが、怒った本願寺と全面抗争に発展してしまいました。

細川晴元が巻き起こした『法華(ほっけ)一揆』の大炎上は、1533年に三好元長の子・千熊丸(12歳)の仲介で一旦収束します。

面倒ごとを片付けてくれた千熊丸は、まだ子どもでしたが「これは使える」と思った細川晴元は家臣に加えます。

しかし、これがよくなかった。

千熊丸の父・三好元長は細川晴元に殺されたようなものですので、やがてこの子は復讐心(ふくしゅうしん)を抱くようになります。

三好長慶(ながよし)と名乗るようになった千熊丸は、幕府をもしのぐとんでもない大物になり、細川晴元は京から追放されてしまうのでした。

戦国時代のきっかけになった応仁の乱で、東軍を率いた細川勝元の嫡系(ちゃくけい)(ひ孫)という血筋に生まれた細川晴元も、畿内(きない)をひっかきまわした風雲児でした。

生涯を簡単に振り返る

生まれと出自

1514年、細川晴元は阿波国(あわのくに)勝瑞城(しょうずいじょう)に幕府管領(かんれい)である細川澄元の長男として生まれます。細川家の権力抗争で祖父と父を亡くし、気の毒な幼少期を過ごします。父の(かたき)である細川高国を失脚させ、三好元長と一緒に幕府に代わる堺公方府(さかいくぼうふ)をつくりました。細川高国を討ち果たしたのち、堺公方府(さかいくぼうふ)は消滅。元長と敵対するようになります。

三好長慶の下剋上にあう

本願寺門徒を扇動(せんどう)して元長を戦死させると、三好政長を従えて室町幕府を牛耳(ぎゅうじ)ります。三好元長の子・長慶(ながよし)を家臣に加えて畿内(きない)での権力を増幅させました。高国の養子・細川氏綱と争って退けますが、江口の戦いで三好長慶(ながよし)に裏切られ、将軍・足利義晴をつれて失脚。その後、何度も長慶(ながよし)と争い、負け続けました。

最後と死因

やがて天下の権力を握った三好長慶(ながよし)和睦(わぼく)し、長慶(ながよし)の監視下に置かれます。隠居領ももらって不自由なく暮らしたのち、細川晴元は幽閉先の摂津国(せっつのくに)普門寺城(ふもんじじょう)で亡くなりました。1563年3月24日、死因は不明。50歳でした。

領地と居城

細川晴元の領地・勢力図(1534年)

丹波国(たんばのくに)山城国(やましろのくに)摂津国(せっつのくに)和泉国(いずみのくに)淡路国(あわじのくに)阿波国(あわのくに)の6か国、およそ123万石が細川晴元の領地でした。伊予国(いよのくに)の一部にも勢力を伸ばしていました。

細川晴元の性格と人物像

細川晴元は「権力欲にまみれた人」です。

利用できるものは、なんでも利用する実用主義です。多少の危険分子でも、利用価値があれば気にしません。

かつて自分が追いやった敵をも再利用する図太さが細川晴元の恐ろしいところです。

しかしながら、自害まで追い詰めた相手の息子(三好長慶)まで利用しようとしたのは、さすがに甘かったようです。

つよいメンタルの持ち主で、なんど負けてもリスポーンします。

自分にとって都合が良いほうの味方をするので、倫理とか道徳もなんのその。道理を説かれても馬の耳に念仏です。

本願寺の一向一揆を()きつけておいて、炎上したら寺ごと燃やして片付けようとする分別のなさです。

まさに罰当たりですが、手段を選ばずに目的を果たすあたりは傑物(けつぶつ)です。

能力を表すとこんな感じ

細川晴元の能力チャート

己が欲望のために行動し続けるタフさが細川晴元の長所です。自ら手を下さずに、配下を動かす戦い方は黒幕そのもの。清々すがすがしいほどの悪役です。

能力チャートは『信長の野望』シリーズに登場する細川晴元の能力値を参考にしています。東大教授が戦国武将の能力を数値化した『戦国武将の解剖図鑑』もおすすめです。

細川晴元の有名な戦い

桂川原の戦い かつらかわらのたたかい 1527.3.14 〜 3.15 ○ 波多野&細川晴元軍? vs 足利幕府軍? ●

将軍を擁して幕府軍を率いる細川高国に対して反旗を翻した柳本賢治ら波多野勢に、細川晴元が加勢した合戦。丹波と阿波から摂津に侵攻した波多野・晴元勢が、京の桂川一帯(京都府京都市)で幕府軍を撃破した。細川京兆家の内乱で、両細川の乱と称される戦いのひとつ。

桂川原の戦いで細川晴元は勝っています。

波多野勢に加わるため、阿波国(あわのくに)から三好長家と三好政長を派兵します。摂津国(せっつのくに)を制圧した晴元は、このあと阿波(あわ)から(さかい)に移って堺公方府(さかいくぼうふ)を開きました。

大物崩れ だいもつくずれ 1531.7.17 ○ 堺公方軍1万 vs 細川軍&浦上軍2万 ●

幕府管領の細川高国と、堺公方軍を率いる三好元長が天王寺、大物城(兵庫県尼崎市大物町)一帯で争った。堺公方に内応した赤松政祐が、背後から浦上村宗を討ち取り、三好勢と挟撃して勝負を決めた。地名と、権力者の没落にかけて大物崩れと呼ばれる合戦。天王寺崩れとも。

大物崩れで細川晴元は勝っています。

細川晴元のターニングポイントになった戦いです。
桂川原でやぶって以来、弱体化が(いちじる)しい幕府管領(かんれい)・細川高国を攻めて逃走させます。しつこく追いかけ回し、染物屋の(かめ)に隠れていた高国を見つけ出して自害させました。これにて、両細川の乱が決着します。

飯盛城の戦い いいもりじょうのたたかい 1532.7.17 ● 畠山&三好軍? vs 木沢&細川&本願寺軍10万 ○

畠山氏に下克上を謀る木沢長政の飯盛城(大阪府大東市北條)を、畠山義堯が攻撃。木沢氏の支援をするため、細川晴元は山科本願寺の門徒を投入。10万にものぼった一向一揆軍の圧勝。細川氏から離反した三好元長が敗死。暴徒化した一揆勢は、天文の錯乱を起こした。

飯盛城の戦いで細川晴元は勝っています。

考え方の違いから脅威となった三好元長を、一向一揆勢の攻撃で自害させます。河内守護・畠山義堯も自害するなど、思惑(おもわく)以上の成果がありました。

江口の戦い えぐちのたたかい 1549.7.6 〜 7.18 ○ 三好範長軍3千 vs 三好政長軍3千 ●

三宅城で細川晴元と合流した三好政長は、江口(大阪府大阪市東淀川区)に陣を構えて、六角定頼の援軍を待った。江口の渡しを分断する三好長慶の急襲によって、孤立した政長は討ち死に。晴元は足利将軍を連れて京から近江に逃亡。晴元戦死の誤報が流れ、六角軍も退却した。

江口の戦いで細川晴元は敗れています。

三好政長を支援していた晴元は、政長の敗死で京から撤退を余儀なくされます。京を占拠され、三好長慶に下克上(げこくじょう)を許してしまう結果となりました。

相国寺の戦い しょうこくじのたたかい 1551.8.15 〜 8.16 ● 足利幕府軍3千 vs 三好軍4万 ○

三好軍が京の奪回をはかる足利義藤を迎撃した合戦。相国寺(京都府京都市上京区)に陣をとった晴元派の三好政勝に対し、4万の大軍を率いた松永久秀がこれを撃退した。戦いに勝利した三好長慶は権威を増し、幕府管領・細川晴元の失脚が決定的なものとなった。

相国寺の戦いで細川晴元は敗れています。

この敗戦で京の奪還に失敗しただけでなく、完全に幕政から追い出されてしまいました。

東山霊山城の戦い ひがしやまりょうぜんじょうのたたかい 1553.9.8 ○ 三好軍2万5千 vs 足利幕府軍? ●

西院小泉城を包囲した足利義藤の軍勢をよそに、大軍を率いて上洛した三好長慶が、幕府の東山霊山城(京都府京都市東山区清閑寺霊山町)を攻めた合戦。不意をついた三好軍のカウンターが決まり、幕府軍の守備にあたっていた松田監物が自決。霊山城は炎上し、陥落した。

東山霊山城の戦いで細川晴元は敗れています。

西院城(さいいんじょう)のまわりに放火するなどしたものの、霊山城(りょうぜんじょう)が落城したため、足利将軍を連れ立って近江国(おうみのくに)に逃げました。これ以降、三好氏に対する抵抗力を失います。

細川晴元の詳しい年表と出来事

細川晴元は西暦1514年〜1563年(永正11年〜永禄6年)まで生存しました。戦国時代中期に活躍した武将です。

15141細川澄元の長男として阿波国に生まれる。幼名:聡明丸
15207父・細川澄元の死去により家督を相続。
152714”桂川原の戦い”細川高国と12代将軍・足利義晴が率いる幕府軍を破る。
将軍の弟・足利義維を擁立して摂津国・堺に擬似幕府を開く。【堺公方府】
152916家臣・三好元長が離反する。
153017細川高国と浦上村宗が摂津に侵攻してくる。
153118三好元長と和解し、帰参させる。
”中嶋の戦い”細川高国&浦上氏の連合軍と交戦。
”大物崩れ”赤松氏の内応を誘い、細川高国&浦上氏の連合軍を撃破。
逃亡していた細川高国を捕縛、自害させる。
12代将軍・足利義晴と和睦。幕府の実権を得る。
足利義維を旗頭としていた堺公方府がグダグダになる。
家臣・三好元長と不和になる。
153219”飯盛城の戦い”畠山氏から守護職を奪おうとする木沢長政に加担する。畠山氏の援軍に加わった三好元長と交戦。本願寺に要請して、山科本願寺から一向一揆軍を投入。畠山義堯、三好勝宗、三好元長を自害に追い込む。
一向一揆が暴徒化する。【天文の錯乱】
”山科本願寺の戦い”法華宗&六角氏と協力して山科本願寺に放火、全焼させる。【法華一揆】
153320本願寺と連動して挙兵した細川晴国を法華宗の一揆軍を使って破る。
石山本願寺と争って敗れ、阿波国に逃げる。
三好元長の嫡男・利長(長慶)を仲介者として本願寺と和睦。
153421本願寺との和睦が破断。
本願寺・下間頼盛&三好利長と争う。
三好利長(長慶)と和睦し家臣に加える。
153522摂津国・池田城に復帰。
本願寺軍に大勝し壊滅的な被害を与える。
本願寺と和睦。
153623”天文法華の乱”法華宗と争う比叡山延暦寺に加担し、法華宗の壊滅に助勢する。
※この頃、幕府管領になったかもしれない。
153724三条公頼の娘(六角定頼の猶子)と結婚。
153926三好政長に肩入れして、三好利長(長慶)と不和になるが、足利義晴と六角定頼の仲介で和睦。
154229”大平寺の戦い”畠山稙長を攻めた木沢長政を討つ。
154330故・細川高国の養子・細川氏綱が和泉で反晴元の挙兵。
154532氏綱派の上野元治・元全父子を撃退する。
丹波国に侵攻し、氏綱派の内藤国貞を攻めて世木城を攻略。
154633畠山氏の支援を受けた細川氏綱が再び挙兵。摂津国を奪われ、丹波国に逃げる。
不在のあいだに、12代・足利義晴から13代・足利義藤(義輝)に将軍職を譲る儀式が行われてしまう。
154734”舎利寺の戦い”細川氏綱から摂津国を奪い返す。
154835三好政長の進言で、摂津国人・池田信正に切腹を命じる。
三好長慶と摂津国人衆が離反する。
154936”江口の戦い”三好長慶が三好政長を攻める。支援した政長が敗死したため、足利義晴・義藤父子を連れて近江に逃げる。
三好長慶が離反して独立。
三好長慶と細川氏綱に京を制圧され、幕府の実権を失う。
155037”中尾城の戦い”足利義藤と立て篭って三好長慶に抵抗するが、敗れる。中尾城を焼却して逃げる。
155138”相国寺の戦い”再び幕府軍を派兵するが、三好氏に敗れる。
155239将軍・足利義輝が三好長慶と和睦。細川京兆家当主が細川氏綱に移される。
出家して、若狭国の武田氏を頼る。
155340丹波国で三好氏を破る。
”東山霊山城の戦い”三好長慶と決別した将軍・足利義藤と連携して、三好軍と戦う。霊山城が陥落し、足利義藤と一緒に近江国に逃げる。
155845”北白川の戦い”幕府軍に加担して三好氏と戦うが、敗れる。
156148将軍・足利義輝の勧告で三好長慶と和睦。普門寺城に幽閉される。
156350摂津国・普門寺城で死去。
戦国時代で細川晴元が生きた期間の表
細川晴元の顔イラスト
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