六角義賢
1521.?〜 1598.4.19

六角義賢(承禎)は、現在の滋賀県にあたる近江国の武将・大名です。南近江などを所領としましたが、北近江の浅井長政に敗れ、上洛する織田信長の進撃によって大幅に領地を失います。名門のプライドで信長に挑みますが、敗戦を重ねて、六角氏は滅亡。最期は天下人になった豊臣秀吉のもとで過ごしました。享年78歳。
- 六角義賢の武将タイプ
- 文化
六角義賢は何をした人?このページは、六角義賢のハイライトになった出来事をなるべく正しく、独特の表現で紹介しています。きっと六角義賢が好きになる「なんど負けても信長にゲリラ戦を挑んですべてを失った」ハナシをお楽しみください。
- 名 前:六角義賢 → 六角承禎
- 官 位:従五位下、左京大夫
- 幕 府:近江守護
- 出身地:近江国(滋賀県)
- 領 地:近江国
- 居 城:観音寺城
- 正 室:畠山義総の娘
- 子ども:2男 1女
- 跡継ぎ:六角義治
- 父と母:六角定頼 / 呉服前
なんど負けても信長にゲリラ戦を挑んですべてを失った
六角家とは、源頼朝の親戚にあたる宇多源氏佐々木家を開祖とする家系です。頼朝の挙兵に加わった鎌倉時代以降、近江国南部を統治してきた由緒ある武家です。
六角氏15代当主・六角義賢も、畿内(京周辺)において影響力を持つ守護大名でした。尾張の片田舎に育った織田信長なんぞと違って、将軍家とも親交があるエリートなのです。
そんな六角義賢でしたが、1565年に三好三人衆が起こした『永禄の変』によって、知らぬうちに破滅の入り口に立たされてしまいます。将軍・足利義輝が殺害されたこの事件のあと、あろうことか六角義賢は三好三人衆を支持します。
一方で、次の将軍を擁立するために織田信長が京に上ってくるのでした。
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通りたければ
俺を倒して行け
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1568年に足利義昭を連れて上洛を開始した信長は、美濃国(岐阜県)を出発。京に行くために六角領の近江国(滋賀県)を通ります。六角義賢には、上洛軍に加わるよう信長から要請がありましたが、これにはOKできません。プライドがあるから。三好三人衆と相談して抗戦することにしました。
”従わないとぶっ潰すぞ” と信長から通告され、六角義賢は「通りたければ俺を倒していけ」とラスボス感を出してしまいます。
六角氏の居城・観音寺城は、本丸が標高395mにあり、周囲を10以上もある支城に守られたかなり大規模な山城で、容易に攻め落とすことはできません。信長ごとき観音寺城まで辿り着けないという自信があったのです。
ところが、あっというまに2つの支城(箕作城、和田山城)を攻め落とされます。身に迫る危険を感じた六角義賢は観音寺城を捨てて逃げました。
主人を失った城兵たちは次々と投降し、観音寺城は織田の手に渡ります。その後、信長は三好三人衆を蹴散らして京に入り、足利義昭を新将軍に就任させました。格下だと思っていた信長は今や将軍の恩人。六角義賢がどうこうできる相手ではなくなりました。
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負のスパイラルに
目がまわる
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観音寺城は失っても、領地はまだある!近江の端っこの甲賀郡に避難した六角義賢は、信長にちょっかいを出し続けます。そのたびに敗れ、領地を捨てて逃げる負のスパイラルに陥りました。
もはや目的を見失い、しまいには一向宗の一揆勢に加わって信長に嫌がらせをするようになり、最後に残った石部城を織田の兵に包囲されると、嫡男・義治を連れて闇夜の雨にまぎれて城を脱出しました。
こうして近江守護・六角氏は、1574年にひっそりと滅びました。
生涯を簡単に振り返る
1521年、六角義賢は近江国・観音寺城に守護大名である六角定頼の長男として生まれます。早くから父と一緒に政治に関わりました。父の死後は嫡男・義治と親子で統治を行い、中央政治にもよく関わります。畿内で争う将軍家、細川京兆家、三好家、畠山家たちの抗争をたびたび調停しました。
家来筋の浅井長政の反乱を抑えられず独立を許し、嫡男・義治が起した不祥事で城を追い出される観音寺騒動に見舞われ、織田信長が上洛を開始するとこれと争って敗れるなど、踏んだり蹴ったり。やがて畿内への影響力も失って逃亡しました。
最後と死因
しばらくして、天下統一を果たした豊臣秀吉の御伽衆に加わります。静かな余生を送ったのち、六角義賢は山城国・京で亡くなりました。1598年4月19日、死因は不明。78歳でした。
領地と居城

近江国の南部54万石と伊勢国の一部が六角義賢の領地でした。一時期は北近江まで勢力下に置きましたが、配下から独立した浅井長政に奪われています。
六角義賢の性格と人物像
六角義賢は「名門という十字架に翻弄される迷子」です。
守護職と六角家のブランドで将軍家と畿内のトラブルを仲介しますが、良かったのはそこまで。自ら城を捨てていくスタイルなのに戦いを挑み、つぎつぎと領地を失って堕ちていくさまは、やめどきがわからないギャンブラーのようです。
上級意識が強く、信長を身分だけで馬鹿にし、侮りすぎました。なにがしたかったのか、最終的には信長の邪魔をすることに固執しながらフェードアウトします。
献上品として喜ばれた蜜柑が好物。弓馬の名手で、馬術は大坪流、弓は日置流を学び、唯一人の印可を受けたほどの腕前でした。
出家して承禎を名乗っていましたが、晩年になってなぜかキリスト教に乗り換えます。育ちが良く教養があったおかげで、晩年は秀吉に知識をおしえる御伽衆に選ばれています。
ちなみに、信長に先んじて楽市・楽座を実施した六角氏とは、義賢の父・定頼のことです。
能力を表すとこんな感じ

全体的にバランスがとれており、六角義賢はひととおりこなせます。他人の仲裁は得意ですが、自分のこととなると止めどきがわかりません。
信長の野望シリーズに登場する六角義賢の能力値も参考にしています。
六角義賢の有名な戦い
六角氏の支配下から浅井長政が独立を計画し、実行した。これに激怒した六角義賢は、肥田城に対して水攻めを行うが失敗。肥田城の救援に向かった浅井軍と六角軍が野良田(滋賀県彦根市野良田町)で激突した合戦。浅井長政は初陣だったが、見事に勝利で飾った。
野良田の戦いで六角義賢は敗れています。
支配下にあった浅井氏の独立を阻止しようとしましたが、返り討ちにあってしまいます。
京に上洛する織田信長が、途上にある観音寺城(滋賀県近江八幡市)を攻めた合戦。18からなる支城で構成された難攻不落の山城だったが、丹羽長秀らの活躍により、わずか1日で要所であった箕作城と和田山城が陥落。六角義賢は観音寺城を放棄して甲賀郡に逃亡した。
観音寺城の戦いで六角義賢は敗れています。
六角義賢のターニングポイントになった戦いです。
日本五大山城の一つとされる観音寺城をあっさり手放したのが悔やまれます。体制を立て直して奪還するプランはことごとく上手くいかず、名門・六角氏が凋落するきっかけになりました。
六角義賢の詳しい年表と出来事
六角義賢は西暦1521年〜1598年(大永元年〜慶長3年)まで生存しました。戦国時代中期から後期に活躍した武将です。
1521 | 1 | 六角定頼の嫡男として近江国に生まれる。 |
1533 | 13 | 元服 → 六角(四郎)義賢 |
1538 | 18 | 初陣。浅井亮政との戦で佐和山城攻めに参加。 |
1549 | 29 | ”江口の戦い”三好長慶と争う三好政長の援軍に向かう。政長の敗死により撤退。 |
1552 | 32 | 父・六角定頼の死去により家督を相続。 今井定清に太尾山城が攻められるが、退ける。 |
1555 | 35 | 伊賀国に侵攻するが、三好長慶に敗れる。 |
1557 | 37 | 長男・六角義治に家督を譲る。引き続き政治・軍事を主導する。 出家 → 六角承禎 |
1558 | 38 | 将軍・足利義輝と細川晴元を保護。将軍家と三好長慶の和睦を仲介する。 浅井久政が六角領に侵攻してくるが、退ける。 浅井領・鎌刃城と菖蒲嶽城を攻め落とす。 |
1559 | 39 | ”地頭山合戦”浅井領・地頭山城を攻め落とす。 浅井久政が従属する。 浅井久政の嫡男を元服させる。一字を与えて浅井賢政と名乗らせ、家臣の平井定武の娘と結婚させる。 |
1560 | 40 | 浅井賢政(長政)が六角氏に叛く。 ”野良田の戦い”浅井氏に加担した肥田城を水攻めにするが、失敗。駆けつけた浅井長政に敗れる。 |
1561 | 41 | 今井定清に太尾山城を攻め落とされ、浅井氏に奪われる。 ”将軍地蔵山の戦い”畠山高政と協力して三好氏を攻撃。松永久秀を撃退する。 |
1562 | 42 | 河内国での畠山高政の勝利を受けて、京に進軍する。徳政令を出して山城国を押さえる。 畠山高政が三好長慶に攻められ、援軍を要請される。援軍を送らず畠山軍が壊滅。 山城国から兵を退いて三好長慶と和睦。 |
1563 | 43 | 長男・義治が重臣・後藤賢豊を惨殺。怒った家臣に観音寺城を追い出される。蒲生定秀の仲介で戻る。離反した家臣が浅井氏のもとに行く。【観音寺騒動】 浅井長政が美濃国に侵攻した背後を攻めるが、撃退される。 |
1565 | 45 | 将軍・足利義輝が暗殺され、義輝の弟・義秋(義昭)が近江国に逃れてくる。矢島御所で保護する。 浅井長政と織田信長の妹(市)の結婚を斡旋する。 |
1566 | 46 | 三好三人衆と手を組む。矢島御所を襲撃された足利義秋が越前国に逃げる。 ”蒲生野の戦い”布施公雄が六角氏に叛く。これに呼応した浅井長政と戦うが、敗れる。 |
1567 | 47 | 分国法・六角氏式目を制定。観音寺騒動を受けて家臣たちが六角義治の権限を制約する。 |
1568 | 48 | ”観音寺城の戦い”足利義昭を奉じて上洛する織田信長の従軍要請を拒否。箕作城、和田山城を攻め落とされ、甲賀郡に逃れる。 織田信長の暗殺を企てるが失敗する。 |
1570 | 50 | ”野洲河原の戦い”織田領・長光寺城を攻めるが、柴田勝家に敗れる。 ”宇佐山城の戦い”浅井氏、朝倉氏と協力して織田領・近江国を攻める。織田信治と森可成を討ち取る。【第1次信長包囲網】 ”志賀の陣”一揆勢を率いて近江国と美濃国の交通を封鎖するが、羽柴(豊臣)秀吉に敗れる。 |
1571 | 51 | ”近江一向一揆”金森の一向宗門徒に加わり織田信長に抵抗するが、柴田勝家と佐久間信盛に駆逐される。 |
1573 | 53 | *六角義治が篭る鯰江城が柴田勝家、佐久間信盛、丹羽長秀、蒲生賢秀に攻め落とされる。 菩提寺城、石部城を佐久間信盛に包囲される。 |
1574 | 54 | 菩提寺城、石部城が落ちる。甲賀郡南部の信楽に逃れる。六角家滅亡 |
1581 | 61 | キリシタンの洗礼を受ける。 |
? | ? | 豊臣秀吉の御伽衆になる。 |
1598 | 78 | 山城国・京で病死。 |

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