足利義輝
1536.3.31 〜 1565.6.17

足利義輝(義藤)は、現在の京都府南部にあたる山城国の武将・大名です。11歳で父を継いで、足利13代将軍になります。京での権力を欲する細川氏や三好氏と争い、ときに協力しながら、付かず離れず、幕府による統治を目指しました。三好三人衆に二条御所を襲撃され、抜刀して戦ったすえ戦死しました。享年30。
- 足利義輝の武将タイプ
- 勇士
足利義輝は何をした人?このページは、足利義輝のハイライトになった出来事をなるべく正しく、独特の表現で紹介しています。きっと足利義輝が好きになる「五月雨は、露か涙か。剣豪将軍の最期は凄絶に乱舞した」ハナシをお楽しみください。
- 名 前:足利義藤 → 足利義輝
- 幼 名:菊幢丸
- あだ名:剣豪将軍
- 官 位:従五位下、正五位下、左馬頭、従四位下、征夷大将軍、参議、左近衛中将、従三位、贈従一位、左大臣
- 幕 府:室町幕府・第13代征夷大将軍
- 出身地:山城国(京都府)
- 居 城:二条御所
- 正 室:大陽院(近衛稙家の娘)
- 子ども:1男 2女
- 跡継ぎ:足利義栄
- 父と母:足利義晴 / 慶寿院
- 大 名:足利氏13代当主
五月雨は、露か涙か。剣豪将軍の最期は凄絶に乱舞した
室町幕府の第13代将軍をつとめた足利義輝とは、中央政権を欲する三好氏によって暗殺された悲運の人物です。
剣聖と呼ばれた塚原卜伝から、鹿島新当流奥義『一之太刀』を伝授され、歴代将軍No.1と絶賛された剣豪将軍・足利義輝の最後は抜刀して乱舞する凄絶な幕切れでした。
足利義輝の最後の様子を、宣教師・ルイス=フロイスは「薙刀を振るって戦い、より接近して敵を討つために薙刀を投げ捨てて、刀を抜いて戦った。その戦いぶりは、勝利を目前にしているものにも劣らなかった」と伝えています。
運命に抗うように足利義輝が追い求めたのは、将軍の権威とは?自分は何者なのか?というアイデンティティでした。
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将軍の権威を
あきらめない
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征夷大将軍といえば武家の頭領たる立場です。
しかし、足利義輝が将軍を継いだ1546年ごろの室町幕府は管領職の細川晴元が実権を握っており、その晴元も家臣の三好長慶によって失墜させられるカオスそのもので、京は将軍など何処吹く風という状況でした。
わずか11歳の少年だった足利義輝は、父に代わって将軍の復権を目指しました。そのためなら権力の亡者たちと手を組んでまで将軍職を維持しようとしたのです。

細川晴元、三好長慶とやむをえず共存していましたが、1564年に三好長慶が死去。ついに将軍・足利義輝の時代が来ました。
とはいえ、将軍家には相変わらずちからがなく、幕府の実権は三好家臣に握られたままでした。
そこで足利義輝は、全国の有力大名にコンタクトをとって友達登録を試みます。
将軍家グループをつくって、自分のフォロワーを増やすためでした。ところが、この動きは三好家臣に知られてしまいます。
頑なに将軍であり続けようとする足利義輝の行動は、三好家臣に敵意と受け取られました。
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露か涙か
散ったプライド
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永禄8年5月19日。足利義輝の二条御所は、1万の三好兵に包囲されます。
三好長逸ら、三好三人衆が二条御所を襲撃する事件『永禄の変』が勃発します。
二条御所をすっかり包囲されてしまった足利義輝は覚悟します。側近たちと別れの盃を交わし、つぶやくように一句詠みました。
”五月雨は 露か涙か 不如帰 我が名をあげよ 雲の上まで”
(この五月雨は、雨なのか涙なのか。ホトトギスよ、私の名前を雲の上まで伝えてくれ)
将軍家に伝わる『三日月宗近』『鬼丸國綱』『大包平』『九字兼定』『朝嵐勝光』『綾小路定利』『二つ銘則宗』といった、名刀の数々を畳に突き立てて三好兵を迎え討ちました。

つぎつぎと三好兵を斬り捨て、血をあびて斬れなくなった刀を畳に刺した刀に持ち替えて、間髪入れずに斬り伏せました。
しかし他勢に無勢。奮闘もむなしく討たれてしまいます。
足利義輝が最後に手にしていたのは、源頼光が大江山の鬼退治をしたと伝わる『童子切安綱』でした。
傀儡将軍を余儀なくされた足利義輝は、権力を群がる餓鬼に対して最後に意地を見せました。
生涯を簡単に振り返る
生まれと出自
1536年、足利義輝は山城国・京の東山南禅寺に征夷大将軍である足利義晴の長男として生まれます。将軍と御台所のあいだに久々に男子が産まれたことを喜ばれました。父が幕府管領の細川晴元に敗れて将軍職を退き、11歳で将軍になります。三好氏が台頭して幕府の実権を握ると、父の仇である晴元と協力して対抗しました。
三好政権との共存へ
三好長慶に敗れて幕政を委ねますが、再び打倒を試みて敗れ、近江国・朽木に逃れたのち挙兵。またしても長慶に敗れて共存政権を受け入れます。大名同士の争いを積極的に仲介するなど、将軍ネットワークの構築を図りましたが、もはや室町幕府に求心力はありませんでした。
最後と死因
長慶が没した翌年、三好三人衆に山城国・京の二条御所を襲われた永禄の変で足利義輝は討たれました。1565年6月17日、死因は殺害。30歳でした。刀をふるって激しく抵抗したため、四方から三好兵に畳を押し当てられ、身動きができなくなったところを畳ごと突き刺されて絶命しました。
領地と居城

山城国・京10万石ほどが足利義輝の領地でした。室町時代中期以降の幕府には土地も財力もなく、周辺の大名を抑えるのは不可能でした。
足利義輝の性格と人物像
足利義輝は「勇気があって逆境にも屈しない人」です。
足利一門で世襲していた要職に、新興勢力の大名を起用するなど、血統よりも能力を重んじる実力主義です。
あたらしい将軍像に好感を持った大名も多く、義輝の死を聞いて「三好討つべし」の気運が高まりました。
しかしながら、幕府による統治を目指したというよりも将軍の権威に固執した印象です。
新興勢力=下克上で成り上がった武家を擁護してしまった感もあり、利用できるものを使おうとしたのが本音です。
じゃまな存在の三好長慶の暗殺を企るなど腹黒い一面もありました。
武術に没頭しており、塚原卜伝の直弟子であったほか、新陰流の上泉信綱からも指導を受けており、剣術の腕前はトップクラスでした。小笠原流弓馬術の小笠原長時から弓馬を学び、こちらも相当な腕前です。
お酒が大好きな上杉謙信と飲み明かすほどの酒豪。謙信とは深く打ち解けた仲でした。
名刀と呼ばれる逸品を多数所持していました。
天下名五剣のなかでもっとも美しいとされる『三日月宗近』や、最期に手にしていたという『童子切安綱』『大包平』は、国宝指定。『鬼丸國綱』は皇室所蔵で、それぞれ現存しています。
能力を表すとこんな感じ

さすがの剣豪将軍、足利義輝は個の強さが際立ちます。強い将軍として期待されましたが、政治力が無さすぎました。
能力チャートは『信長の野望』シリーズに登場する足利義輝の能力値を参考にしています。東大教授が戦国武将の能力を数値化した『戦国武将の解剖図鑑』もおすすめです。
足利義輝の面白い逸話やエピソード
義理の弟の屋敷で上杉謙信とドンチャン騒ぎしてしまう
越後から訪ねてきた長尾景虎(上杉謙信)と意気投合して、上機嫌になった足利義輝は、屋敷に美少年をあつめて毎晩パーティーを開催します。大酒飲みの景虎と、連日連夜ドンチャン騒ぎしました。
このとき景虎は30歳、義輝は24歳のやんちゃ盛り。パーティー会場は、義輝の嫁の弟で関白白の近衞前嗣(前久)の屋敷でした。
この迷惑行為に、前嗣は「このところ将軍様と景虎殿がうちに来て騒ぐので困る」と手紙で知人に愚痴っています。
将軍を軽くみる輩が多いなか、自分のために上洛してきた景虎を嬉しく思ったのでしょう。
しかし、酒飲みのバカ騒ぎをされるほうにとっては、たまったもんではありませんでした。
足利義輝の有名な戦い
三好軍が京の奪回をはかる足利義藤を迎撃した合戦。相国寺(京都府京都市上京区)に陣をとった晴元派の三好政勝に対し、4万の大軍を率いた松永久秀がこれを撃退した。戦いに勝利した三好長慶は権威を増し、幕府管領・細川晴元の失脚が決定的なものとなった。
相国寺の戦いで足利義輝は敗れています。
三好長慶に権力を奪われた細川晴元とともに、三好軍と戦いますが、武力での京の奪還が絶望的になりました。苦渋の決断で三好長慶と和睦します。
西院小泉城を包囲した足利義藤の軍勢をよそに、大軍を率いて上洛した三好長慶が、幕府の東山霊山城(京都府京都市東山区清閑寺霊山町)を攻めた合戦。不意をついた三好軍のカウンターが決まり、幕府軍の守備にあたっていた松田監物が自決。霊山城は炎上し、陥落した。
東山霊山城の戦いで足利義輝は敗れています。
足利義輝のターニングポイントになった戦いです。
西院小泉城が落とせず、霊山城を失う残念な結果になってしまいました。三好氏の権力が増し、幕府の敗北が決定的なものになり、わずかな従者を連れて近江の朽木に逃れました。
北白川(京都府京都市左京区)周辺で行われた合戦。幕府は細川晴元と協力して、京都を三好長慶から奪還する兵を挙げた。将軍山城をめぐる攻防が行われ、如意ヶ嶽では、松永久秀が率いる三好軍が、将軍・足利義輝の奉公衆を70人ほど討ち取る戦果を挙げて勝利を決めた。
北白川の戦いで足利義輝は敗れています。
またしても三好討伐に失敗しました。これをきっかけに三好氏を幕府の中核に据えた共存・共栄にシフトします。
清水寺参詣を名目に、三好長逸ら三好三人衆が1万の兵を結集。訴訟があるとして、二条御所(京都府京都市中京区二条城町)に押し寄せた。二条御所にいた幕府主従30名ほどで応戦し、剣の達人であった将軍・足利義輝も奮戦したが、数で勝る三好勢がこれを討ち取った。
永禄の変で足利義輝は敗れています。
現職の将軍が殺害されたショッキングな事件です。この政変で、三好三人衆が幕府を牛耳ることとなりますが、三好家中にも内部分裂が生じます。
これより3年のち、織田信長の上洛によって、三好政権も終焉を迎えます。
足利義輝の詳しい年表と出来事
足利義輝は西暦1536年〜1565年(天文5年〜永禄8年)まで生存しました。戦国時代中期に活躍した武将です。
1536 | 1 | 足利義晴の嫡男として山城国に生まれる。幼名:菊幢丸 |
? | ? | 父・義晴と幕府管領・細川晴元が、たびたび権威を争い、父が敗れるたびに近江国へ避難する。 |
1546 | 11 | 元服 → 足利義藤 父・足利義晴の隠居により家督を相続。征夷大将軍に就任。 |
1547 | 12 | 父・義晴が細川氏綱を幕府管領に任命したため、前任の細川晴元と対決し、父とともに将軍山城に篭る。 将軍山城を細川晴元と六角定頼に包囲され、城を燃やして近江国に逃れたのち、和睦する。 |
1548 | 13 | 六角定頼の斡旋により、京に戻る。 |
1549 | 14 | 細川晴元が家臣・三好長慶の謀反に遭い、敗れたため、京から近江国に逃れる。 京を三好氏に制圧される。 |
1550 | 15 | 父・足利義晴が死去。 ”中尾城の戦い”細川晴元と立て篭って三好長慶に抵抗するが、敗れる。中尾城を焼却して逃げる。 里見氏と北条氏の争いを調停。 |
1551 | 16 | 六角氏の支援を受けて、近江国・朽木に移る。 京奪還のため、幕府軍を派兵するが、三好軍に敗れる。 三好長慶ならびに長慶派の暗殺を試みるが、失敗する。 ”相国寺の戦い”再び幕府軍を派兵するが、三好氏に敗れる。 |
1552 | 17 | 六角義賢の仲介により、細川晴元の出家の条件を受諾して、三好氏と和睦。 近江国から京に戻る。 三好長慶を幕府の御供衆に任命、幕臣に加える。 |
1553 | 18 | 細川晴元が挙兵して三好氏を撃破したため、三好長慶との和解の約束を破棄して、細川氏と手を結ぶ。 ”東山霊山城の戦い”三好氏の西院小泉城を包囲するが、落とせず。あべこべに東山霊山城を攻撃され、陥落する。 わずかな従者を連れて近江国・朽木に逃れる。 |
1554 | 19 | 改名 → 足利義輝 |
1556 | 21 | 朝倉氏と加賀一向一揆の争いを調停し、朝倉軍を加賀から撤兵させる。 |
1558 | 23 | ”北白川の戦い”細川晴元と共謀して三好氏と戦うが、敗れる。 六角義賢の仲介で三好氏と和睦。 近江国から京に戻る。 近衛稙家の娘(大陽院)と結婚。 武田氏と長尾氏の争いを調停。 |
1560 | 25 | 三好長慶を御相伴衆に任命。三好家臣・三好実休、松永久秀を御供衆に抜擢。三好氏を幕府の中心に据える。 島津氏と大友氏の争いを調停。 毛利氏と尼子氏の争いを調停。 |
1561 | 26 | 松平氏と今川氏の争いを調停。 |
1562 | 27 | 大友義鎮(宗麟)から毛利元就を訴えられる。 大友氏と毛利氏の争いを調停。 |
1563 | 28 | 大友宗麟を御相伴衆に任命。 |
1564 | 29 | 大友氏と毛利氏の争いを調停。 上杉氏、武田氏、北条氏の争いを調停。 政権を握っていた三好長慶が死去。 |
1565 | 30 | 三好義重(義継)、三好三人衆、松永久通の1万の兵に山城国・二条御所を襲撃されて討死。【永禄の変】 |

- 足利義輝 – Wikipedia
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