織田信長と豊臣秀吉と徳川家康の関係をわかりやすくしたまとめ

織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の3人は、日本の歴史で必ず習う人物です。しかし、彼らがどのように関わったのか、相関関係は意外と見落としがち。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の関係図とともに歴史上の出来事とあわせて見てみましょう。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、それぞれから見た人間模様も面白いです。
信長・秀吉・家康の関係図と年表から見る出来事
織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の3人は、安土桃山時代から江戸時代にかけて、日本の歴史に大きく関わったとして知られる人物です。
いずれも愛知県の出身であり、織田信長を中心に互いが深く関わり合ったこの3人は『戦国三英傑』とも呼ばれ、戦国時代を彩ったヒーローでした。
歴史の教科書で習う彼らは、織田信長 → 豊臣秀吉 → 徳川家康といった具合に時系列で紹介されるため、順番に登場したように思われがちですが、そうではありません。
織田信長と豊臣秀吉と徳川家康は、同時代を生きた戦国武将たちであり、3人の関係はそれぞれの立場や情勢で変化した複雑なものだったのです。

織田信長と豊臣秀吉と徳川家康の関係を図にまとめると、秀吉は信長の家来なのに信長と同盟を結んでいた家康を家来にするなど、よくわかりません。
このような関係性を整理するために、戦国時代のおもな出来事と3人の関わりを照らし合わせてみると、わかりやすくなります。

まずはじめに、桶狭間の戦い(1560年)をきっかけに、織田信長と徳川家康の関わりが強くなります。
つぎに、本能寺の変(1582年)で織田信長が死亡すると、戦国大名になった豊臣秀吉が徳川家康と対立し、関白になったことで従えるようになったのがわかります。
そして、豊臣秀吉の死後に起こる関ヶ原の戦い(1600年)以降、徳川家康が天下を治めていきます。
信長・秀吉・家康の3人が戦国史に与えた影響
1467年の応仁の乱にはじまった戦国時代は、その後およそ150年にわたって戦乱が続きました。
ここに登場したのが織田信長であり、豊臣秀吉であり、徳川家康でした。
3人は戦国史にどのような影響を与えたのか?ざっと見てみましょう。
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織田信長の登場
天下統一へのうごき
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1573年の長篠の戦いでは、大量の鉄砲を使った近代戦術で、武士が名乗り出て戦っていたこれまでの合戦のありかたを大きく変えました。
『楽市・楽座』や『南蛮貿易』の経済利益によって膨大な軍事費をまかない、専業兵士で構成された農耕期でも戦える軍隊をもって、圧倒的なスピード感で他国を攻略しました。
織田信長が天下統一への道筋を示しました。
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豊臣秀吉の台頭
天下統一を果たす
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信長の軍隊形式や商業政策を受け継ぎ『太閤検地』や『刀狩令』などの年貢の徴収を安定させる農業政策も実施しました。
1585年に、天皇に次ぐ地位である『関白』に就任し、全国の大名たちを従えました。圧倒的な軍事力を有しつつも、他国を攻めるだけでなく、降伏させる手法を用いて、1590年に全国を統一しました。
信長が成し得なかった天下統一を豊臣秀吉が達成しました。
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徳川家康の時代
江戸幕府をひらく
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豊臣政権は秀吉のワンマンな統治体制でした。そのため、秀吉が亡くなると政権は統制をなくしました。1600年の関ヶ原の戦いで勝利した家康は、あたらしいリーダーになりました。
1603年に『征夷大将軍』に就任。『江戸幕府』をひらきます。
1615年に豊臣氏を滅ぼし、武家と公家を統制する『武家諸法度』『禁中公家諸法度』を発布します。これ以降の争乱を防ぐため、幕府による徹底的な統治を目指しました。
こうして、徳川家康が戦国時代を終わらせました。
信長・秀吉・家康それぞれの立場と関係
織田信長から見た秀吉と家康
織田信長から見た豊臣秀吉は3歳下の家来です。
織田信長から見た徳川家康は9歳下の盟友です。
織田信長が生まれた頃の織田家は、まとまりがなく身内でも争う状況でしたが、信長がこれを制圧し、尾張国の戦国大名となります。
このころから家来として仕えたのが豊臣秀吉であり、同じ戦国大名として同盟を結んだのが徳川家康でした。
秀吉は優秀な家来だった
信長は秀吉を草履取りという雑用係として雇用しました。能力主義だった信長は、仕事ができる秀吉を気に入り、次第に重要な役割を与えます。
秀吉を一国一城の主にまで出世させ、他国を攻める方面軍の司令官に抜擢しました。
家康はパートナーだった
隣国である三河国の大名だった家康とは、互いの背後の安全を確保するために同盟を結びました。
この同盟はやがて信長の天下統一に向けた共闘関係になり、織田・徳川連合軍は長篠の戦いなどの重要な合戦で勝利しました。
豊臣秀吉から見た信長と家康
豊臣秀吉から見た織田信長は3歳上の主君です。
豊臣秀吉から見た徳川家康は6歳下の家来です。
豊臣秀吉は尾張国の貧しい家に生まれました。針売りなどでなんとか暮らしていましたが、立身出世を夢見て武士になろうと一念発起しました。
身分を気にせず雇ってくれたのが織田信長でした。関白になったのち、家来となったのが徳川家康です。
信長との関係は水と魚だった
変わり者と言われていた信長を主君に選んだのは、大正解でした。才能を活かして出世したい秀吉は、能力がある者を好む信長のもとで、水を得た魚のように躍進しました。
信長は天下統一という指標を示してくれました。秀吉はこれを引き継いで天下人へと上り詰めます。
家康は信頼できる家来だった
もともと家康は主君である信長の盟友だったので、秀吉よりも立場が上でした。信長が死亡した後、小牧・長久手の戦いで争いますが、和睦し、関白になったことで主従関係になります。
秀吉は家康を「信頼できる政治家」と評しており、筆頭家臣として丁重に扱い、自身の死期が近いことを悟ると、幼い息子と豊臣政権を家康に託しました。
徳川家康から見た信長と秀吉
徳川家康から見た織田信長は9歳上の盟主です。
徳川家康から見た豊臣秀吉は6歳上の主君です。
徳川家康は今川氏の人質として育ちました。桶狭間の戦いで今川義元が討死したことをきっかけに、三河国で戦国大名として独立します。
義元を討ったのが織田信長であり、独立直後に味方を得るために同盟しました。信長の死後、天下人となった豊臣秀吉の家来になりました。
信長は恐怖の支配者だった
はじめは対等な同盟でしたが、そのうちに信長の権力が増すにつれて、家来のような扱いを受けるようになりました。信長の出陣要請を断れなくなり、度重なる軍役を強いられました。
ますます支配を強める信長は恐ろしく、逆らうことはできません。信長の命令で長男と正室を死なせてしまう事件も起こりました。
秀吉は超えられない壁だった
信長が亡くなると、小牧・長久手の戦いで秀吉と対決しますが、驚くべきスピードで権力を増大させた秀吉に対抗できなくなり、仕方なく家来になりました。
秀吉の命令で江戸に領地を移され、不遇を感じることもありましたが、五大老と呼ばれる大名衆の中で筆頭とされ、家康は秀吉から信頼されました。
信長に支配され、その後秀吉の家来になった家康でしたが、この2人との関わりが大きな糧となっています。
裏切りが絶えなかった織田政権、世代交代ができなかった豊臣政権の失敗から学んだことを江戸幕府に活かし、長く続く治世を実現しました。
信長・秀吉・家康のライバルたち
織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の3人と関わりがある重要な武将を紹介します。
彼らが戦国時代の権力者へと躍進した背景には、いずれも転機となった戦いがあります。ここでの勝敗が違ったら、歴史が変わっていたかもしれないライバルの存在がありました。
信長、家康と関わりが深い武将
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桶狭間の戦い
今川義元
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織田信長と今川義元は隣接する敵同士です。
徳川家康と今川義元は家来と主君です。
今川義元は、1560年の桶狭間の戦いで織田信長に敗れた武将です。
『海道一の弓取り』と呼ばれるほどの有力者であった今川義元を討ち取った織田信長は、一躍その名を知られることとなりました。
幼少期を今川氏の人質として過ごした徳川家康は、今川軍として桶狭間を戦っています。
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長篠の戦い
武田勝頼
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織田信長と武田勝頼は宿敵です。
徳川家康と武田勝頼は因縁の敵同士です。
武田勝頼は、1575年の長篠の戦いで織田・徳川連合軍に敗れた武将です。
武田氏は信玄のころから徳川家康と争った因縁があります。織田信長は盟友・家康と武田勝頼に対抗し、鉄砲を使った近代戦術でこれを粉砕しました。
信長、秀吉と関わりが深い武将
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本能寺の変、山崎の戦い
明智光秀
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織田信長と明智光秀は主君と側近です。
豊臣秀吉と明智光秀は出世のライバルです。
明智光秀は、1582年に本能寺の変で織田信長を討ち、同年の山崎の戦いで豊臣秀吉に討たれた武将です。
織田家臣として信長に重用された秀吉と光秀でしたが、出世競争では明智光秀が優勢でした。
本能寺の変から11日後、信長の仇である明智光秀を討ったことで豊臣秀吉は急速に権力を強め、織田家中筆頭となり、天下統一へ乗り出します。
このことから、わずかな間だけ権力や地位を得ることを形容した『三日天下』という言葉が生まれています。
秀吉、家康と関わりが深い武将
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関ヶ原の戦い
石田三成
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豊臣秀吉と石田三成は主君と家来です。
徳川家康と石田三成は豊臣家臣同士です。
石田三成は、1600年の関ヶ原の戦いで徳川家康に敗れた武将です。
規律に厳しく、正確な仕事をする石田三成を豊臣秀吉は評価し、政務を行う奉行として重宝します。太閤検地も三成が主導して行いました。
秀吉の死後、天下をねらう徳川家康の打倒を目指して挙兵した石田三成でしたが、家康はこれを返り討ちにして天下を取りました。
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大坂冬の陣・夏の陣
豊臣秀頼
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豊臣秀吉と豊臣秀頼は親子です。
徳川家康と豊臣秀頼は元家来と元主君です。
豊臣秀頼は、1615年の大坂夏の陣で徳川家康に滅ぼされた武将です。
子どもに恵まれなかった豊臣秀吉でしたが、晩年になって豊臣秀頼が生まれました。秀吉は亡くなる際、家康にまだ幼い秀頼を「頼みます」と伝えました。
最晩年をむかえた徳川家康は、この先も徳川の世がつづくために、豊臣家を滅ぼすことを決めます。そして、豊臣秀頼の大坂城を攻めて滅亡させました。
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