三好長逸
生没年不明

三好長逸(北斎宗功、長縁)は、現在の徳島県にあたる阿波国の武将です。年長者として三好政権を支えた重鎮です。三好政康、岩成友通らとならんで三好三人衆と呼ばれました。永禄の変で13代将軍・足利義輝を殺害した中心人物です。織田信長の畿内進出に抵抗し続けますが、敗れて消息不明になりました。生没年不詳。
- 三好長逸の武将タイプ
- 参謀
三好長逸は何をした人?このページは、三好長逸のハイライトになった出来事をなるべく正しく、独特の表現で紹介しています。きっと三好長逸が好きになる「三好三人衆の筆頭格で一族の長老が永禄の変を起こした」ハナシをお楽しみください。
- 名 前:三好長縁 → 三好長逸 → 北斎宗功
- 官 位:従四位下、日向守
- 出身地:阿波国(徳島県)
- 居 城:飯岡城
- 子ども:1男
- 跡継ぎ:三好長虎
- 父と母:三好長則 / 不明
三好三人衆の筆頭格で一族の長老が永禄の変を起こした
歴史は勝者によって紡がれていく物語です。ことに戦国時代では、死人に口なし・敗者に弁解なし、負けたらノーチャンスです。
混乱が続く京に秩序を取り戻した三好政権の功績は、将軍暗殺という凶行によって負のイメージに変わってしまいました。
三好一族の年長者として三好政権を支えた三好長逸は、三好政康、岩成友通とともに『三好三人衆』と呼ばれるユニットを組み、彼はそのリーダーでした。この三好三人衆が、現職の将軍を殺害する大事件を起こします。
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三好氏が支えた
足利将軍と幕府
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1540年ごろの室町幕府は、細川晴元という独裁者に将軍が追い出されたために幕政が停滞していました。三好長慶が晴元を追い出して将軍を京に戻し、幕府の機能を取り戻したのです。
ところが、将軍・足利義輝は長慶の暗殺を企んだり、あろうことか細川晴元と手を組んで京に火をつけたりしました。それでも三好長慶は、義輝に将軍をやめさせたりしませんでした。
やがて三好長慶が亡くなると、足利義輝が権力を自分に集中させようとします。
義輝は諸大名に兵をつれて京にくるよう声をかけます。この呼びかけには誰も応じませんでしたが、これは三好氏に対する裏切り行為でした。
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やるしかない
永禄の変
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他の大名を動かして三好氏を潰そうとする将軍を放ってはおけない。三好長逸ら三好三人衆は、1万の兵で二条御所を囲んで威圧しました。足利義輝に将軍辞職を勧告しますが拒否されます。
どちらもヒートアップして「このわからずや!もうやるっきゃない!」となってしまい、抜刀して暴れる足利義輝をなんとか仕留ました。これが1565年に起こった『永禄の変』です。
こうなったら、やぶれかぶれ。やっちまったと浮き足立つ三好家中は大混乱。重臣の松永久秀が三好長逸ら三人衆と対立して分裂。なんとか形を保とうと、三人衆は足利義栄を14代将軍に据えますが、すぐに病死してしまう不運に見舞われます。
結局、三好政権は崩壊。バターが溶け出すように消滅してしまいました。
京を右往左往する三好勢は、この後に現れた英雄・織田信長に蹴散らされます。早逝した義栄に代わって、信長が連れてきた足利義昭が15代将軍になり、1568年に織田政権が誕生しました。
こうして、三好三人衆は歴史の敗者として語られるようになったのでした。
生涯を簡単に振り返る
三好長逸は阿波国・三好郡に三好長則の子として生まれます。三好氏の庶流の家柄で、三好長慶の従叔父にあたります。松永久秀らと三好政権の樹立に貢献し、播磨国や丹波国の統治に努めました。長慶の没後は三好義継を当主としましたが、政権を維持できず、足利義輝との関係悪化から永禄の変を起こしました。
変のあとは松永久秀と対立して内部抗争が勃発し、三好氏は弱体化。足利義栄を将軍にして巻き返しを図りますが上手くいかず、上洛してきた織田信長に敗れます。その後は反信長勢力の一端となり、朝倉義景らと共謀してゲリラ戦を展開しました。
最後と死因
三人衆のひとり岩成友通が織田軍との戦いで戦死。三好長逸は摂津国・中嶋城で織田軍に敗れて行方がわからなくなりました。1573年、消息不明。この戦いで討死したとも伝わっています。
三好長逸の性格と人物像
三好長逸は「豊富な経験と指導力がある人」です。
三好氏の多くは細川氏の内乱によって亡くなってしまいました。そのなかで、数々のトラブルをくぐり抜けてきた長逸は、三好一族の生き証人であり長老のような存在でした。
ルイス=フロイスの記録に長逸の善良さを伝える記述があります。松永久秀との交戦中に、京から堺に追放される外国人の宣教師に護衛をつけて保護しており「生来善良な人、教会の友人」と記されています。
天下4人の執政のひとりと称され、堺に豪邸を持っています。当主である三好義継が逃亡したあとの三好家では、トップの立場を引き継いで一族の維持に尽力しました。
能力を表すとこんな感じ

三好長安は経験に基づいた安定感があります。さまざまな職務をこなせるマルチさと、年長者の度量で一族を支えました。
信長の野望シリーズに登場する三好長逸の能力値も参考にしています。
三好長逸の有名な戦い
清水寺参詣を名目に、三好長逸ら三好三人衆が1万の兵を結集。訴訟があるとして、二条御所(京都府京都市中京区二条城町)に押し寄せた。二条御所にいた幕府主従30名ほどで応戦し、剣の達人であった将軍・足利義輝も奮戦したが、数で勝る三好勢がこれを討ち取った。
永禄の変で三好長逸は勝っています。
三好長逸のターニングポイントになった戦いです。
首謀者として関与したこの事件が破滅への第一歩でした。この後、将軍に擁立した足利義栄がすぐに亡くなってしまい、政権の維持に失敗します。結果的に信長が中央政権に進出するきっかけになった出来事で、日本史に大きな影響を与えました。
三好三人衆に筒井順慶、池田勝正を加えた連合軍と、松永久秀が東大寺(奈良県奈良市雑司町)で激突した合戦。三好長逸は、東大寺なら攻められまいと考えたが、松永軍はひるまず夜襲を決行。三好・松永の兵火とも呼ばれ、東大寺の多くの建造物が焼失。大仏も焼け崩れた。
東大寺大仏殿の戦いで三好長逸は敗れています。
交戦中の松永久秀を挑発し、手出しができないよう、東大寺に陣を張りましたが、罰当たりな久秀のまさかの奇襲で大仏殿が炎上しました。
三好三人衆が、本圀寺(京都府京都市山科区)の15代将軍・足利義昭を襲撃した事件。13代将軍を殺害した永禄の変と同様に、三好長逸らが攻め入るが、織田氏の助勢もあって、幕府軍が義昭の防衛に成功した。明智光秀が活躍した合戦。本圀寺合戦、六条合戦とも。
本圀寺の変で三好長逸は敗れています。
三好三人衆は再び将軍の御所を襲撃しますが、信長が本圀寺に多くの兵を待機させていたため、三人衆の計画はまたしても失敗しました。
摂津国中嶋(大阪府大阪市福島区)に城を築いて挙兵した三好三人衆を、織田信長が討伐に向かった合戦。三角州をまたいで、両軍鉄砲による銃撃戦が行われた。突如、本願寺軍が織田軍を背後から攻撃。第1次石山合戦とも呼ばれ、本願寺と信長が10年も抗争する発端になった。
野田城・福島城の戦いで三好長逸は勝っています。
石山本願寺をはじめ、浅井氏、朝倉氏などの反信長勢力と連携して織田軍を撃退しました。
三好長逸の詳しい年表と出来事
三好長逸は生没年が不明です。戦国時代中期から後期に活躍した武将です。
? | 1 | 三好長則の子として阿波国に生まれる。※芥川長光の子とする説あり |
1549 | ? | ”江口の戦い”三好政長との戦に参加。香西元成と交戦する。 |
1550 | ? | ”中尾城の戦い”幕府との戦に参加。近江国に逃れる幕府軍を追い討ちする。 |
1554 | ? | 播磨国に侵攻し、別所就治の三木城を攻めて支城7つを攻略。 |
1555 | ? | 丹波国に侵攻し、波多野元秀と争うが、敗れる。 |
? | ? | 山城国・飯岡城の城主となる。 |
1558 | ? | ”北白川の戦い”幕府との戦に参加。 |
1564 | ? | 主君・三好長慶が死去。次代・三好重存(義継)に仕える。 |
1565 | ? | 三好政康、岩成友通、松永久通らと共謀し、13代将軍・足利義輝を殺害。【永禄の変】 松永久秀と対立。三人衆は飯盛山城に入り、三好義継を高屋城に移す。 |
1566 | ? | ”上芝の戦い”松永氏&畠山氏の連合軍を退ける。 足利義栄を阿波国から摂津国に移す。 |
1567 | ? | 主君・三好義継が離反し、松永久秀のもとに逃亡。 ”東大寺大仏殿の戦い”筒井氏、池田氏を伴って松永久秀と争うが、敗れる。大仏殿が消失する。 |
1568 | ? | 三好三人衆が擁立した足利義栄が14代将軍になる。 織田信長の上洛軍に敗れて京から摂津国、さらに追われて阿波国に退散。 14代将軍・足利義栄が病死。 織田信長が擁立した足利義昭が15代将軍になる。【室町幕府の再興】 |
1569 | ? | 足利義昭を襲撃するが、幕府&織田氏の連合軍に敗れる。【本圀寺の変】 |
1570 | ? | ”野田城・福島城の戦い”摂津国で挙兵、織田氏に抗戦する。石山本願寺を味方につけ、浅井氏&朝倉氏の連合軍に織田領を攻めさせる。【第1次信長包囲網】 |
1572 | ? | 将軍・足利義昭の織田信長討伐に加勢する。【第2次信長包囲網】 |
1573 | ? | 織田信長に敗れた足利義昭が京を追放される。【室町幕府の滅亡】 摂津国で織田軍に抗戦するが、敗れる。 |
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