とよとみ ひでつぐ

豊臣秀次

1568.?〜 1595.8.20

 
豊臣秀次の面白いイラスト
  

豊臣秀次(三好信吉、宮部吉継)は、現在の愛知県西部にあたる尾張国の武将です。豊臣秀吉の実姉の子として生まれました。政治に利用され、二度の養子縁組を経て秀吉の麾下に入ります。一門衆として期待をかけられるようになり、秀吉から関白を継ぎますが、秀吉に世継ぎが誕生すると切腹を迫られました。享年28。

豊臣秀次は何をした人?このページは、豊臣秀次のハイライトになった出来事をなるべく正しく、独特の表現で紹介しています。きっと豊臣秀次が好きになる「殺生関白の汚名を着せられ世継ぎ問題で切腹させられた」ハナシをお楽しみください。

  • 名 前:治兵衛 → 宮部吉継 → 三好信吉 → 羽柴信吉 → 羽柴秀次 → 豊臣秀次
  • 幼 名:万丸
  • あだ名:殺生関白、筑前おヰさま、豊禅閤
  • 官 位:従四位下、右近衞権少将、右近衞権中将、参議、従三位、従二位、権中納言、正二位、権大納言、内大臣、関白、左大臣
  • 出身地:尾張国(愛知県)
  • 領 地:近江国
  • 居 城:兵庫城 → 八幡山城 → 清洲城
  • 正 室:若政所(池田恒興の娘)、一の台(菊亭晴季の娘)
  • 子ども:5男 4女
  • 父と母:三好吉房 / とも
  • 養 父:宮部継潤、三好康長、豊臣秀吉
  • 大 名:豊臣秀吉

殺生関白の汚名を着せられ世継ぎ問題で切腹させられた

豊臣秀吉の姉の子である豊臣秀次は、秀吉の(おい)であり、秀吉の天下を()ぐはずだった人物ですが、秀吉に子どもが生まれると切腹を命じられてしまった気の毒な人です。

一代で天下人までのぼりつめた豊臣秀吉には子どもがおらず、その点で秀吉は(おい)(たよ)りにしました。

ふつうは主の子がつとめる人質などの役割も、秀吉の場合は近親者である(おい)っ子がつとめました。

秀吉の姉を母にもつ豊臣秀次の叔父(おじ)は豊臣秀吉。秀吉にとって豊臣秀次は貴重な身内の子。

我が子のごとくあれこれとやらせているうちに、秀吉は豊臣秀次を後継者(こうけいしゃ)と考えるようになりました。

1591年に秀吉から関白(かんぱく)()いだ豊臣秀次は、名実ともに次代を担う立場になります。
それは、豊臣秀次を主軸(しゅじく)とした第2次・豊臣政権の構想に基づく世代交代でした。


衝撃の急転直下
秀次切腹事件

これより少し前、秀吉には「(すて)」という庶子(しょし)(側室が産んだ子)がいましたが、数え年3歳で早逝(そうせい)してしまいます。失意の秀吉に養嗣子(ようしし)(家を()ぐ養子)として迎えられた豊臣秀次は、関白(かんぱく)継承(けいしょう)したのでした。

ところが、1593年にも秀吉に庶子(しょし)が生まれます。秀吉はこの子を「(ひろい)」と名付けて溺愛(できあい)しました。

(ひろい)の成長を見るうちに、秀吉は我を失っていきます。

1595年のこと。とつぜん、豊臣秀次は謀反(むほん)を疑われます。

鷹狩(たかが)りに行くと(うそ)をついては談合を重ね、秀吉を討つ相談をしていたというのです。

豊臣秀次のもとに石田三成や前田玄以らがやってきて事情聴取(ちょうしゅ)されますが、さっぱり心当たりがありません。

弁解は聞き入れられず、豊臣秀次は伏見城(ふしみじょう)に呼び出され、秀吉に対面することも(かな)わないまま高野山に追放されます。

高野山に入った5日後、今度は福島正則らがやってきて、秀吉から切腹を命じられたことを伝えられます。

【秀次切腹事件】秀頼の誕生で関白・秀次は切腹させられた

謀反(むほん)を疑われてから1か月も経っていませんでした。

豊臣秀次とその従者も、みな切腹となった『秀次切腹事件』は、公家の最高位である現職の関白(かんぱく)の切腹という前代未聞の出来事であるばかりでなく、この後の豊臣家に大きな(かげ)を落とすことになります。


秀次の不在が
豊臣家を崩壊させた

豊臣政権は、晩年を(むか)えていた秀吉に代わる後継者(こうけいしゃ)として豊臣秀次を擁立(ようりつ)していました。

そのため、政権のフォーマットは豊臣秀次ありきで考えられていました。今さら跡取(あとと)りが生まれたからといって、そうたやすく方向性を変えられるようなものではありません。

ですが、豊臣秀次が切腹する3日前、秀吉は諸大名に(ひろい)(秀頼)に対して忠節を()くす誓書(せいしょ)を書かせます。後継者(こうけいしゃ)と考えていた(おい)を切腹させることに決めたのでした。

二世世代の親族で唯一(ゆいいつ)成人していた豊臣秀次を死なせたことは、ただでさえ少ない豊臣家の近親者をさらに減らしてしまいます。

それは、豊臣秀頼にとっても年長者の親族による支えを失うデメリットとなりました。

豊臣秀次の切腹によって、後継者(こうけいしゃ)問題がリセットされてしまった秀吉は、徳川家康などの有力大名と石田三成ら優秀(ゆうしゅう)な直臣による『五大老・五奉行(ごぶぎょう)』に秀頼のサポートを託して1598年に他界します。

これが裏目に出てしまい、多大な権限を持った大老・徳川家康に豊臣の天下を(うば)われてしまうのでした。


殺生関白の汚名と
一族郎党への仕置き

豊臣秀次には『殺生関白(せっしょうかんぱく)』という風評がありました。これは彼が殺人を好み、自らの手で何人もの命を(あや)めたことに由来しています。

そのような悪逆非道な大罪人の身内を生かしておくべからずという秀吉の厳命で、豊臣秀次の妻と子、家臣、側室、さらには親交があった公家や大名まで処罰(しょばつ)の対象とされました。

切腹から半月後、豊臣秀次の一族郎党(ろうとう)、子も側室もあわせて39人が京・三条河原で斬首(ざんしゅ)されます。

次から次へと処刑(しょけい)される様子はあまりに(ひど)く、見物に来ていた民衆からも(なげ)き悲しむ声や怒号(どごう)が聞こえたといいます。

処刑(しょけい)されたなかには、最上義光の(むすめ)で伊達政宗の従妹(いとこ)にあたる駒姫(15歳)も(ふく)まれていました。

駒姫は東北から京に着いたばかりで、豊臣秀次の側室になる予定でしたが、まだ屋敷(やしき)に入ったこともありませんでした。

徹底的(てっていてき)縁者(えんじゃ)たちまでみなごろしにされたこの一件は、晩年の豊臣秀吉の暴虐(ぼうぎゃく)ぶりを表す出来事であり、豊臣家の衰退(すいたいい)に直結する残念な分岐点となりました。

生涯を簡単に振り返る

生まれと出自

1568年、豊臣秀次は尾張国(おわりのくに)知多郡大高村に三好吉房の長男として生まれます。母は豊臣秀吉の実姉(じっし)幼いころから叔父(おじ)である秀吉の身内として政治の(こま)に使われ、宮部家つぎに三好家の養子になりました。その(えん)で父も三好氏を名乗るようになります。成長するにつれて、実子(じっし)がいない叔父(おじ)・秀吉から後継者(こうけいしゃ)のように(あつか)われます。

予期せぬ暗転

大軍を率いる大将をつとめて転戦し、叔父(おじ)の天下統一に尽力(じんりょく)しました。功績が認められて叔父(おじ)の養子に迎えられ、関白(かんぱく)職をつぎます。豊臣家の次代当主であることを(だれ)もが認識しましたが、叔父(おじ)・秀吉に子どもが生まれると、とつぜん謀反(むほん)の疑いをかけられてしまいました。

最後と死因

弁解することも許されず、紀伊国(きいのくに)・高野山に追放され、豊臣秀次は青巌寺で切腹しました。1595年8月20日、死因は自害。28歳でした。はじめに小姓(こしょう)3人が切腹し、名刀を手にしてこれを介錯(かいしゃく)。つづいて虎岩玄隆が腹を切り、豊臣秀次は5番目に自刃(じじん)し、雀部重政の介錯(かいしゃく)で絶命しました。

領地と居城

豊臣秀次の領地・勢力図(1591年)

もともとの所領である近江国(おうみのくに)南部5郡に加えて、尾張国(おわりのくに)伊勢国(いせのくに)北部5郡あわせて100万石が豊臣秀次の領地でした。関白(かんぱく)就任に(ともな)って加増されました。

豊臣秀次の性格と人物像

豊臣秀次は「表の顔と裏の顔がある人」です。

ルイス=フロイスが見た豊臣秀次は、弓や鉄砲(てっぽう)稽古(けいこ)で人を的にしたり、死罪が決まっている罪人で刀剣(とうけん)の試し()りをしたり、処刑(しょけい)が行われる際には好んで執行人(しっこうにん)をつとめたといいます。罪人を切り刻んだり、妊婦(にんぷ)の腹を割くといった蛮行(ばんこう)を好み、殺人をたしなむ(へき)がありました。

その一方で、宣教師たちからの評判は良く「叔父(おじ)(秀吉)と(ちが)って万人から愛される性格の人物」禁欲を保ち野心もないと絶賛されています。

しかしながら、カッとなりやすい激情型の性格や女好きのところは叔父(おじ)・秀吉に似ています。

20人以上の側室がいました。文禄(ぶんろく)(えき)の際に朝鮮(ちょうせん)に行かず妻や(めかけ)と日夜イチャイチャしていたことを黒田官兵衛から非難されています。

養父・三好康長から茶道や連歌を習い、15歳のころから著名な歌人と連歌会を行なっています。茶道は千利休の弟子でした。

古筆(こひつ)(かな書)が好きで、古典の収集が趣味(しゅみ)奥州(おうしゅう)仕置で立ち寄った中尊寺から仏典を多数持ち帰っています。

秀吉の影響(えいきょう)でやっていた秀次の能楽は、なにげに後世の文芸に影響(えいきょう)(あた)えています。

日置流弓術(へきりゅうきゅうじゅつ)と荒木流馬術で学んでおり、文武両道。愛刀『一胴七度(いちどうしちど)』で、人体の一刀両断を七度つづけて成功させるほどの腕前(うでまえ)がありました。

真剣(しんけん)を使った剣術(けんじゅつ)試合の観戦が好きで、秀吉が所持した刀剣(とうけん)鑑定(かんてい)をする目利きでもあります。

赤備えの甲冑(かっちゅう)朱漆塗矢筈札紺糸素懸威具足(しゅうるしぬりやはずざねこんいとすがけおどしぐそく)』が現存しています。秀次が切腹した際の介錯(かいしゃく)に用いた刀も雀部重政の子孫によって受け()がれています。

豊臣秀次が切腹した青厳寺(和歌山県・金剛峯寺(こんごうぶじ))の(やなぎ)の間は「秀次自刃(じじん)の間」として、今も残っています。

能力を表すとこんな感じ

豊臣秀次の能力チャート

高水準でバランスがよく、豊臣秀次はいずれの分野でも能力を発揮できます。領内で善政を行なっており、領民からの評判は上々でした。

能力チャートは『信長の野望』シリーズに登場する豊臣秀次の能力値を参考にしています。東大教授が戦国武将の能力を数値化した『戦国武将の解剖図鑑』もおすすめです。

豊臣秀次の面白い逸話やエピソード

悪逆非道の人物像は風評被害かもしれない

秀吉に()(かか)えられた行政官僚の太田牛一が記録した豊臣秀吉の一代記『大かうさまくんきのうち』(太閤(たいこう)様軍記の内)には、豊臣秀次のことを次のように記しています。

正親町(おおぎまち)上皇が崩御(ほうぎょ)しても()に服さず、秀次は(つる)を食べたり鹿()りをしていたことが不謹慎(ふきんしん)とされ、京で狂歌(きょうか)が流布された。目の不自由な人を(だま)したあげくメッタ()りにするなどの悪行があった”

しかし、大かうさまくんきのうち以外の同時代の資料で、秀次の悪逆非道は確認できません。つまり、太田牛一の著書によって誇張(こちょう)あるいは創作された可能性があります。

秀次が切腹となったのは豊臣秀頼の誕生が影響(えいきょう)しており、秀頼が秀吉の(あと)()ぐには秀次が邪魔です。

とはいえ、関白(かんぱく)となっていた秀次を排除(はいじょ)するには、相応の理由が必要でした。

そこで「秀次はみだりに殺生(せっしょう)を行うとんでもない関白(かんぱく)であるから、死をもって(つぐな)うほかなし」ということにしました。

秀次の近親者が生きていては不都合であるため、まとめて始末されました。

秀次が切腹したのち、秀次が政務を行なっていた聚楽第(じゅらくだい)は取り(こわ)され、秀次が築いた近江国(おうみのくに)八幡山城(はちまんやまじょう)破却(はきゃく)され、まるで秀次が存在した痕跡(こんせき)まで消し去ろうとするかのようでした。

印象操作や改ざんは秀吉の得意とするところ。(やみ)が深い事件の真相は今となってはわかりません。

豊臣秀次の有名な戦い

賤ヶ岳の戦い しずがたけのたたかい 1583.6.6 〜 6.13 ○ 羽柴軍5万 vs 柴田軍3万 ●

信長亡きあと、織田家の掌握を狙う羽柴秀吉と、家中を二分していた柴田勝家が賤ヶ岳(滋賀県長浜市)付近で展開した戦い。前田利家の戦線離脱によって、柴田軍は潰走。勢いづく秀吉に北ノ庄城を攻められ落城した。秀吉子飼いの福島正則ら若手武将が活躍した。

賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いで豊臣秀次は勝っています。

前哨戦(ぜんしょうせん)となった伊勢国(いせのくに)峯城(みねじょう)の戦いで活躍し、賤ヶ岳(しずがたけ)での本戦では第6(じん)を任されました。

小牧・長久手の戦い こまき・ながくてのたたかい 1584.4.23 〜 12.13 △ 羽柴軍10万 vs 織田&徳川軍3万 △

信長の死後、羽柴秀吉に不満を持つ信長の次男・織田信雄と信長の盟友・徳川家康が小牧山城(愛知県小牧市、長久手市)で一進一退の局地戦を展開した。秀吉が別部隊で三河の徳川領を突こうとするが、家康に裏をかかれて大敗。秀吉と信雄が和議を結び、痛み分けとなった。

小牧・長久手の戦いで豊臣秀次は引き分けています。

豊臣秀次のターニングポイントになった戦いです。
白山林の戦いで榊原康政に惨敗。馬を失った秀次は供回りの馬で()げます。秀次の退路を確保するために木下利匡(秀吉の正室・北政所きたのまんどころ叔父(おじ))をはじめ木下一族が多数討死。失態を秀吉から(おこ)られています。

千石堀城の戦い せんごくぼりじょうのたたかい 1585.4.20 〜 4.21 ○ 羽柴軍3万 vs 根来衆1千数百 ●

和泉国で挙兵した根来衆を討伐するため、羽柴信吉を大将とした羽柴軍が千石堀城(大阪府貝塚市橋本)を攻めた戦い。数で勝る羽柴軍は強攻し、城兵の首をことごとく討ち捨て、全滅させた。羽柴秀吉による紀州征伐の前哨戦となった一戦で、秀吉も鉄砲を手にして戦った。

千石堀城の戦いで豊臣秀次は勝っています。

紀州征伐(せいばつ)緒戦(しょせん)で大将に任命された秀次は、小牧・長久手の戦いでの失態を取り(もど)すべく、猛然(もうぜん)()めかかります。根来衆(ねごろしゅう)鉄砲(てっぽう)にもひるまずに強襲(きょうしゅう)して千石堀城を陥落(かんらく)させました。

四国征伐 しこくせいばつ 1585.5.? 〜 8.20 ○ 羽柴軍10万 vs 長宗我部軍4万 ●

四国地方を制していた長宗我部元親を、阿波、讃岐、伊予の三方向から、羽柴秀長を総大将とした大軍が攻めた。讃岐方面から進軍した黒田官兵衛が諸城を攻略して、阿波に侵攻。小早川隆景が伊予を制圧した。四国全体で戦火が上がったが、長宗我部氏の降伏により終戦した。

四国征伐(せいばつ)で豊臣秀次は勝っています。

3万の兵を率いて阿波国あわのくにから上陸。叔父(おじ)・秀長の部隊と連携(れんけい)して木津城を()め落とします。これを契機(けいき)に長宗我部氏の諸城にほころびが生じて、四国制圧に向けて前進しました。

豊臣秀次の詳しい年表と出来事

豊臣秀次は西暦(せいれき)1568年〜1595年(永禄(えいろく)11年〜文禄(ぶんろく)4年)まで生存しました。戦国時代後期に活躍(かつやく)した武将です。

15681弥助(三好吉房)の長男として尾張国に生まれる。幼名:万丸
15725叔父・木下(豊臣)秀吉が宮部継潤を調略する。
人質として宮部継潤に預けられる。
改名 → 宮部(治兵衛)吉継
15747叔父・羽柴秀吉に引き取られる。
157912三好康長の養子になる。
改名 → 三好(孫七郎)信吉
158316叔父・羽柴秀吉の指揮下に入る。
池田恒興の娘(若政所)と結婚。
滝川一益との戦に参加。伊勢国・峯城を攻略。
”賤ヶ岳の戦い”柴田勝家との戦に参加。第6隊を任される。
摂津国・兵庫城に入る。
158417改名 → 羽柴信吉
”小牧・長久手の戦い”徳川家康との戦に参加。三河国攻めの大将を務めるが長久手で榊原康政に惨敗する。
158518”千石堀城の戦い”根来衆が篭る千石堀城を攻める。強攻し城兵を全滅させる。
”第2次紀州征伐”雑賀衆、根来衆の討伐戦に参加。叔父・羽柴秀長と副将を務める。
”四国征伐”叔父・羽柴秀長の指揮下で副将として長宗我部氏の討伐戦に参加。
改名 → 羽柴秀次
豊臣秀吉から近江国の一部を拝領する。
近江国・八幡山城を築城、居城にする。
158619改名 → 豊臣秀次
右近衞中将に就任。
参議に就任。
158720島津氏の討伐で留守になる畿内の守備を任される。
権中納言に就任。
158922叔父・秀吉に庶子・棄が生まれる。
159023”小田原征伐”副将として北条氏の討伐戦に参加。徳川家康の部隊と同行。秀吉本隊に加わり小田原城を包囲する。
豊臣秀吉が小田原城を開城降伏させる。北条家滅亡
豊臣秀吉の天下統一が成る。
豊臣秀吉の奥羽地方の領土仕置に同行する。【第1次奥州仕置】
159124叔父・豊臣秀長が死去。
叔父・秀吉の庶子・棄が死去。
”九戸政実の乱”総大将として九戸政実の鎮圧戦に向かう。白河口方面から制圧する。【第2次奥州仕置】
権大納言に就任。
豊臣秀吉から尾張国と伊勢国北部を拝領する。
尾張国・清洲城を居城にする。
叔父・豊臣秀吉の養嗣子になり関白に就任。叔父・秀吉が後見する。
159225聚楽第に後陽成天皇を迎える。
159326養父・秀吉に庶子・拾(秀頼)が生まれる。
159528謀反の疑いがかかる。石田三成、前田玄以、増田長盛らから糾問される。
剃髪し紀伊国・高野山に追放される。
正室と側室らが捕えられ丹波国・亀山城で監禁される。
家臣の白江成定、熊谷直之、縁者の粟野秀用、日比野清実、山口重勝、丸毛不心斎が切腹。木村重茲が斬首。ほか関係者が罪に問われる。
豊臣秀吉から切腹命令が下り福島正則ら検使がくる。高野山・青巌寺で自害。【秀次切腹事件】
戦国時代で豊臣秀次が生きた期間の表
豊臣秀次の顔イラスト
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