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論功行賞からの恩賞で貰える褒美と黙認された乱妨取りの闇

 
論功行賞からの恩賞で貰える褒美と黙認された乱妨取りの闇
  

戦国時代における『論功行賞』とは、合戦で挙げた功績を評価して、手柄に見合った恩賞を与えることです。敵から奪った土地を分配するほか、武具など物品授与されるケースがあり、大名にも思惑がありました。多くは語られない闇として、下級兵による略奪行為も見られました。論功行賞についてまとめてみましょう。

合戦が終わると論功行賞へ

合戦が終わると論功行賞が行われます。合戦の終了には「総大将が死亡または捕まる」「降伏して城を開ける」「講和を結ぶ」のいずれかが決着方法となりました。

合戦の決着方法をまとめたイメージ

総大将が討たれてしまっては家来たちは何も得られなくなりますので、総大将の死=負けというのは必然です。籠城戦の場合、降伏開城でも決着がつきます。停戦・休戦・終戦とする場合は、双方の講和条件を話し合って和睦(わぼく)しました。

戦いが終わると、武功の証として持ち帰られた首の検証(首実検)が行われます。『大将首』『諸将首』『雑兵(ぞうひょう)首』に査定されました。

首実検が済むと、軍目付(いくさめつけ)という監視役からの報告を受けて、功名(こうみょう)など手柄のラベリングが行われます。これらの手順を経て、いよいよ手柄に応じた恩賞が主君から与えられます。

恩賞でもらえる褒美のラインナップ


やっぱ土地でしょ!
知行地

最も重要な恩賞は知行地の加増です。

敵から取り上げた土地を恩賞として分配します。土地から得られる年貢が収入源でした。石高が上がるほど力を持てるようになり、石高が増すと動員できる兵数も増えます。1万石で250人ほどの動員兵力と考えられていました。

石高と動員兵力の目安

知行を与えられている武将たちは合戦になると兵を揃えて大名の下に集結しました。つまり、知行とは個々に与えられた戦力と考えられ、巧みな戦略で豊臣秀吉に天下をとらせた手腕が脅威となっていた黒田官兵衛には、多くの知行は与えられませんでした。

土地は無限にあるものではないため、むやみやたらに加増するわけにはいきません。しかし、命懸けで戦った者たちへの恩賞は発生します。そこで、知行の代わりに物品授与が行われました。

恩賞でもらえる物品のラインナップ


殿からもらった!
刀剣などの武具

大名が所持していた愛刀、槍、甲冑などの武具や馬を譲り受けます。もちろんこれは高価な物であり、土地に代わる恩賞とされていました。

天皇や将軍が所持した宝物は『御物(ぎょぶつ)』と格付けされ、大変貴重な物でした。大名から武具を(たまわ)ることは、とても名誉なことでした。


かっこいい!
陣羽織

高価な陣羽織は武将の威厳と財力を示すアイテムでした。見栄えする陣羽織を身につけることでカリスマ性が増し、指導力や統率力にも影響しました。他勢力を懐柔(かいじゅう)して天下統一を果たした豊臣秀吉は、陣羽織を贈答品として活用しました。


城より価値あり?
茶器と茶会

戦国時代の武士にとって、茶会をひらくことは身分や教養を表すステータスでした。千利休などの目利きによって等級の格付けがされ『名物』と呼ばれる茶器には一国以上の価値がありました。目利きとして有名な松永久秀が所有した『九十九髪茄子(つくもかみなす)』の値打ちは、1千貫文(1.2億円)とされています。

茶会ブームの仕掛け人は織田信長。知行に代わる価値を持たせるため、茶器にランク付けして恩賞とし、信長が許可した武将のみ茶会の開催を認めました。つまり、一般家臣とプレミアム家臣を格付けしたことで、茶器と茶会を最高の栄誉としたのです。

信長は価値観を利用したアイデアで、知行を与えなくても恩を与えることに成功しました。


ありがとうの気持ち
感状

感謝状、表彰状のようなもの。感状の価値は大名の威信に比例します。御恩と奉公の武士にとって、主君から感謝の気持ちを見える形で受け取ることは身に余る名誉でした。また、感状は他家に再就職する際に自身の価値を示すアイテムにもなりました。内容は知行の加増をほのめかすようなものが一般的です。

あの戦いで手柄を挙げた武将たちに与えられた恩賞

桶狭間の戦いで功第一とされたのは意外にも

桶狭間の戦い おけはざまのたたかい 1560.6.12 ● 今川軍2万5千 vs 織田軍3千 ○

尾張に侵攻してきた今川義元を桶狭間(愛知県名古屋市緑区桶狭間)で織田信長が討ち取った合戦。10倍近い圧倒的な兵力差があり、局面的に織田勢が不利だったが、今川の本陣を強襲し、義元の首級をあげる快挙となった。戦国史上もっとも有名なジャイアントキリング。

桶狭間の戦いで一番の功労者とされたのは、今川義元に一番(やり)を入れた服部小平太でもなく、今川義元の首をとった毛利新介でもありません。功第一とされたのは簗田(やなだ)政綱でした。

織田信長は情報の重要性を知っており、数的不利にあった桶狭間の戦いに勝利するには、大将である義元を討ち取るほかないと考え、今川軍の動きを把握しようとしました。簗田政綱は今川軍の本隊の居場所を信長に知らせる働きで最高の評価を得ます。

作戦の成否を決める重要な情報をつかむことは、敵大将の首を取るに匹敵するかそれ以上であるとして、簗田(やなだ)政綱には沓掛城(くつかけじょう)三千貫文(約3.6億円)が恩賞として与えられました。

関ヶ原の戦いの武功者、そしてあの男はどうなった

関ヶ原の戦い せきがはらのたたかい 1600.10.21 ● 西軍8万 vs 東軍10万 ○

秀吉の死後、徳川家康が権力を増すなか、石田三成が反徳川の挙兵。家康が率いる東軍と三成が率いた西軍が、関ヶ原(岐阜県不破郡関ケ原町)で雌雄を決した。井伊直政が撃ちかけた鉄砲によって開戦。西軍・小早川秀秋が東軍に寝返り、わずか6時間で東軍が勝利した。

関ヶ原の戦いは、家康が会津の上杉討伐に向かったことを発端とした合戦です。功第一とされたのは、家康の次男・結城秀康です。関ヶ原に向かう家康の背後を(おびや)かす上杉軍を牽制しつづけた功で下総国(しもうさのくに)・結城10万石 → 越前国(えちぜんのくに)・北ノ庄68万石にジャンプアップしました。

同じく、上杉勢への備えとして下野国(しもつけのくに)を守備した蒲生(がもう)秀行は、宇都宮18万石 → 会津60万石に大幅増。上杉軍と長谷堂城で激戦を繰り広げた最上義光はプラス33万石となりました。いずれも後顧(こうこ)(うれい)を絶ったことが評価の対象となっています。

関ヶ原が初陣(ういじん)だった家康の四男・松平忠吉は武蔵国(むさしのくに)10万石 → 尾張国(おわりのくに)・清洲52万石、福島正則尾張国(おわりのくに)・清洲24万石 → 安芸国(あきのくに)・広島50万石に加増転封。

関ヶ原の戦いで東軍勝利を呼び込む世紀の寝返りを演じた小早川秀秋は、筑前国(ちくぜんのくに)・名島35万石 → 美作国(みまさかのくに)備前国(びぜんのくに)備中国(びっちゅうのくに)あわせて57万石に加増されています。しかし、加増から2年後の1602年に21歳で急死しました。

乱妨取りや略奪行為は戦いのあとのボーナスタイムだった

略奪、放火、人身売買。戦いのあとは勝利した下級兵による濫妨狼藉(らんぼうろうぜき)が横行しています。

勝敗が決した土地では足軽兵が民家に押し入り、金目の物や家畜を奪い、女性は乱暴されたうえに(さら)われて売られました。子どもも売られました。

戦国時代、人身売買の相場は2貫文(30万円)。農作業で得られる年収が140万ほどですので、大きな臨時収入になりました。交易のあったポルトガルを通じて外国にも売り飛ばされました。

【乱妨取り】勝利した側の下級兵が行った略奪行為

このような略奪行為に対して、織田信長は『一銭切(いっせんぎり)』のお触れを出し、一銭でも盗みを働いた者は斬首として禁じました。しかし、武田信玄をはじめ人身売買を奨励した大名も多く上杉謙信などは攻め落とした城の城下で奴隷市をひらいたといいます。

略奪行為をはたらくのは勝利軍だけではありません。敗れた兵たちが引き揚げるところを狙った土民や野武士による落武者狩りも凄惨を極めました。山崎の戦いに敗れた明智光秀は、落武者狩りで落命しています。

どうして略奪が許された?

合戦に徴兵された足軽・農民兵の武具や食料は持参でした。そのため、戦が長引くと食料が枯渇(こかつ)し、結果として現地調達=略奪が発生します。このような略奪行為は、兵士の士気を保つためやストレス解消のために黙認(もくにん)されていました。

足軽など下級兵にまで恩賞を与えられない大名はこれを黙認(もくにん)し、勝利報酬の代わりとしました。簡単にいうと「好きな物を持っていけ」ということです。

極限の状態にある戦場では、奪い取ったすべてを自分の物にできるのが当たり前の感覚で、あらゆる物が資産に変えられました。

大坂夏の陣図屏風の左半分に記録された徳川軍による蛮行

1615年に行われた大坂夏の陣は、徳川家が豊臣家を攻め滅ぼした戦国時代最後の決戦です。この戦いを記録した『大坂夏の陣図屏風(びょうぶ)』には、激烈な戦闘の様子を描いた右隻(うせき)と、大坂城落城時の衝撃的な光景を描いた左隻(させき)があります。

屏風(びょうぶ)にはおびただしい数の人が描かれており、逃げまどう避難民から荷物を奪う兵士や、若い女性を数人の兵士が連れて行く場面が見られます。川を渡って逃げた先では太刀(たち)を振り回す野盗の一団に身ぐるみを()がれる男女の姿、赤ん坊を抱いた女性を追いかける様子もあります。

下級兵たちが町民や農民の首を狩る行為もみられ、これらを敵兵士の首に見立てて手柄にしようとした『作首(つくりくび)』も少なくありませんでした。

右隻(うせき)から左隻(させき)に向かって続く絵になっている2枚の大坂夏の陣図屏風(びょうぶ)は、出どころが異なるため左右で色調が違います。落城時の悲惨な状況が記された左隻(させき)のほうは暗い色調で、まるで戦国史のタブーが描かれているように見えます。

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