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みよし ながよし

三好長慶

1522.3.10 〜 1564.8.10

 
三好長慶のイラスト
  

三好長慶(範長、利長)は、現在の徳島県にあたる阿波国の武将・大名です。父を自害させた元凶である、幕府管領の細川晴元に仕えますが、下剋上によって権力を奪います。五畿を平定し、国政を行ったことから、最初の天下人、日本の副王などと呼ばれました。最盛期には10か国を勢力下に置いています。享年43歳。

三好長慶は何をした人?このページは、三好長慶のハイライトになった出来事をなるべく正しく、独特の表現で紹介しています。きっと三好長慶が好きになる「五畿を平定して信長に先駆けた最初の天下人になった」ハナシをお楽しみください。

  • 名 前:三好利長 → 三好範長 → 三好長慶
  • 幼 名:千熊丸
  • あだ名:日本の副王
  • 官 位:伊賀守、筑前守、従五位下、従四位下、修理大夫
  • 幕 府:摂津守護、御供衆、相伴衆
  • 出身地:阿波国(徳島県)
  • 領 地:近畿地方、四国地方
  • 居 城:越水城 → 芥川山城 → 飯盛城
  • 正 室:波多野秀忠の娘、遊佐長教の娘
  • 子ども:1男 1養
  • 跡継ぎ:三好義継

五畿を平定して信長に先駆けた最初の天下人になった

三好長慶はどうして最初の天下人と呼ばれたの?
  • 織田信長よりも以前に武力によって中央政権を築いた。
  • 政治力がない足利将軍に変わって畿内の統治を行なった。
  • 天皇や朝廷に対して将軍よりも影響力を持っていた。
  • 現在の首都圏にあたる地域をすべて制圧した。

五畿とは、古代日本の律令制(りつりょうせい)で定められた行政区画のうち、畿内5か国(大和、山城、和泉、河内、摂津)を指した呼び方です。現在の首都圏のようなもので、皇居と都が置かれた場所であり、政治の中心地であることから、五畿=天下とし、畿内を制したものが『天下人』とされました。

応仁の乱いらい、将軍はお飾りになってしまい、幕府は権力の亡者たちの好き放題でした。本来なら将軍を支える立場の幕府管領・細川京兆(けいちょう)家は、同族で権力を奪いあう始末で、京は戦火にさらされていました。

幕府を支配していた細川晴元の家臣だった三好長慶は、1548年に晴元から離反すると、1549年にクーデターを起こします。江口の戦いで政敵であった三好政長を討ち取るなど、細川政権の中枢にダメージを与えました。

細川晴元が将軍を連れて近江国に逃亡したあと、新たな幕府管領として細川氏綱を擁立。続いて摂津国を平定し、1550年に三好長慶を中心とした政権を樹立しました。


なかよくやろう
室町幕府

三好政権は、度重なる紛争で荒廃した京を復興し、治安の回復につとめます。しかしこういった復興活動の最中にも、京の奪還をねらう細川晴元と将軍家から嫌がらせを受けました。そこで、将軍・足利義輝を京に戻して幕府を維持しつつも、三好長慶は将軍の家来になることで政治の実権を握ることにしました。

三好長慶に室町幕府と足利将軍を潰すつもりはさらさらありません。むしろその逆で、機能を失っていた将軍や守護にかわる働きをしようと思ったのです。


五畿=天下を制圧
日本の副王になる

晴元を失脚させて摂津守護・細川京兆家から権力を奪った三好長慶は、河内守護・畠山総州家を追放。武家による統治できていなかった大和国をも制圧し、五畿すべてを平定します。

織田信長が桶狭間に勝利した1560年、畿内を制した三好長慶は最初の天下人になりました。

【五畿・畿内】皇居と都がある政治の中心地

三好長慶が畿内を平定できた背景には、圧倒的な武力がありました。摂津を支配下に置いていた三好家には、堺の貿易港から得られる莫大な経済力がありました。

貿易ルートを活かして、鉄砲をしこたま買い付けていたので、野戦・攻城戦のいずれでも三好軍は強く、さらには弟・安宅冬康に継がせた瀬戸内の海賊衆を味方につけていたため、海戦でも負けませんでした。

石山本願寺や堺といった自治体と三好長慶はポジティブな関係を築いています。このへんが本願寺と10年も闘争を繰り広げた織田信長とは大きく異なるところでした。

石山本願寺や堺といった有力な自治体

信長は本願寺の一向宗をねじ伏せようとして失敗しましたが、三好長慶は親交を深めて共存する道を選んでいます。この選択には、父が本願寺の一向一揆軍に攻められて自害に追い込まれた過去も影響しています。

朝廷に対するアピールも上手く、連歌などの文化的な交流をつうじて信任を得ます。

改元を行う場合には朝廷と将軍が協議して決めるのが(なら)わしですが、1558年に永禄に改元する際は、三好長慶と朝廷によって元号が決められました。正親町(おおぎまち)天皇の即位式で警護役を務めるなど、天下人に相応しい影響力を持ち『日本の副王』と呼ばれるまでになります。

現職の将軍である足利義輝が京都を取り戻そうと挙兵すると ”将軍が三好長慶に叛いた!” という図式になる不思議。もう完全に三好長慶の天下でした。


どうして三好政権は
衰退したのか

三好長慶の政権は、三好実休、十河一存、安宅冬康といった一門衆が屋台骨でした。しかし、1561年に十河一存が急死したのを境に歯車が狂いはじめます。

反三好派の軍事行動が活発になり、これの鎮圧にあたっていた三好実休が1562年に戦死。翌1563年には嫡男・義興を病気で亡くします。相次ぐ不幸に乱心したか、1564年に安宅冬康を三好長慶が自ら殺害。それから2か月後に三好長慶も亡くなりました。

絶対的な指導者が不在になったことで、三好家と幕府の関係が悪化。1565年に三好長逸ら三好三人衆が足利義輝を殺害する『永禄の変』を起こします。この事件を契機に三好家は内部崩壊し、コントロールを失いました。


織田政権の
モデルになっている

管領でも守護でもない大名だった三好長慶は、将軍にかわって政治を行う最初のケースとなりました。実力があれば誰でも天下が取れることを示したのです。

パクったと言ったら言い過ぎですが、三好政権は経済力と武力で天下を目指した織田信長の政権モデルになっています。

1568年に織田信長が上洛を果たし、足利義昭を擁立して織田政権を樹立させます。畿内には三好長慶が築いた三好政権の遺産があったため、信長がやりやすくなったのは間違いありません。

生涯をざっくり振り返る

1522年、三好長慶は阿波国・芝生城に三好元長の長男として生まれます。4人の弟(実休、冬康、一存、冬長)がいました。幕府管領・細川晴元との抗争で父が亡くなり、11歳で三好家を継ぎます。力をつけるまでの辛抱と、父の仇である晴元に仕えました。弟たちに淡路国や讃岐国の有力な家を継がせ、支配を拡大していきました。

強大な武力を背景に、畿内の騒乱に乗じて晴元から離反し、細川家と争いますが、晴元が将軍を連れ去ったため将軍家との抗争に発展します。畿内を制して京に三好政権を樹立したのち、13代将軍・足利義輝と共同統治する道を模索しつづけ、1564年に河内国・飯盛城で亡くなりました。死因は病気です。43歳でした。

晩年は身内の不幸が重なり、心身を病んでいました。うつ病や認知症だった疑いがあります。その後の政権への影響が憂慮され、三好長慶の死は松永久秀ら重臣たちによって死後2年ほど隠されていました。

領地・支配した地域

三好長慶の領地・勢力図(1560年)

京がある山城国を含む畿内5か国に、淡路国、阿波国、讃岐国などを加えた200万石ほどが三好長慶の領地でした。政治の中心地を完全に掌握し、誰よりも先駆けて天下を治めました。

三好長慶の性格と人物像

三好長慶は「頭がよくて気持ちが大きな人」です。

アイデアと決断力があり、知的で柔和。根本は保守的ですが、身分にとらわれない実力主義でもあります。争った相手のことも追い詰めたりせず、相手の立場やプライドを尊重します。

俗世との関わりを避けたがる傾向があり、静かに深く考えることを好みます。性格の優しさから優柔不断のレッテルを貼られてしまうこともあり、決断力や非常さには物足りなさも感じます。

禅と連歌が趣味。たびたび連歌会を開いていました。後水尾(ごみずのお)天皇勅撰(ちょくせん)の『集外三十六歌仙』に一首えらばれるなど腕前もよく、多くの教養人の模範になっています。晩年は、自然の風物や景色を題材にした、吟風弄月(ぎんぷうろうげつ)の詩歌に凝っていました。

没後2年間、死亡が隠蔽されていました。2年遅れで行われた葬儀では、参列者が泣いて死を惜しだといいます。遺骸はひどく傷んでいたそうです。

子どもの頃から頭が良く、12歳ですでに政治力を身につけており、細川晴元と一向一揆の争いを仲介する交渉役を担って、和睦を成立させています。

三好長慶が足利義輝からもらった太刀『大般若長光(だいはんにゃながみつ)』は、信長から家康に引き継がれ、国宝として現存しています。

能力を表すとこんな感じ

三好長慶の能力チャート

三好長慶はズバ抜けた頭の良さと政治力があります。持ち前の指導力は合戦にも活かされ、長慶の三好軍は常勝軍団でした。相手とのバランスを保とうとする優しさも、政治の舵取りでした。

三好長慶の面白い逸話やエピソード

因縁の相手である細川晴元をやさしく庇護した

長慶の父・三好元長は、幕府管領・細川晴元が引き起こした一向一揆騒動によって自害しました。11歳で父を亡くした長慶は、仇である細川晴元に仕えますが、たびたび争い、幕政から追放しました。

晴元を追放する際、嫡男の細川昭元(4歳)を人質にとりますが、不自由なく暮らせるよう親代わりになって育てました。10年近い歳月が経ち、長慶は晴元を幽閉するために普門寺城に迎えます。そこで再会を果たした細川親子は、三好長慶に感謝し抱き合って喜びました。

長慶もかつての主君である晴元と、こじれていた関係の修復ができたことを涙して喜んだといいます。細川晴元には十分な隠居領を与えて、余生を過ごさせています。

ベストセラー小説「恍惚の人」の題名に影響を与えた

小説家・有吉佐和子さんが、1972年に出版して大ヒットした認知症がテーマの意欲作があります。当時の有吉さんは、この小説の題名が決まらず悩んでいました。

ふとしたおり、江戸後期に書かれた『日本外史』の一文に目が止まります。

”時に長慶 老いて病み 恍惚として 人をしらず”

これは晩年の三好長慶を記したとされる描写で、認知症のぼうっとしているさまを恍惚(こうこつ)と比喩しており、これにピンときた有吉佐和子さんは、小説の題名を『恍惚の人』としました。

このやわらかく素敵な表現は、当時の流行語に選ばれました。

三好長慶の有名な戦い

舎利寺の戦い しゃりじのたたかい 1547.7.21 ○ 細川晴元軍? vs 細川氏綱軍? ●

細川氏による同族の争いで、三好範長が率いる晴元軍と、遊佐長教の氏綱軍が、摂津・舎利寺(大阪府生野区)付近で遭遇し、激突した合戦。応仁の乱以来とされる大規模な戦いは、数時間におよぶ総力戦となった。氏綱軍の死者は2千人を超え、勝利した範長の才覚が示された。

舎利寺の戦いで三好長慶は勝っています。
細川氏綱に占拠された摂津を奪還する戦いで、500隻の軍船と2万の大軍を動員した三好長慶の圧倒的な軍事力が勝敗を決めました。

江口の戦い えぐちのたたかい 1549.6.12 〜 6.24 ○ 三好範長軍3千 vs 三好政長軍3千 ●

三宅城で細川晴元と合流した三好政長は、江口(大阪府大阪市東淀川区)に陣を構えて、六角定頼の援軍を待った。江口の渡しを分断する三好長慶の急襲によって、孤立した政長は討ち死に。晴元は足利将軍を連れて京から近江に逃亡。晴元戦死の誤報が流れ、六角軍も退却した。

江口の戦いで三好長慶は勝っています。
三好長慶のターニングポイントになった戦いです。
同族でありながら、父の代からの宿敵だった三好政長を討ち取り、細川晴元に下剋上を果たした合戦です。晴元が逃亡した京都を細川氏綱と制圧して、三好政権の発足へとつながりました。

相国寺の戦い しょうこくじのたたかい 1551.7.14 〜 7.15 ● 足利幕府軍3千 vs 三好軍4万 ○

三好軍が京の奪回をはかる足利義藤を迎撃した合戦。相国寺(京都府京都市上京区)に陣をとった晴元派の三好政勝に対し、4万の大軍を率いた松永久秀がこれを撃退した。戦いに勝利した三好長慶は権威を増し、幕府管領・細川晴元の失脚が決定的なものとなった。

相国寺の戦いで三好長慶は勝っています。
直接指揮をしていませんが、松永久秀の活躍により細川晴元を幕政から追い出す決定的な勝利となりました。

東山霊山城の戦い ひがしやまりょうぜんじょうのたたかい 1553.8.1 ○ 三好軍2万5千 vs 足利幕府軍? ●

西院小泉城を包囲した足利義藤の軍勢をよそに、大軍を率いて上洛した三好長慶が、幕府の東山霊山城(京都府京都市東山区清閑寺霊山町)を攻めた合戦。不意をついた三好軍のカウンターが決まり、幕府軍の守備にあたっていた松田監物が自決。霊山城は炎上し、陥落した。

東山霊山城の戦いで三好長慶は勝っています。
和解を破棄して都を戦火にさらした将軍・足利義藤(義輝)を細川晴元もろとも打破しました。これにより将軍家は急速に弱体化し、近江に落ち延びます。

北白川の戦い きたしらかわのたたかい 1558.7.4 ● 足利幕府軍3千 vs 三好軍1万5千 ○

北白川(京都府京都市左京区)周辺で行われた合戦。幕府は細川晴元と協力して、京都を三好長慶から奪還する兵を挙げた。将軍山城をめぐる攻防が行われ、如意ヶ嶽では、松永久秀が率いる三好軍が、将軍・足利義輝の奉公衆を70人ほど討ち取る戦果を挙げて勝利を決めた。

北白川の戦いで三好長慶は勝っています。
またも京を戦場にした足利義輝と細川晴元を、松永久秀らの活躍によって駆逐します。これを契機に、幕府の中枢を三好氏で固めることになりました。

三好長慶の詳しい年表と出来事

三好長慶は西暦1522年〜1564年(永正2年〜永禄7年)まで生存しました。戦国時代中期に活躍した武将です。

15221三好元長の嫡男として阿波国に生まれる。幼名:千熊丸
153211細川晴元が扇動した一向一揆との戦いで、父・三好元長が敗死。
父・三好元長の敗死により家督を相続。
153312細川晴元と一向一揆の和睦を斡旋する。
元服 → 三好(孫次郎)利長
和睦に応じない一揆衆と戦い、越水城を奪還する。
153413本願寺に加勢して細川晴元と争う。細川家臣・三好政長と戦ったのち、細川晴元と和解して家臣に加わる。
153615摂津中島の一揆と戦うが、敗れる。4ヶ月後に一揆衆を全滅させてリベンジを果たす。
弟・千々世(安宅冬康)を淡路国の海賊衆・安宅氏の養子にして、家督を継がせる。
153918河内国17箇所の代官職をめぐって三好政長と対立。
政長の擁護をする主君・細川晴元と不和になるが、和睦する。
154019波多野秀忠の娘と結婚。
154120改名 → 三好範長
段銭徴収をめぐって細川晴元との関係が微妙になる。
細川晴元の命令で塩川政年を攻める。これに反発した木沢長政と争い、富松城を攻略する。
154221”大平寺の戦い”畠山稙長を攻めた木沢長政を討つ。
154322打倒・細川晴元を掲げて挙兵した細川氏綱を撃退する。
154524氏綱派の上野元治・元全父子を撃退する。
丹波国に侵攻し、氏綱派の内藤国貞を攻めて世木城を攻略。
154726”舎利寺の戦い”遊佐長教を撃破。細川氏綱から摂津を奪い返す。
154827六角定頼の斡旋で氏綱派と和睦。
遊佐長教の娘と結婚。
主君・細川晴元に命じられて、摂津国人・池田信正が切腹させられる。三好政長の讒言であったため、政長の処断を晴元に願い出るが、却下される。
細川晴元から離反する。
改名 → 三好長慶
154928”江口の戦い”三好政長を江口で撃破、討ち取る。政長の敗死を知った細川晴元が足利義晴・義藤(義輝)父子を連れて近江国に逃げる。
細川氏綱を幕府管領に擁立し京に置く。細川晴元の政権を崩壊させる。
155029晴元派の伊丹親興の伊丹城を包囲、降伏開城させる。
摂津国を平定。
三好政権が誕生する。
”中尾城の戦い”細川晴元と足利義藤が立て篭る中尾城を攻略。
1551302回の暗殺未遂に遭う。
義父・遊佐長教が暗殺される。
”相国寺の戦い”京に侵攻してきた幕府軍を撃退。
155231六角義賢の仲介により、幕府と和睦。
細川晴元を出家させ、細川氏綱に細川京兆家の家督と幕府管領を継承させる。
13代将軍・足利義藤を京に戻す。
幕府の御供衆に加わる。
155332丹波国で細川晴元と交戦し、敗れる。
将軍・足利義藤が和解の約束を破棄して、晴元派に寝返る。
”東山霊山城の戦い”反旗を翻した芥川孫十郎が篭る芥川山城を攻めている隙に、幕府軍に西院小泉城を包囲される。2万5千の大軍で東山霊山城を攻略し、幕府軍を撤退させる。
足利義藤が細川晴元を伴って近江に逃げる。幕臣たちが帯同することを許さず、背けば領地没収を言い渡す。
芥川山城を攻略、居城を移す。
155736丹波国を松永久秀が平定。
155837”北白川の戦い”京に侵攻してきた幕府軍に勝利。
六角義賢の仲介で将軍・足利義輝と和睦する。
155938*河内守護代・安見宗房が河内守護大名・畠山高政を紀伊国に追放する。安見宗房の討伐に松永久秀を派遣するが、根来衆に敗れる。
2万の大軍を率いて河内国に侵攻。高屋城、飯盛城を攻略。畠山高政を河内国に復帰させ、安見宗房を大和国に追放。
*松永久秀に安見宗房の追討を命じる。
156039幕府御相伴衆に就任。長弟・三好実休、家臣・松永久秀らが幕府御供衆に加わる。
三好氏が幕府の中心となり、足利義輝と共同統治を行う。
大和国に追放した安見宗房を河内守護・畠山高政が復帰させたため、畠山氏を討伐する。
河内国を平定。
飯盛城に居城を移す。
大和国を松永久秀が平定。
156140将軍・足利義輝の勧告で細川晴元と和睦。晴元を普門寺城に幽閉する。
三弟・十河一存が急死。
畠山高政、六角義賢、細川晴之(晴元の次男)が結託して三好領を攻める。
156241”久米田の戦い”畠山氏に敗れ、長弟・三好実休が戦死。
”教興寺の戦い”畠山氏に大勝。畠山高政を追放する。
*幕府政所執事・伊勢貞孝が三好氏に対して挙兵。松永久秀に討伐させる。
156342畿内各地で三好氏に対抗する動きが活発になる。
嫡男・三好義興が病死。甥・三好重存(義継)を養子に迎える。
幽閉していた細川晴元ならびに幕府管領・細川氏綱が病死。
156443次弟・安宅冬康を殺害。
河内国・飯盛城で死去。
戦国時代で三好長慶が生きた期間の表

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