五大老と五奉行とは?役割の違いとメンバーの序列、なにが目的?

五大老と五奉行とは?役割の違いとメンバーの序列、なにが目的?

幼い息子・秀頼の将来を案じた豊臣秀吉が、大老衆と奉行衆にその後を託した制度を『五大老・五奉行』といいます。徳川家康、毛利輝元などの大名と、石田三成、増田長盛など秀吉の直臣で構成されました。この五大老・五奉行たちが関ヶ原の戦いを巻き起こします。それぞれどういう立場だったのか整理してみましょう。

五大老と五奉行制度の目的と成り立ち

晩年の豊臣秀吉が、自身が(ぼっ)した後も政権を維持(いじ)するために指名した5人の大名と5人の奉行が『五大老・五奉行』と呼ばれています。

実子(じっし)がいなかった秀吉は、実姉(じっし)の子で(おい)にあたる豊臣秀次を後継者(こうけいしゃ)として考え、1591年に関白(かんぱく)職を(ゆず)りました。

しかし、1593年に豊臣秀頼が生まれたことで状況(じょうきょう)が一変。秀頼にあとをつがせたい秀吉は、秀次を切腹させてしまいました。

【秀次切腹事件】秀頼の誕生で関白・秀次は切腹させられた

1595年の『秀次切腹事件』は、秀次を後継者(こうけいしゃ)として期待していた豊臣政権のあり方を根底から(くつがえ)す出来事となり、晩年をむかえた秀吉は大幅(おおはば)な体制改革を行います。

というのも、秀頼が生まれたとき秀吉はすでに57歳。人生50年の時代、秀頼の成人を待っている余裕(よゆう)はありませんでした。

このような背景から、有力大名と秀吉に仕える直臣(じきしん)によるバックアップ体制が()かれることになりました。

1598年に秀吉が亡くなりますが、後継者(こうけいしゃ)の豊臣秀頼はこのとき6歳でした。

当然、豊臣家中を統制していくことなどできるはずもない子どもですので、ちからのある者に権力が集中したり、天下を(おびや)かされないように、秀吉は五大老と五奉行の合議制による政治を遺命(いめい)としました。

当初から『五大老・五奉行』とラベリングされた制度だったわけではなく、こう呼ばれるようになったのは江戸時代になってから。

そのため、五大老と五奉行の定義は、豊臣秀吉の遺言状の内容に基づきます。

豊臣秀吉が残した遺言の内容

1598年の夏、死が(せま)っていた豊臣秀吉は遺言状を残します。

豊臣秀吉遺言覚書(おぼえがき)』に記された遺言を要約するとこんな感じです。

・五大老は秀吉の遺言を守って(たが)いに婚姻(こんいん)関係を結び連帯を強めること
・家康は向こう3年間京都にいること
・家康に伏見城を任せるので五奉行から3人を伏見に置くこと
・五奉行から2人は大坂城にいること
・秀頼と一緒(いっしょ)に大名たちの妻子も大坂に移すこと

徳川家康に関する条項が目立ちます。

特に、”伏見城を任せる” と ”3年は京都” というのは、家康を本拠地(ほんきょち)の江戸に帰らせないため。
さらに、伏見城には五奉行から前田玄以と長束(なつか)正家プラス1名を配置して見張るよう命じています。


秀頼のこと
お願いします

秀吉は、五大老に対して「秀頼をお願いします」といった遺言を残しています。
秀頼が大人になるまで支えてほしい、それ以外に思い残すことはない、と(なみだ)ながらに懇願(こんがん)しています。

秀頼を頼みますと豊臣秀吉が懇願する様子

五奉行に対しても同様に「くれぐれも秀頼を(たの)」と申し付けており、しつこいほど秀頼のことをお願いしています。

まさにすがるような思いでした。

五大老・五奉行システムは、秀吉の願いがこもったものでした。

五大老メンバーの石高や序列

豊臣秀吉の遺言状ならびに諸大名を統制するための法令(御掟(おんおきて))に連署で名を連ねている有力大名が『五大老』とされています。

【五大老】徳川家康を筆頭とした有力大名5人

当時の石高、官位、秀吉との関係性から序列を考えると、徳川家康 > 前田利家 > 毛利輝元 > 宇喜多秀家 > 上杉景勝となります。

なかでも圧倒的(あっとうてき)な権力を持っていたのが徳川家康でした。秀吉の親友であり秀頼の傅役(もりやく)であった前田利家はこれと同等と考えられます。

ちなみに『大老』とは、家中の最高権力者のことで、老人のことではありません。

それでは、五大老のメンバーを序列順に紹介(しょうかい)します。

徳川家康=家中随一の筆頭家老

徳川家康のイラスト
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徳川家康(松平元康)は、現在の愛知県東部にあたる三河国の武将・大名です。今川氏の人質から独立すると織田信長とともに天下統一を目指し、信長の死後は豊臣秀吉のもとで国家運営に携わります。秀吉の死後、征夷大将軍に就任して江戸幕府を開き、泰平の世が260年つづく江戸時代の開祖となりました。享年74。

1543年(天文11年)生まれ。
愛知県岡崎市の出身です。
武蔵国(むさしのくに)・江戸を本拠地(ほんきょち)に251万石を領有。正二位(しょうにい)・内大臣。
53歳で五大老に選出。

豊臣直轄領(ちょっかつりょう)222万石をも上回る所領を持った大大名です。

信長が横死(おうし)した直後は秀吉と争ったこともある実力者で、豊臣秀吉が最も(たよ)りにし、最も(おそ)れていたのが徳川家康でした。

豊臣家中で最大の石高を領有する五大老筆頭として選出です。

内大臣、すなわち政務のトップという立場です。

じつは、秀吉の死後にどうやって家康を(おさ)えるかが五大老選出のポイントでした。秀吉は、前田利家や小早川隆景を家康対策になると考えていました。

前田利家=秀頼の傅役

前田利家のイラスト
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前田利家は、現在の愛知県西部にあたる尾張国の武将・大名です。豊臣五大老のひとり。織田信長とは少年時代からの付き合いで、親衛隊として戦いました。6mもある派手な槍を振るって大暴れする姿から、槍の又左と呼ばれます。信長の死後は豊臣秀吉に仕えて加賀を領有し、豊臣家のご意見番になりました。享年61。

1539年(天文7年)生まれ。
愛知県名古屋市中川区の出身です。
加賀国(かがのくに)・金沢を本拠地(ほんきょち)に83万石を領有。従二位(じゅにい)・大納言。
57歳で五大老に選出。

加賀百万石でお馴染(なじ)みの前田利家ですが、100万石に到達(とうたつ)するのは次代・利長やその後の利常でした。

古くからの秀吉の親友で、豊臣秀頼の傅役(もりやく)をつとめていました。徳川家康と同格の五大老上首(じょうしゅ)として選出です。

御曹司(おんぞうし)・秀頼の世話役と豊臣家中のまとめ役です。

徳川家康を(ふう)じる抑止力(よくしりょく)として期待されましたが、秀吉が没した翌年の1599年に利家も病没(びょうぼつ)してしまいました。

長男・前田利長が引き()ぎますが、利家の死没(しぼつ)によって五大老のバランスが(くず)れます。

毛利輝元=西国No.1大名

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毛利輝元(幻庵宗瑞)は、現在の広島県西部にあたる安芸国の武将・大名です。豊臣五大老のひとり。謀聖と言われた毛利元就の孫。幼い頃に父を亡くし、祖父に育てられ、叔父の補佐を受けて毛利当主をつとめます。秀吉の死後に勃発した関ヶ原の戦いでは、徳川家康に対抗する西軍総大将として暗躍しました。享年73。

1553年(天文22年)生まれ。
広島県安芸高田市の出身です。
安芸国(あきのくに)・広島を本拠地(ほんきょち)に120万石を領有。従三位(じゅさんみ)・中納言。
43歳で五大老に選出。

秀吉が織田家臣だったころは敵対した大名で、その後もほどよい緊張感(きんちょうかん)を保った ”(くさ)(えん)のような存在” です。

徳川家康が一強となるのを防ぐために、輝元の叔父(おじ)である小早川隆景とセットで五大老選出。隆景は輝元の(おさ)えも()ねていました。

宇喜多秀家=秀吉の猶子

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宇喜多秀家(成元、家氏、浮田久福)は、現在の岡山県南東部にあたる備前国の武将です。豊臣五大老のひとり。豊臣秀吉の猶子になり、朝鮮の役で日本軍の総大将を務めるなど将来を嘱望されます。西軍の副大将として関ヶ原の戦いに参戦しますが、敗れて流罪になりました。八丈島に流された最初の人物です。享年84。

1572年(元亀3年)生まれ。
岡山県岡山市北区の出身です。
備前国(びぜんのくに)・岡山を本拠地(ほんきょち)に57万石を領有。従三位(じゅさんみ)・中納言。
24歳で五大老に選出。

豊臣秀吉に気に入られ、秀吉の養女・(ごう)姫(前田利家の娘)と結婚した逆玉の輿(こし)プリンスです。

文禄(ぶんろく)(えき)で日本軍の総大将を務めるなど、華々(はなばな)しい経歴があります。豊臣一門から五大老選出です。

身内として秀頼を支えることを期待されていました。

上杉景勝=義侠心あふれる漢

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上杉景勝(長尾顕景)は、現在の新潟県にあたる越後国の武将・大名です。豊臣五大老のひとり。上杉謙信の姉の子で、後継者として養子になります。同じく養子の上杉景虎と家督を争い、勝利しました。豊臣政権では秀吉の没後、徳川家康と対立し、政権交代に伴う減転封により会津を経て米沢に移りました。享年68。

1556年(弘治元年)生まれ。
新潟県南魚沼市の出身です。
陸奥国(むつのくに)・若松を本拠地(ほんきょち)に120万石を領有。従三位(じゅさんみ)・中納言。
42歳で五大老に選出。

小早川隆景の死去に(ともな)い、補欠で五大老選出です。

織田信長が本能寺の変で(たお)れた後、いち早く豊臣秀吉に味方して天下統一に協力しました。

先代の上杉謙信公以来、義を重んじる家風で、秀吉からも信頼(しんらい)されていました。

小早川隆景=早すぎた退場

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小早川隆景は、現在の広島県西部にあたる安芸国の武将です。豊臣五大老のひとり。毛利元就の三男として生まれ、山陽地方の小早川氏の養子になります。戦国最強といわれる毛利水軍を率いて、次兄・吉川元春と毛利両川の一翼を担いました。時勢を読む能力に優れ、豊臣秀吉に従って毛利家を存続させました。享年65。

1533年(天文2年)生まれ。
広島県安芸高田市の出身です。
63歳で五大老に選出。

豊臣秀吉が信長の家臣だったころからの付き合い。

かつて敵対した毛利氏の一門で、毛利輝元を後見(こうけん)する実力者です。前田利家とともに徳川家康を牽制(けんせい)する役割を期待して五大老選出でした。

しかし、秀吉が亡くなる前年の1597年に病没(びょうぼつ)しています。

実務を担っていた五奉行と役職

豊臣秀吉の遺言状、追而書(おってがき)追伸(ついしん))に名を連ねている秀吉の直臣(じきしん)が『五奉行』とされています。

【五奉行】浅野長政や石田三成ら5人の奉行

五奉行の役割は豊臣政権の運営であり、政策を決めて実行する役人として、生前の秀吉から絶大な信頼(しんらい)を得ていました。

追而書(おってがき)に記されたのは、浅野長政、前田玄以、石田三成、増田(ました)長盛、長束(なつか)正家の5人。浅野長政を筆頭とする以外、その他はわりとフラットな関係です。

五奉行のメンバーと役割は以下のとおりです。

浅野長政=司法を担当。
愛知県西春日井郡の出身です。
52歳で五奉行に選出。
勤続20年以上。
秀吉の正室・北政所(きたのまんどころ)縁者(えんじゃ)であり、織田家臣時代から秀吉に仕えています。

前田玄以=宗教を担当。
岐阜県の出身です。
60歳で五奉行に選出。
勤続14年。
京の公家や寺院とつながりを持つ僧侶(そうりょ)で、京都所司代をつとめています。

石田三成=行政を担当。
滋賀県長浜市の出身です。
39歳で五奉行に選出。
勤続24年。
秀吉の秘書のような役割も担っており、秀吉から最も(たよ)りにされた側近です。

増田(ました)長盛=土木を担当。
愛知県稲沢市または滋賀県長浜市の出身です。
54歳で五奉行に選出。
勤続25年。
秀吉が長浜城主だったころから仕えている最古参のメンバーです。

長束(なつか)正家=財政を担当。
愛知県稲沢市または滋賀県草津市の出身です。
37歳で五奉行に選出。
勤続13年。
算術の能力を見込(みこ)まれて秀吉にヘッドハンティングされた財務官です。

秀吉の存命中から、諸大名や家臣団を統括(とうかつ)していたのは秀吉直臣の五奉行であり、豊臣政権においては五大老よりも立場が上であった可能性があります。

石田三成ら五奉行の立ち位置と実際の序列

イメージ的には 五大老 > 五奉行 といった序列と思いがちですが、五奉行の立場は五大老の下というわけではありません。

豊臣政権の実務を担っていた石田三成らは「年寄(としより)」を自称(じしょう)しており、年寄(としより)とは最高位の家臣を表す宿老と同義です。

つまり、豊臣家の最高家臣を意味しています。

三成らは五大老のことを「奉行」と(しょう)していました。五奉行たちは、秀吉の直臣(じきしん)であり中央政権の運営を担っていた自分たちのほうが立場が上であると考えていました。

一方で、大老たちは三成らを奉行と呼び、明確に格下であると位置づけていました。

このことからも予想できるように、五大老と五奉行はそもそも対立するものと想定されており、両者が拮抗(きっこう)することで特定の(だれ)か(家康)に権力が集中することを(おさ)えるねらいがありました。

五大老と五奉行のその後

1598年に豊臣秀吉が亡くなったあと、五大老筆頭・徳川家康は行動を起こします。

家康は、生前に秀吉が定めた「許可なく大名同士が結婚(けっこん)してはいけない」という(おきて)に反して、伊達政宗、福島正則、加藤清正、黒田長政ら有力大名を婚姻(こんいん)政策で取りこみ、与党(よとう)勢力を増やします。

勢力を増す家康を、五奉行の石田三成と五大老上首(じょうしゅ)前田利家が追求しましたが、利家が亡くなると家康はさらにやりたい放題。

大坂城から大名たちを退去させ、勝手に大坂城西の丸に移り住み、秀頼の後見(こうけん)を気取ります。

3年は京都” という秀吉の遺言をわずか1年で反故(ほご)にしました。


はじまった
家康の謀略

秀吉が亡くなった翌年の1599年、徳川家康の天下取りがはじまります。

家康は、加藤清正ら武断派を()きつけて『石田三成襲撃(しゅうげき)事件』を起こさせ、武断派との不祥事(ふしょうじ)を理由に三成を謹慎(きんしん)処分にします。

五奉行・石田三成アウト。

つぎに家康は、利家から五大老を()いだ前田利長と五奉行・浅野長政に『家康暗殺未遂(みすい)事件』の疑いをかけて追求。前田家を脅迫(きょうはく)して従わせ、浅野長政を謹慎(きんしん)処分にします。

五大老・前田利長、
五奉行・浅野長政アウト。

つぎつぎと五大老と五奉行の粛清(しゅくせい)をすすめる家康は、つづけて五大老・上杉景勝にねらいをつけます。上杉景勝謀反(むほん)の準備をしていると疑いをかけて追求しました。

関ヶ原の戦いが勃発してしまう

1600年の春、家康からの弾劾状(だんがいじょう)を受け取った上杉サイドでは、これを見た直江兼続がキレます。兼続は、嫌味(いやみ)たっぷりに「謀反(むほん)はあんたのほうでしょうが」という手紙(直江状)を家康に送り返しました。

直江状を受け取った家康は激怒(げきど)し、徳川与党(よとう)の大名たちを引き連れて上杉景勝の会津征伐(せいばつ)に向かいます。

この背後をつくように、謹慎(きんしん)を命じられていた石田三成が京で打倒(だとう)家康の兵を挙げました。家康はこれを討つために京・大坂方面に兵を(もど)します。

こうして激突(げきとつ)する両者によって、1600年9月に関ヶ原の戦いが起こります。

豊臣秀吉が没した2年後のことでした。

関ヶ原の戦い せきがはらのたたかい 1600.10.21 ● 西軍8万2千 vs 東軍8万9千 ○

秀吉の死後、徳川家康が権力を増すなか、石田三成が反徳川の挙兵。家康が率いる東軍と三成が率いた西軍が、関ヶ原(岐阜県不破郡関ケ原町)で雌雄を決した。井伊直政が撃ちかけた鉄砲によって開戦。西軍・小早川秀秋が東軍に寝返り、わずか6時間で東軍が勝利した。

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