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あしかが よしあき

足利義昭

1537.12.15 〜 1597.10.9

 
足利義昭のイラスト
  

足利義昭(義秋、覚慶、昌山)は、現在の京都府中南部にあたる山城国の征夷大将軍です。織田信長の協力を得て、足利15代将軍になります。意見が合わなくなった信長と対立し、全国の大名をつかった包囲網を敷きますが、敗れて京から追放されます。放浪しながら、信長打倒を謀った室町幕府最後の将軍です。享年61歳。

足利義昭は何をした人?どんな人?このページでは、足利義昭のハイライトとなった出来事や逸話を紹介しています。あなたもきっと足利義昭のことを誰かに話したくなります。

  • 名 前:覚慶 → 足利義秋 → 足利義昭 → 昌山道休
  • 幼 名:千歳丸
  • あだ名:流れ公方、鞘公方、貧乏公方、ネギ坊主
  • 官 位:左馬頭、参議、左近衛中将、征夷大将軍、権大納言
  • 出身地:山城国(京都府)
  • 居 城:二条城
  • 子ども:4男 1猶
  • 跡継ぎ:足利義尋
  • 父と母:足利義晴 / 慶寿院

信長包囲網で対抗したが室町幕府さいごの将軍になった

室町幕府15代将軍・足利義昭は、僧侶として生涯を終えるはずでした。が、兄であり将軍である足利義輝と弟の周暠(しゅうこう)と母までもが、三好三人衆によって殺害される永禄の変が1565年に起こり、彼の人生は一変します。

なりゆきで1566年に征夷大将軍に立候補することになった足利義昭は、1568年には織田信長の支援をうけて、坊さんから一気に武家のトップ足利15代将軍になります。

ところが、将軍になってみると、立場が下であるはずの信長が上から目線で鬱陶(うっとう)しい。思ってたのと色々ちがう。信長なんかいなければいいのに。

そこで、足利義昭は信長のことが嫌いな人ネットワークを構築します。


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信長ぎらいの人

1571年、足利義昭が打倒・信長の行動を起こします。まずはじめに、武田信玄、上杉謙信、毛利輝元など、強そうな大名にアプローチしました。六角義賢、浅井長政、朝倉義景、石山本願寺など、もともと信長と敵対していた勢力を誘うことも忘れません。

おまけに兄の仇である三好三人衆までサークルに加えます。信長をぐるっと囲う『信長包囲網』を、お手紙のやりとりだけで結成しました。

第2次・信長包囲網の図

将軍という立場をフル活用した、私情がドバドバの職権濫用(しょっけんらんよう)でしたが、”ノブナガを倒せ” の賛同者を得ることに成功し、信長を大いに困らせました。

1572年に武田信玄が京を目指して進軍を開始すると、信長の盟友である徳川領をバンバン攻め落とし、美濃からも織田領に侵攻しました。ここまでは狙いどおり。「ここで俺のターン!」足利義昭は、信長に対して挙兵します。

しかし、持病が悪化した信玄が陣中で急死してしまいます。武田軍が引き返していくと、一転して信長のターンになり、足利義昭は、二条城(信長に作ってもらった居城)と槇島城で戦いますが、惨敗。足利義昭は京都から追放され、織田信長の手で室町幕府は滅ぼされました。


ネバーギブアップ
幕府を諦めない

京を追い出されて放浪した足利義昭は、毛利輝元に拾われて備後の(とも)に移住します。ここで再起をねらい「鞆幕府」を根付かせようとしますが、義昭の件で信長と揉めるのが馬鹿馬鹿しい毛利氏は消極的な態度でした。

足利義昭は、なかなか思い通りにならない状況を ”毛利氏が大友氏と争っているからだ” と勘違いします。そこで薩摩の島津氏に「大友を討伐せよ」のお手紙を出し、九州制覇を目論む島津義久に、大友宗麟を攻める口実を与えてしまうおもしろ展開をプロデュースしています。

信長倒そうぜサークルの部員” を募集しつづけましたが、1582年の本能寺の変で織田信長が亡くなります。急遽、募集内容を ”幕府再興のボランティア” に変更しますが、これも叶いません。やがて、1585年に豊臣秀吉が関白に就任し、もはや将軍の地位も意味がなくなりました。

流浪のペンパル将軍・足利義昭のぶらり旅も、将軍就任から20年が経った1588年に強制終了します。足利義昭はひっそりと征夷大将軍を辞職しました。

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生涯をざっくり振り返る

1537年、足利義昭は山城国・京に征夷大将軍である足利義晴の次男として生まれます。6歳の頃から僧侶になります。将軍職を継いでいた兄・足利義輝が永禄の変で殺害されたため、細川藤孝らによって新将軍に擁立され、織田信長の協力で15代将軍を襲名。実質的に信長を中心とした室町幕府を共同運営しました。

やがて、意見が合わなくなった信長と対立し、敗れて京を追われました。毛利輝元を頼って備後国・鞆で幕府再興を目指しますが、ほどなくして将軍を辞職。豊臣秀吉の御伽衆(おとぎしゅう)として余生を過ごしました。1597年に摂津国・大坂で亡くなりました。死因は腫物の病気と過労です。61歳でした。

足利義昭が再び京の地を踏んだのは、信長に追放されてから15年後のこと。降って湧いたような将軍就任から室町幕府滅亡まで、時勢に翻弄された一生でした。

足利義昭の領地・勢力図(1570年)

山城国・京10万石ほどが足利義昭の領地でした。それも織田信長との共同統治であり、管理下に置かれていました。

足利義昭の性格と人物像

足利義昭は「権力を好み注意されることを嫌う人」です。

20年以上も僧侶として過ごしますが、沸点が低く、修行が生かされていません。名刀や名馬をぜんぶ自分のものにしようとする物欲、幕府資金の着服、あからさまな贔屓(ひいき)ハラスメントを信長からたしなめられています。

メンタルが強く、めげずに手紙を書き続けて、お手紙だけでビッグネームを動かしたのは、なにげにスゴイ実績です。しかし、大名たちにメールをばら撒いて混乱を招いたのも事実で、天下を治めるどころか、ひっかきまわしてしまった陰謀将軍という風評は否めません。

「室町幕府の父」という称号を与えて信長に感謝をつたえていますが、3歳年上の信長に「ぼくのパパへ」とした感謝状を送るなど、けっこうなお調子者です。

好物はカズノコ。趣味は将棋。駒づくりが好きで、職人に象牙の駒をつくらせています。未婚で正室はいませんが、子どもが数人います。

義昭がしたためた書状のうち、朽木元綱に所領の安堵をつたえる御教書や、小早川隆景に送った幕府再興を願う手紙が、重要文化財として残っています。信長から送り付けられたという説教文『十七箇条意見書』の原本は残っていません。

能力を表すとこんな感じ

足利義昭の能力チャート

悪だくみの知恵と筆まめさが足利義昭の核になっています。信長がむかつくという原動力だけが彼を突き動かしています。

足利義昭の逸話やエピソード

お手紙で信長にめちゃくちゃディスられてしまう

ある日、征夷大将軍・足利義昭のもとに、織田信長からお便りが届きます。内容は17か条からなる意見書(ダメだし)で、36歳の義昭を盛大かつ嫌味たっぷりにディスッたものでした。

一. ”女中さんのなかで、俺と仲がいい子たちをいじめてるらしいけど、どういうつもり?”

一. ”献上金を貯めこんでるけど、ぜんぶ自分のものにしてない?”

一. ”ケチな将軍だと俺まで恥ずかしくなる、幕府の金をちゃんと使ってる?”

などなど。

【十七箇条意見書】織田信長から17ものダメ出しが書かれた手紙を受け取り激怒する足利義昭

概ね信長が正しいのですが、こんなのがネチネチと17つも書かれた『十七箇条意見書』に義昭は激怒し、これが2人の仲を決定的に悪くしたと考えられています。今でいえば、SNSのDMや個人チャットで17連投で嫌味が送られてくるかんじでしょうか。

義昭のことを見下していた信長にしてみれば当然のダメ出しですが、将軍のプライドがこれを許しませんでした。

足利義昭の有名な戦い

本圀寺の変 ほんこくじのへん 1569.1.31 ● 三好軍1万 vs 足利幕府軍2千 ○

三好三人衆が、本圀寺(京都府京都市山科区)の15代将軍・足利義昭を襲撃した事件。13代将軍を殺害した永禄の変と同様に、三好長逸らが攻め入るが、織田氏の助勢もあって、幕府軍が義昭の防衛に成功した。明智光秀が活躍した合戦。本圀寺合戦、六条合戦とも。

本圀寺の変で足利義昭は勝っています。
将軍就任からまもなく、兄・足利義輝が殺害されたときと同様に、義昭も命を狙われました。三好三人衆の動きを予測していた信長のおかげで、一命をとりとめました。

槇島城の戦い まきしまじょうのたたかい 1573.7.18 ○ 織田軍7万 vs 足利幕府軍1万2千 ●

再び反信長の挙兵をした足利義昭が篭る槇島城(京都府宇治市槇島町)を織田信長が攻めた合戦。信長は宇治川を渡って槇島城を包囲すると、城壁を破壊して城に火を放った。義昭は嫡男を人質として差し出し、降伏した。合戦のあと、足利義昭は河内国に追放された。

槇島城の戦いで足利義昭は敗れています。
足利義昭のターニングポイントになった戦いです。
信長包囲網が瓦解し、孤立した義昭は敗れて室町幕府は滅びました。このあとしぶとく将軍名乗ったまま河内、紀伊、備後と移り住み『流れ公方』と呼ばれます。

足利義昭の詳しい年表

足利義昭は西暦1537年〜1597年(天文6年〜慶長2年)まで生存しました。戦国時代中期に活躍した武将です。

15371足利義晴の次男として山城国に生まれる。幼名:千歳丸
15426大和国・興福寺に入る。法名:覚慶
15652913代将軍・足利義輝(兄)、母、弟が三好三人衆と松永久通に殺害される。【永禄の変】
松永久秀によって興福寺に幽閉される。
和田惟政、三渕藤英、細川藤孝らによって興福寺から救出される。
近江国の六角義賢を頼って保護される。
156630還俗 → 足利義秋
次期将軍に立候補する。
三好三人衆に矢島御所を襲撃される。
六角義賢が三好氏と通じたため、若狭国を経由して、越前国の朝倉義景のもとに逃げる。
156832従弟・足利義栄が三好氏の働きかけで14代将軍になる。
改名 → 足利義昭
明智光秀を通じて美濃国の織田信長のもとに移る。
織田氏&浅井氏の軍勢によって京へ上洛を開始。六角氏と三好三人衆を退けて入京する。
14代将軍・足利義栄の死去により15代将軍に就任。【室町幕府の再興】
156933織田信長が美濃国に帰る。三好三人衆に襲撃されるが、明智光秀らが撃退する。【本圀寺の変】
織田信長が二条城(烏丸中御門第)の修築を行う。
織田信長に和泉国を与え、幕府官職に就任させ、山城国も共同統治とする。
伊勢国を攻めた織田氏と北畠氏の和睦を仲介する。
157034上洛を支えた織田氏と浅井氏の同盟が破綻する。
”野田城・福島城の戦い”三好三人衆との戦に織田軍として参加。石山本願寺、浅井長政、朝倉義景が挙兵して織田領に侵攻したため、退却する。【第1次信長包囲網】
比叡山延暦寺に籠って抵抗を続ける浅井氏&朝倉氏と織田氏の和睦を仲介する。
157135上杉氏、武田氏、毛利氏、六角氏に信長討伐を打診する。
157236織田信長から態度を改めるよう求められる。【17か条意見書】
信長打倒の呼びかけに、武田信玄、石山本願寺、朝倉義景、浅井長政、松永久秀(三好勢)が応じる。【第2次信長包囲網】
武田信玄が徳川領・遠江国、三河国に侵攻を開始。
157337二条城で信長打倒の挙兵をする。
織田信長からの和睦の提案を拒否して近江国で交戦するが、敗れる。朝廷の仲介で講和する。
”槇島城の戦い”再び信長打倒の挙兵をするが、敗れて降伏する。
山城国を追放されて河内国に移る。【室町幕府の滅亡】
157640毛利輝元を頼り、備後国・鞆で保護される。
信長打倒の呼びかけに、石山本願寺、毛利輝元、宇喜多直家、上杉謙信、宇喜多直家が賛同する。【第3次信長包囲網】
158246織田信長が死亡。【本能寺の変】
幕府再興のため、毛利氏、羽柴氏、柴田氏、徳川氏に上洛の支援を求める。
158549豊臣秀吉が関白になる。九州の島津氏に豊臣氏との和睦を勧める。
158852将軍職を辞任する。
受戒 → 昌山(道休)
豊臣秀吉の側近(御伽衆)として仕える。
159761摂津国・大坂で病死。
戦国時代で足利義昭が生きた期間の表

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