まつなが ひさひで

松永久秀

1508.?〜 1577.11.19

 
松永久秀の面白いイラスト
  

松永久秀は、現在の奈良県にあたる大和国または大阪府北中部にあたる摂津国の武将です。三好長慶の参謀ですが、13代将軍・足利義輝の側近として幕府の業務も行いました。長慶が亡くなると、三好義継に仕え、独立し、織田信長に従いましたが、2回の謀反を起こし、最後は茶釜を抱えて自爆しました。享年70。

松永久秀は何をした人?このページは、松永久秀のハイライトになった出来事をなるべく正しく、独特の表現で紹介しています。きっと松永久秀が好きになる「信長を二度も裏切った極悪人で平蜘蛛を抱えて爆死した」ハナシをお楽しみください。

  • 名 前:松永久秀
  • あだ名:乱世の梟雄
  • 官 位:従四位下、弾正忠、山城守、弾正少弼
  • 幕 府:相伴衆
  • 戦 績:30戦 18勝 5敗 7分
  • 出身地:摂津国(大阪府)
  • 領 地:大和国
  • 居 城:滝山城 → 信貴山城 → 多聞山城
  • 正 室:松永女房、保子(広橋兼秀の娘)
  • 子ども:2男 3女 1養
  • 跡継ぎ:松永久通
  • 父と母:松永清秀 / 林氏
  • 大 名:三好長慶 → 三好義継 → 織田信長

信長を二度も裏切った極悪人で平蜘蛛を抱えて爆死した

松永久秀は、歴史シミュレーションゲーム『信長の野望シリーズ』で義理のステータス値が1であることから「ギリワン」と呼ばれ、最後は爆死(ばくし)したといわれていることから「ボンバーマン」と揶揄(やゆ)されるクセが強い人物です。

戦国史上ナンバーワンの呼び声も高い悪役であり、松永久秀は斎藤道三や宇喜多直家と並んで『戦国三大梟雄(きょうゆう)』にカテゴライズされている悪人です。

じつは、この ”松永久秀=悪党” というイメージは、織田信長の悪ふざけがもとで定着しました。

信長は、徳川家康に松永久秀を引き合わせた際に「久秀(こいつ)はすげえワルなんだぜ」と、面白がって紹介(しょうかい)したのです。

三好家をつぶした悪党
将軍を殺した悪党
奈良の大仏を黒コゲにした悪党

まさしくこれが松永久秀がやらかしたとされる三悪事ですが、信長はからかい半分で話を大袈裟(おおげさ)に盛りました。

まさかそれが松永久秀=極悪人という風評を生むとは、信長も笑いが止まらないでしょう。


怪奇!
つぎつぎと人が死ぬ

松永久秀が三好長慶のもとで働くようになってから30年ほど経ったころ、三好家では度重なる不幸に見舞(みま)われます。

長慶の(あと)取りだった三好義興が22歳の若さで病死、長慶の末弟・十河一存、長弟・三好実休が続けざまに亡くなってしまいました。

大事な人をつぎつぎと亡くしてションボリした三好長慶は、なにを思ったか、次弟・安宅冬康を殺害。長慶もあとを追うように病没(びょうぼつ)します。

この少し前には、三好氏の主家筋にあたる細川晴元が病死する奇妙(きみょう)連鎖(れんさ)が起こりました。

松永久秀を取り巻く相関図と不審死

これらの結果として、畿内(きない)における松永久秀の権力が増したため、一連のコンビネーション死は(たぶん)松永久秀の謀略(ぼうりゃく)とされました。


神仏も将軍も
恐れねえ

どうせなら将軍もやっちまおうと考えたのか、1565年に嫡男(ちゃくなん)・久通と三好三人衆(三好長逸、三好政康、岩成友通)をつかって、自分の手を(よご)さずに13代将軍・足利義輝を殺害します。

その後、権力を独り()めにしたい松永久秀は、三好三人衆とも敵対しました。

大仏様のお膝元(ひざもと)なら、いくら悪党の松永久秀でも手出しできまいと考えた三好三人衆は、東大寺の大仏殿(だいぶつでん)本陣(ほんじん)にして松永軍と対陣(たいじん)します。

ところが、松永久秀は「そんなの関係ねぇ」とばかりに大仏殿(だいぶつでん)()め込み、うっかり全焼させてしまいました。


信長に従って
チャンスを待つ

三好三人衆が思いのほか手強かったので、1568年に上洛(じょうらく)してきた織田信長にすり寄って、これを蹴散(けち)らしてもらい、一時的に信長の家来になることにしました。

かつて三好政権が栄華(えいが)を築いた畿内(きない)は、すっかり織田信長のものになってしまいましたが、松永久秀は虎視眈々(こしたんたん)とワンチャンねらいます。

そうしているうちに、15代将軍・足利義昭が全国の大名に対して信長討伐(とうばつ)の命令を下しました。

これを受けて、1572年に武田信玄などの諸勢力が信長包囲網(ほういもう)を結成。松永久秀もこれに加わって信長にはじめての謀反(むほん)を起こします。ところが、不運なことに信玄が陣中(じんちゅう)病没(びょうぼつ)してしまいます。

即座(そくざ)に信長に謝って、はじめての謀反(むほん)は許してもらいますが、1576年に上杉謙信が信長打倒(だとう)に立ち上がると、松永久秀はこれに便乗してふたたび謀反(むほん)を起こします。

しかし、これも上杉謙信の急死によって不発に終わり、松永久秀は居城で孤立(こりつ)してしまいます。

松永久秀は信貴山城に立て()もって、織田軍を(むか)えうちます。

茶器を差し出せば許す」と降伏(こうふく)をもちかけられますが、松永久秀は拒否(きょひ)

信長が欲しがっていた大名物の茶釜(ちゃがま)古天明平蜘蛛(こてんみょうひらぐも)』に火薬をしこたま()めて火をつけ、ドカーンと爆死(ばくし)しました。信長は地面を(たた)いて(くや)しがったといいます。

……と、ここまでが通説ですが、松永久秀の歴史にさまざまな情報が混入しているケースがあり、(なぞ)が多い人です。爆死(ばくし)に関しても、小説などで()ひれがついて誇張(こちょう)された可能性があります。

爆発炎上(ばくはつえんじょう)したとされる松永久秀の命日は、天正(てんしょう)5年10月10日(1577年11月19日)。これより10年前、()しくも東大寺の大仏が燃えたのも同じ10月10日でした。

松永久秀とは、暗雲がたちこめる京、畿内(きない)の政治中心地で、さまざまな陰謀(いんぼう)闘争(とうそう)に明け暮れ、権力が移り変わる栄枯盛衰えいこせいすい)一粒(ひとつぶ)にしたようなキャラクターでした。

生涯を簡単に振り返る

生まれと出自

1508年、松永久秀は摂津国(せっつのくに)五百住(いおずみ)に松永清秀の子として生まれます。出自については阿波国(あわのくに)山城国(やましろのくに)など諸説あり。幕府管領である細川家臣の三好長慶に仕え、幕政にも関わりました。将軍家や管領と確執(かくしつ)があった長慶をサポートして幕府の内部抗争(こそう)を戦い、三好政権の樹立に貢献(こうけん)将軍家に代わって中央政治を動かした三好氏の勢力拡大に努めました。

三好氏の凋落、信長配下へ

長慶の死後、三好長逸ら三好三人衆と長男・松永久通が永禄(えいろく)の変で13代将軍・足利義輝を殺害する事件が起こり、この混乱にともなって三人衆と対立。大和国(やまとのくに)で独立し、筒井順慶とたびたび争います。この頃、足利義昭を将軍にするために上洛(じょうらく)してきた織田信長に協力し、やがて支配下に置かれました。

最後と死因

一方では長慶の(あと)をついだ三好義継を庇護(ひご)し、ともに織田氏に従いましたが、三好氏を(ほろ)ぼした信長に不信感を(いだ)きます。松永久秀は大和国(やまとのくに)・信貴山城で二度目の謀反(むほん)を起こして死亡しました。1577年11月19日、死因は自害。70歳でした。古天明平蜘蛛(こてんみょうひらぐも)と自害という描写(びょうしゃ)は、江戸期の浮世絵(うきよえ)(えが)かれているものです。

領地と居城

松永久秀の領地・勢力図(1568年)

大和国(やまとのくに)45万石が松永久秀の領地でした。所領をめぐって筒井順慶と争いましたが、織田信長が畿内(きない)を制圧したことでこの争いも終わりました。

松永久秀の性格と人物像

松永久秀は「消えることのない野心を秘めた人」です。

悪人だけど(にく)めない。畿内(きない)の権力者であり続ける願望を(いだ)いていました。

イエズス会の宣教師・ルイス=フロイスが「博識で辣腕(らつわん)腕利(うでき)きだが狡猾(こうかつ)である」と評しているように、あらゆることに精通していて、どこで身につけたのか、高度な知識、技能、作法を会得していました。

奇襲(きしゅう)を得意としたいくさ)上手です。「戦場で恐怖(きょうふ)を感じたことはないが、亡くなった(おく)さんが化けてでたときは(こわ)かった」と話すおちゃめさん。

健康に気づかっており、中風予防のため、脳天のツボにお(きゅう)をする習慣がありました。

自筆で出版もしてします。著書にエッチなハウツー本があり、けっこう売れています。

身長180cm。公家の日記には、優雅(ゆうが)な立ち()()いの風流人と書かれています。

白髪(はくはつ)で悪い妖怪(ようかい)のような姿をした松永久秀の絵は、すべて江戸時代に(えが)かれたもの。それ以前に描かれた身なりが良い肖像画(しょうぞうが)では、出っ歯で(ほほ)が赤く、人が良さそうな顔で妖怪(ようかい)とは似ても似つきません。

茶道を極めていて茶道具の目利きはピカイチです。久秀の茶器コレクションは、信長も夢中にさせました。

久秀が朝倉宗滴から購入(こうにゅう)し、信長に献上(けんじょう)した7cmほどの小さな茶入『九十九髪茄子(つくもかみなす)』は、唐物茄子茶入(からものなすびちゃいれ)とも呼ばれ、大名物として現在も残っています。1,000(かん)(1.2億円)の価値があるといいます。

久秀が(かか)えて爆死(ばくし)した『古天明平蜘蛛(こてんみょうひらぐも)』とされる茶釜(ちゃがま)は現存しており、自害の際に(くだ)かれた物は偽物(にせもの)で、本物は柳生重厳に(ゆず)ったという説があります。

能力を表すとこんな感じ

松永久秀の能力チャート

教養があり悪知恵(わるぢえ)も働く頭脳が松永久秀の強みです。上級武家の作法にも(くわ)しく、幕府の政治を行う高官も務めています。文化的教養も豊富で話も上手です。

能力チャートは『信長の野望』シリーズに登場する松永久秀の能力値を参考にしています。東大教授が戦国武将の能力を数値化した『戦国武将の解剖図鑑』もおすすめです。

松永久秀の面白い逸話やエピソード

じつは悪いことはしていない

松永久秀がしでかしたとされる3つの悪事ですが、実際はひとつも関わっていなかったというのが最近のトレンドです。

悪役のイメージが強い松永久秀の人物像についても、近年の研究では事実と異なる可能性が指摘(してき)されています。


ちがう、俺じゃない
『三好家乗っ取り』

松永久秀は三好家を乗っ取っていません。少なくとも、主君・三好義継を蹴落(けお)とすようなことはしていません。それどころか、義継を排除(はいじょ)しようとした三好長逸ら三好三人衆と戦っています。

三人衆ともめた久秀は三好家から独立します。そのあとで、三好義継が三人衆から(のが)れて久秀を(たよ)ってきたため、主従が逆転してしまった感じになりました。

主家を乗っ取って傀儡(かいらい)にしたわけではないので完全に風量被害(ふうひょうひがい)です。

久秀は義継のもとで三好家を再興させようとしますが、これは足利義昭妨害(ぼうがい)によって頓挫(とんざ)しました。


ちがう、俺じゃない
『将軍殺し』

少なくとも実行犯ではありません。松永久秀は殺害現場にすら居ませんでした。

永禄(えいろく)の変で、13代将軍・足利義輝を殺害したのは、三好長逸を筆頭とする三好三人衆です。これに久秀の嫡男(ちゃくなん)・松永久通が加わっていたため、久秀は黒幕と解釈(かいしゃく)されたようです。


ちがう、俺じゃない
『大仏殿を燃やす』

これは、久秀と交戦中だった三好三人衆が東大寺に本陣(ほんじん)を構えたために起こった事故です。

先に松永領を()めたのは三好三人衆のほうで、久秀は三人衆に挑発(ちょうはつ)されて東大寺までおびき出されました。

久秀は三好三人衆の本陣(ほんじん)夜襲(やしゅう)をかけましたが、大仏殿(だいぶつでん)に火を放ったのは、騒乱(そうらん)に乗じたキリスト教徒という説が有力です。松永久秀がダイレクトで大仏に放火したわけではありません。

お城に天守閣を築いた最初の人

お城のてっぺんにどんと構える城主の館『天守閣』。

日本のお城というと、ほとんどの人が熊本城(くまもとじょう)姫路城(ひめじじょう)のような立派な天守をイメージするかと思いますが、戦国時代の城にはああいった天守は存在しませんでした。

戦いのための要塞(ようさい)である城には見た目の美麗(びれい)さは不要でしたので、城といってもほとんどが大きな館のようなものでした。

1562年に松永久秀が築いた多聞山城が日本初の天守閣とされています。

信長の安土城にも豪華絢爛(ごうかけんらん)な天守閣がありましたが、これは多聞山城のてっぺんにある天守閣をみた織田信長が「すっげえクール」と気に入り、真似をしたのだそうです。

松永久秀の有名な戦い

相国寺の戦い しょうこくじのたたかい 1551.8.15 〜 8.16 ● 足利幕府軍3千 vs 三好軍4万 ○

三好軍が京の奪回をはかる足利義藤を迎撃した合戦。相国寺(京都府京都市上京区)に陣をとった晴元派の三好政勝に対し、4万の大軍を率いた松永久秀がこれを撃退した。戦いに勝利した三好長慶は権威を増し、幕府管領・細川晴元の失脚が決定的なものとなった。

相国寺の戦いで松永久秀は勝っています。

三好軍の指揮官として、将軍ならびに細川晴元派の京都奪回(だっかい)を退けています。

北白川の戦い きたしらかわのたたかい 1558.7.4 ● 足利幕府軍3千 vs 三好軍1万5千 ○

北白川(京都府京都市左京区)周辺で行われた合戦。幕府は細川晴元と協力して、京都を三好長慶から奪還する兵を挙げた。将軍山城をめぐる攻防が行われ、如意ヶ嶽では、松永久秀が率いる三好軍が、将軍・足利義輝の奉公衆を70人ほど討ち取る戦果を挙げて勝利を決めた。

北白川の戦いで松永久秀は勝っています。

将軍家がまたしても京で戦闘(せんとう)を起こしますが、これを撃退(げきたい)しました。この合戦により、三好家と足利義輝の戦いにピリオドが打たれ、久秀は将軍御供(おとも)衆に就任して幕政に関わるようになります。

東大寺大仏殿の戦い とうだいじだいぶつでんのたたかい 1567.5.26 〜 11.11 ○ 松永軍? vs 三好&筒井&池田軍2万8千 ●

三好三人衆に筒井順慶、池田勝正を加えた連合軍と、松永久秀が東大寺(奈良県奈良市雑司町)で激突した合戦。三好長逸は、東大寺なら攻められまいと考えたが、松永軍はひるまず夜襲を決行。三好・松永の兵火とも呼ばれ、東大寺の多くの建造物が焼失。大仏も焼け崩れた。

東大寺大仏殿(だいぶつでん)の戦いで松永久秀は勝っています。

松永久秀のターニングポイントになった戦いです。
日本の文化財が多数失われたショッキングな事件ですが、ここを戦場に選んだのは三好三人衆でした。三人衆に手を焼いていた久秀が、織田信長と接点を持つきっかけになった合戦です。

金ヶ崎の戦い かねがさきのたたかい 1570.6.3 ● 織田&徳川軍3万 vs 浅井&朝倉軍2万5千 ○

越前の朝倉義景を攻めていた織田信長を朝倉軍と浅井軍が金ヶ崎(福井県敦賀市金ヶ崎町)で挟み撃ちにした戦い。浅井長政の裏切りによって、織田軍は撤退を余儀なくされる。木下秀吉が、客将として参戦していた明智光秀ととも撤退戦の殿を担い、信長を無事に逃げさせた。

金ヶ崎の戦いで松永久秀は敗れています。

10数名を連れて落ち延びる絶体絶命の信長に同行し、浅井領を通過するおりに交渉力(こうしょうりょく)を発揮しています。朽木元綱を調略して退路をつくり、大ピンチだった信長の退却(たいきゃく)を助けました。

野田城・福島城の戦い のだじょう・ふくしまじょうのたたかい 1570.9.25 〜 10.22 ● 織田&雑賀衆&根来衆軍5万 vs 三好&本願寺軍? ○

摂津国中嶋(大阪府大阪市福島区)に城を築いて挙兵した三好三人衆を、織田信長が討伐に向かった合戦。三角州をまたいで、両軍鉄砲による銃撃戦が行われた。突如、本願寺軍が織田軍を背後から攻撃。第1次石山合戦とも呼ばれ、本願寺と信長が10年も抗争する発端になった。

野田城・福島城の戦いで松永久秀は敗れています。

織田陣営(じんえい)として三好三人衆と戦っています。三好義継とともに野田城・福島城の対岸にある浦江城(うらえじょう)()め落としました。この戦いで久秀は破壊力(はかいりょく)が高い大鉄砲(おおでっぽう)を使用しています。

信貴山城の戦い しぎさんじょうのたたかい 1577.11.14 〜 11.19 ○ 織田軍4万 vs 松永軍8千 ●

ふたたび信長に叛いた松永久秀が信貴山城(奈良県生駒郡平群町)に籠城して織田軍を迎え討った合戦。織田信忠を総大将とした4万の大軍で包囲された久秀は、しばらく抵抗したのち、一国にも値するといわれた茶釜・古天明平蜘蛛とともに壮絶な爆死を遂げた。

信貴山城の戦いで松永久秀は敗れています。

上洛(じょうらく)を目指す上杉謙信の動きにあわせて挙兵しますが、謙信の急死により謀反(むほん)は失敗しました。信長からの降伏勧告(こうふくかんこく)に応じず、久秀は自害を選びました。

松永久秀の詳しい年表と出来事

松永久秀は西暦(せいれき)1508年〜1577年(永正(えいしょう)5年〜天正(てんしょう)5年)まで生存しました。戦国時代中期から後期に活躍(かつやく)した武将です。※生年を1510年とする説もあります。

15081摂津国に生まれる。※阿波国、山城国、越中国の出身とする説あり
153326幕府管領・細川晴元の家臣・三好長慶に仕える。
154235”大平寺の戦い”木沢長政との戦に参加。山城国南部に滞陣して大和国人を制圧する。
154942三好長慶が細川晴元と足利義晴・義藤(義輝)父子を失脚させて幕府の実権を握る。
山科言継と今村慶満の所領問題を仲裁する。
三好氏の家宰になる。
京の防衛と敵勢力の残党を掃討する。
155144”相国寺の戦い”京に侵攻してきた幕府軍を撃退する。
155346摂津国・滝山城に入る。
三好長慶から丹波国の平定を任じられる。
波多野秀親の数掛山城を攻めるが、幕府軍に挟撃されて惨敗する。
155851”北白川の戦い”京に進軍する足利義輝と細川晴元の幕府軍を撃退する。
155952朝敵とされていた楠木正虎の赦免を正親町天皇から許可される。
河内守護代・安見宗房と争うが、根来衆に敗れる。
三好軍本隊と合流して高屋城、飯盛山城を攻略。
三好長慶から安見宗房の追討を命じられて大和国に攻め込む。筒井城の周辺諸城を攻め落とす。
*弟・長頼が波多野秀親、波多野次郎を従わせる。
*弟・長頼が波多野領・八上城を攻略。
*弟・長頼が赤井時家・直正父子を播磨国に追い出す。
丹波国を平定。
大和国・多聞山城の築城を開始する。
156053大和国・興福寺を制圧する。
大和国を平定。
三好長慶の幕府御相伴衆に就任に伴い、幕府御供衆に加わる。
大和国・信貴山城を居城にする。
156154将軍・足利義輝から桐紋と塗輿の使用され、幕府から主君・三好長慶と同等の待遇を受ける。
”将軍地蔵山の戦い”畠山氏&六角氏&細川氏の連合軍との戦に参加。永原重澄を討ち取って将軍山城を落とすが、六角義賢に撃退される。
156255”教興寺の戦い”畠山高政との戦に参加。
幕府政所執事・伊勢貞孝が三好氏に対して挙兵。討伐に向かい伊勢貞孝・貞良父子を討ち取る。
大和国・多聞山城が完成、居城にする。
156356多武峰衆と交戦し苦戦する。足利義輝に仲介を頼むが多武峰衆に拒否される。
三好家の嫡男・三好義興ならびに細川晴元・氏綱父子が病死。
156457三好長慶が実弟・安宅冬安を殺害。
主君・三好長慶が死去。次代・三好重存(義継)に仕える。
156558十市遠勝の娘を人質にして降す。
嫡男・久通が三好三人衆とともに13代将軍・足利義輝を襲撃、殺害する。【永禄の変】
大和国・興福寺にいた足利義輝の弟・覚慶(足利義昭)を幽閉するが、逃げ出される。
弟・長頼が赤井直政と交戦し討死。丹波国を失う。
三好三人衆に飯盛山城を襲われて主君・三好義継を奪われる。
”第6次筒井城の戦い”筒井藤政(順慶)の筒井城を攻める。高田為成、箸尾高春ら国人を味方につけ筒井城を攻め落とす。
156659三好三人衆が足利義栄を14代将軍に擁立する。
将軍・足利義栄から松永討伐令が出される。
畠山高政、安見宗房と同盟を結ぶ。
根来衆と連携して三好義継の高屋城を攻める。
”上芝の戦い”畠山高政と三好三人衆&筒井氏の連合軍と戦い敗れる。
*摂津国および山城国の城を三好三人衆に攻め落とされる。
三好三人衆に摂津国・堺を包囲され会合衆の仲介で和睦する。
”第7次筒井城の戦い”*筒井藤政に筒井城を奪われる。
織田信長に助勢を頼む。
156760三好義継が三好三人衆のもとから逃げてくる。これを保護する。
”東大寺大仏殿の戦い”三好三人衆&筒井氏&池田氏の連合軍に勝利する。大仏殿が消失する。
156861信貴山城に篭って三好三人衆&筒井氏の連合軍と戦うが、敗れる。
足利義昭を奉じて上洛する織田信長に従う。
14代将軍・足利義栄が病死。
織田信長が京から三好三人衆を蹴散らす。
織田信長が足利義昭を15代将軍に擁立する。
織田信長に九十九髪茄子を差し出して、三好義継と従属する。
足利義昭から大和国を拝領する。
改めて幕府御供衆になる。
織田信長から佐久間信盛、細川藤孝、和田惟政の援軍を得て大和国に侵攻する。
信貴山城を三好三人衆から奪還する。
”第8次筒井城の戦い”筒井領・筒井城を攻める。織田信長から佐久間信盛ら援軍を得て勝利する。筒井順慶は逃亡。
筒井領・窪之庄城を攻め落とす。
156962三好三人衆に足利義昭が襲撃される。織田信長と救援に向かう。【本圀寺の変】
157063筒井順慶に窪之庄城を奪い返される。
”金ヶ崎の戦い”朝倉義景との戦に参加。織田信長の退却を助けるため朽木元綱を調略する。
”野田城・福島城の戦い”三好三人衆との戦に参加。浦江城を攻略して織田軍の拠点とする。【第1次信長包囲網】
織田氏と三好三人衆の和睦を仲介する。娘を織田信長の養女にしたうえで人質として三好三人衆に預ける。
157164畠山秋高の家臣・安見右近を謀殺し交野城を攻める。
三好三人衆と呼応して畠山領・河内国に侵攻する。
三好三人衆と高屋城、高槻城を攻める。
筒井領・窪之庄城を攻めるが、筒井順慶に敗れる。
将軍・足利義昭が養女(多加姫)を筒井順慶に嫁がせる。これに反発して幕府に叛く。
近江国・中山道を封鎖。織田軍の行軍ルートを塞ぐ。
”辰市城の戦い”筒井領・辰市城を攻めるが、大敗する。
筒井城を破棄する。
高槻城を包囲する荒木村重に加わり城下を焼き払う。織田信長から撤兵勧告を受けて退く。
阿波三好氏(三好長治、十河存保、篠原長房)と講和を結ぶ。分裂していた三好勢力を再結集する。
三渕藤英、細川藤孝と交戦して山城国・普賢寺城を制圧する。
足利義昭の槙島城を攻める。
織田信長の配下に加わる。
佐久間信盛と明智光秀の仲介で筒井順慶と和睦する。
157265畠山領・交野城を再び攻めるが、柴田勝家と佐久間信盛に撃退される。
将軍・足利義昭が織田信長と敵対する。織田氏に叛き加勢する。【第2次信長包囲網】
157366足利義昭が織田信長に敗れて京から追放される。【室町幕府の滅亡】
三好義継が織田信長に討伐される。三好家滅亡
織田軍に多聞山城を包囲されて降伏する。
157467織田信長に多聞山城を接収される。
157669”天王寺砦の戦い”石山本願寺との戦に参加。
織田信長に多聞山城が破却される。
157770佐久間信盛の指揮下で天王寺砦に残り石山本願寺を包囲する。無断で戦線から離脱する。
長男・久通の子2人が京都で処刑される。
”信貴山城の戦い”織田氏に叛いて挙兵。織田信忠が信貴山城に攻めてくる。大和国・信貴山城で自害。
戦国時代で松永久秀が生きた期間の表
松永久秀の顔イラスト
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