池田恒興
1536.?〜 1584.5.18

池田恒興(信輝、勝入)は、現在の愛知県西部にあたる尾張国の武将です。母が織田信長の乳母であったことから、2歳上の信長と乳兄弟として育ちます。信長の最古参の家臣で、遊軍を率いて各地を転戦し、荒木村重の謀反の制圧に尽力しました。信長の死後、小牧・長久手の戦いで徳川軍に敗れて戦死しました。享年49。
- 池田恒興の武将タイプ
- 猛将
池田恒興は何をした人?このページは、池田恒興のハイライトになった出来事をなるべく正しく、独特の表現で紹介しています。きっと池田恒興が好きになる「信長の乳兄弟で幼馴染の男は謀反人に強さを発揮した」ハナシをお楽しみください。
- 名 前:池田恒興 → 池田勝入
- 幼 名:勝三郎
- 出身地:尾張国(愛知県)
- 居 城:犬山城 → 伊丹城 → 兵庫城 → 大垣城
- 正 室:善応院(荒尾善次の娘)
- 子ども:4男 5女 1養
- 跡継ぎ:池田輝政
- 父と母:池田恒利 / 養徳院
- 大 名:織田信長
信長の乳兄弟で幼馴染の男は謀反人に強さを発揮した
池田恒興は、2歳年上の織田信長と兄弟のように育ちました。というのも、池田恒興のママが信長の乳母であり、信長の父・信秀の側室だったのです。
将来、信長を支えていく頼れる側近になるべく、池田恒興には大きな期待がかかりました。
大人になった2人は主君と家来になります。
しかし、新進気鋭の織田家にあって、池田恒興は周囲の活躍に押されてしまいます。及第点ではあるものの、特大の結果が出ない池田恒興に信長は何度もチャンスを与えますが、いつも結果はそこそこでした。
そんな池田恒興に転機が訪れます。
1578年のこと。突如、摂津守護の荒木村重が信長に反旗を翻します。
織田軍は有岡城を攻撃しますが、村重は女房と子どもを置き去りにして逃亡。村重を取り逃したことを信長は激怒しました。
これまでいまいちパッとしなかった池田恒興ですが、これを境に裏切り者の荒木村重ハンターとして覚醒します。
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それいけ!恒興
はぐれ村重を討伐
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ヒットポイントは低いが、経験値とすばやさが高いモンスター・荒木村重は、その後も逃げまわります。坊さんに匿ってもらったりして、なかなか捕まえられません。
信長が「援軍出そうか?」と気にかけてくれますが、池田恒興はこれを断って根気よく追います。
追いかけること2年。1580年についに花隈城で村重をロックオンしました。
池田恒興は2人の息子を連れて、はぐれ村重をやっつけに花隈城へ。
到着するやいなや花隈城を攻めまくりますが、池田父子は苦戦します。
池田恒興は考えたすえ、草に擬態して接近する作戦をとりますが、これはすぐに見つかってしまい、ドタバタした大乱戦になりました。
どさくさに紛れて城内に侵入した池田恒興は、内側から花隈城をこじ開けて突入します。しかし、またしても荒木村重は逃げたあとでした。
はぐれ村重を取り逃したものの、拠点をつぶすことに成功した池田恒興の働きを「その手柄、無類!」と、信長も自分のことのように大喜びしました。
ようやく、池田恒興が大きな手柄をあげたのでした。
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すごいぞ!恒興
明智光秀を討伐
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1582年に本能寺の変で織田信長を討った明智光秀に対しても、池田恒興の謀反人討伐スキルが発動します。
光秀を討たんとする豊臣秀吉の陣営にいち早く加わると、右翼一隊を率いて明智軍の裏をかく奇襲に成功。光秀の本隊に側面からぶっこみ、総崩れにします。
池田恒興の働きを合図に秀吉軍が総攻撃をして、信長の仇・明智光秀を討つことに成功しました。
兄とも慕う信長に叛くものは何人たりとも許さない。純粋な怒りが池田恒興を覚醒させました。
生涯を簡単に振り返る
生まれと出自
1536年、池田恒興は尾張国・東海郡一色村に池田恒利の子として生まれます。織田信長の乳兄弟として育ちました。織田家当主となった信長の尾張平定に尽力し、数々の合戦を戦います。信長の天下統一事業では、特定の作戦行動にしばられない遊軍として各地を転戦しました。
信長の死後は秀吉を支持
信長が没したあとに重臣が集まって行われた『清洲会議』にも出席し、後継者を決める決議で一票を投じています。その後、豊臣秀吉が柴田勝家や徳川家康と争うようになると秀吉に加担しました。
最後と死因
徳川氏との小牧・長久手の戦いで失策し、これを挽回しようと発奮しますが、家康本隊に遭遇して劣勢を強いられます。井伊直政らに攻め立てられ、池田恒興は永井直勝の槍で討たれました。1584年5月14日、死因は討死。49歳でした。嫡男・元助もこのとき戦死しました。
領地と居城

摂津国38万石が池田恒興の領地でした。荒木村重から取り上げた旧領をそのまま信長から与えられました。
池田恒興の性格と人物像
池田恒興は「目立たないところで頑張っている人」です。
主君と一緒に育った立場でしたが、強力な織田家臣団にあってキャリアは順風満帆とはいえません。
それでも腐らずに励み続ける姿勢を「小身でも頑張っている」と信長は評価していました。
実直な人柄で、任されたことに全力で取り組みます。まわりに負けまいと積極的に名乗りをあげる功名心もあります。
織田家の跡目争いで信長は弟の織田信行を誅殺しましたが、実行メンバーの一人は恒興だったといいます。汚れ仕事も必死にこなしました。
負けん気が強く、前線が崩壊した状態でも、退かずに戦闘を続行してしまう無鉄砲なところがあります。カーッとなると自制がきかなくなるところも。
池田恒興が実際に着用し、肖像画にも描かれている『抹頭形兜』や書状が残っています。一緒に学んでいたためか、筆跡が織田信長と似ています。
能力を表すとこんな感じ

何をしてもそこそこにこなせるのが池田恒興の強みです。能力的なバランスも良いのですが、器用貧乏な印象です。
能力チャートは『信長の野望』シリーズに登場する池田恒興の能力値を参考にしています。東大教授が戦国武将の能力を数値化した『戦国武将の解剖図鑑』もおすすめです。
池田恒興の有名な戦い
尾張に侵攻してきた今川義元を桶狭間(愛知県名古屋市緑区桶狭間)で織田信長が討ち取った合戦。10倍近い圧倒的な兵力差があり、局面的に織田勢が不利だったが、今川の本陣を強襲し、義元の首級をあげる快挙となった。戦国史上もっとも有名なジャイアントキリング。
桶狭間の戦いで池田恒興は勝っています。
織田氏の命運を決める重要な一戦に信長のもとで参戦しました。
織田氏に叛いた荒木村重が逃亡し、花隈城(兵庫県神戸市中央区花隈町)に立て篭もった合戦。荒木討伐軍を率いた池田恒興は、息子たちと共に奮戦、自らも数名を討ち取った。村重は毛利氏のもとに逃亡。雑賀衆の援軍もあり、織田勢は花隈城を開城させ、廃城とした。
花隈城の戦いで池田恒興は勝っています。
信長に叛いた荒木村重を追って花隈城を攻撃しました。残念なことに、村重を取り逃がしてしまいますが、この勝利によって摂津国を与えられて大名に出世しました。以降、畿内の守りを任されるようになります。
本能寺で織田信長を討った明智光秀と駆けつけた羽柴秀吉が山崎(京都府長岡京市)で激突した合戦。天王山の戦いとも呼ばれる。秀吉は中国地方で毛利氏と交戦中だったが、これを停戦し、急行した。予想外の速さで現れた羽柴軍に明智軍は劣勢となり、敗走した。
山崎の戦いで池田恒興は勝っています。
秀吉の陣に加わり、長男・元助とともに5千の兵で右翼先鋒を務めました。恒興は津田信春を奇襲によって打ち破り、光秀本隊の側面を突きます。これに動揺した明智軍は混乱し、総崩れとなりました。
信長の死後、羽柴秀吉に不満を持つ信長の次男・織田信雄と信長の盟友・徳川家康が小牧山城(愛知県小牧市、長久手市)で一進一退の局地戦を展開した。秀吉が別部隊で三河の徳川領を突こうとするが、家康に裏をかかれて大敗。秀吉と信雄が和議を結び、痛み分けとなった。
小牧・長久手の戦いで池田恒興は敗れています。
池田恒興のターニングポイントになった戦いです。
織田信雄ではなく、羽柴軍に加勢しました。古巣の犬山城を落としましたが、徳川勢の反撃を受けて惨敗。秀吉に献策して三河国を攻めようとしますが、徳川家康に手の内を読まれて挟撃され、森長可らと討死しました。
池田恒興の詳しい年表と出来事
池田恒興は西暦1536年〜1584年(天文5年〜天正12年)まで生存しました。戦国時代中期から後期に活躍した武将です。
1536 | 1 | 池田恒利の子として尾張国に生まれる。幼名:勝三郎 織田信長の乳兄弟として育つ。 |
1552 | 17 | ”萱津の戦い”織田信友との戦に参加。 |
1556 | 21 | ”稲生の戦い”織田信行との戦に参加。 |
1558 | 23 | ”浮野の戦い”織田信賢との戦に参加。 |
1560 | 25 | ”桶狭間の戦い”今川義元との戦に参加。 |
1561 | 26 | ”十四条・軽海の戦い”斎藤龍興との戦に参加。佐々成政と稲葉又右衛門を討ち取る。 |
1563 | 28 | ”新加納の戦い”斎藤龍興との戦に参加。先陣で敗れる。 |
1569 | 34 | ”大河内城の戦い”北畠具教・具房父子との戦に参加。 |
1570 | 35 | ”金ヶ崎の戦い”朝倉義景との戦に参加。柴田勝家、森長可らと天筒山城を攻略。 ”姉川の戦い”浅井氏&朝倉氏との戦に参加。第2陣で出撃して浅井長政に蹴散らされる。 尾張国・犬山城に入る。 |
1571 | 36 | ”第1次長島一向一揆”一向宗門徒の鎮圧戦に参加。 ”比叡山焼き討ち”比叡山延暦寺の殲滅戦に参加。 |
1573 | 38 | ”槇島城の戦い”足利義昭との戦に参加。 |
1574 | 39 | ”第3次長島一向一揆”一向宗門徒の殲滅戦に参加。市江口から攻める。 武田勝頼に奪われた明智城の押さえとして小里城に入る。 |
1579 | 44 | ”有岡城の戦い”荒木村重が織田氏に叛く。討伐に向かう。 |
1580 | 45 | ”花隈城の戦い”荒木村重の討伐に向かう。花隈城を攻略して勝利する。 摂津国・花隈城を破却、資材を再利用して兵庫城の築城を開始。 織田信長から摂津国を拝領する。 摂津国・伊丹城を居城にする。 |
1581 | 46 | 摂津国・兵庫城が完成、居城にする。 |
1582 | 47 | 主君・織田信長が死亡。【本能寺の変】 ”山崎の戦い”羽柴(豊臣)秀吉の指揮下で明智光秀との戦に参加。光秀本陣の側面を突いて混乱させる。 清洲城で柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉、池田恒興の4人で会議を行う。三法師(信長の孫)を後継者とする秀吉に賛同する。【清洲会議】 羽柴秀吉、丹羽長秀、池田恒興の3人で談合を行い、清洲会議の決定を反故する。三法師ではなく織田信雄を当主に擁立する。 |
1583 | 48 | 羽柴秀吉から美濃国・大垣を拝領する。 美濃国・大垣城を居城にする。 |
1584 | 49 | ”小牧・長久手の戦い”羽柴秀吉の指揮下で徳川家康との戦に参加。犬山城を攻略する。徳川領・三河国の奇襲を狙うが徳川本隊に察知され長久手で激突。娘婿・森長可、長男・池田元助と討死。 |
