池田恒興
1536.? 〜 1584.5.14

池田恒興(信輝、勝入)は、現在の愛知県西部にあたる尾張国の武将です。母が織田信長の乳母であったことから、2歳上の信長と乳兄弟として育ちます。信長の最古参の家臣で、遊軍を率いて各地を転戦し、荒木村重の謀反の制圧に尽力しました。信長の死後、小牧・長久手の戦いで徳川軍に敗れて戦死しました。享年49歳。
- 池田恒興の人物タイプ
- 猛将
このページでは、池田恒興が何をしたどんな人なのか、ハイライトやエピソードを紹介しています。きっと池田恒興のことが好きになります。
- 名 前:池田恒興 → 池田勝入
- 幼 名:勝三郎
- 出身地:尾張国(愛知県)
- 居 城:犬山城 → 伊丹城 → 兵庫城 → 大垣城
- 正 室:荒尾善次の娘(善応院)
- 子ども:4男 5女 1養
- 跡継ぎ:池田輝政
- 父と母:池田恒利 / 養徳院
信長の乳兄弟で幼馴染の男は謀反人に強さを発揮した
池田恒興は、2歳年上の織田信長と、文字どおり兄弟として育ちました。池田恒興のママが信長の乳母であり、信長の父・信秀の側室だったのです。大人になった2人は、主君と家来になります。主君・信長も気にかけますが、池田恒興は周囲の活躍に押されてしまいます。
いつも及第点ではあるものの、特大の結果が出ない池田恒興に、信長は幾度となくチャンスを与えますが、結果はそこそこでした。そんな池田恒興に、転機が訪れます。
いまいちパッとしなかった池田恒興は、裏切り者の荒木村重ハンターとして覚醒します。
1578年のこと。突如、摂津の荒木村重が信長に反旗を翻します。織田軍は有岡城を攻撃しますが、村重は女房と子どもを置き去りにして逃亡。村重を取り逃した信長は激怒しました。
/
それいけ!恒興
はぐれ村重を討伐
\
ヒットポイントは低いが、経験値とすばやさが高いモンスター・荒木村重は、その後も逃げまわります。坊さんに匿ってもらったりして、なかなか捕まえられません。根気よく追った池田恒興は、花隈城で村重をロックオンします。
池田恒興は2人の息子を連れて、はぐれ村重をやっつけに行きました。到着するやいなや、花隈城を攻めまくりますが、池田父子は苦戦します。
そこで、草に擬態して接近する作戦をとりますが、これはすぐに見つかってしまいました。戦いはドタバタした大乱戦になり、どさくさに紛れて城内に侵入した池田恒興は、花隈城をこじ開けました。しかし、またしても荒木村重は逃げたあとでした。
はぐれ村重を取り逃したものの、拠点をつぶすことに成功した池田恒興の働きを「その手柄、無類!」と、信長も大喜びしました。
/
すごいぞ!恒興
明智光秀を討伐
\
1582年に本能寺の変を起こして織田信長を討った明智光秀の討伐でも、池田恒興の謀反人討伐スキルが発動します。羽柴(豊臣)秀吉の陣営にいち早く加わると、右翼一隊を率いて明智光秀の裏をかく奇襲に成功。光秀の本隊を総崩れにした池田恒興の働きで、秀吉軍が総攻撃をして、信長の仇を討ちました。
・・・・・
織田氏の家督相続で、信長と弟・信行が争いました。仕方なく、信長は弟を誅殺しましたが、実行犯のひとりは、池田恒興という噂があります。汚れ仕事であっても、必死にこなしました。
信長が没したあと、織田家の重臣で行われた清洲会議にも出席し、主家の将来を話し合いました。
小学生にもわかりやすく
– 生涯、生まれから最後 –

1. 生まれ
池田恒興は、尾張国の東海郡一色村に父・池田恒利と母・養徳院の子として生まれます。母が織田信長の乳母をしていたので、信長と恒興は同じ母乳で育ちました。
子どものころから、前田利家たちと遊びました。信長が当主になると、丹羽長秀とともに支えました。
2. 合戦での活躍
25歳で参加した桶狭間の戦い、美濃国攻め、浅井氏&朝倉氏との戦いなど、35歳まで戦いつづけました。決まった作戦行動にしばられない、遊軍とよばれる部隊をひきいて、さまざまな戦いに加わりました。
3. 転機
信長を裏切った荒木村重の有岡城を攻めます。村重が逃げてしまったので、追いかけて花隈城を攻め落としました。またしても村重は逃げましたが、恒興のはたらきを喜んだ信長から、摂津国をもらいました。
45歳のときに、一国を治める大名になりました。
4. 清洲会議
本能寺の変で明智光秀に信長が討たれてしまいます。恒興は、豊臣秀吉に協力して、これをやっつけました。そのあとに行われた会議でも、信長の孫・三法師を跡継ぎにする秀吉の意見に賛成しました。しかし、柴田勝家と秀吉が対立し、信長の次男・織田信雄もだまっていない状況になりました。
5. 最後と死因
信雄が徳川家康と協力して、秀吉とあらそいます。恒興は、秀吉に味方して徳川軍と戦いました。
娘婿・森長可に活躍させてあげようとはりきりますが、鉄砲で撃たれ、落馬したところを永井直勝の槍で突かれ、池田恒興は討死しました。49歳でした。


どんな人だったのかな
– 能力、性格と人物像 –

池田恒興は「目立たないところで頑張っている人」です。主君と一緒に育った立場ですが、強力な織田家臣団にあって、キャリアは順風満帆とはいえません。それでも腐らずに励み続ける姿勢を、信長は「小身でも頑張っている」と見ていました。
実直な人柄で、任されたことに全力で取り組みます。まわりに負けまいと、積極的に名乗りをあげる功名心もあります。
負けん気が強く、前線が崩壊した状態でも、退かずに戦闘を続行してしまう無鉄砲なところがあります。カーッとなると自制がきかなくなるところも。
池田恒興が実際に着用し、肖像画にも描かれている『抹頭形兜』や、書状が残っています。
池田恒興の戦い・有名な合戦
尾張に侵攻してきた今川義元を桶狭間(愛知県名古屋市緑区桶狭間)で織田信長が討ち取った合戦。10倍近い圧倒的な兵力差があり、局面的に織田勢が不利だったが、今川の本陣を強襲し、義元の首級をあげる快挙となった。戦国史上もっとも有名なジャイアントキリング。
桶狭間の戦いで池田恒興は勝っています。
織田氏の命運を決める重要な一戦に、信長のもとで参戦しました。
織田氏に叛いた荒木村重が逃亡し、花隈城(兵庫県神戸市中央区花隈町)に立て篭もった合戦。荒木討伐軍を率いた池田恒興は、息子たちと共に奮戦、自らも数名を討ち取った。村重は毛利氏のもとに逃亡。雑賀衆の援軍もあり、織田勢は花隈城を開城させ、廃城とした。
花隈城の戦いで池田恒興は勝っています。
信長に叛いた荒木村重を追って、花隈城を攻撃しました。残念なことに、村重を取り逃がしてしまいますが、この勝利をきっかけに、摂津国を支配する大名に出世しました。以降、畿内の守りを任されるようになります。
本能寺で織田信長を討った明智光秀と駆けつけた羽柴秀吉が山崎(京都府長岡京市)で激突した合戦。天王山の戦いとも呼ばれる。秀吉は中国地方で毛利氏と交戦中だったが、これを停戦し、急行した。予想外の速さで現れた羽柴軍に明智軍は劣勢となり、敗走した。
山崎の戦いで池田恒興は勝っています。
秀吉の陣に加わり、長男・元助とともに5千の兵で右翼先鋒を務めました。恒興は、津田信春を奇襲によって打ち破り、光秀本隊の側面を突きます。これに動揺した明智軍は混乱し、総崩れとなりました。
信長の死後、羽柴秀吉に不満を持つ信長の次男・織田信雄と徳川家康が小牧山城(愛知県小牧市、長久手市)で一進一退の局地戦を展開した。秀吉が別部隊で三河の徳川領を突こうとするが、家康に裏をかかれて大敗。秀吉と信雄が和議を結び、痛み分けとなった。
小牧・長久手の戦いで池田恒興は敗れています。
池田恒興のターニングポイントになった戦いです。
織田信雄に与するとの予想に反して、羽柴軍に加勢します。古巣であった犬山城を攻め落としますが、徳川勢の反撃に遭い、惨敗。汚名挽回のため、三河に侵攻したところで戦死しました。
池田恒興の詳しい年表・出来事
池田恒興は西暦1536年〜1584年(天文5年〜天正12年)まで生存しました。戦国時代中期から後期に活躍した武将です。
1536 | 1 | 池田恒利の子として尾張国に生まれる。幼名:勝三郎 織田信長の乳兄弟として育つ。 |
1552 | 17 | ”萱津の戦い”織田信友との戦に参加。 |
1556 | 21 | ”稲生の戦い”織田信行との戦に参加。 |
1558 | 23 | ”浮野の戦い”織田信賢との戦に参加。 |
1560 | 25 | ”桶狭間の戦い”今川義元との戦に参加。 |
1561 | 26 | ”十四条・軽海の戦い”斎藤龍興との戦に参加。佐々成政と稲葉又右衛門を討ち取る。 |
1563 | 28 | ”新加納の戦い”斎藤龍興との戦に参加。先陣で敗れる。 |
1569 | 34 | ”大河内城の戦い”北畠具教・具房父子との戦に参加。 |
1570 | 35 | ”金ヶ崎の戦い”朝倉義景との戦に参加。柴田勝家、森長可らと天筒山城を攻略。 ”姉川の戦い”浅井氏&朝倉氏との戦に参加。第2陣で出撃して浅井長政に蹴散らされる。 尾張国・犬山城に入る。 |
1571 | 36 | ”第1次長島一向一揆”一向宗門徒の鎮圧戦に参加。 ”比叡山焼き討ち”比叡山延暦寺の殲滅戦に参加。 |
1573 | 38 | ”槇島城の戦い”足利義昭との戦に参加。 |
1574 | 39 | ”第3次長島一向一揆”一向宗門徒の殲滅戦に参加。市江口から攻める。 武田勝頼に奪われた明智城の押さえとして小里城に入る。 |
1578 | 43 | ”有岡城の戦い”荒木村重が織田氏に叛く。討伐に向かう。 |
1580 | 45 | ”花隈城の戦い”荒木村重の討伐に向かう。花隈城を攻略して勝利する。 花隈城を廃城にし、資材を再利用して兵庫城の築城を開始。 織田信長から摂津国・有岡を拝領する。 伊丹城を居城にする。 |
1581 | 46 | 兵庫城が完成、居城にする。 |
1582 | 47 | 主君・織田信長が死亡。【本能寺の変】 ”山崎の戦い”羽柴(豊臣)秀吉の指揮下で明智光秀との戦に参加。光秀本陣の側面を突いて混乱させる。 清洲城で柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉、池田恒興の4人で会議を行う。三法師(信長の孫)を後継者とする秀吉に賛同する。【清洲会議】 羽柴秀吉、丹羽長秀、池田恒興の3人で談合を行い、清洲会議の決定を反故する。三法師ではなく織田信雄を当主に擁立する。 |
1583 | 48 | 羽柴秀吉から美濃国・大垣を拝領する。 大垣城を居城にする。 |
1584 | 49 | ”小牧・長久手の戦い”羽柴秀吉の指揮下で徳川家康との戦に参加。犬山城を攻略する。家康本隊とぶつかり、森長可、長男・池田元助と討死。 |
- 池田恒興 – Wikipedia
- 池田恒興とは – コトバンク
- 池田恒興の首の価値は?子の輝政は姫路城を築いた!|歴史キングダム
- 池田恒興 信長を地道に支えた忠臣
- 池田恒興は織田家家臣&清須会議メンバー!その歴史、無念の最後とは
- 池田恒興は織田信長と乳兄弟!清州会議にも参加した陰の実力者! – YouTube
- 歴史人『最強!織田家臣団の実力』KKベストセラーズ
当サイトは「Amazonアソシエイト・プログラム」「Rakutenアフィリエイト」に参加しています。